第八十一話 その男、真壁 倖拓
「うおっ、こんなとこで寝てんじゃねえよ!」
バイト先の事務所でシフトの確認をしたあと、まだ少し時間あるなあ、と床に転がってると、出勤して来た社員の真壁さんに危うく蹴られそうになった。今日も頭に巻いた手拭いが格好いいな……でも、その爪先に鉄板の入ったエンジニアブーツで蹴られたら間違いなく死にます。
「お疲れさまでっす…」
「おまえ、そんな男前なのにいろいろ構わねえヤツだな」
「ちょっと横になりたかったんで」
「イケメンの独り寝は……って、前もこんな会話しなかったか」
「……そういえば真壁さんは? いつもふたりで寝てるんですか?」
「おまえなあ、アラサー男が独りで寝てるとでも思ってんのか? あ?」
「あー……そっか、やっぱいるんだ……彼女…」
「……おまえは? めっちゃ可愛くて色白で頭のイイ相手とちゃんと続いてんの?」
続いてはいるが、めっちゃ可愛くて色白のイケメンに育ってしまいました真壁さん。
「あの時はありがとうございました……で、真壁さん、いまの彼女とはどれくらい続いてるんですか?」
「どれくらい…えーと……一年ちょいくらいじゃね?」
……藍田、残念だが諦めろ……合コンだの飲み会だのの度に一番可愛い子を持ち帰っていた女好きの真壁さんが、最近合コンにも飲み会にも顔を出さないっつー噂を耳にしたことがあったけど……本命ができたからだ、これ…
───
「バイト先の社員のひと!?」
ソファにもたれ掛かり微睡んでいた湊が、驚いたように身を乗り出してオレを見上げた。オレが暗い部屋に帰ることを極端に嫌う湊は、こんな時期にも関わらずオレの部屋で受験勉強をしながらオレの帰りを待っている。
「多分な…見た目の特徴もLINEの名前も同じだし」
「へえ、すごい偶然だな……じゃあ賢颯、何か協力してあげられるんじゃない?」
湊にしては珍しく弾むような声で、藍田の恋の行方を気にしているように言った。
「いや、なんつーか……藍田にはしあわせになって欲しいっつーか」
「僕もそれを望んでるけど……その社員さんと付き合うと不幸になるの…?」
「酒は飲むわ煙草は吸うわ、女好きで二股どころか三股とか四股とか日常茶飯事だって噂もあるわ、若え頃暴走族の総長で他のチームひとりで潰しまくったって武勇伝聞いたことあるわ、刺青入ってるわ曲がったこと嫌いだわ仕事は真面目で金持ちだわ女の子に激甘だわ短気だわ見た目気にしねえわ」
「褒めてんのか貶してんのかわかんないな…」
「とてもじゃないけど藍田の手に負える相手じゃないっつーか」
「……賢颯はその社員さんのこと、好きなの? 嫌いなの?」
「好きだよ? 面倒見いいし仕事もできるし破天荒なとこも面白いし」
「じゃあいいんじゃない? 協力してあげれば?」
事実、真壁さんはイイ男だ。面構えの良さと身の丈190cmという恵まれた容姿、口は悪いがどんなに仕事のできない新人にも根気よく付き合い、決して途中で放り出したり見放したりするようなことはない。口は悪いが。
率先して空気を読むようなところは皆無だが、頼まれれば断らない懐の深さもあるし、気付けば困ってるひとに手を貸す優しさだってある。藍田を助けたって話も、多分「自分の動線の先で何やら女の子が困ってる」って気付いたからだろうけど……
「でもなあ……ひとつ問題があるっつーか」
「煙草は吸わないけど酒は飲むし、超絶イケメンで女好きで二股どころか何股掛けてるのかもわかんないくらい四方八方に手出しててブチ切れたら暴れん坊になる、女の子に激甘の賢颯とさほど変わらないと思うけど」
「……いまは湊一筋だよ?」
いかん、これ以上この話を続けると、思いも寄らぬ方向転換ののち、矛先がオレに向く可能性が高い。
まあ、真壁さんに本命の彼女がいるかどうかはっきり聞いたわけでもないし、もしかしたら適当にあしらわれただけかもしれないし、この辺はちゃんと確かめたほうがいいだろうな。
***
「……もしかして、あの黒い革ジャンの?」
「そうそう、あのデカいひと」
窓際のカウンター席で外を眺めていたら、賢颯が言ったとおりの時間にそのひとは駅から出て来た。特に派手な格好をしているわけでもないのに、やたらと人目を惹く姿にしばらく釘付けになった。
時を同じくして藍田は賢颯に言われたとおり、駅から少し離れた場所で……ナンパされていた。
「彼も目立つけど藍田もすごいな……本当にナンパされてる…」
「そりゃあのレベルの女子高生が、ひとりでブラブラしてりゃあな」
「真壁さん? だっけ……気付けばいいんだけど…」
「そのためにオレらが見張ってたんだよ、ほら行くぞ」
僕の背中をポンっと軽く叩いた賢颯は、トレイを返却口に置いて足早に店の扉に向かい、僕も慌てて同じようにトレイを返し賢颯に続いて店を出た。
駅から出て来てこっちに歩いて来る革ジャンの彼と、賢颯に指定された場所でナンパされてる困り顔の藍田、そしてその藍田に近付く賢颯と僕……一体何が始まろうとしてるんだ。
「もしもーし、お兄さんたち、オレのツレに何かご用?」
満面の笑みを浮かべながら賢颯は、絶賛ナンパ中の三人組の男に後ろから声を掛けた。その賢颯に動線を塞がれ立ち止まることを余儀なくされた革ジャンの彼……真壁さんは、ゆっくりと視線を地面から動かした。
「……久御山? 何やってんだこんなとこで」
「あれ、真壁さん? や、なんかツレが絡まれてるみたいなんで」
真壁さんはチラリと三人組の男に目をやり、心底面倒くさそうな声で「場所、移すか?」と吐き捨てた。いやいや、移動して何しようっていうんだよ! 仲裁するにしても、もっと穏便な方法とかあるだろ!? という僕の心の声に気付くより早く、三人組の男は「道に迷っただけなんで!」「もう大丈夫です!」と、駅に向かって一目散に走って行った。
「……山田さん…?」
小さな声に振り返った真壁さんは、この時やっと藍田の存在に気付き、しばらく硬直したままだった。
───
僕と賢颯は、十五分ほど前に飛び出したはずの店の中で、ソイ ラテとカプチーノの並んだトレイをテーブルの上に置いた。その横にはドリップコーヒーが載っているトレイと、バターキャラメル ミルフィーユ ラテの載ったトレイが、なんだか気まずそうに並んでいた。
何よりも気まずそうなのは、藍田と向かい合わせに座っている真壁さんだった。
「今日早上がりでしたよね、真壁さん」
「……おう」
賢颯の問い掛けに、真壁さんはテーブルから視線を動かすこともなく、ぶっきらぼうに答えた。藍田の隣に座った賢颯は何も知らない風を装い、「同じ学校の藤城と藍田」と、簡単に僕たちを紹介した。その時、初めて真壁さんが少し驚いたように顔を上げた。
「こっちはオレのバイト先の真壁さん」
「あ、はじめまして、藤城です」
「……久御山の言ってた相手って、もしかして」
真壁さんは賢颯と藍田の顔を交互に見ながら、隣に座っている僕に「あ、真壁です」と軽く頭をさげ、それから再び賢颯と藍田を交互に確かめた。
「ああ、オレが言ってた色白の可愛い子ちゃんは、いま真壁さんの隣に座ってるほうです」
「…は?」
「あの時は小さくて細くて華奢だったんですけどねえ」
す、すみません真壁さん……どこからどう見てもデカいだけの男に育ってしまいまして……って、僕が謝る必要はないけど、真壁さんは僕の顔をしばらく凝視して、それから少しだけ口の端を上げた。
「確かにきれいなツラしてんなあ」
あれ…なんだか思ってたよりフラットなひとなのかな……男かよ! とかホモかよ! とか、そういうツッコミのひとつやふたつ覚悟してたけど……
「こっちの色白の可愛い子ちゃんは、絶賛片想い中なんで」
賢颯は隣に座っている藍田を手のひらで指しながら、チラッと真壁さんの表情を確かめた。藍田はというと、恥ずかしがって俯いているかと思いきや、正面に座る真壁さんをガン見していた。大きな瞳をキラキラと輝かせながら。
「相手の名前も知らないらしいんですけど、ベタ惚れで」
「……へえ」
「コイツ、学校一モテるくせに、いままで誰とも付き合ったことがなくて」
「……はあ」
「だから、応援してるんですよ、オレたち」
「…おう、がんばれ……悪い、そろそろ行くわ」
カップに残っていたコーヒーを飲み干し、トレイを戻して店から出て行く真壁さんは少し慌てているようにも見えた。
「……ビンゴ?」
賢颯が藍田に訊くと、藍田は首を激しく縦に動かしながら息を弾ませた。
「真壁さん、っていうんだあ……」
「真壁 倖拓さん、バイト先の社員さんでいろいろ世話んなってる」
「でも賢颯、この茶番ってなんのためだったの?」
「ひとつは確証を得たかったからだけど、もうひとつは藍田が頭のおかしなヤツじゃないっていう証明のため、かな」
「……ああ、賢颯の同級生で仲がいいなら、少しは警戒心が薄れるかもね」
「わたし、警戒されてたの!?」
「そりゃそうだろ……」
困っている女子高生を助けてみたら、ナンパどころかタレント事務所から数多のスカウトを受けるレベルの可愛さなのに、それが往来で腕にしがみ着いた挙句、半ば脅迫するように「一度だけ!」と逢う約束を取り付ける……どう考えても警戒されるよ、藍田…
「これで連絡取りやすくなったんじゃね?」
「あ、そうだね……LINE送ってみればいいんじゃないかな」
「な、なんて送ればいいの……?」
「なんでもいいよ、今日はありがとうでもなんでも」
うん、がんばる! と藍田は気合いの入った声で頷いた。
***
「賢颯、電話鳴ってる」
テーブルを過去問題集と参考書で埋め尽くしながら、湊はソファに転がっているオレを振り返った。床に伏せてあったスマホを拾い上げ、発信者を確かめる。
「おう、どうした」
通話ボタンを押してひと言発すると、電話の相手は泣いているようで何を言っているのかまったく聴き取れない。電話では埒が明かないので、とりあえず家に来るよう促した。
「……もしかして藍田?」
「うん、なんか泣きじゃくってて何言ってんのかさっぱりわからん」
「真壁さんとのことなのかな…」
「その可能性しかないわな」
しばらくするとインターホンが鳴り、入口のオートロックを解錠するとそれから間もなく今度は部屋のインターホンが鳴った。玄関のドアを開けると、マフラーで顔をぐるぐる巻きにした藍田が、鼻をすすり上げた。
ソファに腰をおろし俯いて肩を震わせている藍田に、ココアの入ったマグカップを渡すと、両手でマグカップを覆った藍田の泣き声はより一層激しくなった。
どれくらいそうしていたのか、心配した湊も受験勉強の手を止め、藍田の言葉を待っていた。
あの安っぽい茶番をきっかけに、真壁さんとの距離が少しだけ縮まり、LINEでのやり取り(とはいっても真壁さんからの返事はほぼスタンプひとつ)から、LINE通話にまで漕ぎ着けた、とこぼれるような笑顔を見せていたのはつい二、三日前だったはずだが……やっぱり本命の彼女がいた、ってことだったんだろうか。
「……あ゛ぞぶだ…だげな゛ら゛…ぞれ゛で…でも゛、も゛い゛……で」
のどを詰まらせながら、絞り出すようにやっと藍田は口を開いた。
「……えーと、遊びでならいいよ、って真壁さんが言ってんの?」
「…う゛ん゛……ぢが…ぢがわ゛な゛……でも゛ぢがっでで」
「ん? 違うの? 違わないの?」
「ぢがわ゛な゛ぐで」
「よし藍田、もう少し落ち着いてから話そうか」
しゃくり上げながら鼻をすすり、最早何語を話しているのかわからない藍田の言葉を、脳内で補完しながら会話ができるほどオレも湊も語学を極めてはいなかった。それこそLINEで文字情報を送ってくれれば早いんだが、こういった話を文字に置き換えてしまうと、一番伝えたい感情の部分が伝わらない気がして、オレたちは待つことを選んだ。
「あの、あのね…」
弱々しい声ではあるものの、さっきよりは格段に言葉として認識できるレベルで、藍田は話を切り出した。
「あの……久御山くんも…」
「オレ?」
「久御山くんも…えっと…あの、しょ……処女は、イヤだった…?」
「……はい?」
「ふ、藤城くんの前で、こういうこと、訊くのも…申し訳ないんだけど…」
「僕はいいけど……質問内容に若干違和感があるというか…」
「う、うん…だよね…ごめん…」
僕はいいけど、の真意は計れなかったが、それよりいまは藍田のことが気になって仕方ないんだろう、ということはわかった。
「んー、イヤだって思ったことはないけど、なんか悪いなあ、とは思ったかな」
「……どうして?」
「やっぱ女の子のハジメテって特別なもんじゃない? その相手がオレって、可哀相じゃん」
「え、ごめん、わかんない……どうして久御山くんが相手だと可哀相なの?」
「付き合う気もないのに、セックスだけしちゃってあとは知らん顔、って酷くね?」
「……酷い…のかな…」
「やっぱ順番としてはさ、好きになって告って付き合い始めてからベッドイン、じゃね?」
「あ、相手が好きなひとなら……付き合ってるかどうかは…別の話っていうか…」
確かに、カラダが先で心があとから着いて来るってパターンもあるだろうから、すべての人間に当てはまる正解ってのはないだろう。オレと湊だって、自分の気持ちを持て余して幾度となく衝突はあったし、恋なのか欲なのか、はっきりさせることをお互い避けてるようなところもあったし。
「……要するに、処女はイヤだって真壁さんに言われたわけだ」
「…高校生と付き合う気はないし、割り切った関係ならいいけど処女はお断り、って…」
「まあ、真壁さんならフツーに言いそうだわ…」
「十八歳で成人とはいえ、都の条例なんかもあるから……倫理観のしっかりしたひとなのかもよ?」
「だったら、付き合ってても手出さなきゃいいだけじゃねえか」
「そうか…割り切った関係なら高校生でもいいって話だもんね、これ…」
「……わたしが大学生になっても、社会人になっても、ダメってこと……だよね…」
「あ、なるほど……」
真壁さんもえらい厳重なバリケード張って来たもんだな……藍田が生娘である限り、絶対に藍田とはそういう関係にならないって話なわけで……まあ、藍田が自分の好みじゃないから、きっぱり断ったと取れなくもないし、これは藍田がフラれたって話で終了ってことなんじゃね? 本命説だって消えたわけじゃないし。
「藍田さ、とりあえずいまは受験に専念し」
「紹介して欲しいの…」
「え…ああ……誰か別の男を?」
「……処女でもいいってひと……一回だけ…」
…………!?
「藍田!?」「待て、藍田!!」
「だって! 処女はイヤだって言うんだもん!」
「とりあえず落ち着け藍田!」
「落ち着いてるもん!」
「どう考えてもご乱心だろうよ!」
内気でおとなしく、控えめで慎ましい藍田のどこに、そこまで言わせるほどの情熱と執念が眠っていたのか ── なんて可愛いもんじゃねえ、放っといたら誰と何しでかすかわかんねえじゃねえか!! どうすりゃいんだよ!!