あたたかい場所

あたたかい場所
物 語

あたたかい場所

その数日間、ぼくの家はバタバタと騒がしかった。

毎朝仕事に行くお父さんの分まで、お母さんがせわしなく動き回っていた。部屋に散らかっている大きな段ボール箱や丸められた新聞紙。掃除機を邪魔そうに足で追いやって空間を作り、お母さんは触れるものを手当たり次第箱に詰めて行く。

 

「本当にもう急なんだから!」

 

お母さんは何度もそう言いながら、Tシャツを忙しくたたみくるりと振り返って少しだけ声を荒げた。

「こうちゃんも自分のおもちゃ、自分で箱に詰めてって言ってるでしょう?」

ぼくは少しびくっとして身体を小さく跳ねさせた。

 

おもちゃ箱をひっくり返し、お母さんが「これに入れてね」と言って部屋に置いて行った段ボール箱の中におもちゃを放り込んで行く。

「これは、クリスマスにサンタさんからもらったやつ」

「これは、誕生日にお父さんからもらったやつ」

「これは、おじいちゃんが買ってくれたやつ」

ひとつ、ひとつ、思い出のラベルを貼りながら箱の中におもちゃを入れて行くと、あっという間にその箱はいっぱいになった。どうしてこんなことしなくちゃいけないんだろう。ぼくにはよくわからなかった。おもちゃ箱の中に入っているのだから、別に歩くときの邪魔になったりはしないのに。

 

お父さんが帰って来ると、決まってお母さんと言い争うようになった。ぼくは2階でそうっと息をひそめた。下で怒鳴り合っているふたりの声がとても怖かった。どうしてそんなに大きな声で怒らなくちゃいけないんだろう。

「あなたは仕事しかしてないから!あの子のことなんて何も考えてないのよ!」

「もういい加減にしてくれよ!毎晩毎晩同じことばかり!」

トクン、トクン、と打つ鼓動が耳の奥で大きく響く。

お父さんの声も、お母さんの声も、聞こえないくらいに、大きく。

 

次の朝は、いままで以上の騒がしさだった。

「こうちゃん、その箱持って来て」

家の前には大きなトラックが停まっていて、家中の箱という箱をどんどん飲み込んで行く。家の中が少しずつ、広く大きくなって行くように見えた。

少しずつ、少しずつ。

そうして、家の中に何も残っていないことを確認すると「じゃあ、お願いします」とお母さんが言った。大きなトラックは家中の箱を飲み込んだコンテナを揺らしながら、灰色の煙をあげてどこかへ走って行った。

「おい、おまえたちも早くしろよ」お父さんが車の中から呼んでいる。

「こうちゃん、ほら、早く車に乗って」お母さんがぼくの頭をなでて言った。

 

「ごめんね…本当にごめんね」

 

お母さん、どうしたの?ごめんねって…と訊こうとしたけれど、もうお母さんは車に乗り込んでいて、お父さんとお母さん、それからこうちゃんの乗った車は、ぼくの目の前を通り過ぎて、消えた。

 

その頃にはもう辺りは暗くなっていて、ぼくの背中には灯りのついていないからっぽの家だけがあった。いつもの「旅行」なら、お母さんはぼくのお皿にたくさんのごはんを入れて行ってくれるのに今日はそれもない。

じっとしていることがなんだか怖くなって、ぼくは家の周りをぐるりとまわった。

ドアはどこも堅く閉じられていて家の中には入れそうもなかったし、窓は蟻の入り込む隙間すらないくらいピシャリと閉められていた。ぼくがたまに外へと抜け出すときに使っていた網戸の穴は、いつの間にかきれいに張り直され修復されていた。まあ網戸の穴がそのままだったとしても、肝心の窓が閉まっていたんじゃあどのみち家の中には入れないんだけど。

玄関のポーチに戻ったぼくは、いま何が起こっているのかわからないまま丸くなる。

耳を澄ましても聞こえるのは、トクン、トクン、という自分の音だけだった。

 

朝になってもぼくの目に映る光景には何の変化もなかった。明け方から降り出した雨をしのぐために、ぼくのいる場所が少しずれたことと、時間が進んで日付が変わったこと以外は。

待っている間にお母さんたちが帰って来るかもしれないと思ったりもしたけれど、相変わらずぼくは外にいて、さらに玄関先で雨宿りをしていることからもわかるように、お母さんたちは消えたままだ。

ぼくは、これからどうなるんだろう。

──

トクン、トクン、と鼓動の音だけがぼくの耳を支配する。

お母さんたちが消えてから、もうどれくらいになるのか数えることもできないくらい、ぼくはずっと待っていたけれど、もうお父さんも、お母さんも、こうちゃんも帰って来ないのかもしれない。

どうしてぼくはひとりでここにいるんだろう。お母さんはぼくが嫌いになってしまったのかな。ぼくは自分が気付かないうちに悪い子になっていたのかな。だから一緒にいたくなくて、みんなぼくのいないところに行ってしまったのかな。

── ああ、そんなことよりも。

 

「本当に可哀相なことするわよねぇ」
「そうそう、ご主人の急な転勤なんですってね」
「里親を探す時間もなかったとかで…」
「奥さん、連れて行きたくて揉めたらしいわよぉ」
「あら、じゃあこの痩せた猫、工藤さんの家の猫だったの?」
「そうなのよ。引越し先が社宅みたいで、動物は飼えないんですって」
「本当に可哀相なことを…」

足元を見ながら、ペットボトルや空き缶を捨てに集まって来たお母さんたちが恒例の井戸端会議を開いているけれど、今日のお題についてはいつもより熱量が高いように思えた。

ぼくは足の間をすり抜けながら持てる限りの愛想を振りまいて、なんとかお腹を満たすことだけを考えた。

「でも…仔猫ならともかく、大人になってしまった猫の貰い手はねぇ…」
「そうなのよ」
「可哀相だけど、うちでは面倒見てあげられないし…」
「野良猫が増えるとまたそれも困っちゃうんだけどねぇ」

誰でもいい。むしろ何でもいいから、食べるものをください。

ぼくは精一杯の愛らしい声を振り絞った。

「ごめんね」

お母さんがぼくに言った言葉と同じ言葉を残して、近所のお母さんたちはちりぢりに散って行った。

 

気が付いたときには、ぼくはお父さんとお母さんとこうちゃんの家で暮らしていた。お父さんはいつもいなかったけれどたまに顔を合わせたときは優しくなでてくれたし、お母さんは毎日ごはんをくれたし、こうちゃんは毎日遊んでくれた。ぼく専用のベッドもあったけれどぼくはお母さんの隣で寝るのが好きだった。

散歩に出掛けることはあっても外で暮らした経験はまるでない。他の猫はスズメやカエルを食べているらしいけれど、5年以上も美味しいごはんで育ったぼくの口には到底合いそうもなかった。

そして何より、狩りの仕方がわからない。

辺りをうろうろして他の猫に逢うのも怖かった。散歩の途中ですれ違った猫に追いかけまわされて迷子になりかけたこともあるから、どこにどんな猫がいるのかわからない中、闇雲に歩きまわるのは無駄に体力を消耗するだけできっとよい結果は得られないだろうと思った。

どうすればいいんだろう。一体、どうすれば。

美味しいごはんも、新鮮なお水も、あたたかなベッドも、突然目の前から消えてなくなってしまった。ぼくには道行く人が足を止めるたびに、慌ててすり寄って声を振り絞る以外にできることはなかった。

お腹が、すいた…

お腹がすくことがこんなにつらいだなんて、ぼくはいままで知らなかった。

──

「随分と小汚い猫が今朝庭先に来てたよ」
「え、ほんと?」
「ほら、工藤さんが捨てて行ったっていう」
「ああ…じゃあまだ庭にいるのかな」

そうっとカーテンを開けてみるとそこには何もいなかった。

「いないねえ」
「呼んだら来るかもよ?」
「そんなばかな」

謎の自信を伺わせる顔で、母は窓を開け「にゃーん!」と鳴いた。

まさか、それでのこのことやって来るほど猫だって簡単な生き物ではないだろう。

「にゃーん!」もう一度母が呼んでみた。

 

すると遠くのほうから、にゃっ、にゃっ、にゃっと走るリズムに合わせて漏れる声が近付いて来た。まさか、それでのこのことやって来る猫がいようとは。

「…来たね」
「とりあえず、ごはん」

 

目の前にいるのは、触らなくても背骨や肋骨の本数がかぞえられるくらいはっきりと浮き出た汚い猫だった。なるほど、引っ越しの際に置き去りにされたのであれば優に1週間以上はさまよっていたことになる。

「うちの子たちの食べ残しで悪いんだけど、今日はこれで我慢してね」

残りもののドライフードを使っていない皿に移して、痩せた猫の鼻先に出してみる。

痩せた猫は息つく暇もなく、皿の中に顔を突っ込んで残りものを貪った。それから水を入れた器を皿の横に用意してやると、こちらも顔を突っ込んで音を立てながら急いでのどに流し込んで行った。

「お腹、すいてたんだねぇ」

痩せた猫は残りもののドライフードと水で満足したように、庭先で毛繕いを始めた。きっと毛繕いをするのも久々なのだろう、念入りに前足で顔をこするその姿にはほんの少し余裕が伺えた。

──

昨日の夜、ごはんをくれた家に今朝も行ってみた。

「あら、おはよう。早いね」

その家のお母さんはぼくが昨日からっぽにしたお皿にザラザラとごはんを入れて、テラスにしゃがむぼくに差し出してくれた。

 

あのね、

お父さんとお母さんとこうちゃんがいなくなっちゃったんです。それまでぼくは、あたたかい部屋の中でお母さんにごはんをもらい、こうちゃんが揺らすねずみのおもちゃで遊び、毎日がとてもしあわせで、お腹がすいて目がまわることも、雨がこんなに冷たいことも知らなかったんです。

どうすればまたお父さんとお母さんとこうちゃんに逢えますか?どうすればまたあの家でお母さんにごはんをもらって、こうちゃんに遊んでもらって、あたたかいベッドで眠れるようになりますか?

「よく喋る子だね」お母さんは笑いながらぼくののどをくすぐった。
「うちには他に猫がたくさんいるの」お母さんはぼくののどをくすぐりながら続けた。

「とりあえず、ごはんは食べに来なさいね」

 

その家でごはんを食べさせてもらうことがぼくの日課となった。

ぼくのいまの立場は「野良猫」というものらしかったけど、野良猫暮らしの何たるかを知らないぼくには野良猫らしい振る舞いや秩序がわからなかったので、毎日ごはんをくれるお母さんの家のテラスで1日の大半を寝て過ごした。

お母さんはいつもぼくが寝ている場所に折りたたんだ段ボールを敷いてくれた。これまでより寝心地がよくなって、ぼくはそのテラスでの暮らしも悪くないな、と思うようになっていた。ここにいれば毎日お母さんがごはんとお水を用意してくれるから、狩りの仕方がわからないぼくでもお腹がすいて目をまわすことはなかった。

時々知らない猫が庭を横切って行ったけれど、どうやらこの庭をぼくの縄張りだと思うようで、威嚇されることも追いかけまわされることもなく、ぼくの暮らしはいたって平穏に保たれていた。

 

テラスで寝起きしてテラスでごはんを食べることが当たり前になり、ぼくは最初からテラスで暮らしていたんじゃないかと思うようになった頃、季節は秋から冬へと移り変わる準備を始めたようだった。庭に注ぐ陽の光も薄くなり、顔をなでる風が身をすくめるほど冷たく感じたある日。

 

何故かぼくは身体中にあたたかい水をかけられ、ツンとするにおいの泡に包まれていた。

「おとなしくていい子だね」お姉さんはぼくの背中を両手で優しくこすり、それから前足と後ろ足、お腹をこすり終わると尻尾をするりとなで上げた。こんなことをされるのは初めてだったから、ぼくはどうしていいかわからず身動きひとつ取れずにいただけなんだけど、お姉さんは「いい子だね」とぼくを褒めてくれた。

またあたたかい水をかけられ、ツンとするにおいがなくなったと思ったら、今度はバスタオルでぐるぐる巻きにされ「風邪をひかないように」と熱い風を浴びせられた。いつもごはんをくれるのはお母さんなのに、身体をこすって熱い風を浴びせるのは毎日テラスで頭をなでてくれたお姉さんだった。

 

その日からぼくの寝床は、テラスに敷かれた段ボール製のベッドではなく、お姉さんの部屋に用意されたふかふかな毛布の上に変わった。

毛布の上で毛繕いするぼくを、黒い猫や白い猫が代わるがわる、それでいて恐るおそる確かめに来る。限界まで首を伸ばしぼくのにおいをかいで、シャアッと牙を剥き出して見せるもののそれ以上のことをする気配もなかったし、黒い猫も白い猫もぼくを追いかけまわしたりはしなかったので、あまり気にしないことにした。

久しぶりのあたたかなベッド。

あの日、なくなってしまったと思っていたそれは、形こそ違えどちゃんとぼくをあたためてくれた。

──

あれからどれくらい経ったんだろう。

ぼくはこの家の子として、当たり前に暮らしている。

たまに窓の外を眺めては、もう二度と逢うことのないお父さんやお母さんやこうちゃんのことを思い出そうとするけれど、顔も声もはっきりとは思い出せなくて、ただそういうこともあったんだということだけが記憶のひとつとしてぼくの中に残り続けている。

ぼくは、ふたつ目のしあわせを手に入れた。

それだけで、充分だった。

 

今日もうんと両手を伸ばし、穏やかな気持ちで眠りに落ちる。

きっとぼくはここで生きて、ここで死ぬんだ。

最期のときが訪れるまで、ぼくは安穏と生きて行くんだろう。

それだけで、充分なんだ。

 

だってぼくは猫なんだから。