第二十二話 堰かれて募る恋の情
「……まったく…知らなかったわけでは…ないんですけど」
華さんが久御山の主治医から聞いたという話は、僕のお気楽な思考を叩きのめすに充分だった。以前、鼻歌まじりに「オレだけこんななの」と言った久御山の心中はどれほどのものだったんだろう。何も言えず黙ってしまった僕に、華さんは慎重に付け足した。
「わたしも見たわけやないので」
三歳の時、「お兄ちゃんよ」と紹介されたきれいな男の子は、いつだって笑顔で優しかった、と華さんは寂しそうに言った。親族が集まると必ず話題にのぼる「一族の汚点」に疑問を持って、久御山のことを調べたのは九歳の時だったらしい。
「でもわたしは……この話を聞いても、そこまで賢颯に悲壮感を抱きませんでした」
「……なぜですか?」
「ああ…割と好き勝手してたもんね、ケンソー」
「そやねん…離れに女の子住まわせてたこともあるし」
……下のまぶたが痙攣する。あいつ、何やってんだよ……
「もちろん、祖母や親族をまともやとも思いませんが…」
「ケンソーの下半身もまともじゃないもんね」
「そやねん……東屋で使用済みコンドーム見つけた時はどうしようかと…」
わあああああ!! 妹さんに下半身事情知られてるって、ほんとにどうなってるんだよ!!
「あ、あのっ…でもいま久御山が戻ってないのは事実なので…」
「確かにそこは心配よね……いまは何があっても東京に戻りたいだろうし」
「そうなん? あ、東京で彼女できたとか?」
「そんな感じ! すっごい可愛い子なの!」
「えー、薫ちゃん知ってる子なん? わたしも見たーい」
都築さん……お願いだから、いま、余計なことを言わないでくれないか。僕は久御山が失踪したことで、ライフがもうゼロなんだ……火曜日からまともに眠れてないし、木曜日からごはんも食べられなくて、このまま久御山が戻って来なかったら僕が死ぬ。
それにしても、都築さんも華さんも久御山が心配じゃないんだろうか……僕のSOSを聞いて機敏に動いてくれた都築さんも、その都築さんからの連絡を受けた華さんも、久御山が心配だからこの場を設けてくれたんだとばかり思ってたけど…もしかしたらこのふたりは慣れてるとか…
「華ちゃん、さっき言ってた叔母さんの話だけど」
「あ、うん…」
「ヤバいって、どれくらいヤバいの?」
「あー、あのね」
客間の障子が音も立てずに開いたことに、流れ込む冷たい空気のせいで気付いた。
「…賢颯!?」
華さんの声が部屋に響いたと同時に、目の前で久御山が倒れた。
──
痩せた。
一週間見なかっただけで、久御山は驚くほど痩せていた。一体何をどうすればこんな風になるんだ。
普通ならこういう場合、病院に運び込まれるものだと思ったけど、お金持ちだからなのかそれとも別の理由からか、久御山の家に病院側がやって来た。診察をした医師は、軽い脱水症状が見られるけど大きな問題はない、と言った。
小さくても問題は問題だろ。
点滴の管がつながる久御山の手首を見ながら、僕は一週間前のことを後悔した。実家に帰ることを躊躇っていた久御山を見送るべきじゃなかった。約束を違えるようなことを久御山がしたとは思えないけど、せめて久御山の「帰りたくない」という気持ちには寄り添うべきだった。
── 四つか五つまでなんつーの、座敷牢っつの? なんか監禁生活送ってたみたいでさ。隠して育てられたっつか。だから言葉を知らなかったんだよね。教えてくれるひともいなかったし、喋れなくってさ。
あの時、久御山の話を聞いて僕が思ったことの薄っぺらさに涙が込み上げた。踏み込んだって変わらないよ、久御山は久御山じゃん……確かに踏み込んだって変わらなかった。僕の、久御山に対する印象も、久御山を取り巻く環境も。
どうして東京の学校を選んだんだろう。どうしてわざわざひとり暮らしを選んだんだろう。ずっと不思議に思ってはいたけど、深く掘り下げたことはなかった。実家に居場所がない、と言ったその言葉を額面通りに受け取って、どこかに問題や落とし穴があるなんて思いもしなかった。
何より僕は久御山の話を、その軽快な口調からあまり深刻には捉えていなかった。決して疑っていたわけじゃないけど、出て来る単語は何かの揶揄かとさえ思ったくらい現実からは程遠く、僕の貧弱な想像力ではその景色が描けなかったからだ。
帰りたいなんて思えるわけないじゃないか。自分の存在を認めてくれなかった場所なんかに。ひとりぼっちで放置された場所なんかに。何より世間体が大切なひとたちの輪の中に。帰りたいなんて思えない。
大体、久御山もどうしてそんな大事なことを言わないんだよ。踏み込んで欲しくない領域があるのはもちろんわかるけど、帰りたくない理由くらい言ってくれれば、僕だってもっといろいろ考えたよ。「オレは心の中なんて読めないからな」って言うくせに自分は何も言わないのか。言う必要がないとでも思ってるのか。
「……みな…と?」
目を覚ました久御山は僕がここにいることに驚き、そしていつものように笑った。その瞬間、戻って来て欲しいという希望に現実が追い付いた気がして、胸の中に安心感が広がったと同時に怒りが込み上げた。何笑ってんだよ。どれだけ心配したと思ってるんだよ。
「…おまえ、連絡ひとつ寄越さないで何やってんだよ」
「ごめん、ちょっと立て込んでてさ…」
「……ちょっと? ちょっとってなんだよ」
「え……湊、もしかしてすげえ怒ってない?」
「よかった、ちゃんと伝わってるみたいで安心したよ」
「いやオレまったく安心できない状況になってんだけど?」
「いままで、どこで何してたんだよ」
「えー…と…」
「事件ですか? 事故ですか?」
「いまこの状況が大事件です」
「そっか……じゃあ、いままで、どこで、何してた?」
「えー…と…」
久御山はチラッと華さんの顔を見て、それから僕に視線を戻した。妹さんの前では言いづらい話なのか、と思ったとき呆れたように溜息を吐きながら華さんが言った。
「伽耶叔母さんとこ、いてたんやろ」
「うん、まあ……」
「一週間ずっと」
「うん…」
「ヤりっぱなし?」
「…っ華!!」
ヤり……その時、都築さんの言った「ケンソーのお家ね、ちょっと複雑っていうか、おかしいの」という言葉が頭の中で輪唱を奏でた。
ザックリと聞いたところによると、その伽耶さんという叔母さんは久御山にご執心で、お祖母ちゃんが亡くなった時に座敷牢から久御山を助け出すことを一番熱心に推したひとらしかった。だからこそ、二言目には「誰のおかげで外に出られたと思っているのか」と言われ、久御山はずっと肩身が狭かった、と。
「ヤバいて、いったとおりやろ?」
「一週間ヤりっぱなしは…ヤバいね」
「そこまで性欲旺盛じゃないし、どっちかって言うとオレ被害者だし!」
いや、性欲は旺盛だろ……
「何かに付け、賢颯にやらしーことしよるから、要注意な叔母さんやねん」
「あ、うん…そうなんだ…」
「でもケンソーだって何かに付けやらしーことするんだから、同罪じゃない? ね、湊くん?」
「えっ…えっと、あの、僕には…ちょっと…」
「そういえば賢颯、彼女できたんやって? いつ紹介してくれるん?」
「……いま? しようか?」
「あ、写真あるとか? 見せて見せて」
睡眠不足と食欲不振になるほど悩んだ僕は繊細過ぎたんだろうか。久御山も都築さんも華さんも、何事もなかったように平常運転なのはどうしてだろう。やっぱり「ちょっと複雑っていうかおかしい」ひとたちなんだろうか。
──
帰り際、駅まで見送ってくれた都築さんが「そういえば」と目を輝かせた。
「湊くん、ケンソー奪還し終わったよ?」
「え、うん…そう…だけど…」
「…なによ薫、何企んでんの」
「企んでないもん。正当な取引きだもん」
「や、あの、えっと…」
「何の取引き? 何しようとしてんの?」
「失踪してたケンソーは何か言える立場じゃないでしょ」
「それはそれ、これはこれ、だろ」
「薫、湊くんに協力したの。そのご褒美もらう約束してるの」
「ほー、ちなみにどんなご褒美なんだ?」
「お触り♥」
「困りますお客さま」
「約束したもん」
約束…は、してない…けど…困ったな、ほんとに……僕を見る都築さんの目の輝きと、久御山の目の鋭さに背筋が寒くなる。でも、都築さんが助けてくれたのは事実だしな…奪還はしてないけど…
「久御山、ちょっとあっち向いてて」
「あ? 何しようっての?」
「おまえ、一週間何してたんだよ」
「……だから、オレは被害者だというのに」
はいはい、と久御山は溜息を吐きながら背中を向けた。僕は都築さんを抱き締めて……頬にキスをした。
「…っ湊くん…!」
「ほんとにありがと……都築さんがいてくれてよかった」
「ケンソーいなくなったらまた連絡して!」
いなくなるのはもう勘弁して欲しいけど、都築さんという心強い味方がいる限り大丈夫かな、と思えた。
「心配掛けてごめん」
「うん、久御山が無事だったからそれでいい」
「湊はさ……気にならないの?」
「何が?」
「その…一週間、具体的に何してたのか、とか」
「……気にならないわけじゃないよ」
「ですよねー…」
「でも、おまえに非がないことはわかってるから…何か事情があったんだろうな、って」
「……湊…」
「帰って来なくて……連絡も付かなくて、生きた心地しなかった」
「うん……ごめん」
「でもいまここにいるから、もういいんだ」
「……いますぐ抱き潰したい」
「やめろ、新幹線の中だろ…」
半日点滴をしただけで帰ると言って聞かなかった久御山は、東京に戻ると痩せた腕で僕をベッドへと運んだ。気力も体力も残ってないだろうに、僕のために頑張ろうとしてるのかな、と少し申し訳ない気持ちになった。
***
七日間、長かった……
手枷で拘束されたときはさすがに詰んだかと思ったけど、叔母は早々にオレを解放した。理由は簡単だった。オレの手が塞がっていると自分が楽しめないからだ。
あの時ほど叔母の強かな好色っぷりに感謝したことはなかった。
まあ、スマホも財布も身分証も全部握ってたわけだから、オレが逃げないことは織り込み済みだったんだろうけど。それにしても七日間は長かった。中学の時にも「あんたに襲われたって華に言う」って脅されて引き留められたことがあったけど、あの時は三日間だったからな…
……おい、華が知ってたのはなんでだ。
オレがいなくて湊はどれだけ心配で不安だっただろう。人付き合いの苦手な湊が、薫に連絡をしてわざわざ実家に来るくらいだから相当思い詰めていたことはわかる。
「湊……」
「うん」
「寂しかった?」
「…っていうより怖かった、かな……久御山が戻って来なかったらどうしよう、って」
「ほんとにごめん…」
「……叔母さんて、久御山のことが好きなの?」
「まさか……ワケありの甥で、ストレス発散したいだけじゃね?」
「ふうん……」
「一応、本家の跡取りだからね……いじめたいんじゃない? 目の上のタンコブっていうか」
「……跡、継ぐの?」
「継がねえ継がねえ……法律上、親子の縁って切れないから肩書きが残ってるだけ」
「ねえ、どうして継がないって話になったの?」
「そりゃ、狐憑きに家督乗っ取られたくないからだろ? 物の怪に支配されたら困るじゃん」
「……僕は…その物の怪に支配されたい」
「……え?」
「身体全部乗っ取られて支配されたい。そうすれば離れなくて済むから」
「湊……」
「僕はそのきれいな物の怪が何より大事だから」
「…うん」
「ストレス発散なんかに……利用されたくないよ…」
腕の中の湊を抱き締めると、首筋の甘い匂いにみぞおちがぎゅっと音を立てる。湊にとってオレは、「可哀想な久御山くん」になることはないんだ……初めて覚えた安堵感に、身体の中が空っぽになった気がした。
「……挿れたい」
「えっ…」
「湊でカラダん中、満たしたい」
「…それを言うなら、僕が挿れる側じゃないの?」
「えっ…と?」
「僕はいいけど……久御山、平気?」
「平気かどうかは…いや、そもそもそういう話では…」
「いきなりは入らないだろうけど」
「いや、その凶悪なモノ、初心者にはハードル高過ぎるっていうか」
「……初心者じゃなくなる日、来るの?」
「そ、そういう意味ではなくてだな…」
「誰で経験者になるつもりだよ」
「だから、そういう意味では」
「後ろ向けよ、いますぐそのカラダ塞いでやるから」
「困りますお客さま!!」
泣いていた湊が、笑いながらオレに覆いかぶさって脇腹をくすぐった。こんなことが嬉しくて、オレも笑ってしまった。