ACT.15 シルフィ
シルフィの亡骸をエデンに運んだミシャは、ひとり泣きふせっていた。
ルフェルは堕天して死んだ。
もう二度とあの優しい声を聴くことも、大きな手に触れることもできなくなった。何より、愛した女が我が子の手によって葬られ、さらにその愛しい娘を手に掛けねばならなかったルフェルの気持ちを思うと、ミシャの悲しみは止まるところを知らず、大きく膨れ上がり重くのし掛かった。
膝を着いてもなお両手で剣を握り締めたまま、深紅の瞳を見開き全身を震わせ、自分を覚醒させるかのようにきつくくちびるを噛み締めて、あなたは何を思っていたの……苦痛に顔を歪め呻き声をあげながら、まるで自分を嬲り殺すように……
エデン史上最凶と言わしめた、冷酷非情な大天使長の無惨な最期を見届けたミシャだったが、小さな頃から一緒に育ちその弱さも優しさも知っているからこそ、ルフェルの選択が悲しかった。
しかし同時に、これほどまで誰かを愛する気持ちがわからなかった。エデンにおいて、ルフェルの残した功績や博した名声を考えると、もっとうまく立ち回れたのではないか、という思いが拭えない。死ぬ覚悟があったなら、神々に楯突いてでも生き残る道を模索できた気がしてならなかった。
「……不器用なんだから」
何をどう思っても、やはり涙は止まらなかった。もう逢えない、ということだけは間違いのない事実なのだ。
数日に及ぶミシャの悲しみは、ひとりの天使の伝令によって突然かき消された。
「ミシャさま、すぐ……いますぐ “清めの間” へお越しください!」
清めの間にはシルフィの亡骸が安置されている。穢れた魂を一時的に安置しておく場だが、通常使用されることがないからこそ、内々に亡骸を運んだというのに。一体何が起こったのか、と足早に駆け付けたミシャは、信じられないものを目の当たりに、足の震えを止めることができなくなった。
── シルフィの亡骸が……動いている。
シルフィは、ルフェルの握った裁きの刃で首と胴を切り離されたはずだ。それを目の前で、間違いなくこの目で見た。
神々の信頼篤く大天使長と呼ばれた十二枚の翼を持つ熾天使は、魂の水晶を傷付け、翼を失い、愛する者を失い打ち据えられた状態であったにも関わらず、光をもたらす者と言われていた頃と寸分違わぬ正確な剣捌きで、鮮やかに我が子の首を刎ねたのだ。
鈍った腕でためらえば剣は骨を断つことなどできなかっただろう。しかしルフェルは腕の衰えを感じさせることもなく、手にした剣は見事に最短の軌道を描いた。そして何より、シルフィの切り離された首と胴をエデンに運び込んだのは、いまこの信じられない光景を目にしているミシャ自身なのだ。
そのシルフィの……ネフィリムの首と胴が元どおりつながり、いま目の前で動いている。その足下にはからだを捻り上げられた無数の天使たちがひしめいていた。
「どういう……ことだ…」
シルフィはミシャに気付くや否や、すうっと姿を消した。
一体何がどうなっているのだ。ミシャはフィオナの元へと急いだ。
───
シルフィが水晶の間に入ると、天使の子が迷い込んで来たのだと思った天使がそれを咎めた。
「あら、ここに入ってはだめよ」
シルフィはにっこりと笑い、
その天使を捻り上げた。
シルフィは居並ぶ水晶に近付くと、迷うでも選ぶでもなく腕を伸ばした先にあるものを手に取り、思い切り床に叩き付けた。叩き付けられた水晶は成す術もなく音を立てて砕け散り、その中からふわりと魂が立ち昇るとシルフィはすかさずそれを掴み、飲み込んだ。
手当たり次第水晶を床に叩き付けては、魂を飲み込んで行くシルフィ。慌てて近付く天使たちは捻り上げられ、中には水晶を叩き割られその場で絶命する天使もいた。
魂を飲み込んで行くごとにシルフィは少しずつ成長して行った。騒然とする水晶の間にフィオナとミシャ、それから水晶の女神モーリアが現れその惨状に息を飲む。
「あれは……ルフェルの愛した……ノエル?」
ミシャの目の前で水晶を叩き割っているのは、十八歳のまま歳を取らなくなったノエルの姿そのものだった。
「水晶の魂を喰らって成長しているのか」
フィオナはその姿に、眉間のしわを深くする。
「ともかく、早く止めないと天使たちが……!」
モーリアがそう言うとミシャがシルフィに近付き、腰に提げた剣をすらりと抜いた。
「……三級の座天使ごときが、わたしを止められるとでも思ってるの?」
ノエルに生き写しの美しいシルフィは優しく微笑んだあと、ミシャのからだをふわりと浮かせ、宙で捻り始めた。
「おまえ……喋れるのか……!」
「いくら天使でも、水晶の近くにいては苦しいでしょう?」
捻る力を徐々に強めながらシルフィは嗤った。
「わたしは元々パパの血を強く引いてるのよ。エデンでのほうが本来の力を出しやすいの」
ミシャが苦しさに顔を歪めた途端、シルフィは驚き慌てて力を緩め、ミシャを解放した。
「……あなたに恨みはないわ。あなたはパパを愛してくれていたもの」
床に叩き付けられたミシャは痛みと息苦しさで立ち上がることができず、うずくまったまま小さな呻き声をあげていた。シルフィはゆっくりフィオナとモーリアに視線を動かし、邪気を微塵も感じさせない笑顔を見せた。
「パパとママは……どこにいるの?」
フィオナとモーリアに近付きながらシルフィはひとつ、またひとつと水晶を割って行く。音を立てて砕け散る水晶からふわりと魂が立ち昇る。それを見たシルフィは、高らかな嗤い声をあげた。
「貴様……わたしたち神の力を天使と同等に見ているのか」
フィオナが近付くシルフィを見据えた。
「神、ねえ……与えられたその力で、いまのわたしを止められるものなら止めてみるといいわ」
美しい笑顔で水晶を割りながら、シルフィはフィオナの目の前で立ち止まった。
「もう一度しか訊かない。パパとママはどこにいるの」
この惨状に、最早斟酌するものなどないと感じたフィオナは、目の前で美しい笑みを湛えるシルフィの左胸にすっと右手を差し込み……硬直した。拍動する心の臓を、魂を、消滅させてしまえば生き物の動きは止まる。だがフィオナの指先に触れるものは……何もなかった。
「……だから言ったでしょう?」
シルフィはフィオナを捕らえると、そのからだを宙に浮かせた。
「貴様、心の臓を……まさか魂を…持たぬのか」
「わたしは死んだのよ? 首と胴が切り離された亡骸を、あなたも見たでしょう?」
「魂そのものが……顕現しているのか……」
「あなたたちは生身ですもの、魂を水晶に預けてる天使より痛いはずよね?」
そう言うとシルフィは底のない沼のように暗く、一切の光を拒絶した瞳でフィオナを凝視し、ゆっくりと、しかし確実に、フィオナのからだを捻り始めた。ぽきり、と高く細い音が鳴る。それを合図にからだ中の骨が軋んでは限界に達した箇所が水晶の間に響き渡るほどの大きな音を立て砕けて行く。
からだ中の骨がすべて砕けたとしても、その血が一滴残らず流れ出たとしても、しばらくすればそのからだは元に戻り神々が死ぬことはない。しかしそれは、生命を失わないという神の成り立ちに過ぎず、人間同様の痛みや苦しみはその肉体を容赦なく襲う。
苦痛に顔を歪めながら、それでも悲鳴ひとつあげずにいるフィオナを見兼ねたモーリアがシルフィを咎めた。
「お待ちなさい、ネフィリムよ。神への冒涜はすなわち死を……魂の消滅を意味するのよ」
またひとつ水晶を叩き割り、シルフィは悲しみと苛立ちを抑えるよう嗤いながら答えた。
「そもそも産まれてはいけなかったわたしが……命乞いをするとでも、思う?」
産まれてはいけなかった……
人間にもなれず、天使にもなれず、魔物として殺される運命であったなら、神々はなぜルフェルの恋を放置したのだ。それを知りながら、産まれ落ちる者が魔物だと知りながら、なぜルフェルとノエルを見逃して来たのだ。神がルフェルを咎めさえすれば、子を成してはならない、とひと言咎めさえすれば、ルフェルはいまでもノエルとしあわせに暮らしていたのではなかったのか。
「……あなたたちにはサンプルが必要だった」
大天使長である熾天使ルフェルと、人間ノエルとの間に産まれた “魔物” という前例が。
それにより地上はもちろん、エデンさえより容易く統べようという企みが。
「人間に恋をしてはいけないということを、突き付けるためのサンプルがね」
そう言うとノエルはまたひとつ、水晶を叩き割った。
天使が人間との恋に落ちるとどうなるか。その間に子を成すとどうなるか。愛した人間も産まれた愛しい魔物も悲嘆と絶望の中で失い、漆黒のような時間を生き続けなければならなくなるのだ、と他の天使への戒告のために、神々は熾天使であるルフェルを利用した。
特級の熾天使という身分、大天使長と言う立場、博した名声、残した功績の数々……これほどまでに優れた天使であっても赦されないことを知らしめるために、見せしめのために、罪に手を染めたルフェルに気付きながらも一切咎めることなく、罪を重ねれば重ねるほど利用価値の上がる生け贄として、正に神々への神饌として……
「そのせいでパパとママは死ななければならなくなった」
シルフィはフィオナを締め上げる力をいっそう強めると、怒りを露わに叫んだ。
「これが、あなたたち神の作った化け物よ! あなたたちにはその自覚すらないの!?」
産まれてはいけなかったシルフィ。目は見えず、耳も聞こえず、光と音を取り上げられ産まれ落ちたシルフィ……人間にもなれず、天使にもなれない、魔物と呼ばれ父親に殺されねばならなかったシルフィ。
「さあ! パパとママはどこにいるの!」
そこへ、もうこれ以上見てはいられない、とディオナが現れた。
「ルフェルとノエルの子、シルフィよ。お願いだから、フィオナを離してあげてちょうだい」
ディオナはシルフィに近付くと、シルフィを優しく抱き締めた。
「シルフィ、あなたは優しい子ね」
そう言うとディオナは、シルフィの背をさすり蜂蜜色の髪を慈しむようなでた。
「自分のせいで、ルフェルとノエルが死んでしまった、と……そう思っているのね?」
その途端、フィオナが床に叩き付けられた。
「わたしが産まれなければ、パパとママはいまもしあわせに暮らしてたわ」
「そうね……でもね、シルフィ。あなたを得たルフェルとノエルは、とてもしあわせだったのよ?」
「嘘よ……パパもママも、お互いさえいれば充分なくらいに愛し合ってたもの」
「いいえ、わたしたちは止めなかったのではなく、止められなかったの」
「……どういうこと?」
「子を成してはいけない、と止めようとしたの。でも、ルフェルもノエルもあなたを望んだのよ」
「……嘘よ」
「あなたは、愛の証に触れられる喜びを知った、ルフェルとノエルを見ていないでしょう?」
わたしたちは……あなたを待ち望むルフェルの心の震えに、驚きと戸惑いを隠せなかった。遠いエデンで魂を浄化されているにも関わらず、ルフェルは毎日愛情を積み重ねて行ったのよ。あり得ない出来事を前に、わたしたちは無力だった。ここまでの深い愛を……貫こうとした天使はいままでいなかったから……
エデンに連れ戻すことも、お腹の中の赤ん坊を取り上げることも、できなかったわけじゃない。でもね、わたしたちの大切なルフェルの望むようにさせてあげたい、とひとりの神が言ったの。それを聞いた他の神々もルフェルの愛を守りたいと……奇跡を守りたいと考えるようになった。
もちろん、前例がないからわたしたちも怖かったわ。産まれてみなければわからなかったのよ。
「でも……でも結局、ふたりは死んでしまった!」
「ルフェルは……死んではおらぬ」
苦しそうに息を整えながらフィオナが言った。
「最期に……ネフィリムを貫け、と…ルフェルに渡した剣は裁きの刃ではない……聖なる刃だ」
聖なる……刃…?
「魔物を貫くのに裁きの刃は要らぬ……もしも、のときを考えミシャには裁きの刃と偽ったが……」
「パパが……堕天するのを見越していたと言うの……?」
「愛情深いルフェルのことだ……わたしが手を下せば……魂の消滅は免れぬ。ならば当然……己の手を血で染めることを選ぶだろう。そのルフェルが、我が子を手に掛けおめおめと生き残り……神々の赦しを乞うような真似などするはずもない」
パパが……生きてる……
「ただ、ルフェルは……人間になりたいと強く願っていた。己の水晶を割るほどまでにな」
「だから天使としての能力が衰弱し過ぎて、心臓を貫いた時の衝撃が少し強くなったの」
ディオナはシルフィの両手を取り、いまルフェルはエデンで眠っていることを告げた。
「じゃあ、ママは……」
「ノエルはわたしが結晶にしたわ。それは美しく、サファイヤのような青い結晶になったのよ」
「ママは……産まれ変わることができる?」
「できるわ、もちろん」
そしてシルフィの目の前に、すべての翼を失ったルフェルが現れた。