第八十話 足駄をはいて首ったけ
「……駅まで送るよ」
「すぐそこだから、大丈夫だよ」
いまはわたしより藤城くんのほうが……とにかく早く家に帰って休んで欲しい……「もしも」とか「まさか」なんて事態にはならないだろうけど……藤城くん、繊細っていうか、か弱いっていうか……
「今日、ありがと……藍田がいてくれてよかった」
「いつでも呼んでね」
「ん……気を付けて」
「また明日ね、藤城くん」
背の高い藤城くんが人混みに消えて見えなくなるまで、背中を見送った。大丈夫かな……大丈夫じゃないよね……ずっと大好きな久御山くんに別のひととのこどもがいたなんて、悲しいに決まってるもん……
喧嘩したりすれ違ったり、それでもふたりは羨ましいくらい仲良しで……ここ最近、ぐっと距離が近くなったような気がしてたんだけどなあ……まさか、こんなことになってるなんて……
「ねえねえ、家帰るの? ちょっと遊びに行かない?」
久御山くんが岸川さん、だっけ……そのひとを選んじゃったら、藤城くんどうなっちゃうんだろう……
「ねえってば、聞こえないフリしないでよー」
わたし、藤城くんに何かできることあるかな……話聞くくらいしか…できないかな……
「無視しないでってば!」
ネットカフェから駅へ向かいながら、藤城くんと久御山くんのことしか考えられなくて、わたしは自分の身に何が起こっているのかわからないまま、突然腕を掴まれたその乱暴さに振り返った。
***
「ほ、本当のお父さんが現れた……?」
昼休み、藍田は屋上でしばらく茫然と立ち尽くしたあと、大きな目に涙を浮かべて笑った。賢颯は藍田の背中に手を回し、もう片方の手で頭をなでながら「おまえにも心配掛けたな」と労わるようにつぶやいた。
「おまえ、当たり前のように自然に女子を抱き寄せるね…」
「あ、ついクセで…」
藍田から賢颯を引き剥がし、少し屈んで藍田の顔を覗き込んだ。
「ごめんな、藍田にも迷惑掛けちゃって」
「迷惑なんかじゃないよ! でも、そうなんだ、よかった…」
「ほんと、ありがと」
「ううん、藤城くんとネカフェ行ったおかげで、いいこともあったから」
「いいこと?」
「あ、うん……なんていうか、出逢いっていうか」
僕と賢颯は顔を見合わせ、それから再び藍田の言葉を確かめた。「なんていうか、出逢い」っていうのはアレか、単に誰かと知り合ったとかじゃなく、運命的なヤツとかめぐり逢いってヤツか!? 言い寄る男の願望をことごとく打ち砕き、どれだけ理想が高いんだろうと噂され浮いた話のひとつもなかった藍田に!?
「あー、藍田、アレか、出逢いってのは気になるとか好きとかそっちのほうなのか」
「…う、うん……そう、気になるっていうか…」
「ほ、本当に!? え、どういう成り行きでそうなったの!?」
「え、えっと……ちょっと困ってたところを助けてもらったっていうか…」
「あのあと? 駅に行くまでの間に何かあったの?」
「詳しく! なんなら湊がスタバ奢るから詳しく!!」
「待てよ」
***
── 藍田曰く、ネカフェを出て湊と別れたあと、考え事をしながら駅に向かって歩いていたところ、突然腕を掴まれ、びっくりして振り返ったら見たことのない知らん大学生っぽい男がふたり立っていた。
「あ、あの、すみませ……なんでしょうか」
「だーかーらー、ちょっと遊びに行かない? って」
「あ、行きません」
「ちょ、ちょ、ちょ、見切り速くない!? ね、ちょっとだけでいいからさ」
「あの、わたし急いでるんで……」
斬り捨て御免、と断ったけどまあそれで引き下がるはずもなく、大学生風の男は強引に掴んだ腕を引っ張り藍田の同意を求め続けた。ちなみにこの時、藍田は “遊びに行きたいならふたりで行けばいいのに、わたしを誘ったら奇数になっていろいろ面倒じゃないのかな……分けっことか、三等分より半分このほうが断然簡単だし…” と思っていたそうだ。
「ねえーいいじゃーん、少しだけ! ね? カラオケ行かない?」
「あ、あの……放してください…」
「行くって言ったら放してあげる」
「あの、えっと…行かないです…」
「可愛い顔してんのにノリ悪くない? あ、もしかして警戒してる? 俺たち無害だから」
まあ、無害な男はいきなり腕を掴んだり脅迫まがいなことを言ったりはしないもんだが、警戒してくださいと言わんばかりの振る舞いをしながら無害を主張するくらいには脳味噌沸いてたんだろうな。藍田が “害があるかどうかじゃなくて、帰りたいんだけど……あと、顔とノリは関係ないっていうか……” と思っていると救世主が現れた。
「……悪い、待たせた」
「…っ!?」
その時、男ふたりの背後から別の男が近付いて来て藍田に声を掛けた。大学生風の男はそれでも藍田に食い下がり、後ろから声を掛けて来た男に威勢よく噛み付……こうとした。
「はあ? 男に用はないんですけどー?」
「んだテメェ、正義の味方ぶって割り込んでん…じゃ…」
振り返ったふたりの男は、眼前に立ちはだかる身の丈六尺以上(190cmほど)の大男に顔を引きつらせた。陽に灼けた浅黒い肌にまばらな無精ひげ、眉間にシワを寄せたその姿が藍田には救世主に見えたようだが、オレには破壊神の間違いじゃねえのか、と思えた。
「あー、えーっと……もしかしてカノジョさん、です?」
「……おまえら、いつまでその腕掴んでるつもりだ?」
「えっ、あのっ、すみませんでした!」
大学生風の男ふたりはとてもイイ笑顔でペコペコと頭を下げつつ走り去った。自分たちの力量じゃ敵わないってことが見抜けるくらいの脳味噌は残ってたみたいだ ──
「それで、怪我はねえかって訊かれたから、大丈夫ですって」
藍田はダーク モカ チップ クリーム フラペチーノに挿したストローを、まるで何かの作業のように一所懸命かき混ぜ続けた。斬新な照れ隠しだが、もうその辺で勘弁してやれよ……頼んだものが何だったか想像も付かないほど融合してんじゃねえか……
「……それだけ? ナンパされて困ってるところ助けてもらっただけ?」
「う、うん……でもすごく格好良かったし…」
「デカくてヒゲ生えてて目付き悪い、以外に一般大衆が納得するようなカッコイイとこなかったんかよ」
「ちょ、ちょっと長めの黒髪がところどころはねてて、気取ってない感じが素敵だなあって…」
「完全に無精なだけじゃねえか」
「か……格好良かったんだも……」
「藍田、ほら、名前とか連絡先とか」
「名前訊いたら、名乗るほどの者では…ってかわされちゃって…」
「おまえ、それは出逢いじゃねえ、ただの通りすがりだろ…」
「で、でも! 次に逢う約束はしたもん!」
「どうやって!?」
オレと湊は身を乗り出して藍田に食い付いた。
***
「……はぁっ…」
赤味のある柔らかな照明が落ち着いた雰囲気を醸すカフェで、男は大きく溜息を吐いた。薄暗い店内から見える外の景色は別世界のように光が満ち溢れ、その光を纏って来たのかと錯覚するほど煌めいた女子高生が、これまた輝きを放つような笑みを浮かべ目の前に座っていた。
「あ、あの、来てくださってありがとうございます」
煌めき輝く女子高生は、小さいがしかしはっきりとした声でお礼を言って頭を下げた。
「……まあ、往来であんだけ食い下がられりゃな…」
男は “あの時” のことを思い返し、目を閉じた ──
── ったく、最近の小僧のナンパは品がねえな…
「あ、あの……助かりました…」
「おー……怪我とかしてねえか」
「あ、だ、大丈夫ですっ」
「そりゃよかった、あーゆー強引なのもいるからな、護衛くらい付けとけよ…じゃあな」
「あ、あ、あのっ、ありがとうございました!」
片手をひらひら振りながら去って行く男をしばし呆然と見ていた藍田は、何を思ったか突然走り出しその男の腕を掴んだ。
「……? どうした、逆ナンか?」
「はい! あの、お、お名前を教えていただけませんか!」
「名乗るほどの者では」
「せめて、あの、お礼をさせてください!」
「礼をされる憶えもねえんだが……」
「いえ、あのっ、お礼を! お礼をしないとわたしの気が済まないと言いますかっ、あの」
「だから、なんもしてねえし礼をされる理由がねえ」
「お願いします! 一度だけ! 一度だけでいいのでっ」
制服を着た女子高生が、どう贔屓目に見ても学生には見えない男の腕にしがみ着き「一度だけ!」と必死に縋る姿は、大勢の人間が行き交う池袋において、いかに奇妙に見えたことだろう。
男は困ったように咥えていた火の点いていない煙草を噛み締めた ──
「食い下がった甲斐がありました…あ、わたし依清といいます」
藍田 依清はもう一度頭を下げた。それからテーブルの真ん中に置かれたままになっているメニューを開き、男の前に差し出し「どうぞ」とひと言添えた。
「山田 太郎です」
「わあ、模範解答みたいなお名前ですね」
「偽名だよ疑えよ」
「じゃあ、本当のお名前教えてください」
「あのな……俺はあの時、たまたま通り掛かっただけだっつの……立ち止まってひと言発しただけ。なんもしてねえ」
「経過はともかく、結果としてわたし大変助かりました!」
「おう、だからそれだけでいいんじゃねえの? 礼を言われることすらおこがましいっつか」
「感謝の気持ちって大切じゃないですか」
「だからな? ありがとうってひと言でいいだろ?」
「……あの、ご迷惑でしたか?」
「迷惑っつーか……こっちが申し訳ない気持ちになんだよ、こういうの」
「山田さん」
「偽名だけどな」
「お付き合いしてる方はいらっしゃいますか」
「は?」
「あ、いえ、そういう方がいらっしゃったら、わたしと逢うのは不誠実なのかな、と思ったものですから」
「はあ……まあそういう問題でもねえけどな…」
「じゃあどういう問題なんですか? 山田さん」
「偽名だけどな…」
どっからどう見ても、言い寄って来る男があとを絶たねえだろってレベルの女子高生なんだけどな……なんで俺なんかに…旧家のお嬢さんで怖ろしく時代錯誤な躾をされてる、とかなのか……?
考えれば考えるほど大きく膨らんで行く疑念を抱えたまま、男はメニューの中で一番無難であろうナポリタンとアイスコーヒーを頼み、藍田は季節のフルーツのパンケーキと自家製ハーブティーをオーダーした。
***
「どうだったのよ、捨身のデートは」
大勢の人間が行き交う道の真ん中で、相手の男にしがみ着き取り付けたデートの行く末が気になって仕方なかったオレと湊は、登校して来た藍田を玄関でとっ捕まえてそのまま屋上へと連行した。ぽつぽつとあった人影は予鈴とともに消え、本鈴がなる頃にはオレたち三人だけが残った。
つまりサボリだ。
「ちゃんと来てくれた?」
「うん……来てくれた……素敵だった…」
「何か進展あった? LINE交換したとか」
「した! したよ! でも…用事もないのにLINE送るのも気が引けちゃって…」
「別にいんじゃね? 休みの日にデートしませんか、とか」
捨身デートの余韻で蕩けていた藍田の顔が、瞬く間にしょんぼりと寂しい表情に変わった。
「……相手にしてくれないの」
「何で? 実は妻帯者だった、とか?」
「…っていうか、なんにも教えてくれないし」
「いくつくらいのひとなの?」
「うーん……二十代後半から三十代前半……?」
「倫理観のしっかりしたひとなのかもしれないね」
「ちなみに仕事は? 何してるひと?」
「教えてくれないの…スーツ着て仕事してるイメージはないんだけど…」
「……ほお?」
ということは、宗弥さんや漣さん、桐嶋みたいなタイプではないってことか……ベンチャー系、アーティスト系……まさかのガテン系? 藍田みたいな内気なヤツが? いや、しかし藍田は何考えてるのかわからんところもあるからな……
「藍田、スマホ貸してみ?」
「えっ……な、なんで…何するの…?」
「藍田レベルの女子高生に言い寄られて、気を悪くする男なんざいねえよ。ほら、スマホ貸せって」
「だ、だから、何するの!?」
「一回デートしてるっつー事実があんだろ? 逢ってくれなきゃ訴えるとかなんとか、とにかく引きずり出せばいんだよ」
「ちょ、賢颯……いくらなんでもそれは藍田の印象も悪くなるし」
「……この、一番上のひと」
「藍田!? 渡しちゃって大丈夫なの!?」
顔を赤らめながら、藍田は素直にスマホを差し出した。まあ、相手がゲイかも、っつー可能性は捨て切れないが、一度は懇願されて逢いに来たわけだし、相手もまんざらではないんだろ。未成年に手を出すのがコワイとかヤバイとか、その辺の理由なら押しまくって……一番上の…この “Y.” ってヤツだな…って、あれ…?
「…藍田、ちょっと訊いてもいいか?」
「えっ、うん……LINE、何かおかしい?」
「や、LINEは普通なんだけど……このひと、名前は?」
「山田さん……偽名だけど…」
「偽名……」
偶然、ってことも……いや、ないだろ……LINEの名前をイニシャルにしてるヤツもいないわけじゃないけど……スーツ仕事じゃなくて二十代後半から三十代前半くらいで、身長がデカくて陽に灼けてて、目付きが悪くて長めの黒髪に無精ひげ生えてる “Y.さん” なんて、ここまで偶然が重なるとは考え難い……
「……まあ、急いては事を仕損じる、って言うからな」
不思議そうな顔をする藍田に、オレはそのままスマホを返した。