第八十七話 泣きっ面に蜂蜜
まったく無関係の、しかも今日はじめて逢ったばかりの燠嗣に、たとえ脅しであったとしても鋏を向けるとか頭おかしいんじゃねえのか。そんなことをさせるために、オレは造血幹細胞とやらを提供したわけじゃねえ。
勢いよく入れる間口もないので、気付かれないよう静かに躙口に膝を掛けたオレを止めたのはクロだった。
「ただの脅しだと思ってる?」
燠嗣の腹の上で鋏を構え、薄っすらと笑いながら洸征がつぶやくと、燠嗣は黙って首を横に振った。
「……じゃあ、ぼくと一緒に死んでくれる?」
───
「おい、どこをどうすればあんな話になるんだよ」
「そんなん、ぼくらに訊かれてもわかるわけないやろ」
「なんかねえ、ひとりぼっちで生きるのも死ぬのもイヤだから、一緒に死んでって話みたいよ?」
「…っ、薫!? おまえなんでここにいんの!?」
躙口から見えないよう隠れながら中を窺っていたオレたちの横で、まるで最初からそこにいたかのように薫は、茶室の中のふたりの様子に耳をそばだてていた。
「お茶室なら誰にも迷惑掛けないかなあって思ったんだけど」
「いま正に、ここが殺傷事件の現場になりそうな勢いなんだが?」
「気分転換に連れて来たんだけど、お茶室はお気に召さなかったのかしら」
「お気に召すとか召さないとか、その論点はとっくに超越してんじゃね?」
「そうねえ……一応、猟銃でも用意しとく?」
「まずそれで、おまえの脳内お花畑を撃ち抜いていいか?」
薫曰く、最初は和気藹々とは行かないまでも、普通に会話はできていたそうだ。枯山水の砂紋に興味を示したり、東屋の用途を訊ねたり。飛び石や灯籠、蹲も珍しかったらしく、その流れで茶室にたどり着いた、という話だった。
そして、畳の上に座る燠嗣と薫をしばらく無言で見つめながら、「……That’s not fair…」とつぶやき、燠嗣を押し倒した、と。
「おまえ、なんでそれ止めないのよ…」
「え、だって、この先の展開に興味以外ないじゃない!」
「わかるわ」
「うちもわかるわ」
「通じ合ってんじゃねえよ、この変態性倒錯トリオ」
***
こういう場合、もっと動揺したり慌てたりするものだ、と思っていた洸征にとって、燠嗣の決して取り乱さず冷静な振舞いは想定外だったこともあり、洸征の神経を逆なでた。
「こんな小さな鋏でも……刺されれば痛いよ?」
「そうですねえ…」
「オキツグっていったっけ……命乞いとか、しないの?」
「したら思い留まらはるくらいの気持ちなんです?」
「……そうやってアンタも、ぼくにそんな根性なんかない、って思ってるんだ」
「根性のあるなしやのうて、ずっと鋏構えたまんまやと腕しんどいん違うかなあ、て」
「危害を加えるかもしれない相手の心配? いま? この状況で?」
「この体勢を引っくり返せるほどの力、ぼくにあるよう見えます?」
「だったら大声で助け呼ぶとか、なんかできるだろ!?」
「そら、できひんこともないですけど……」
苛立つ洸征とは対照的に、燠嗣はやんわりと笑顔で言った。
「ひとりは嫌なんですやろ?」
ますます苛立ちを募らせた洸征の、その鋏を持つ左の手首を燠嗣は強く掴み、自分の首元へ引き寄せた。
「頸動脈突いたらこれくらいの鋏でも、十五秒ほどで終わりますよ」
「……アンタ、頭大丈夫か」
「それに、もしぼくを殺したあと怖なって逃げたとしても、久御山の家なら内々に済ますこともできますし」
「アンタ自分が何言ってんのかわかってんの!?」
「ほなきみは、自分が何したはんのかわかってるんです?」
燠嗣は掴んだ手首をさらに引き寄せ、体勢を崩し倒れ込んだ洸征の背中を抱き締め、優しくなでた。
「元々ぼくにしあわせな未来なんてなかったんです。でも黒檀くんと白檀くんに自由をもらいました。その自由を、彼らと一緒に育った洸征くんのために使うことが間違うとるとは思いません……そやけど、洸征くんはほんまにそうしたいんです? 欲しいのは一緒に死ぬ相手やのうて、一緒に生きてくれる相手なんと違います?」
燠嗣の控えめで穏やかな声だけが聞こえていた茶室から、しばらくするとすすり泣くような声が漏れ始め、それはまるで小さなこどもが泣いているような、はっきりとした泣き声に変わった。
「邪魔するで」
それを合図と捉えたのか、頃合いだと感じたのか、躙口から黒檀と白檀が茶室の中へ入って行った。
***
「薫子、悪いけど救急箱借って来てもらえるやろか」
「はあい、ちょっと待っててね」
「ケンソー、着物用意してくれるか」
「は? 着物? なんで?」
「なんで、て……燠嗣の着替えやけど、この家やったらなんしかあるやろ」
「いやだからなんで着物!?」
「細かいことはええから早う」
細かくもなんともねえ、普通の服で充分だろ! 着物ってどういうのを想像してるんだ? 着流しか? それとも袴も必要なのか? 小物まで考えると結構面倒なんだが。
とりあえずオレの着物と袴と羽織を持って茶室に戻ると、シロが燠嗣の怪我の手当てをしていた。洸征を引き寄せた時、バランスを崩して倒れ込んだ洸征の持つ鋏で頬を少し切ったらしいが、傷の深さに反比例して流血したようで、白いシャツの肩やら胸やらが真っ赤になっていた。
燠嗣は控えめでおとなしく、こどもの頃から喧嘩らしい喧嘩もしたことがない、いわば生粋のお坊ちゃまであり、流血沙汰とはまるで無縁の人間だ。冷静に見えて内心死ぬほど焦ってると思うんだが……
「痛ない?」
「あ、大丈夫です」
シロの問いに笑顔で答えた燠嗣は、オレに気付くと少し申し訳なさそうに苦笑しつつ、軽く頭を下げた。手当てが終わると「これはもう洗ても落ちひんやろな」と言いながら、シロは燠嗣のシャツを脱がせ、首筋や肩に付いた血を、濡らしたガーゼで優しく拭き取った。
「……おい、変態兄弟…まさか、とは思うが」
「おやケンソー、思てたより早かったなあ……ほな、それ着せたって」
「着付けたあとに脱がせ、とか面倒なこと言うんじゃねえだろうな」
「言わへん言わへん、着付けてるとこ見たいだけやさかい」
「完っ全におまえらの趣味じゃねえか」
シロクロとオレの会話を、理解はできないが空気を読んでみようと試みる燠嗣、何が始まるのか興味津々の薫。そして、放心状態で壁に寄り掛かり脚を投げ出して座る洸征。
桐の箱から、たとう紙に包まれた着物を取り出しそっと視線を向けると、燠嗣は少し困ったような複雑な様子で、なんとか笑顔を作って見せた。
「燠嗣も自分で着付けできるけど……オレが着付けたほうがいいの?」
「男前が、怪我して気ぃ弱なってる男前に密着しながら着物着せる、ゆうんが肝やん」
「怪我してる優男ってだけでエロさ増し増しなうえ、イケメンがかしずいて着付けるって耽美よね」
「着物が正装ゆう文化も相まって、余計漲るゆうか」
混ぜるな危険、の酸性と塩素系が仲良く有毒ガスを発してるんだが、ここに居続けたらもれなく猛毒で死ぬんじゃねえの、ってくらい溶け合ってんな、こいつら……いっそ、本体ごと三人で気化してくれれば、地球の空気も少しはキレイになるのに……
気が付くと、洸征の横で同じように、薫とシロとクロは壁にもたれ掛かり脚を投げ出して、部屋の隅からオレたちの様子を眺めていた。
「あ、あの、賢颯くん……ぼくいま肌襦袢とか持ってへんけど…」
「要らねえだろ、とりあえず見た目だけだろうし」
「え、素肌にいきなり長襦袢!?」
「アンダーシャツも血塗れだし、しょうがねえだろ」
まあ、これで外に出るわけでもないし、素肌にいきなり長襦袢だと着崩れる心配はあるが、着替えて何かをするわけでもない。いうなればこれは単にシロクロの趣味でしかなく、着物という “非日常” を見て楽しみたいっつーだけの、変態性倒錯兄弟への報酬みたいなもんだ。
何に対する報酬かはわからんが。
背中心を整え、右の衿元を少し引き上げながら左の腰骨に挟み込み、少し高めの位置で腰紐をからげ左右を逆にねじったあと、その紐の先端が邪魔にならない程度に腰紐に入れ込む。少し高めの位置で腰紐を巻いたのは、細身な燠嗣の着崩れを一応防ぐためだ。
背中のシワを手のひらで左右に伸ばしたあと、同じように着物に腕を通し、背中側から半衿が見えないよう整え、今度は腰骨の位置に腰紐を巻く。あ、そういえば着流しでいいのか?
「なあ、袴って必要なのか?」
「お茶点てる時てどうなん?」
「普通は袴も使うけど」
「ほな、袴も着せたって」
「じゃあ、茶席で最も一般的な感じでいい?」
「うちら一般的がわからへんから……ゆうてケンソー、いまお茶点てたりできるん?」
「できなくはないけど、時間掛かるから無理だな」
「ほな真似だけでも」
「エア点前なんざしたこともねえわ」
抹茶色の長着に薄墨色の袴……どこからどう見ても華やかさとは無縁だが、茶席では一般的な装いではある。
風炉の前で背筋を伸ばし正座をする燠嗣の姿は、育ちのいい京男にしか見えず、慎ましい着物姿が逆に燠嗣の見た目の良さを際立たせているようにも見える。まあ、右頬を覆うガーゼが痛々しくはあるが。
「燠嗣、普段より男前やん」
「洋服より和服のほう似合てるやん」
「学校も着物で行けば、いまよりさらに人気者になるんじゃない?」
「……お手洗い、邪魔になるので」
他愛ない会話を繰り広げている四人を横目に、洸征をチラリと確認してみた。刃傷沙汰とまでは言わないが、燠嗣に怪我をさせたことは事実なので、加減を知らないお豆腐メンタルくんの様子は当然気になった。
気落ちしてるのか、特になんとも思ってないのか、洸征はゆっくり立ち上がるとそのまま燠嗣に近寄り、何も言わずにただ穏やかに微笑むだけの燠嗣の ── 膝の上に腰をおろし、両腕を首に回して抱き着いた。
「……一緒に死んでもいい、って言ったよね」
「言いましたね」
「じゃあ、死んだつもりでこの先の時間、ぼくのために使ってよ」
「……おかしなことを言わはるんですね」
「おかしい? なんで? 死んだらこの先なんてないんだから、なんだって我慢できるだろ」
「そばにいて欲しい、てひと言でええんと違います?」
驚いて身体を引き離した洸征の背中を、燠嗣は手のひらでそっと抱き寄せた。
───
とりあえず茶室に燠嗣と洸征を残し、オレたち四人はシロクロの住む離れへと場所を移した。
「なあ、ひとつ気になってることがあるんだけど」
クロの淹れてくれた珈琲を片手に切り出したオレを、シロクロは面倒くさそうに目だけで確かめた。
「さっき応接間で胚細胞クローンの話してたけど、洸征それ知らないフリしてる、って言ってたからさ」
「知らんわけないやろ……紅のデスクトップのログイン履歴、コンソールのログレポート、ターミナル……コーセイがいろいろ調べてたんは織り込み済みや」
「じゃあ、なんで燠嗣と薫まで同席させたんだ?」
「燠嗣は元々当主になるはずやった立場やさかい、知っとく必要かてあるやろ」
「薫子は、まあ賑やかしゆうか、蜜と華の精神安定剤みたいなもんやな」
なるほど、一応すべてにちゃんと理由があったってことか……変態ではあるものの、やっぱ有能なんだな、シロクロって。京都に来てからまだそんなに経ってないのに、燠嗣や薫のことを把握するための人間関係も構築してるわけだし。
「……でも、これからどうすんの?」
「それ、うちらが決めることちゃうやろ」
「こう言っちゃなんだけど、洸征って別に燠嗣のことが好きってわけじゃねえだろ」
「そばにおってくれる特別な存在ゆうか、友達て呼べる相手欲しかったんちゃうか」
「いや友達の作り方、物騒過ぎんだろ……」
「燠嗣がそれ受け入れてんねやから、それでええんちゃう?」
「じゃあここで、シロクロと洸征と燠嗣が四人で暮らす、って手もあるわけだ」
「なんでやねん」
「えー、だったら薫もここに住みたい」
「どないやねん」
───
事後だけど報告は必要だろうし、確認も必要だよなあ、と母屋にある冬慈さんの書斎の前で、オレは少し緊張しながら扉をノックした。
「……お父さん、ちょっと相談があるんだけど」
冬慈さんは小さく溜息を吐いたあと、「あかん、ゆう選択肢ないんやろ?」と言って呆れたように笑った。
「洸征……離れに住まわせてもいいかな」
「そら構へんけど……親御さんの意向もあることやさかい」
「うん、もうひとつ……燠嗣もこっちに呼びたいんだけど、秋尚叔父さんに話付けて欲しいなあ、って」
「燠嗣、すぐそこに住んでんのに? たまに泊まりに来るとかじゃあかんのか」
「洸征が一緒にいたいって言うからさ」
「……で、その次は四人になると離れは狭いさかい増築せえ、とでも言い出すんか?」
「まあ、離れの増築でも母屋の改築でも、そこはお父さんに任せるけど」
冬慈さんは、「まったく、おまえにはかなん」と首を横に振りつつ、オレの顔を見てやっぱり呆れたように笑った。
「胚細胞クローンの話……ショックだった?」
「そら初耳やったさかい……そやけど、洸征くんしあわせやった、ゆうてたし、移植手術も成功したはんねやろ?」
「うん、問題なく正常な血液作れるようにはなったみたい」
「ほなこれからも、しあわせやゆうてもらえるようにせんとな」
「……ねえ、この先また新たなこどもが見つかったらどうする?」
「可能性はゼロやないさかい、これ以上お母さんと華に愛想尽かされんようするだけやな……」
肩をすくめた冬慈さんの、いままで見て来た中で一番人間らしい姿を見たような気がして、少し可笑しかった。
───
クロはまだそこまで動けないし、ひとりでも大丈夫だと言ったにも関わらず、なぜかシロは駅まで見送ると言ってオレに着いて来た。薫は洸征と燠嗣が気になるようで、オレに目もくれず「またねー」とひと言、言い放っただけだった。
新幹線を待っているホームで、そういえば、とシロがオレの顔を覗き込んだ。
「ケンソー、なんでコーセイの部屋行こ思たん?」
「ああ……なんつーか、天才と秀才の差ってなんなんだろう、って思って」
「ゆうてる意味がサッパリわかれへん」
「いや、湊が一所懸命勉強してるじゃん? でもオレはある意味特殊だから、暇を持て余してしまうっていうか」
「それで?」
「セックスしたいけどできないじゃん」
「あんた、ほんまその容姿やなかったら生きてかれへん残念さやな」
「だから、同じ特殊なヤツには、世界がどういう風に見えてんのかなあ、って」
「……は? そないしょもないこと知りたくて湊ひとり置いて来たん?」
「ここまで長丁場になったのは単なる成り行きっていうか」
「あんたな、湊も我慢してるゆう風に思われへんの?」
「わかってるけど……なんか、生きてる世界が違う、って言われてるような気持ちになんだよ」
「コーセイもそう思てたから、同し世界共有してくれる友達欲しかったんちゃう?」
まあ、友達ゆうのは “作る” もんやのうて “なる” もんやろし、やり方は無茶苦茶やったけど、こどもらしい時間持てへんまんまここまで来てもうたさかい、いまからこども時代やり直したいゆうんはわからんこともないしな、とシロは付け足した。
こども時代ねえ……燠嗣相手にキャッチボールだのキャンプだの、アウトドアな遊びを求めるのはキビシいと思うけど、辛抱強くそばにいてくれるだろうし、感情的に反発することもないだろうから、適任っちゃー適任なのかもな。
そして、到着した新幹線に乗り振り返ったオレに、シロは満面の笑みを浮かべて言った。
「湊、おとなしゅうひとりで待っとってくれたらよろしいなあ」
── その時オレは、一分でも一秒でも早く東京に着くためなら、新幹線の運転士をしばき上げることも辞さない覚悟をした。