第八十六話 黒白で争う
── Everything, or everyone and everything…anything and everything.
すべてのこと…いや、ものだけじゃなくてすべてのひとっていうか…何から何まで全部。
「わたし、完全に部外者なんだけど」
そうだな、オレですらなんでここに薫がいるのかサッパリわからん程度には完全に部外者だな、と思いながら薫に目を向けると、このべらぼうに重い空気の中、何がそんなに楽しいのか小一時間問い詰めたくなるような笑顔で洸征に話し掛けた。
「あ、わたし都築 薫子。ケンソーの幼馴染みで婚約者」
「違うっつってんだろ……」
「いま一番欲しいものってなあに?」
「……欲しいもの?」
洸征は薫の質問の意図がわからず、ただ訊き返した。
「なんでもいいの。食べるものでも、お洋服でも、時計でも車でも……別荘でも、とにかくなんでも」
待て待て、食べるものが例えばA5ランクの松坂牛のステーキだったとしても、車や別荘とは手に入れる手軽さが比較にならんだろうが。
「……誰にも迷惑を掛けない居場所、かな」
……洸征の答えを聴いて、一番落胆したのはシロクロだろう。冬慈さんも当然責任は感じてるだろうが、事の本質にはまだ気付いてないだろうし、蜜さんに至っては多分いまのクロの話を正しく理解していない。
「そう、じゃあ一緒に来て」
薫はそう言うと椅子から立ち上がり、居心地の悪そうな洸征の右手を握った。
「燠嗣くんも」
そして薫と洸征と燠嗣は、応接間から出て行った。
───
薫にそこまで深い意図はなかったと思うが、この場にいないほうが残ったひとたちは話しやすいだろう、くらいの気遣いはあったと思う。いや、本当にただの思い付きだったのかもしれんけど。
残された冬慈さん、蜜さん、華、オレ、クロ、シロの六人は、誰かが何かを言い出すんじゃないか、としばらく黙ったままだった。蜜さんと華は「まだ隠し子がいたのか」くらいの気持ちだったかもしれないが、洸征に関して言えば冬慈さんですら隠されていた側だ。何かを取り繕う必要もなければ、贖罪の必要もない。
「ケンソー、なんでいきなりコーセイ連れて来よ思たん」
シロは少し呆れたような口調で、オレの行動に疑問を投げ掛けた。
「いや……ひとりでアメリカに帰るって言うから…」
「なんで?」
「それをオレに訊かれても知らん……生活基盤があっちにあるから、としか」
「……ないで?」
「え、ないってどういうこと?」
「日本に来る段階で、紅がマンハッタンの家引き払てるしな」
「は? じゃあ洸征は日本に永住するつもりでこっちに来たってこと?」
「もうアメリカにおる必要もないさかい……日本でも仕事はできるやろしなあ」
「……紅に遠慮したはるんやろか」
「十七年越しやゆうても、ある意味新婚夫婦やさかいな、紅と桐嶋は」
うーん……あの洸征の様子を考えるに、そこじゃない気がするんだよなあ……
「ちょっと言っていいのかわからんけどさ」
「あかんかったとしても、聴かん以上なんもわからへん」
「んー…… “クロとシロを返せ” って怒ってたっつーか、泣いてたっつーか…」
「泣いとった? コーセイが?」
「うん……アンタもぼくも同じ “失敗作” なのに、どうしてアンタだけしあわせなんだ、って詰られたし」
「あんたが失敗作や、ゆう話は否定せえへんけど」
「おまえらにはひとの心ってもんがないのか」
「見た目はトウジとミツに美しゅう拵えてもうたゆうのに、女にだらしのうて貞操観念のうてどこででも盛るエロいオスやさかい」
「いやいやいやいや、それいまここでしなくちゃいけない話か!?」
「ゆうてコーセイが泣いとったゆう話は……ええ話やないっちゅうか」
「そやね……犠牲者出る前になんしか手ぇ打たんと」
犠牲者って……え、なんだその不穏な話は。オレは単純に、洸征がシロクロに逢いたいと思ってるんじゃないか、くらいにしか考えてなかったから、ここに連れて来れば少しは落ち着くんじゃね? ってそれだけだったんだが。
「行くで、ケンソー」
「え、行くって、どこに」
「薫子と燠嗣と三人でいてるんなら、庭の散策でもしてるんちゃうか」
───
庭の散策と言われてもだな……離れに、蔵に、茶室に、職人さんたちの休憩所に、来客用の別宅なんかもある途方もない広さの庭のどこを探そうってんだよ……
「……ああ、茶室にいてるな」
スマホの画面を確認しながら、シロが茶室に向かって歩き出す。
「え、もしかして、スマホで防犯カメラ覗いてんの!?」
「当たり前やろ、闇雲に歩いてどないすんねん」
「……セキュリティの意味とは」
「うちら、ICT(情報通信技術)のプロやさかいな、これくらいできひんと仕事にならへん」
「なんの仕事してんだよ!」
「街の情報屋さん、や」
……確かに。
「なあ、犠牲者が出るってどういう意味?」
「どうもこうも、そのまんまや」
「なんか悪影響でもあんの?」
シロクロは互いに顔を見合わせてから、なんとなく言い出し難そうな様子で話し始めた。
「ぼくらは……まあ、産まれた時から一緒やったさかい、そゆもんや思てたけど」
IQが高いとかギフテッドやとかわからへんかったし、ケヤキ以外はたまにトウジかMGCの人間に逢うくらいで、同し歳の子と関わったこともあらへん。渡米したあとも、しばらくは家から出ることもなかったし、初めて他人と話した時はまず英語がわからへんから会話にならへん。
そやから、それが普通やってん。ケヤキとぼくら以外はようわからん生き物なんやなあ、くらいにしか思わへんかったん。
そやけどコーセイは産まれて間なしに渡米させられとるさかい、ゆうてアメリカ産まれアメリカ育ちみたいなもんや。紅はおったけど、保護者ゆうか庇護者としてそばにおったわけで、デイケアやらプリスクールの子とは距離感ちゃうやん。そやゆうても、コーセイにはそれがわからへん。
「むしろ他の子が、コーセイのゆうこと理解できひん、ゆうか……」
同し歳の子が “Dear Zoo” 読んどる時に、ケインズの “The General Theory of Employment, Interest and Money” を読むこどもが理解されるわけあれへん。当然みんなと同じ輪に入って遊ぶゆうこともできひん。周りのおとなもどう扱うてええかわからへん。
紅はありふれた環境で普通にコーセイを育てたかったみたいやけど、こどもからもおとなからも、ある意味 “異星人” 扱いされ始めたらさすがにそうもゆうてられへん。そやからアクセルレイト方式(飛び級)からホームスクール方式(自宅学習)を経て、コーセイは大学院まで卒業しとるわけやけど……
はじめてコーセイに逢うたん、多分五歳くらいや思うけど、ケヤキが挨拶してもぼくらが挨拶しても紅に促されてもひとっ言も喋らへん。いま喋りたない気分やねんな、てケヤキは笑てたし、ぼくらもそういう生き物なんやなあ、て思ててんけど、ぼくとシロが紅からもうたカップケーキ一緒に食べよ思てふたりで座ったら突然近付いて来てな。
ぼくとシロの手からカップケーキ取り上げた思たら、それ顔に投げ付けられてん。
さすがにケヤキも紅も驚いたやろけど、一番驚いてんのぼくらやん。いままで空気みたいに扱てたくせにいきなり何しよん、て唖然としとったら、次に怒鳴られたん。
「Get The Fuck Out!」
次の瞬間な、コーセイが号泣し始めたん。いや、ここで泣いてええのはぼくらのほうちゃうんか? て、もう怒涛の展開に着いてけへん。カップケーキぶつけられた挙句出てけゆわれて、シロも泣きそうなってるし、どないやねん思てたらケヤキが号泣するコーセイ抱き上げたん。
「うちでは食べ物を粗末にするような子はお仕置きなんやけど、まず理由訊こか」
「欅さん、甘やかさんといてください。黒檀くんも白檀くんも、ほんま堪忍な……洸征、あんた何してんの」
「甘やかしてるんやないの、理由を訊いてるん。なんでママの作ってくれたケーキ投げたん?」
ケヤキはコーセイを抱いたまま、あやすように部屋ん中歩いてて……しばらくしたら笑ってコーセイを床に立たせてゆうたん。
「紅さん、ケーキの材料てまだ残ってる?」
「え、あるけど……」
「ほな、キッチン借りてもええ?」
「それは構へんけど…」
「ありがとう、ほな黒檀も白檀も一緒においで」
なんやようわからへんけど、ケヤキと紅とぼくらとコーセイの五人でな、カップケーキ作り始まってん。薄力粉ふるいに掛けたり、卵割ったり、バターこねたりな……ゆうてぼくらまだ小さいさかい、ぼくとシロがボウルを動かんよう持って、コーセイが泡だて器でバター練ってほんましんどかったわ。
でな、気付いてん。作っとる最中コーセイ笑てるん。そらもうめっちゃ楽しそうに。出来上がったカップケーキがオーブンから出て来た時なんか、きゃあきゃあ声出してはしゃいでるん。キレ散らかしてケーキ投げ付けた挙句、暴言吐いて号泣しとったんなんやったん!? て、ぼくらが引くくらい。
そのあとは三人で出来立てのカップケーキ食べて、特になんも会話もなくぼくら家に帰ってケヤキに訊いたん。
……誰かとなんか一緒にするの、初めてやったんやて。
いままでかて紅と一緒にいろいろして来たやろうけど、同しくらいの子となんか作ったことも、遊んだことも、勉強したこともなかったさかい、ぼくとシロがふたりで一緒に同しこと……ケーキ食べようとしたことが赦せへんかった、て。
「……単にシロクロの仲の良さに嫉妬したってこと?」
「まあ、平たくゆうとそゆこっちゃ」
「それでカップケーキ顔面にぶつけるか!?」
「そやから、誰とも関わりなかったさかい、加減ゆうもんを知らへんねんて」
その日から、コーセイの家に行くゆうことが増えてな、一緒に学校行ってた時期もあってん。コーセイはあの見た目やさかい、ようさんひとも集まって来よるけど、さっきもゆうたようにレベルの合わへん人間のことは見下して喋ろうともせえへん。そしたら次は双子のぼくらに話題が移るやん。ゆうて双子もそないようおらんさかい。
「もうな、いきなりスイッチ入ってもうて鞄やら履いてる靴やら投げよるん」
「……アメリカって、暴力っつーかそういうの厳しいんじゃねえの?」
「そんなん、おとなしゅう守れる人間やったら問題なんて起こさへんて…」
そやからホームスクール方式に切り替えたんよ。ぼくらは交代で学校行って、残ったほうはコーセイと家で勉強する。外に遊びに行くときは必ず三人で行く。
「でもこどもの頃の話だろ? いまはそれなりに他人とも付き合ってんじゃねえの?」
「ないねん」
「は?」
「うちら以外と遊んだりしたことないねん」
賢いさかいそれなりの処世術は身に着けとるけど、あくまで上辺だけのもんや。うっかり高いIQ持って産まれたばっかりに、自分の心の成長も身体の成長も環境と噛み合わへん。知的レベルの合わへん同級生見下しながら、輪の中に入りたい気持ちは捨て切れへん。そうやってコーセイは歪に形成されて行ったん。
こどもとして過ごした時間はないのに、どんどんおとなになって行ってしまう。そゆ焦りは確かにあった思うねん。
「紅と桐嶋と三人で暮らすの、一番楽しみにしてたんコーセイなんちゃうかな」
「……マジかよ」
「ゆうてずっと母親しかいてへんかったやろ?」
「その母親がずーっと愛し続けた男が悪いヤツなわけないやん」
「見た目はただのヤクザでしかないんだが」
「そこは否定せえへんけどもやな」
そやけど……やっぱり紅と桐嶋一緒にいてるの見てショックやったんちゃうかな。入り込む隙間ないゆうか……邪魔したないゆうか。ええようにゆえば繊細やけど、悪うゆうたら耐性のないお豆腐メンタルやさかい。
「最悪なシナリオはふたつ」
「…って、ふたつもあんのかよ」
「ひとつは、薫子か燠嗣を人質に取って、怪我させたないならうちらを返せ、ゆうパターン」
「もうひとつは……自分を人質に取って、消えるパターンやな」
「意味がわからん……おまえら三人で暮らせばいーじゃねえか」
「あほやな、そしたらトウジが邪魔んなるやろ」
「前と状況ちゃうねん、養子に、ゆうて呼び寄せたトウジの存在はコーセイの中から消えへん」
「一番望んどることは、うちらがトウジと縁を切って三人でアメリカに戻ることやろ」
「それは……」
── シロの病気の話もあるし、冬慈さんが納得するとは思えんな……
露地門から露地を歩き、てっきり外露地の待合にでもいるかと思っていた三人の姿はそこになかった。茶道口から水屋の中を覗いてみても誰もいない。別に茶事や茶会があるわけでもないので作法がどうこうはどーでもいいが、一応躙り口から茶室の中を覗いてみた。
そこには……
燠嗣の上に馬乗りになり、花鋏を握った洸征の姿があった。