code.11 分かたれし者
それは一瞬のことだった。
色素を持たないルシの紅い瞳から放たれた閃光が、魔族の塊を焼き払った。
「…っ、ルシ…!」
バタバタと倒れて行く魔族たちを ── ルシは嗤いながら見ていた。
「コロシテヤル」
「ルシ! 駄目よ!」
「コロシテヤル!!」
大好きなミシャを傷付けられ覚醒したのは、本当にアリキーノなのだろうか。やはりアリキーノとルシは融合してルシの感情にアリキーノが呼応しているのではないか。誰もがそう思う中、ミシャはルシを抱き締めようと振り返った。腕を伸ばすミシャを抱え、ルシから遠ざかったのはアヴリルだった。
「危険です!」
「でも、ルシをあのままにしておけないでしょう!?」
「……残念だけど、いまはルシじゃない、アリキーノだ」
ル・ルシュの言葉にユリエルが口唇を噛み締める。ルシの隠していた翼がゆっくりと広がった。
「ブラスター・アイをまともに食らえばどうなるか ── ユリエルを見てわかってるだろう?」
「だけど……あの子はルシなのに…」
紅い瞳から放たれる一筋の光線が、魔族を焼き払い、木々をなぎ倒す。城の窓が割れ、塀は崩れ、あちらこちらで火の手があがる。それでも魔族たちは、アリキーノの翼めがけて押し寄せる。捥がれた羽根を紅い光線が焼く。その繰り返しだ。
アリキーノの翼に氷の矢が突き刺さったかと思えば、翼から焔火が噴き出しその矢を溶かす。小さな身体が青い火柱で吹き飛ぶと、たまらずユリエルがアリキーノに防御壁を張る。
「魔族が途切れず襲ってくる限り、アリキーノは眠らないぞ……」
「とはいえ、魔族を止める手立てもないが」
「どっちにしろ数が多過ぎます」
「そやゆうて放っとくわけにもいけへんやろ」
「ねえ……アリキーノから見てわたしたちって……敵なの?」
「多分…見境なく襲ってはくるだろうね」
ユリエルの張った防御壁が破られた時 ── 悲劇が起こる。
アリキーノの右腕に一本の矢が刺さり、その痛みで我を忘れたアリキーノはルフェルたちに向かって紅い光線を放った。
「物理攻撃は効かないんじゃなかったのか!」
「もう正気じゃないんだ、周囲を壊滅させることに気を取られてる」
なんとか全員がその光線から逃れたが、次も避けられるとは限らない。もう、そこら中で魔族が焼き払われ積み上がっている状態なのだ。しかも、無差別に。
アリキーノは殺さねばならない。しかしルシは守りたい。魔族と闘いながら、アリキーノのブラスター・アイを避けながら、それでもルシに危害が及ばないようにとなると、さすがにル・ルシュもルフェルもアヴリルもユリエルも「いま、自分が何をしているのか」わからなくなっていった。
何よりミシャがアリキーノとルシの存在を割り切れずにいる。どうかするとルシをかばってミシャに危害が及ぶかもしれない。それはアヴリルはもとより、他の三名も望まないことだった。
「……とりあえず、天空と魔界の均衡はこの際考えないでおこう」
ル・ルシュの言葉にみながうなずいた。手加減しながら闘う余裕はすでにない。襲ってくる魔族は討ち取る。それだけでアリキーノへの攻撃は少なからずいまよりは減るはずだ。
「諜報部へ支援を要請した……到着までは持ちこたえろ」
ルフェルは握り締めた熾烈の剣を、もう一度強く握り直した。
ダーク・エルフにヴァンパイア、下級から中級のデーモンたちを次々に倒して行くが、同時にゴブリンやトロルが数を増やして襲って来る。アリキーノの翼には、まだ半分ほどの羽根が残っていた。むしられた羽根はすべてアリキーノ自身が燃やしていることが不幸中の幸いだった。
── もう、どのくらい闘っているのだろう。
水晶の干渉を受けない魔界では、ルフェルもアヴリルもル・ルシュもユリエルも無傷ではいられなかった。倒しても、倒しても、無尽蔵に湧いてくる魔族たち、そして時々かすめるアリキーノのブラスター・アイでみな腕から、脚から、血を流しながら必死に踏み止まっている。
到着した諜報部員たちも死に物狂いで闘った。
ユリエルがアリキーノに目をやると、アリキーノの小さな身体は、矢や剣や魔法などの攻撃で傷だらけだった。もう防御壁を張る力も残っていないユリエルは、その姿が自分と重なったのか、踵を返しアリキーノへと向かって行った。
「ユリエル!」
ルフェルの声も、もう届きはしない。
傷だらけの小さな身体で嗤いながら魔界を壊滅させていくアリキーノ。
ユリエルはその目の前まで来ると、腰を屈めアリキーノに手を伸ばした。
「……利口なお子やのに…こんな姿になってもうて…」
それからユリエルはアリキーノを抱き締め、「…堪忍な」と一言つぶやいた。その言葉はアリキーノに届かなかったが、ユリエルはアリキーノを抱き締めたまま ── 氷の楔でアリキーノの身体を貫いた。痛みと怒りでアリキーノの力は最大限に達し、ユリエルの腕の中で紅い瞳を大きく見開いた。
ユリエルの背中が真っ赤に発光し、貫いた光線はユリエルと城壁をも吹き飛ばした。
「ユリエル…!!」
水晶の干渉がない魔界でまともにブラスター・アイを受け止めたユリエルは、身体にふたつの穴を開けられたまま、もう動くことはなかった。
「いまなら討てるんじゃないか」
攻撃に気を取られすっかり傷だらけになったアリキーノは、重い足取りでルフェルたちへと向かい歩き始めた。いまならばきっと、ルフェルの熾烈もル・ルシュの村正もアヴリルの死霊も飲み込まれはしないだろう。
守護者も半身もいない。アリキーノはいままでの闘いで衰弱している。
── ………テヤル
── …ロシテヤル
コロシテヤル!!
「コ ロ シ テ ヤ ル ! !」
「ルシ! 思い出してください!」
「コ ロ シ テ … ヤ ル」
「大天使長も司法長官も教授もミシャさんも、ルシを傷付けたりしなかった!」
「コ ロ シ テ …」
「運命の三女神は? ナーサリーの天使たちは? あなたを大切にしてくれたじゃないですか!」
「コ ロ シ テ」
「ルシ!!」
……殺して…わたしを…
憎悪の焔火で真っ赤に滾ったルシの瞳は、じりじりと己の眼球まで溶かしてしまいそうな勢いのままだったが、足取りは重くいまの現状を受け入れたくないという戸惑いすら窺えた。
一歩、一歩、ゆっくりと足を運びながら、ルシはユリエルの亡骸のそばまで来ると、悲しい声でつぶやいた。
「……ユリ…ごめんなさい」
わたし、ユリの役に立ちたかった……優しくてあたたかい、みんなの役に…立ちたかった……
「ひとつだけ、残しておいてよかった」
ルシは乾涸びた翼を広げると、そうっとその翼を動かした。内側からひらりと宙に躍り出た羽根は、ゆらゆらと小舟のように揺れながら、ユリエルの身体の上に落ちた。
「……まさか」
たおれて いる いぬ が いた ので てんし は さいご の はね を ぬきました
その はね を いぬ の うえ に おくと いぬ は いきかえって げんき に なりました
かわり に てんし が しにました
「ルシ……おいで…」
ル・ルシュはルシに手を伸ばしたが、ルシは寂しそうに笑って、その場で倒れ空を仰いだ。
「ルシ!!」
色素を持たない赤い瞳を薄っすらと開いたまま、ルシは動かなくなった。まさか、本当に絵本どおりの結末を迎えるのか、とルフェルとアヴリルは無言で顔を見合わせ、それから動かなくなったルシを見下ろした。乾涸びた翼にはもう、一枚の羽根も残されてはいなかった。
ルシの横で倒れていたユリエルは二、三回軽く咳込んだあと、慌てて身体を起こし周りを確かめた。
「……嘘やろ…?」
「最後の稀覯原種で……司法長官を蘇生しました」
「なんでや……ひとりぼっちは寂しいて…一緒におるさかい大丈夫やゆうてたやないか!」
「だからこそ、おまえが死ぬことをよしとしなかったんだろう」
「誰が死んでもあかんやろ!!」
珍しく感情的になるユリエルを諫める者はいなかった。エデンに産まれ落ちながら、エデンでは生きることができず冥界で育てられ、周りの都合でエデンに連れ戻されたユリエルにしかわからないルシの寂しさがそこにはあった。産まれてたった数日の小さな小さな命は、まるで数百年の時を過ごしたかのようにくたびれて見えた。
「なんのために……産まれて来たんや…」
ユリエルの空色の瞳からぽつり、とこぼれた涙が一粒、ルシの頬を滑り落ちた。
── その時。
ルシの亡骸が内側から熱を持ったように赤味を帯び、それは瞬く間に真っ赤な閃光となってユリエルたちの視界を奪った。眩い光に包まれながら、ルシの身体からひとつの塊が分離されたように現れた。
少しずつ輝度を下げながら、その塊が姿を現す。
そして、その姿を見たル・ルシュは言葉を失った。
───
眩く赤い光の中から現れた者を見て、ル・ルシュはまるで信じられない、という顔で声を振り絞った。
「……ルチア…?」
ルシから分離した塊はひとの姿をかたどり、ゆっくりと地面に足を着いて笑った。白く細いしなやかな腕をル・ルシュの首に絡ませ、愛おしそうに頬を合わせた。二百五十年の時を経ていま、ル・ルシュは愛するルチアを恐るおそる抱き締め、消えないことがわかると力一杯抱き締めた。
「久しぶりだね、教授……やっと逢えた」
「ルチア……なんでこんな所に…」
白磁のように白くなめらかな肌も、ふんわりと風に揺れるストロベリーブロンドの髪も、エメラルドのように深く濃密な輝きを放つ瞳も、紅く艶めく柔らかな口唇も、何ひとつ色褪せることなく携えたままのルチアが腕の中にいる。
「秘術のせいで魂がね、魔界から抜け出せなくて」
ルチアは困ったように、しかし清々しく笑ってみせた。
あの時 ── どうしても拷問器官を動かすわけにはいかなかった。なんとしてもお腹の子を、天空に連れて行かなければ、とそれしか考えられなかった。だから……魔族の秘術で魂が囚われてしまったことに気付けなかった。
フィオナさまに小さな子を託した時、一瞬で気が緩んだ。それからはあっという間でね……遺体があっても肝心の魂がない、と全能神ですらお手上げ状態だったみたいだ。わたしたち完全体は魂を持ち運べるわけじゃないからね。遠いフィンドに魂を囲われてしまったわたしは……天空で蘇ることができなかったんだ。
それからはもうずっと長い間……わたしは魂だけの存在となって、フィンドを彷徨うことしかできなかった。フィンドで転生することを勧める魔族も少なくはなかったけど、ステファノを葬り仲間を傷付け、教授を亡き者にしようとした種族になんてなりたいわけがない。
そんな時……同じようにただ彷徨うだけの魂を見つけたんだ。特に秘術が掛かっているわけでもなく、自由に結界をすり抜けられる稀な魂をね。何か目的があるような素振りもなく、日がな一日ブラブラと彷徨ってるだけだったから……もしかしたらこの魂なら外に出られるかもしれない、って思ってね。
敵意がないことを理解してもらって、わたしの魂を半分喰わせたんだよ。
「魂を……喰わせた、って……」
「一体化してひとつの魂になれば、外界に出られるかな、って思って」
「フィンドから出られたとしても、一体化してたんじゃあ帰天できないかもしれないのに」
「抜け出すことしか考えてなかったからなあ」
ルチアはいたずらな笑顔を作り、呆れ返るル・ルシュを黙らせる。
「まあ、その魂が元はアリキーノの魂で、エデンに産まれ落ちるところまでは予測できなかったけどね」
───
魂の半分はアリキーノで、半分はわたしだった。だからこのアリキーノには右側の翼がなかったんだ。右側はわたしだからね。エデンに産まれ落ちた時は絶好の機会だと思ったんだ。なんとかエデンの天使を魔界に向かわせることができたら……わたしにかけられた秘術が解けるかもしれない、そう思ったから。
教授は不思議だと思わなかった? スティグマを付けられ、魂にまで結界を張ったはずなのに、いとも簡単に魔族が地上に現れてアリキーノを狙い始めたことを。奈落でも冥界でも天界でもなく、なぜ魔界にだけ知られたのか。
「……アリキーノの力が強いのかと思っていたけど……それならアビスやハデスに知られてもおかしくないな…」
「そ、わたしがアリキーノの力を使って、魔界に情報を流したの」
天使はアビスに立ち入ることができない。ハデスはエデンと敵対関係にない。ディヴァも神々のいる場所だからね、争い事は避けたい。そうなるとフィンドが一番やりやすい。わたしの魂を喰らったアリキーノがどこで潰えようと、その時点でわたしの魂もそこにあるわけだから秘術は解けたかもしれないけど。
「でも……思った以上の犠牲を出してしまった」
「それはルチアのせいじゃないよ」
「それでも! わたしの策が起こしたことに違いないよ」
ルチアは足元に転がっているアリキーノの ── ルシの亡骸を見て寂しそうに言った。