第七十三話 寝耳に洪水
夏休みも残り三日、久御山に「思い出作りに行こう」と言われ、僕は ──
京都にある久御山邸の門の前で立ち竦んでいた。
二年前にここへ来た時も、この仰々しい門構えを見て背筋が寒くなったっけ……あの時とは事情も違うし今日は久御山が一緒だけど、庶民の僕には映画やドラマに出て来るような「The 豪邸」に縁がない。果たしてこれは現実なんだろうか。
「……何やってんの?」
「え、いや…ちょっと緊張して…」
「緊張してるようには見えないけど」
悪かったな、表情筋が怠けてて。
早く来いよ、という久御山のあとをおずおずと着いて行く。離れに茶室に東屋に蔵……もしかして池にいるのは錦鯉とかいうやつなんだろうか……この中にひとの顔をしたやつがいて人間の言葉を喋っ…なんだっけ、シーマンだっけ…昔、人面魚とか人面犬とか流行ったことあったよな……ああ、脳が現実を拒絶してる…
久御山が玄関の扉を開けた瞬間、立ち止まって動かない久御山に僕は思いきりぶつかった。
「……なにしてんの、こんなとこで」
憮然とした声も関西弁だと柔らかいな、と思いながら久御山の背中越しにそっと中を窺うと、顔を押さえて俯く ── 華さんの姿が見えた。
「なにしてんの、ちゃうわ……連絡もうてからあんまりにも遅いから、見に行こ思て…」
どうやら僕が久御山の背中にぶつかったように、華さんも久御山の胸に思いきり顔をぶつけたみたいだった。
「いや、湊が嫌がって家に入りたないてグズりよったから」
「愚図ってない! 愚図ってないです!」
「あ! 藤城さ……なんや、えらい大きならはったんちゃいます…?」
「え、あ、はい…若干…」
「男前にならはって……あ、あがってください」
お、男前ってどういう意味だっけ……っていうか愚図ってないですよ…
応接間? 客間? に通された僕は、厚みのあるお高そうな座布団の上で行儀良く正座をして背筋を伸ばした。床の間にさげられた掛け軸、飾られた花……異世界転生した主人公って、こんな気分なのかもしれないな……きっとそこの襖が開いて、将軍さまが閨のお伴を見定め……大奥か…違うだろ……
すると目の前の襖がスラッと開き、背が高く線の細い儚げな感じのイケメン将軍が……って……
「はじめまして、賢颯がいつもお世話になっております」
「いえ、こちらこそいつも力になっていただいて……あ、藤城と申します」
く、久御山のお父さんだ……!
うわ、さすが久御山と同じ遺伝子を持つだけあって、圧倒的イケメンだな……似てるといえば似てるような気がしなくもないけど、お父さんというにはとてつもなく若く見える。上品を絵に描いたようなひとだな……
歩く姿にも、腰をおろす動きにも、そのひとつひとつの仕草すべてに溜息が漏れそうになった。
───
「へえ……ちゃんとしたキッチンも付いてるんだね」
「まあ、離れっていっても別宅みたいなもんだから」
いきなりお父さんとお母さんと一緒に暮らすのは、いくらクロくんとシロくんでも緊張して心が休まらないのではないか、と久御山のお父さんはふたりに離れで暮らすことを提案したそうだ。
お母さんが亡くなる少し前から洸征くんたちの家で一緒に暮らしていた関係上、アメリカの家にもふたりの荷物はほとんどないそうで、引越しといってもさほど大掛かりなものにはならないという話だった。新宿の自宅にあった家具は、ベッドを除いてすべて洸征くんに処分を任せるらしい。
ベッドだけは欅さんとの思い出があるらしく、京都からアメリカ、それから東京を経て再び京都に運び込むそうだ。
久御山邸の敷地内にある離れは、年に一、二度和室を使用する機会があるかないか程度の建物らしく、ひとが住んでくれたほうが管理の点からいっても助かる、という話だったけど……なぜか久御山の私物で溢れていた。
「なるほど、別宅ねえ……これは?」
「あー、ゴミだな……どうせ着ないから」
「じゃあこっちの箱ね……これは? これもタグ付いたままだけど」
「あー……ゴミだな…」
「……この辺の服、全部女の子からのプレゼントなんだろ」
「あー……まあ……ゴミだ」
十二畳の和室に十二畳の洋室、それから十六畳の主寝室にLDK。バストイレは独立型でこの立地で普通に借りたら家賃って何十万円になるんだよ、と他人事ながら心配になる好物件の平屋建て。
お父さんとお母さん、それから華さんとで片付けようと思ったら久御山の私物が多くて、どれを捨てていいかわからずブチ切れた華さんに「自分で片付けろ」と呼び付けられた久御山から、なぜか「連帯責任」という名のとばっちりを食らって僕はいま部屋の片付けを手伝っています…
「活用する気がないなら、受け取らなきゃいいのに」
「それはそれで面倒なことになるんだよ」
「服飾品はさ、オークションとかフリマに出せばいいんじゃない?」
「まあ、捨てるよりはいいかもなあ」
「だって……オメガとか書いてあるよ、この箱……」
「あー、時計かあ……オレいま使ってるのあるから要らないし…」
「いま使ってる時計の三十倍くらいするんじゃないの、オメガ…」
「モノの価値ってのは価格だけで決まるもんじゃないからねえ」
それは確かにそのとおりだと思うけど……オメガの時計をポンとプレゼントしてくれるって、どんな相手と付き合ってたんだよ久御山……
「ねえ、この段ボールは? 開けてもいい?」
「何入れてたっけな……見られて困るもんはないと思うけど」
「……久御山ぁ」
「えっ、なんかマズいもん入ってた!?」
「これってさあ……もしかしてラブレターの山かなあ…」
「あー……かな? すっかり忘れてた」
「段ボールいっぱいのラブレター……しかも開封さえされてないし…」
「……悪い、もしかしたらあと二、三個同じような段ボール出て来るかも」
「はあ……ほんと、困ったイケメンだよおまえは」
その場で突き返すのもアレかなあって思ったからさ、とのたまう久御山のモテっぷりに、あらためて溜息が出た。モテるのは久御山のせいじゃないし、何よりまずモテることは悪いことではない。けど!!
「……湊、ご機嫌悪くなってる」
「悪くはなってないよ」
「悪くなってるよ……目が据わってて怖いもん」
「……モテモテのカレシがいると苦労するなあと思って」
「その台詞、そっくりそのまま返すわ」
「おまえのモテ方は異次元なんだよ!」
服に靴に鞄に帽子、サングラス、時計、財布、指輪、バングル、チョーカーにピアス……これってクロムハーツとかいうやつでは……このマークも見たことあるな…エルメスだっけ…こっちはグッチ? お宝の山じゃないか!
「これを処分しようって思えるのがすごいよ…」
「だって必要ないし……湊、使う?」
「……気持ち的にはこの場で燃やしたいけど、売ったらひと財産築けそうだから」
「ああ、じゃあ庭で燃やす?」
「多分法的にアウトなやつだから」
おとなしく「売却用」の段ボールに片っ端から貢物を詰め、なんとか心の安寧を保とうと心掛けた。こっちにいた頃の久御山を僕は知らない。知ったところでどうしようもないことはわかってるし、知ってしまうとどうにかしたくなることもわかってる。無意味だ。過去のことは過去のことだし、うん、わかってる。わかってるよ!
ここにも何かあったっけ、と久御山が造り付けのワードローブを開けるのを見ながら、まだ何か出て来るのか! と刺々しく視線を動かした僕の目に映ったのは ──
「……それ、制服?」
「んあ? ああ、そうだな」
「……着てみて」
「は?」
「詰襟! 見たことない! 着てみて!」
「……珍しいな、湊がそんなにはしゃぐなんて」
高校はブレザーだしスーツ姿の久御山も見たことはあるけど、学ラン姿の久御山を見たことがない! なんだろう、言えば中学時代の写真くらい見せてもらえたかもしれないけど、なんとなく京都にいた頃のことを思い出すような事柄には、極力触れずに来たような気がする。
「……ボタンじゃなくてファスナーなんだ」
「うん、ボタンのほうがカッコイイのに」
「そう? なんか漫画とかに出て来る制服っぽくて格好いいじゃん」
クーラー効いててよかった、と言いながら久御山は学ランを羽織り、「下も?」とジーンズのベルトに手を掛けて笑った。そりゃー当然下もだろ! と言うと、ホック止まるのかなあと心配そうにズボンに脚を通した。
「中学の制服がいまでも着られるって、すごいな」
「中三の夏休みで身長伸びたから、買い替えたんだよね……もったいない」
「ああ、高校の入学式ですでに180cm超えてたもんな……」
「湊は中学の制服、絶対着れないよな」
そりゃそうだ……中学三年の時でさえ僕は165cm弱しかなかったんだから……
詰襟姿の久御山はズボンのポケットに手を突っ込んで「似合う?」とドヤ顔をして見せた。似合う、っていうか……
「……エロい」
「えっ……」
「なんだ、この禁欲的で背徳感溢れるけしからん佇まいは…」
「ちょっ、湊……?」
いや、まさか自分でもここまで胸がときめくとは思ってなかった。たかが布だぞ? 黒い布で作られた服だぞ? 高校の制服は自分も同じものを着ているからなんだろうか、格好いいと思うことはあっても興奮することはなかったような……
久御山を壁に追い詰め、首筋に鼻先を押し当てて舌を這わせた。トワレの香りに汗の匂いが混ざった久御山の匂いと、舌先に感じる汗のしょっぱさ……うん、ダメだ。
「……トイレ、借りていい?」
「いいけど……何、トイレで抜くの?」
「や、だってさすがに離れとはいえ実家で盛るのは、ちょっと…」
「なんで!? 湊から発情するなんて滅多にない機会なのに!」
「いやそれでもさ……何かが漏れたりバレたりするのは、いかがなものかと…」
「……困る?」
「僕が困るというより、ご家族が困るっていうか久御山が困るっていうか」
「いいよ、そんなの……オレにはこっちのほうが大事」
そう言って、久御山が僕の脚の間で硬くなっているモノを握った瞬間、玄関で僕たちを呼ぶ華さんの声が響いた。
───
「ほんま、ごめんなさいね……わざわざ来てくらはったのに、片付けの手伝いやなんて」
「いえ、他にできることもありませんし、少しでもお役に立てれば」
……僕はいま、少し休んでください、と振舞われた冷たい緑茶をストローでかき混ぜながら、「針の筵」という言葉の意味を噛み締めている。いや、冷遇されているわけでも、非難されているわけでもないのだから、針山に座るのとは状況が異なるけれど、目の前の光景を思うと……居た堪れない。
座卓を挟んだ向こう側から注がれる視線。お父さん、お母さん、華さん、言い訳をするわけではありませんが、僕はまだ息子さんに手は出していません……ここでは。いや、別にそんなこと想像だにしてないだろうけど、なぜか懺悔をしなくてはならない気持ちにさせる圧がツライ。
「ご家族にもよくしていただいてるそうで……」
「あ、父も母も叔父も、久御山を痛く気に入っているので」
「ご迷惑、お掛けしてるんやないですか?」
「いえ、家族も喜んでいますから」
僕はちゃんと笑えているのだろうか……っていうか久御山のお母さんって近寄り難い系の美人を勝手に想像してたけど、なんて雰囲気の柔らかそうなひとなんだろう……半端なくきれいなことに変わりはないけど、優しそうで控え目な感じの……平たく言えば久御山とは真逆な感じのひとだ。
「いずれご家族にもきちんとご挨拶に伺いますので」
「いえ、本当にお気遣いな」
「ちょっと話あんねやけど、ええかな」
緑茶を飲み干した久御山が、静かにグラスをテーブルの上に置いた。
「なんや賢颯……あらたまって」
少し驚いた顔で、お父さんとお母さんは久御山に視線を動かした。どうした、久御山……あらたまって…
「大学……湊と同しとこ行こ思てて」
「それは、賢颯が決めたことやったら間違いない思てるさかい、僕もお母さんも心配してへんよ」
「あと、時期とか決めてないけど、いずれ湊と一緒になろ思てるから」
「……くっ、久御山!?」
「一緒に、て……それはどゆ意味で」
「一生、添い遂げようゆう意味やけど」
「ちょっと待て、久御山! いきなり何の話を」
「賢颯……つまり、藤城さんと結婚する、ゆうてんの?」
「うん」
「いえ、あの! 久御山!? ちょ、おまえ落ち着けよ!? そんな話、僕も聞いてないですお父さん!」
「湊、まずおまえが落ち着けよ……」
この状況で落ち着いていられるやつがいるっていうなら、いますぐここへ連れて来い!! 待ってくれ、僕はお父さんともお母さんとも初対面で、どうすれば好印象を持ってもらえるだろうって必死になってたっていうのに、あれじゃない!? もう完全に「大事な息子をそそのかした悪者」じゃない!?
「賢颯、ちょっといらっしゃい」
優しそうなお母さんの声がより一層優しく穏やかになり、そのことが逆に僕の背筋を凍らせた……