しあわせのかたち
ずっとこのまま、この瞬間が続けばいいのに。
わたしは全身でそれを願った。
祐ちゃんが帰って来ない。
いつもならとっくに家にいて、1日の出来事を面白おかしくわたしに聞かせてくれている時間なのに。
どこにいるのかしら。何をしているのかしら。
さっきから時計が進まない。なんだか胸が騒がしくて落ち着かない。
コトコトと音を立てながら動く心臓の速さに気が遠くなる寂しさを覚えて、その場にしゃがみ込んでいることがすべての「嫌な予感」の根元のような気さえして、慌てて立ち上がった。
意味もなく部屋の中を、まるで仕事でもこなすかのようにひたすら歩き回る。
「祐ちゃん。祐ちゃん。祐ちゃん。祐ちゃん・・・」
「桃っ!」
小さな部屋の中を、もう何周したのか覚えてもいられなくなった頃、けたたましく鍵穴を回しながら祐ちゃんが飛び込んで来た。
「ゴメンな、桃。心配したろ?」
祐ちゃんはわたしを抱き締め、鼻先にキスをくれた。
何か嬉しいことでもあったのかしら。昔から祐ちゃんは嬉しいことがあると決まってわたしの鼻先にキスをする。大学に合格した時、就職が決まった時、友達が結婚した時、会社で自分の企画が通った時。
「何かいいことでもあったの?」
待ちくたびれてしょげていた気持ちに目隠しをしながら訊いてみた。
「お腹、空いてるだろ」
こちらの話が聞こえていないのか、それともわざと話を逸らしているのか、祐ちゃんはわたしの気持ちなどお構いなしに、浮かれた様子で冷蔵庫なんか開けている。
「こんな時間までどこで何してたの?」
別にどうでもいいんだけどね、という関心のなさを装ったつもりが、思いがけず語尾に力が入り、声を掠れさせてしまった。
「本当、ゴメン。ひとりで寂しかっただろ」
── だめだ。
訊きたい答えをひとつも貰っていないというのに。
結局祐ちゃんの手のあたたかさに負けて、いつものようにベッドの中でいつものように寝息を聞いている。わたしを散々待たせたくせに。ひとりぼっちで待たせたくせに。
やっぱり恨み言のひとつでもまともにぶつけてやらなくちゃ気が済まないわ、と寝返りを打って祐ちゃんの顔を見た。
…愛しさを再確認するだけね。寝顔を見ていたら何もかもどうでも良くなってしまった。うん、祐ちゃんの傍にいられるなら、祐ちゃんが傍にいてくれるなら、それだけでしあわせなんだな。祐ちゃんの作る身体のラインに自分のからだをピッタリと合わせ、優しい寝息に耳を澄ましながら目を閉じた。
ずっとこのまま、この瞬間が続けばいいのに。
わたしは全身でそれを願った。
「今日は早く帰って来るからね」
昨日の夜のことを少しは反省しているのかしら。祐ちゃんはそう言って会社へ向かった。
「いってらっしゃい」
玄関で見送ったあとリビングの出窓から、まっすぐ駅に向かう祐ちゃんの姿が見えなくなるまでお見送りをする。何かが起こったとしても何もできないことは知ってはいるけれど、どうしても確認しておきたくなる。姿が見えなくなってしまったあとに何かが起こっていたとしても、それは「見えない」から心配のしようもない。でも「見えている間のこと」は把握しておきたい。たとえ何もできなくても。
そうやってわたしは形成されて行く。自分のすべてを祐ちゃんでいっぱいにしながら。
おぼつかない手付きで、いつもより長く鍵穴を探る音に気付いて目が覚めた。いつの間に眠ってしまったんだろう。慌てて玄関に向かい「おかえりなさい」と言い掛けたその時、普段見せたこともないような優しい顔で、祐ちゃんは自分の後ろに立っていたひとに「散らかってるけど」と笑いかけた。
それを合図に祐ちゃんの後ろから、長い髪の小柄な女が顔を出した。
「こんばんは!」女はわたしの顔を見ながら笑顔でそう挨拶をした。
「…誰?」
突然やって来た見知らぬ女に何食わぬ顔でこんばんはと言われても事態を把握することなど到底できない。
「ねぇ、ちょっと待って祐ちゃん。このひとは誰?何しにここへ来たの?」
目の前で起こっていることのすべてがまったく飲み込めなくてただ呆然と立ち尽くすわたしの横をすり抜け、ふたりは部屋に入り腰をおろした。
「祐ちゃん!このひと一体何なのよ!」
祐ちゃんとわたしの部屋に突然現れた見知らぬ女に怒りを抑えられるわけがない。
「ちゃんと説明してよ。何にもわかんない」
「桃っていうんだ。ほら桃、こっち来て挨拶しろよ」
何を言っているの?どうなっているの?だからその女は何なのよ!
疑問と怒りと不安と、色んな気持ちが心の中を埋め尽くしのどを詰まらせる。血液が逆流して行くのがわかる。汗ばんだ手足を震わせて、その場にかろうじて立っているだけのわたしを見ながらその女は祐ちゃんに
「嫌われちゃったかなぁ」と、これ見よがしに残念そうな顔で言った。
嫌う?それ以前の問題でしょ?アンタ一体なんなのよ!わたしの祐ちゃんに触らないで!
わたしの長い長い夜は、心の軋む音と、食いしばったくちびるから滲み流れ込む血の味の中で、二度と明けないかもしれないという不安と共にそこにあった。息をひそめからだを硬くして耳を塞ぎながら、わたしは部屋の隅で小さくなっているしかなかった。
薄い壁を隔てた向こうで、祐ちゃんとあの女がうっすらと汗で湿ったシーツに包まって寝息を立てている。カーテンの隙間から漏れる月明りが暗い部屋にわずかな影を作っていた。
いまのわたしにはそんな当たり前のことでさえ、何もかもが悲しくて直視できないでいた。早く祐ちゃんを返して。わたしに返してよ。そこはわたしの場所なんだから早く出て行って。
太陽が月をしまい、出窓から入る光が強くなった頃、やっとあの女は出て行った。わたしは玄関の鍵を掛ける祐ちゃんにこれでもかと文句を言い続けた。
「ふたりの部屋に知らないひとを連れて来るなんてルール違反だわ。祐ちゃんは優しいから断り切れなかったのかもしれないけれど、わたしの気持ちも考えてみて?大体祐ちゃんはいつだって」
わたしの怒りを遮るように祐ちゃんはわたしをひょいと抱き上げ
鼻先にキスをした。
いつも祐ちゃんを見送る出窓に腰をおろした。
月にかかって行く雲を見つめていたら、からだ中が痛むほど悲しくなった。
隠さないで。
雲に隠されその存在すら忘れられてしまう月が、なんだかいまのわたしと変わらないような気がして。
祐ちゃんの隣にいたのはいつだってわたしだったのに。
あの日以来、あの女は頻繁に家に来るようになった。そして決まってわたしに言った。
「ごめんね、桃ちゃん。祐二さんを取られて嫉妬してるんだよね?ごめんね」
嫉妬、ですって?そんな生やさしいものだとでも思ってるの?
「悪いと思うならいますぐ出て行きなさいよ」
「でも、私とも仲良くしてね」
祐ちゃんが愛しそうに、あの女の顔を見つめる。祐ちゃんの首にまわされたしなやかな腕に力が込められて行くのがわかる。優しく、優しく、まるで触れると壊れてしまいそうなものを扱う手付きで、その長い髪をなでながら甘い吐息に身体を預けて行く。
わたしは鏡の前に座りながらその一部始終に耳を澄まし目を凝らした。青い光を密やかに放つ月は、あの女の肌を美しく浮かびあがらせるためだけに存在しているかのように、カーテンの作る細い隙間から女の背を照らし、青く、白く、美しく艶めく肌をより一層輝かせた。きっと祐ちゃんも同じように、美しい背筋に眩暈すら感じているだろう。
神さま。
あの女のように髪が長ければ、祐ちゃんはわたしだけを見続けてくれますか?あの女のように指がほっそりと伸びていれば、あの女のように肌が白ければ、祐ちゃんはわたしだけを愛してくれますか?
どこが負けているの?何が足りないの?どうすれば、どうすれば、祐ちゃんの心を迷わせずに済むの?
想えば想うほど、わたしの心は悲しみを孕んで身動きひとつできない現実を産み落とす。
こんなにも、こんなにも祐ちゃんを愛しているのに。
どうすれば叶わない想いをあきらめ切ることができますか?
自分の姿を鏡に映し、ちっぽけな自分を思い知る。
どうしてわたしのからだは真っ黒な被毛に覆われていて、
どうしてわたしの耳はこんなにも大きく尖っていて、
どうしてわたしの瞳は暗闇で光を放ち、
どうしてわたしの爪は鋭く触る者を傷付け、
どうしてわたしのからだからは長い尻尾が生えているのだろう。
違う。何もかもが違い過ぎる。
あの女が産まれながらにして持っているものをわたしは何ひとつ持たずに産まれてしまった。
心を手のひらに乗せて見せることができたなら、わたしの想いがどれほどまでに大きく、熱く、重く、愛するひとを包み込むことができるのかを証明できるのに。姿形が違うだけで、愛される資格すら与えられないというの?魂の容れ物の素材が違うだけで、握り潰されるような胸の痛みに耐え続けなければならないというの?
神さま、神さま、神さま……
どうかわたしを人間にしてください……
──
朝になっても鏡の中のわたしは真っ黒な毛皮を纏った小さな獣のままだった。あきらめ切れない想いがわたしの心を蝕んで行くのだとしたら、いっそ心なんてないほうがしあわせだ。
「桃」
わたしの名前を呼びながら、祐ちゃんがわたしを抱き上げる。そして自分の膝にわたしを乗せると、何度も何度も頭をなでた。
「桃、ゴメンな」優しく優しく頭をなでながら、祐ちゃんが話を続ける。
「最近構ってやる時間少なかったよな。寂しかったろ?」
…ううん、いいの。もういいの。わたしはちっぽけな猫で、祐ちゃんは人間で。神さまにお願いしても、わたしは猫のままだった。だからもういいの。
「桃はオレの大切な家族だからね」
うん、わかった。わたしは祐ちゃんの「家族」なのね。神さまにお願いしてみたけれど、人間にはしてもらえなかった。きっと「猫のままでいなさい」って神さまが言ってるんだと思う。
猫のままでいるよ。家族でいる。恋人になれないことはよくわかったから。
家族で、いる。
わたしはあの女を受け入れられないままだったけれど、鏡を見ながら泣くことはなくなった。祐ちゃんの部屋に少しばかりの家具が増えて、食器の数が倍になったこと以外は、以前とあまり変わらないと思える暮らしが続いていた。
出窓から祐ちゃんを見送って、掃除機をかける忌々しいあの女と喧嘩をして、祐ちゃんが用意してくれたわたし専用のベッドで昼寝をしながら祐ちゃんの夢を見る。何にも代え難いしあわせではないにしろ、まあまあしあわせだと思える暮らし。
あれから二度桜が咲き、いつもよりあくびの回数が増える季節に、それは訪れた。
何か言いたげな素振りであの女が祐ちゃんに近付いた。伏目がちにそっと何かを告げたあの女の顔を覗き込みながら祐ちゃんは「本当に?」と繰り返した。小さく頷く仕草を何度か確かめると、祐ちゃんの「信じられない」という顔はみるみる喜びの表情に変わって行った。
ねぇ、何があったの?
わたしの鼻先にキスする所を見ると、よほど嬉しいことがあったに違いない。
「あら桃ちゃん、元気にしてた?」
うつらうつら、出窓で太陽の陽を浴びながらあくびをするわたしの前に、祐ちゃんのお母さんが立っていた。突然の出来事に驚いてからだを硬くしてしまったけれど、祐ちゃんのお母さんがわたしに危害を加えたりしないことはわかっているので、硬直したからだを緩めた。
ああ驚いた、お久しぶりですお母さん。今日はどんなご用でいらっしゃったの?
お行儀よく前足を揃え挨拶するわたしの頭をひとつなで、お母さんはソファに腰をおろした。
「おめでとう絢子さん」お母さんはそう言うと、あの女が淹れた紅茶をすすりながら話を続けた。
「でも祐二、あんた桃ちゃんどうするのよ?」
「うー……ん」煮え切らない返事をする祐ちゃんに向かい、ちょっと声を荒げながらお母さんはまくし立てた。
「あんたねぇ、ちょっとは考えなさいよ!妊婦にとって動物がいる環境がよくないことくらいわかるでしょう?どれだけきれいにしているつもりでも毛は舞うしトイレの砂だって散らかるし」
「それはわかってるけど…」
「変な病気でも感染ったらどうするの!いまは絢子さんのことを一番に考えなくちゃだめよ!ずっとここに置いておくわけにはいかないんだから…どうするの一体。ちゃんと考えてるの?」
「そうだよなぁ…」
……わたしは一体、あのとき何を納得したのだろう。
胸を潰し、心を殺し、祐ちゃんを思い切ったあの日。猫でいることしかできないと知った日からわたしは「家族でいること」だけを心の支えに生きて来た。祐ちゃんに愛されたいという想いも、人間になりたいという願いも、何もかもをあきらめて。
それなのに。
それなのに。
家族でいることさえできなくなってしまうというの?たったひとつの居場所さえも、わたしには与えられないというの?何のために、一体何のためにわたしは苦しい思いと戦って来たの?
「大切な家族だからね」
祐ちゃんの言葉が頭の中を何度も何度も駆け巡った。
あの女さえ。
あの女さえわたしたちの前に現れなければ……
「誰か、猫好きなひといないの?」
「うーん…桃はもうおとなだからなぁ…簡単に次の飼い主なんて見つからないよ…」
「だったら可哀想だけど、保健所とかも」
「やめて!」
……悲しくてたまらなくなったわたしの代わりに大声でふたりを制したのはあの女だった。
「やめて、やめてください!何て勝手なことを…祐二さん、あなたは少し考えてみるべきだわ。桃ちゃんがどれだけあなたのことを好きなのか、私がここに来てどれだけ戸惑ったのか。いままでとは違う暮らしを、桃ちゃんは一所懸命受け入れて来たのよ。それなのに何て酷いことを言うの?桃ちゃんはおもちゃじゃないのよ。おもちゃなんかじゃないんです!」
……あの女の名前は「絢子」というらしい。
祐ちゃんとお母さんに向かって怒りを爆発させ大声で怒鳴った絢子は、その内しゃがみ込んで泣き出してしまった。泣きながら、もう言葉として認識することができない声を嗚咽と共に漏らし続け、繰り返し祐ちゃんに何かを訴え続けた。
それを見ていたお母さんは突然クスクスと笑い出し、
「おとなしいひとだとばかり思ってたけど、そうでもないみたいねぇ」と、なんだか安心したような顔をした。
泣きじゃくる絢子にどう接すればいいのかわからず、祐ちゃんはただうろたえるだけだったけれど、わたしと絢子の顔を交互に見ながら「ごめん、本当にごめん!」と謝っていることを考えると、何やら反省はしているようだ。
── 人間にならなくてよかった。
猫だからこそ、わたしには絢子の心の内側が見えた。絢子の寂しさや哀しさが、わたしの心にそのまま流れ込んで来る。ああ、このひとは本当にわたしを心配してくれていたのね。
絢子のすべてから目を逸らし、耳を塞ぎ、一切を認めないと頑なに拒んでいた自分を、少し恥じた。絢子の足元にそうっと近寄り、泣きじゃくる絢子の腕を柔らかく噛んだ。
「…!桃ちゃ……」
絢子の泣き声はますます大きくなり、より一層周りを困惑させてしまった。絢子の膝の上に乗り絢子を見上げると、「ごめんねぇ、本当にごめんねぇ」と何度も何度も繰り返し、泣き続けた。
出窓から祐ちゃんを見送って、掃除機をかける絢子が転んだりしないかとハラハラしながら見守って、絢子と一緒に午後のひとときを微睡ながら、祐ちゃんと絢子、そしてやがて産まれて来る赤ん坊の夢を見る。
ひとつ許してしまえば、すべてが「何でもないことだ」と思えることを、わたしは絢子に教えてもらった。
あたたかいベッドでうとうとしながら、時折絢子の寝顔を確認しては、祐ちゃんに対する愛しさとは違った形の愛しさを思い知ってしあわせになる。
何気ない暮らし。特別なことなど何ひとつない日常をひとつひとつ紡ぎながら、ときには退屈にあくびを噛み殺しても、それすらしあわせだと思えた日々。
神さま、あのときわたしを人間にしなかったのは、このしあわせを教えてくれるためだったのね。
ありがとう神さま。やっと猫として産まれて来たことに感謝できる日が来ました。
「…うん、うん。そう、絢子のベッドの上で。うん」
「……待ってて欲しかったのに…見せてあげたかったのに…」
「18歳だったんだよ?頑張ったと思わなくちゃ」
そんなことはわかってる。わざわざ念押されなくてもわかってる。でも、せめて私が退院するまで待ってて欲しかったの。傍にいてあげたかった…いいえ、傍にいて欲しかったの。
「傍に…傍にいて欲しかった…」
「…でもほら、猫は死ぬときに姿を」
「死ぬって言わないで!」
死ぬなんて言葉、大嫌いよ。
桃ちゃん。
女の子だったよ、赤ちゃん。桃ちゃん、楽しみにしてくれてたよね。私も桃ちゃんと一緒に赤ちゃんを育てるの、本当に楽しみにしてたの。桃ちゃんは心配性だから、赤ちゃんが泣くたびに私を呼びに来てくれて、私はそのたびに「ありがとう桃ちゃん、でも桃ちゃんもちゃんと寝るのよ?」って言うの。すると桃ちゃんは「わたしは猫だもの、好きなときに眠るわよ」って言いながら、もう赤ちゃんの隣にいるの。
桃ちゃん。
笑わないで聞いて欲しいんだけど、私は、その、天国という場所があることを信じてるの。きっと一日中快晴で暖かくて、居心地がよくてしあわせな場所なんだろうなあって。桃ちゃんはいまそこにいると思うんだけど、いつか私がそこにたどり着いたとき(たどり着けるといいんだけど)、また私とも仲良くしてね。
桃ちゃん、桃ちゃん……
「祐二さん、赤ちゃんの名前、決めたわ」
「え、もう決めたのかい?」
「” 桃 ” よ」