第七十九話 汝の敵を愛せよ 其の肆
本当は撮影に着いて行こうと思ってた。あの、いつも飄々とお気楽な賢颯でも、プロが絡む本格的な撮影は初めてだろうし、何より……見た目を重視されることがストレスになったりしないか、少し不安もあった。きっとそばにいて欲しいと賢颯も思ってたはずだ。
でも撮影日の朝、突然宗さんから連絡が来た。「話したいことがある」なんて言われたら、断ろうにも断れない。宗さんからそんな風に誘われることは稀だし、せっかくの休日に僕なんかを呼ぶんだから、それなりの内容なんだろう。
……賢颯から宗さんへのお礼の内容がな!
着いて来るなとは言いづらい、かといって僕を岸川さんのいる現場に連れて行くのは心苦しい。何か僕に用事ができて「一緒に行けない状況」を作れば、僕に気を遣ってることを伏せて別行動が取れる。はあ、賢颯の考えそうなことだ。「嫌なら来なくていい」って言えば、僕が「大丈夫だよ」って言うのを見越して、宗さんとの談合を思い付いたんだろう。
駅から歩いて五分くらいの好立地にある宗さんのマンションの前で、僕はひとつ溜息を吐いた。どれだけ身長が伸びようと、声が低くなろうと、僕はこんなに周りから心配される、甲斐性のない男なんだなあ……なんとなく重い気持ちでオートロックのボタンを押し、エントランスホールへの鍵を開けてもらって、さらにコンシェルジュにエレベーターの鍵を開けてもらう。
目的の階でしか止まらないエレベーターの中で、こんなすごいセキュリティの付いてるマンションって家賃おいくら万円なんだろう、とゲスいことを考えた。宗さんの年収を考えれば……はあ、宗さんはなんて甲斐性のある男なんだろう。
「……あれ、桜庭さんは?」
「法事があるとかで、出掛けてる」
何度か来たことのある宗さんの部屋はいつもきれいに片付いてて、およそ大雑把で面倒くさがりな宗さんの部屋だとは思えなかった。桜庭さん、苦労してるんだろうな……
「……で? 話って何?」
黒い革張りのソファに腰掛けながら、宗さんが差し出したペットボトルの緑茶を受け取った。まあ、宗さんがコーヒーだの紅茶だのを淹れてくれるとは思ってなかったから、曲がりなりにも客人である僕に出されたものがペットボトルでも驚きはしない。
「ああ、賢颯くんのことなんだけど」
……もしかして、朝陽くんの話を知ってるんだろうか。
「賢颯の話って……何かやらかした?」
「いや、以前賢颯くんに相談されたことがあってさ」
「賢颯が? 宗さんに? 何を?」
「……湊、ちゃんと賢颯くんのこと可愛がってる?」
「は?」
普段のスーツ姿からは想像もできないような、カットソーにサルエルのジャージで緩み切った宗さんは、缶ビール片手に渋い顔で僕の反応を窺った。
「か、可愛がるってどういう意味!?」
はあっ、と深い溜息を吐いた宗さんは、「まだまだこどもなのかねえ」と僕の顔を繁々と眺めた。そりゃ百戦錬磨の宗さんから見れば僕なんて全然こどもなんだろうけど。
「相手はおまえに嫌われたくない、って悩んでるっていうのに」
「え、ちょ……一体なんの話!? なんで僕が賢颯を嫌いになるかもって話になってんの!?」
「それはおまえが自分で気付かなきゃ意味がないんじゃないか?」
「そんなこと言われても、まったくちっともさっぱり心当たりがない」
「……同情するよ、賢颯くんに」
「なんで!?」
「湊は賢颯くんに嫌われたくなくて、努力してることってない?」
「それは……あるけど…」
「自分さえ努力してれば大丈夫、って思ってないか?」
「……っ」
更に深い溜息を吐いた宗さんに、僕はこのあと信じられない話を聴かされることになった。
***
あの時 ── 朝陽は間違いなく何かに向かって走り出した。
通りの向こうしか見えてなかった朝陽の小さな身体を引っさらい、宙に浮いたオレは地面に叩き付けられ肘と腰に打撲と擦り傷を負い、アスファルトに肩甲骨を擦りおろされた。腕に抱きかかえた朝陽には外傷こそなかったが、想定外に意識もなかったので救急車でオレ諸とも病院に搬送された。
朝陽は脳震盪を起こしていたらしく、医師の話ではすぐに意識は戻るだろう、とのことだったが、こういうことは初めてだという凪穂は、驚くほど冷静さを失い取り乱している最中だ。検査のあとに移された病室で肩を落とし、床に座り込んだままベッドの上の朝陽の名前を呼び続けている。
「どこも怪我してないし、異常もないって言ってただろ……いい加減泣き止めよ……」
「…っそんなこと言われたって……朝陽、目覚まさないし…」
「だーいじょうぶだって……ほら、もう泣くな」
凪穂の横に腰をおろし雑に頭をなでると、嗚咽がさらに激しくなった。
「むしろケガしたオレの心配しろっつの」
泣きじゃくる凪穂の声にかき消されそうなほど弱々しく扉が鳴り、対応不可能な凪穂の代わりにそっと扉を開けると、柔らかそうな淡いブロンドに陶磁のような肌、青い瞳をぐるりと囲む豊かなまつげをしばたかせ、髪と同じ色の眉を不安そうにしかめた男が扉の前で立っていた。
「… Excuse me, Can I enter the room?」
部屋に入ってもいいか、ってそれをオレに訊かれても困るんだが。
「…… Are you friends with Naho?」
「She’s more of a ……」
友達というより……? 何か理由でもあるのだろうか、そのイケメン外国人は申し訳なさそうにオレの顔と部屋の中を交互に見ながら動こうとはしなかった。
「……? 凪穂ーっ、知り合い? 来てるけど」
振り返ると、泣いていた凪穂が顔を上げ入口を見ながら硬直している。
「……? 知り合いじゃないの?」
「……ルーク?」
「アサヒ、どうなの!?」
イケメン、日本語喋れんのかよ!
信じられないモノでも見るかのような顔付きと足取りで入口まで来た凪穂は、今日イチ素っ頓狂な声をあげた。
「ルーク……あなた、ここで何やってんの!?」
「なにって、アサヒしんぱいで きたんでショー!?」
「イギリスってそんなに近かった!?」
「No! コンビニでおかいものしてたら、ひとがあつまってたデス!」
いまひとつ話が噛み合ってない気がするんだが……とにかく、このイケメン外国人は凪穂の知り合い、というには親密な雰囲気を醸しているので関係者には間違いない。
「あー、えーと、ルーク…だっけ、あなたはどうしてここに来たの?」
「ワタシ、Airport からかえるとちゅう、コンビニよりました」
── おかいものして、そとにでたら……ひと いっぱいで、Ambulance みえたデス。びっくりでして、みてたらナホがAmbulance のったダワ。ナホのOffice のそばだったダカラ、タクシーでAmbulance おいかけた。しんぱいしたダカラ。
Hospital reception きいたら、おしえてくれたデス。I was stuck in traffic ……ワタシ、おそい。ダカラしんぱいした。
「なるほど、通りの向こう側にいたわけだ」
「そう、Lawson のところ」
「それで救急車を追ったけど、渋滞に巻き込まれ遅くなった、と」
病室の入口で話してると、微かに布の擦れる音が聞こえた。
「……ルーク?」
目を覚ました朝陽の声に、凪穂とイケメン外国人は弾けるようにベッドへ駆け寄る。
「アサヒ……だいじょうぶ? いたい ない?」
「うん……ルーク、かえってきたの?」
「かえってきたの……アサヒ、あいたいダカラ」
ルークはまるで壊れそうな宝物にでも触れるように、朝陽の頬をそっと両手で包み、それから鳥が翼で覆うように柔らかく朝陽を抱き締めた。
「……説明しろよ」
「な……何を?」
「決まってんだろ、この状況をだよ!」
今度は安心で涙の止まらない凪穂は、オレの問いに泣きながら噴き出した。
───
「おかえり、撮影どうだっ……」
帰って来た賢颯を見上げた僕は、さっきまで考えていたことをすっかり忘れてしまうくらい驚いた。
「あ、来てたんだ」
「ちょっ、どうしたんだよ、その腕!」
「転んだっていうか、転がったっていうか…」
「その理由を訊いてんだろ!」
「それより聴いて欲しい話があるんだけど」
包帯が痛々しい腕を気にすることもなく、賢颯はいつもどおり僕をソファへと押し倒した。いやいや、さすがに怪我してるのを目の当たりにしてるってのに、気にせずにいられるわけがない。すると賢颯は、僕の耳元で囁くように話し始めた。
「……は? 自分の子じゃなかった?」
「おう……イケメン英国紳士が現れてだな…」
「英国紳士って……え、それどういう……」
「だから、朝陽の本物のとーちゃんだろ」
「ええっ!? 朝陽くんて、本物のハーフだったの!?」
「そら色素薄くて碧眼でも普通だろうよ……」
「だから賢颯に似てたのか……え、でも、じゃあなんでおまえをパパなんて」
「ちょい長めの金髪で碧眼の男を、なぜか “パパ” って名前だと思ってたみたいでな……」
「……なるほど、そこは盲点だったな」
── 曰く、岸川さんは京都にいた大学時代に、先輩だった英国人のルーク・スチュアートさんと恋に落ち、ルークさんの就職先である東京に拠点を移したそうだ。当然、朝陽くんがお腹にいることはルークさんも承知していたし、結婚もするつもりだったとか。
しかし、英国に住むルークさんのご両親が “外国人と結婚して外国で暮らすこと” に難色を示し続け、いつまで経ってもルークさんと岸川さんの結婚を認めようとしなかった。朝陽くんのこともあるから、と強行突破を提案したルークさんを止めたのは岸川さんで、ご両親が納得してくれるまでは結婚を保留にしようと岸川さんはルークさんを諭した。
電話やメールでの遣り取りを根気よく続けたルークさんだったけど、とにかく直接話をしないことには埒が明かない、とご両親はルークさんを実家に呼び付け、岸川さんと朝陽くんを日本に残しルークさんは一度英国に戻ったらしい。
ご両親を説得するまで日本に戻れないルークさんは、一週間、二週間、一か月、三か月……と、毎日必死で対話を試みた。ご両親はルークさんのその様子も気に入らなかったらしく、そのうち口を開こうとした途端に「忙しいから」「また夜にでも」とルークさんを避けるようになったそうだ。
「え、それでルークさんって日本に帰って来たの?」
「ああ、一旦休戦でもしないと自分のメンタルが持たないって思ったみたい」
「なるほど、岸川さんと朝陽くんに逢いたかったんだね……じゃあ、また英国に戻るの?」
「わからんけど、いままでの努力を凪穂がどう査定するか、なんじゃね?」
「まあ、ご両親に認めてもらいたいって気持ちはあるだろうけど」
「親と結婚するわけじゃないし、このままでもいんじゃね? とは思うけどね」
そっか……なんか……気が抜けたな……覚悟してた自分が馬鹿みたいっていうか、情けないっていうか。正直、安堵してる自分を嫌悪してるみたいな部分もあるし、素直に喜べない。
「……心配だった?」
「何が」
「責任取って凪穂と結婚するんじゃないかなーって」
「心配っていうか……そうするべきだろうな、とは思ってたけど」
「やっぱり別れるつもりだった?」
「……そうなるんだろうな、とは思ってたかな」
「はあっ……まだまだ全然足りないんだな…」
「足りないって……何が?」
「オレへの愛」
「それとこれとは話が別だろ」
「……オレ、朝陽が自分の子じゃないってことはわかってたんだよね」
「……は?」
「避妊には目一杯気を遣ってたし」
気を遣う部分が違うんじゃないのか。
「当時あれだけ遊んでて、凪穂だけ妊娠するなんてありえないし」
「じゃあなんで岸川さんは賢颯との子だなんて」
「オレもそこが謎だったから、なんか悩みとかあんのかなーって思ってたんだけど」
「わかってたなら教えてくれればよかったのに……」
「ま、凪穂のほうは暇潰しにオレを困らせてみたかっただけ、ってのが真相らしいけど」
「本人より周りのほうが困った状況になったけどね!?」
「オレはね、おまえがどうするか見てみたいってのもあってさ」
「……試すにしても、もう少しやり方があるだろ…」
「有無を言わさず別れる! って言い出さなかっただけでも及第点なのかも」
「どうすることが満点だったわけ?」
「そりゃ “どんなことがあっても別れない!” って男気をだな」
「そもそも他人を妊娠させるなよ」
「させてねえ……っていうか、他人じゃなければいいの?」
「他人じゃないならいいんじゃないの?」
「ふうん……じゃあ生で中出しOKってことなんだな?」
「一体おまえはなんの確認を取ってるんだ?」
……ここに来て、賢颯が帰って来るまで考えていたことを思い出した。
「あー……賢颯、あのさ」
「何よ、他人じゃないならいいんだろ? さっさと尻出せこのヤロウ」
「僕は自分が頑張ったり、我慢したりすることを努力だと思ってたけど」
「……? うん、どうしたいきなり」
「おまえが頑張ったり、我慢したりするのを受け入れることも努力なんだなって」
「うん、それはそうだな」
「だから……ってわけじゃないんだけど…」
「うん?」
「まあ、うん、頑張れ」
「何を!?」
「手加減、されたくないんだろ?」
「!!!!!」
賢颯の心底怯えた顔を、僕は笑えばいいのか悲しめばいいのか、判断し難かった。
───
ルークさんは、岸川さんと朝陽くんを英国の実家に連れて行くことにしたらしい。可愛いお嫁さんと孫の顔を見れば、ご両親の頑なな気持ちも変わるだろう、との目論見だそうだ。上手く絆されてくれればいいな、と空港で朝陽くんに手を振りながら願った。
一週間後、朝陽くんが笑顔で帰って来ますように。