第八十三話 一輪咲いても花は花
「おう、どうした?」
真壁さんに連行されてから三十分くらいか。あんだけ余裕なさそうだったもんな、円山か道玄坂あたりにいるんだろうけど、電話かけて来るって、いまどういう状況なんだよ……
「は? いや、普通でいんじゃね?」
電話の向こうでは、藍田が切羽詰まった様子で何やら喚いてるんだが、さすがに真壁さんが何をどうするか、なんて情報までは手に入れてないし、よっぽど特異な性的嗜好を持ってなければ、お任せでいんじゃねえの。
「どうすれば、って……あ、おい」
「藍田さん?」
「なんか、やたら焦った声でこの先の話を聴いてない、って」
「ふふっ、まあ、そうなるよな」
ビーフカレーをすくいながら、宗弥さんは若干含みを持たせたように苦笑した。オレは食い掛けのカルボナーラをフォークに巻き付け、宗弥さんの苦笑いの理由を訊いてみた。
「女の子には耳年増な子もいるけどさ」
「ああ、まあ……知識は豊富だったりしますよね」
「でも藍田さんて、純粋培養じゃない? 男と付き合ったことなさそうっていうか」
「……確かに」
「処女じゃなくなる過程に何があるのか、具体的に想像できてないんじゃないかな」
「…………た、確かに」
いまでこそ藍田は、そんじょそこらの可愛い女子高生を遥かに凌駕する可愛さだけど、高二になるまでどっちかっつーと、暗くて地味なデ…ふくよかな、男と関わることなんて皆無な人生歩んでただろうしな。
「彼に特殊な性癖がないことを祈るしかないけどね」
「……宗弥さんは、特殊な性癖あったりしたんですか?」
「ねえわ! むしろいまが一番特殊だろうよ!」
「なるほど」
地獄のように女癖が悪かったという宗弥さんが、桜庭と付き合ってることは確かに奇跡に近いかもしれん。
「その辺、賢颯くんも似たようなもんでしょ」
「んー、オレは別に女好きだったわけじゃなくて、ある意味暇潰しみたいなもんでしたから」
「……たったいま、世界の八割の男女を敵に回したよな」
「でもオレ、妹の友達と付き合った挙句、浮気するほど貪欲じゃないですよ?」
「筒抜けかよ!」
そう言って笑う宗弥さんはやっぱりイケメンで、いろいろ赦されて来たゆえの鷹揚さもモテ要素なんだろうな、と思った。
***
バスルームの扉が開く音と同時に、藍田は慌てて電話を切った。け、結局久御山くんからは何ひとつ聴けなかったけど、どんな顔してどんな風に振舞うことが、この場においての最適解なんだろう!?
そこに、腰にバスタオルを巻いただけの真壁が、ハンドタオルで髪をくしゃくしゃ無造作に拭きながらベッドに腰掛けた。
「……シャワー、しなくていいのか」
ぶっきらぼうにそう告げると、藍田は「して来ます!」とパウダールームへ駆け込んだ。
……備え付けの棚には綺麗に畳まれたフェイスタオル、ハンドタオル、バスタオルが重ねられていた。パウダールームの化粧台に並ぶ化粧水や乳液は、まるで香水のボトルのように繊細で美しく、藍田はそれを見ながら「お高いんだろうな……」と小学生並の感想を漏らした。
シャワーするってことは、服を脱がなくちゃいけないわけで、ということは、この一枚の扉を隔てた向こう側に真壁さんがいるというのに、わたしはそこで裸体になるということで。そ、そんな破廉恥な……え、でも性行為っていうのは、そもそも裸体であることが大前提というか……裸体…よね…
服を脱ぎ、それを丁寧に畳み、すべてを同じ要領で脱いでは畳み、それからバスルームの扉を開けてシャワーの蛇口をひねる。備え付けられているシャンプーもトリートメントも、ボディソープに至るまですべて同じブランドで揃えられており、藍田は頭の天辺から爪先まで、これでもか、と言わんばかりに磨き上げた。
ドライヤーで髪を乾かし、裸体にきつくバスタオルを巻き付けた藍田は、そうっとパウダールームの扉を開け、真壁の姿を探した。当然のことながら真壁はベッドで横になっており、藍田は足音を忍ばせベッドへと近付いた、が。
……真壁さん……もしかして、寝てるのでは…?
床にしゃがんで、寝ている真壁を凝視する。確かに時間を掛け過ぎた気はしていた藍田だが、まさか真壁が寝ていることは予想外だった。
「……入れば?」
目を閉じたままの真壁から発せられたひと言に、藍田の心臓は、止まった。
***
コドモの他愛ない茶番に時間を割いてくれたうえ、晩飯までご馳走してくれた宗弥さんにあらためてお礼を言い今日は別れた。ひとでごった返す街のなかを駅に向かって歩いていたオレは、不意に背中をポンっと叩かれ振り返った。
「……何してるんですか、こんなところで」
「いやあ、目立つ子が歩いてるなあと思って」
そこには社長が菩薩のような笑顔で穏やかに立っていた。いや、菩薩を見たことはないんだが。
受験勉強は捗ってるか、十五で親元を離れたのは大変じゃなかったか、自炊してるのか外食ばかりなのか、この時期学校に行かなくていいのか、駅に着くまでの短い時間、本当にただの世間話をしながら歩いた。
「そういえば久御山くん、真壁と仲いいんだっけ」
「悪くはないと思いますよ、オレは真壁さん好きですし」
「この前の送別会でね、少し怯えさせてしまったんじゃないかって気になってたんだけど」
「ああ、真壁さんの武勇伝は確かにビビりましたけど」
「少しだけ、あの話の続きに付き合ってもらえないかな」
断る理由もなかったオレは、快諾して社長に着いて行った。
───
若者がバカ騒ぎしてる街、みたいなイメージの強い(そしてそれは間違いでもない)渋谷にもポツポツと公園があって、社長は自販機で缶コーヒーを買うと、ひとつをオレに差し出し、ベンチに腰をおろした。
「わたしはね、真壁の身元引受人だったんだよ」
「……身元引受人?」
「うん、あいつには帰る家もなかったからねえ」
複雑な家庭事情のせいで小学校にも中学校にもまともに通わず、盗んだバイクで走り出した挙句、夜の校舎の窓ガラスを叩き割った真壁少年は、十五になる前からナイフみたいに尖っては、目が合っただけで殴り合いを始める立派な不良少年だった……って話は聞いてたけど。
「お姉さんがいたんだけど、彼女もまだ未成年だったから」
「え、お姉さんはどこで生活してたんですか?」
「まあ、遠い親戚の家……かな」
真壁が少年院から出て来た当初はね、なんていうか……世の中に絶望してるとか、親を恨んでるとか、そういう感情すら窺わせないほど空っぽだったんだよ。何も見てないし、聞こえてないみたいな、精気がまるでなかったなあ。生活の監督なんて必要ないくらい、彼は言われたこと以外しようともしなかった。
わたしは再犯の可能性より……いつか彼が消えてなくなってしまうんじゃないか、ってことのほうが気掛かりだったほどだ。
そういう毎日がしばらく続いたんだけど、ある日吉報が舞い込んで来てね。
「結婚したお姉さんが、娘に逢わせたいと連絡をくれたんだよ」
「え、お姉さんてそんなに歳離れてたんですか?」
「いや、五、六歳くらいじゃないかな?」
お姉さんは県外にいたんだけど、ご主人と生後半年の娘さんと一緒にわたしの家に来てくれた。お姉さんも心配だっただろうけど、地元にいるわけにも、弟の面会に行くこともできなくて……ちゃんと逢うのは実に三年振りくらいだったはずだ。
「……少年院って、面会できないんですか?」
「基本的には三親等以内の親族ならできるよ。あとは保護司とか、学校の先生とか」
でもねえ……自分が面会に行ったところで、真壁が救われるわけじゃないって思ってただろうし、何よりお世話になってる親戚の手前、少年院にいる弟に逢いたいとは言えなかったんじゃないかな。
「娘さんを……小さな姪を見た時の真壁の顔は、一生忘れないだろうなと思ったよ」
優しそうなご主人としあわせそうなお姉さん、そして可愛い姪との出逢い。その時、真壁はちゃんと生きようと思ったんじゃないかな。守りたいものができた人間の強さっていうのかな。その日を境に、真壁は本当によく働くようになった。
それからお姉さんたちは横浜に戻って来たんだ。少しでも近くで暮らしたいって。なんといっても姪っ子ちゃんがね、真壁のことが大好きで、お義兄さんがヤキモチを妬くくらいだったんだよ。
「でもねえ……真壁はもう一度、奈落に落とされたんだ」
「……何があったんですか?」
五年ほど前かな。お義兄さんとお姉さん、それから姪っ子ちゃんの乗っていた車にね、トラックが突っ込んだんだよ。高速道路での事故でねえ……居眠りが原因だったんだけど。トラックはお姉さんたちの車に乗り上げ……三人は即死だったそうだよ。姪っ子ちゃんはまだ八歳だった。
「真壁さん……大丈夫だったんですか?」
「さすがにね……わたしも、もうダメかと思ったんだけど」
── 大人になったらわたし、倖ちゃんと結婚するの
── 残念だけど、できねえなあ
── するの! 倖ちゃんがいいの!
「こんな自分を好きだって言ってくれた穂乃を、ガッカリさせるような生き方だけはしたくない、って」
「……真壁さん」
「穂乃ちゃんのために……一所懸命なのかもしれないねえ」
実はね、お姉さんたちが亡くなった時、一家と暮らしてた犬をね、わたしが引き取ったんだよ。譲渡会っていうのかな、里親を探すために保護団体が開催してるんだけど、そこで穂乃ちゃんが迎えた子でね。ゴールデンレトリーバーのミックス犬で、とっても行儀がいい子なんだ。
「一年ほど前かな、その犬を真壁が引き取りたいって言い出して」
「……事故から四年ほど経って、少し心に余裕ができたってことですかね」
「いや……寿命が近いとわかったからじゃないかな」
「譲渡会で出逢った時はもう成犬だったんですか?」
「うん、推定だけどね、もう十四歳くらいらしいんだよ」
「……だとしたら、また真壁さんは大切なものと別れなくちゃいけないってことじゃないですか」
「大切だからこそ、最期はそばにいたいんじゃないかな」
酒癖が悪く母親にも自分たち姉弟にも暴力を振るい、挙句多額の借金を残し蒸発した父親。借金の返済と生活のために働き尽くめで身体を壊し、他界した母親。
母親を、姉を、自分たちを苦しめた諸悪の根源である父親を、夜の繁華街で見つけたのは果たして偶然だったのか。十四歳の少年が殺意を持ってその父親を刺したとしても誰も疑ったりはしない。父親さえまともなら、母親が死ぬこともなかったのだ。
── 失うものなんて何もない。
そうして十四歳の少年は、少年鑑別所で四週間身柄を拘束され、少年院送致という決定がくだされた。
***
「おかえり、どうだった?」
帰って来た賢颯に訊いてみると、なんだか浮かない顔をしているように見えた。何も言わずソファに腰をおろした賢颯は、両手で顔を覆って深い溜息を吐いた。
「……計画がうまく行かなかった、以外の何かがありそうだね」
シャーペンと眼鏡をガラステーブルの参考書の上に載せ、僕は賢颯の隣に腰をおろした。俯く賢颯の肩に腕を回すと、驚くことに賢颯は小さく震えていた。
「……賢颯?」
「自分のお気楽っぷりに……吐き気がする…」
「まあ、おまえはいつだってお気楽で雑だけどさ」
「そこは庇えよ…」
「お気楽なのも雑なのも、別に欠点ではないじゃん」
「欠点として働くことのほうが多いんだよ」
「そう? 僕にはない個性だから、羨ましいとすら思うけどね」
「……なんか…真壁さんに酷いことしたような気がする…」
賢颯は言葉を選びながら、元バイト先の社長から聴いたという話を僕に教えてくれた。真壁さんのこども時代、家庭の事情、十四歳で父親を刺したこと、鑑別所を経て少年院で生活していたこと、社長さんが身元引受人だったこと、お姉さんとの再会、お義兄さんができたこと、姪っ子ちゃんのこと。
「……藍田のことしか考えてなかったなあって」
「それこそ、真壁さんが決めることだよ」
「それはわかってるけど」
「賢颯、三年近く一緒にいて真壁さんからそういう悲愴感みたいなの、感じなかったんでしょ?」
「うん……」
「それって、真壁さんがそういう風に生きてたからじゃないの?」
「そう……なんだろうな」
「だったら、そこで賢颯が同情したり委縮したりするの、失礼だと思うけどな」
事情を知って見え方が変わることだって当然あるけど、賢颯から見えてた真壁さんはこれからだって何も変わらないよ。女好きで仕事ができて、新人を見放したりしない口の悪い面白いひと。社長さんから見える真壁さんも、藍田から見える真壁さんも、全部真壁さんだよ。それでいいじゃん。
「なあ、湊からはオレってどう見えてんの?」
「超絶イケメンで女好きで、二股どころか何股掛けてるのかもわかんないくらい四方八方に手出しててブチ切れたら暴れん坊になる、女の子に激甘なくせに繊細で誠実で頭のいい変態、かな」
「……もしかして、遠回しに別れ話とかされてんの!?」
「なんでだよ」
少し安心したように、賢颯は僕の膝に頭を預け、しばらく背中をさすっていると、そのまま眠ってしまった。