第十八話 お医者様でも草津の湯でも
「ねねね、見た?」
「見た見た! あれ桜庭先輩だよね!?」
「やっぱり!? 今月号見てビックリしちゃった」
「隣のイケメン、一体どこの誰なんだろう!」
「でも大丈夫なのかな、あれ」
「え、なんで? 学校にバレたらマズいとか?」
「受験生だから、あんまり騒がれたくないかなあって」
教室で騒いでいる女子の話に桜庭さんの名前が挙がったので、少し気になった。なんだろう……学校にバレたらマズいことって……モヤモヤしていると教室に戻って来た久御山が、僕の目の前に雑誌を差し出した。
「はい、これ」
「……なに? 女子向けのファッション誌?」
「騒ぎの元だよ。湊、気になってるかなあと思って」
「ファッション誌が騒ぎの元って……」
わざわざ付箋まで貼ってくれる久御山の優しさとマメさに頭がさがった。
「……これは」
「どう見ても桜庭と」
「……宗さん、何やってんだ」
「単なるスナップ写真ならそこまで大騒ぎにはならないだろうけど」
今月のイチオシ
── 風が冷たいならあたため合えばいいじゃない! 素敵すぎる奇跡のイケメンラヴァーズ
「恋人の好きなところ? うーん、全部かな(笑)」 宗(年齢不詳)
「ファッションに関してはわかりませんが彼は文句なしにカッコイイ(照)」 ハル(17)
「……桜庭さんがこんなこと言ったとは思えないけど……宗さんは言ってそう……」
「まあ、そういうのは編集部の匙加減だけどさ」
「っていうか、宗さんと桜庭さんが付き合ってるなんて初耳……」
「まあ、そこは宗弥さんの匙加減かもな……」
当然学校は桜庭さんの話題で持ち切りだった。あの雑誌、圧倒的一部の地域で今月号の売り上げ伸びただろうな、と思った。
***
ちょうど席を立とうと思っていたところへ、なんだか慌てているような、弾んでいるような様子で藤城が駆け込んで来た。学食にいることがなぜわかったんだろう、と思っていると目の前にファッション誌を差し出された。
「…何? これ」
藤城から手渡された雑誌をパラパラとめくり、ちょうど付箋の貼ってあるページで手が止まった。
「桜庭さんがどこにいるかわかるくらい、学校中が盛り上がってます…」
ああ、それでここがわかったのか……って、もっと先の話かと思っていたら…もう発行されていたのか、これ……写真で見ても格好良過ぎないか、宗さん……奇跡のイケメンラヴァーズねえ…イケメンラヴァーズ……ラヴァーズ!?
「桜庭さんと、隣のひとが……恋人同士だと大騒ぎです」
「あ、いや…恋人同士というわけでは…」
「…隣のひと、格好いいですね…?」
「……以前言ってた…SNSの…」
こっちが引くくらい藤城が驚いた。いくらなんでも、そこまで驚くことか? 確かにあの時は「どこの誰かもお互い知らないし、逢ったりしない」とは言ったけど……それにしても格好いいな宗さん…帰りに本屋に寄って買おう…あ、でも女性向けのファッション誌か……
「桜庭さん…」
「どうした」
「いつの間に逢ってたんですか」
「ついこの前だけど……成り行きで」
「あの……叔父です…」
「何が?」
「樋口 宗弥は……僕の母の…弟…です…」
「……は!?」
えっと、おれ藤城に余計なこと言ったよな? いちいちときめいてしまう、とか一言一句全部が格好いい、とか逢いたくて仕方ない、とか。恋なのかどうかちゃんと考える、とか。
「あー、えー、あのー、藤城?」
「宗さんだったんですね……」
「あ、いや、えっと……」
「桜庭さん、考えました?」
「え、何を?」
「恋でした?」
動揺を抑えようと口にした水を、思い切り噴き出しそうになった。
「…や、あの…」
「恋じゃ……ありませんでした?」
少し寂し気におれを見る藤城を、不思議な気持ちで眺めた。なんでおまえがそんな寂しそうな顔してるんだ?
「いや、まさか藤城の親族だとは夢にも思わなかった…」
「僕も驚いてますけど……それより」
「それより?」
「恋だったのかどうか、のほうが気になります…」
「なんで?」
「なんとなく…桜庭さんを支えて来たものが恋で、しかも宗さんだったら素敵だな、と」
そうは言うけど、自分の親族に恋心を抱かれるとか、どうなんだ!? しかも相手は男性で、恋心を抱いてるのは同じ学校の上級生で、しかも男で…………って…
「……恋、でした」
そう言うと、藤城は大きな瞳に涙を浮かべながら笑った。
── 性別とか属性なんかより、好きになるってことそのものが何より大事なんじゃないか?
うん、ちゃんと、恋でした。
***
もう寝てるかもしれない、と思いながらそっと扉をノックした。
「起きてるよ」
仕事が忙しいらしくまだ住む場所が決まってない宗さんは、客間で仕事の続きをしているようだった。部屋は余ってるんだから、もうここに住んじゃえばいいのに。
「宗さん、これ」
久御山からもらったファッション誌を渡すと、宗さんは不思議そうな顔をして受け取り、付箋の貼ってあるページを見て少しだけ驚いた。
「おお……この前声掛けられたやつだ」
「久御山…の妹さんが買ってる雑誌らしくて」
「へえ、それで俺が写ってるの、賢颯くんにバレたわけか」
「隣のひと……誰?」
「知り合いっていうか、友達っていうか」
「ラヴァーズなの?」
「…冗談のつもりだったんだけど…撮影してるひとたち、盛り上がっちゃって」
「冗談だったんだ」
「つーか、こんなこと言ってねえし」
ぶはっ、と宗さんが笑った。ここまで編集されるもんなのか、と他のページにもパラパラと目を通した。
「宗さん、どうして離婚したの?」
「……んー…祥子がそうしたいって言ったから」
「宗さんは?」
「俺には、何か言う資格も権利もなかったから」
「何があったのか、訊いてもいい?」
「どうしておまえがそんなこと気にするんだ?」
「……恋に終わりがあるなら、どういうものなんだろう、って思って」
「そっか……そうだな…」
宗さんはチラっとスマホを確認すると、それをそのまま伏せて大きな溜息を吐いた。
「俺の悪い癖のせいというか」
「……浮気?」
「まあ…そんなようなもんかな……」
「でも、宗さんの女癖が悪いなんて、わかってたことじゃないの?」
「……それは、まあ…そうなんだけど…」
「祥子さんと付き合ってるときも、何度も浮気バレたんでしょ?」
「……うん、まあ…そうだな…」
「イケメンだからって赦されると思って、繰り返してたよね?」
「……えっと…赦されるとは……思ってないというか…」
「高身長、高学歴、高収入のイケメンだからって余裕かましてたよね?」
「湊……俺のライフはもうゼロだ……」
「本当のこと教えてくれないんだもん」
「嘘は吐いてないよ」
「離婚したくなるような浮気って、なに?」
「……絶対、姉ちゃんに言わないって約束できるか?」
「うん、言わない……っていうか、そんな恐ろしいことなの……?」
「バレたその日が俺の命日になるから」
「……宗さん……何やらかしたの……」
宗さんはもう一度、深くて重い溜息を吐いた。
***
「だから、誤解だって」
「誤解もへったくれもないでしょ、見たんだから」
「祥子が気にしなくちゃいけないことなんて、何もないよ」
「気にするわたしがおかしいって言うの?」
「そんなこと、ひと言も言ってないだろ……」
仕事から帰ると、あからさまに祥子が煮えたぎっていた。朝の機嫌の悪さをまだ引きずっているのか……まったく心当たりのなかった俺は本気で、何が祥子をそこまで沸騰させているのかわからなかった。軽く一時間ほどシカトされた挙句、「はい、恋人」と言ってスマホを投げ付けられた。
「……恋人?」
「昨夜、キスしてたじゃない……その子に」
「…っ!」
正直、しくじった、と思った。まさか見られているとは思っていなかった。それでも弁解の余地は全然あると思っていた。ホテルから出て来たところを押さえられたとか、別の女の部屋から出て来たところを写真に収められたとか、実際に手を出したという証拠が挙がったわけじゃない。
「ねえ、祥子……ご機嫌直して」
「宗はいっつもそうやってごまかそうとする」
「ごまかそうとか思ってないよ」
なんとかなだめすかし、一旦は落ち着いた祥子が家を出て行ったのは、それから五日後だった。
電話にも出ない、メッセンジャーの返信もない。何人か友人に当たってはみたものの、その誰もが口を揃えて知らない、と言う。I’m so screwed. 詰んだ、ってこういうことか。
玄関に腰をおろし、しばらく考えた。住み慣れた場所とはいえここは日本ほど安全じゃない。その時、一台の車がスーッと目の前で停まり、中から祥子が降りて来た。
「……どこで、何してた」
「宗がそれを言うの?」
「…っ…二日間、どこで何してた!? どれだけ心配したと」
「心配? わたしを? それともアンタの性癖に突き刺さってるモノがバレることを?」
「性癖って……何の話だよ…」
「誤解でもなんでもなかったじゃない」
「その話は納得したはずだろ?」
「……他の女と浮気されたほうがマシだった」
「…祥子……?」
「どうでもいいひとならあんな愛おしそうに……画面越しにキスなんかしないでしょ?」
「祥子」
「ねえ、そんなに愛しいの? そんなに大事なの?」
「……」
「SNSのテキストが、あなたに何をしてくれるのよ…何の見返りもない、抱き締めることすらできない相手を……身体を持って行かれるほうがまだマシよ……心の純粋な部分を奪われることに比べれば、他の女と浮気されるほうがよかった…」
「祥子、話を聞いてくれ」
「スマホが相手じゃ勝ち目なんかないじゃない」
「祥子、頼むから話を」
「まさか男だとは……一回り以上年下の男の子だとは思わなかった!」
「祥子!!」
「触らないで!! HALに……スマホに話聞いてもらえば!?」
二日間、祥子は他の男と一緒にいたそうだ。もちろん、俺にそのことを責める権利はなかった。何よりも罪深かったのは……他の男と一緒にいたことに腹を立てるどころか、どこか安心した自分がいたことだった。
SNSで知り合ったのが高校生だということも、男だということもわかっていた。俺のくだらないひとり言や、取るに足らないどうでもいい写真に反応してくれることが嬉しかった。いつでも、どんな時でも真っ直ぐ自分の気持ちを伝えて来るところが気になって、それはそのまま俺の心の支えになって行った。
生身の女なら赦した、と言われた。スマホの中の男に無償の愛を与えていることが赦せないのだ、と。その想いをひっそりと心に秘めようとしたことが赦せないのだ、と。心の中に知らない誰かを住まわせているあなたをもう愛せない、と。
***
「……宗さん…どうして祥子さんは相手が誰だかわかったの?」
「検索されたんだよ」
「どうして名前までわかったの? スマホにキスしてただけなら、そこまでは…」
「……チラっと見えてたみたいで」
「見えてたって、何が?」
「写真。弓の」
「……弓?」
「うん、相手が部活引退したって、それまで使ってた弓の写真載せてたのよ。弓道部でさ」
「ああ……それで検索してフォロワーとか確かめたんだ…」
「そそ、そんな写真載せてるの、ひとりしかいなかったし」
「あの、宗さんて……その…ノンケだったよね?」
「いまもノンケですけど?」
「その男子高校生……好きなんじゃないの?」
「…そう思わないようにしてる」
「どうして?」
「なんか、余計なもん背負わせたくないから」
「なんで好きって気持ちが余計なもんなの!?」
「あのな……三十二のおっさんに好かれてる、なんて知って動揺しないと思うか?」
「それは……その…」
「相手は受験生だし、それに」
「それに?」
「そいつ以外の男には興味ないからさ……なんか重いだろ、そういうの」
「……重い? なんで?」
「俺がゲイなら男が好きでも当たり前だけど、そうじゃないのに好きだっていうのは……特別感が増すっていうか」
「重くても……いいじゃん…」
「だからさ、考えないようにしてる……っつーかマジで姉ちゃんに言うなよ…」
桜庭さんは宗さんのことが好きなのに、と言いたくて仕方なかった。でも、桜庭さんも宗さんも、お互いのことを自分たちのやり方で思いやってるんだ。宗さんを既婚者だと思ってる桜庭さんと、桜庭さんをノンケの男子高校生だと思ってる宗さん。うまく行って欲しいけど、僕が首を突っ込んじゃダメだ。
でも……
僕が久御山を好きだと思うことも、「余計なもん背負わせてる」ってことになるのかな、と寂しくなった。