第八十四話 見ぬは極楽知らぬは己
「し、失礼します……」
藍田はそうっと真壁の反対側からダウンケットをめくり、落ちるかどうかギリギリのところに身体を横たえた。思っていた以上に沈み込んだマットレスの端を掴み、なんとか仰向けの姿勢を保っていると、見事なまでにあっさりと真壁に肩を抱き寄せられ、藍田はもう一度心臓を止めた。
「……本っ当に後悔しねえんだな?」
「後悔って……あの、どういう意味ですか?」
「よく知りもしねえ男とセックスして、やっぱやめときゃよかったなって思っても遅えだろ」
「よく知らないから、知りたいんです」
「は? 俺を? それともセックスを?」
「……好きなひとのことを知りたいって思うの、そんなにおかしいですか?」
「おかしかないだろうけど、そのために援交だのパパ活だのは違うんじゃねえの」
久御山くん……パパ活って、援助交際的な、そういうことだったの!? え、じゃあわたし、樋口さんにお金をもらうことを目的に身体を売ろうとしてたって真壁さんに思われてたってこと!? さすがにそれはふしだらなんじゃない!?
── いまさら気付いても遅いのである。
「まあ、俺のどこが好きなのかまったくわからんけど、後悔しねえっつんならさっさとヤっちまおうぜ」
マットレスをギシっと軋ませ、真壁は藍田を自分の身体で覆った。
「あ、あの、もしかして何か予定あったりとか……急いでたりします?」
「こんなに長引くと思ってなかったから、なんも用意してねえんだよ」
「用意って……」
「家で腹空かして待ってるワンコがいるからな」
それはそれは目にも留まらぬ速さで藍田は起き上がり、「服、着てください。お家って近いんですか? いつも決まった時間にごはんを? お家の中にいるんですか? サークルですか、クレートですか?」と矢継ぎ早に真壁に浴びせながら瞬く間に身支度を整え、いまはもう入口で靴を履いていた。
「……横浜…だけど……」
「先に言ってください、そういうことは」
いや……言う暇も必要もなかったな……と思いながら、真壁は走る藍田を追い掛ける羽目になった。渋谷駅からなら三十分も掛からないし……つーか足速えなおい……
───
あざみ野駅から徒歩数分、という好立地にある一軒家の前で、ふたりは息を切らしていた。
人感センサーに照らされた玄関で鍵を開けると、上がり框の上の廊下ではクリーム色のやや大きな犬が、行儀よく足を揃えて主人の帰りを迎えた。その真壁の後ろから姿を現した藍田にも、クリーム色の犬は吠えることもなく、おっとりと首をかしげて見せた。
「こんばんは、真壁さんを引き留めてしまってごめんなさい」
藍田はクリーム色の犬の前で屈み、胸元にそうっと手を差し出した。被毛の流れに沿って胸元を、それからあごの下を優しくなで、「お利口さんね、お名前は?」と訊きながら頭をなでていると、クリーム色の犬は藍田の鼻先に自分の濡れた鼻先をくっ付け大人しくなでられていた。
───
「食事や散歩の時間を固定するのは、あまりいい傾向ではありません」
藍田は、キッチンの定位置でごはんを食べるクリーム色の犬「ベティ」を見ながら、真壁に言った。
「……なんで? 人間だって決まった時間にメシ食わねえか?」
「真壁さんが病気や怪我で、同じ時間に食事の提供や散歩ができなかったら? 相手が人間なら自分でなんとかする、他のひとに頼るなど解決策はありますが、ベティさんにとっては理由がわからずストレスになるんです」
「…なるほど」
「朝晩二回、十二時間以上間隔を空けないようにすれば、提供時間のズレはそこまで気にしなくても大丈夫です」
「そうか……わかった」
「あ、そんなに深刻に考えないでくださいね……完全に固定できるなら、そのほうがいいのは事実なので」
「つっても、確かに仕事とか体調とか、こっちの都合で左右するなら固定しないほうがいいよな」
ごはんを食べ終わったベティは、ダイニングチェアに座る藍田の足元に近寄ると、前足で藍田の膝を優しく引っ掻いた。藍田が床に座ると、ベティは寄り掛かるように身体を預け、藍田はそのベティの頭を優しくなでた。
「犬…好きなのか」
「動物が好きなんです」
「ああ、いるよな、そういうヤツ」
「動物は……ひとの容姿を美醜で判断しませんから」
誰もが羨むほどの容姿を持つ藍田の言葉に、真壁は違和感を覚えた。
「おまえさん、自分が可愛いっていう自覚ねえの?」
「……真壁さん、ご自分が格好いいって自覚、あります?」
「俺より格好いいヤツなんて、ゴロゴロいるからな」
「わたし、高校二年の途中まで不用品みたいな存在だったので」
「……不用品?」
「地味で暗くて太ってて不細工で、虐められたりシカトされたり嗤われたりしてたんですよね」
「おまえさんが!?」
「そのわたしを救ってくれたのが、久御山くんと藤城くんでした」
こんなわたしを庇ってくれて、わたしと一緒に笑ってくれて、わたしのために怒ってくれて。彼らふたりがいなかったら、わたしはいまでも不用品のまま、動物以外には誰からも相手にされない毎日を送っていたと思います。
「……おまえさん、大学どこ行くの」
「東京農工大学、北海道大学、東京大学で迷ってます」
「なんだよ、おまえさんも賢いのかよ」
真壁は呆れたように溜息を吐き、ベティと同じように藍田の膝に頭を乗せ床に転がった。左手でベティの頭をなでていた藍田は、右手で真壁の頭を優しくなで、「ごっ、ごめんなさい!」と慌ててその手を引っ込めた。
「なんで謝んだ?」
「え、あの、なんていうか犬扱いしてしまったみたいで…」
「似たようなもんだろ……続けろよ」
「……随分おっきなワンちゃんですね」
藍田はクスっと笑い、左手でベティを、右手で真壁をなでながら「本当にお利口さんですね」とつぶやいた。
「……俺が?」
「いえ、ベティさんが」
「俺は?」
「お利口さんかどうかはわかりませんが、優しくて素敵だなって思います」
「利口って部分ではベティに負けてんのかよ」
真壁は自嘲気味に笑いながら、目の前のベティの頬をクシャクシャかき回し、藍田の手のひらの感覚になぜか安心した。
***
「……で?」
「で、って……それだけ」
「ワンコ心配になってラブホから真壁さん家に直行して真壁さん寝かし付けて、それだけ?」
「う、うん……」
そろそろ屋上で昼休みを過ごすには肌寒くなって来たというのに、僕たちは相変わらず屋上での色恋話に余念がなかった。いや、本来であれば受験勉強に身を入れなくちゃいけない時期のはずだけど、賢颯はともかく藍田まで余裕なのか……
「でも、なんとなくよかったって思ってるの」
「早まらなくてよかった、ってこと?」
「ううん、なんていうか……いままでで一番自然な真壁さんを見た気がしたから」
「なるほど? じゃあ現状維持?」
「いまはまず受験かなあって……私大は行けないから」
「……藍田、第一志望ってどこなの?」
「東大理科二類……後期ないから、一応…」
「あれ、じゃあ後期考えてんの?」
「東京農工大の共同獣医学科」
「せ……狭き門…」
藍田は溜息を吐いて頼りなく笑った。一年の時から、獣医になりたいって言ってたもんな……将来の夢に迷いがないって本当にすごいことだな、と思った。
「久御山くんは理三択一なの?」
「湊が理三受けるって言うから……」
「そっか、藤城くんなら余裕で受かるだろうしね」
そ ん な 余 裕 は ど こ に も な い 。
「ま、でも真壁さんと縁が切れたわけじゃないってわかってよかったわ」
「うん、あ、樋口さんにもありがとうございましたって伝えておいて欲しいな」
「了ー解」
こうして、藍田の運命の出逢いは嵐のように周りを巻き込み、いまは判断保留ってことで一応の決着を見せた。
***
僕の向かいに座り、珍しく賢颯が勉強をしている。といっても、過去問を解くでも参考書を開くでもなく、過去に出題された世界史の問題と答えを、スマホを見ながら暗記している。過去の出題テーマだけでも多岐に渡るうえ、大論述600文字を数年分暗記するなんて正気の沙汰じゃない。
ただ、教科書を丸暗記したところで補えない部分も多いのは確かで、地域や時代、分野も広過ぎてできるものなら僕だってすべて暗記したい。できるわけないんだけど。
「湊……」
「どうした?」
「セックスしたい」
「受験終わったらな」
僕がそう言うと賢颯はスマホをパタッとテーブルに伏せ、明らかに “悲しそうな顔” でつぶやいた。
「受験の次は? テストが終わったら、課題が終わったら、レポート終わったら、ってずーっと足枷着けられんの?」
「……どうしたんだよ、賢颯」
「オレだって湊の邪魔なんかしたくないんだよ」
「だから、いきなりどうしたんだって」
「……悪い、ちょっと頭冷やして来る」
ちょ、待て賢颯、言いたいことがあるんならちゃんと……と言う僕の声が聞こえてないみたいに、ジーンズのポケットにスマホをねじ込み、賢颯は部屋を出て行った。
***
「……I’m afraid she’s not available at the moment.」
「門前払いかよ」
「突然なんなの、オニイチャン」
藍田も一ノ瀬も沓川も勉強で忙しいだろうし、桜庭も橘さんも綾ちゃんも授業あるだろうし、宗弥さんも漣さんも真壁さんも仕事してるし、桐嶋は寝てるだろうし、シロクロはこっちにいないし……
結局思い付いた場所は退院した洸征の家、もとい、日本にいる間の仮宿と化してる桐嶋の新宿のクリニックだった。元々このクリニックの四階と五階はマンションになってて、洸征はいまその一室にいる。
「ほんと、なんもねえ部屋だな……紅さんは? 一緒に住んでないの?」
「コウはキリシマの家にいるけど……」
「あ、そうなんだ……おまえ、自炊とかできんの?」
「できるけど、いまはまだ……なんだっけ…Nutritionistにお願いしてる」
「ああ、桐嶋んとこの栄養士か何か?」
「多分ね…って、何? オニイチャン、職務質問? 事情聴取?」
なーんもない部屋にポツンとある広いベッドに倒れ込み、難しい日本語知ってんなあ、とだけ思った。
「……おまえ、もう体調って大丈夫なの?」
「大丈夫だから退院してここにいるんですけど」
「そっか……そうだな……」
「だーかーらー! なんなの? 突然現れて、なんか用があるんじゃないの?」
「……ないな」
「帰れ」
洸征がオレを毛嫌いする理由はなんとなくわかる。洸征が自分の出自のどこまでを知ってるのかはわからないけど、同じ顔をしたヤツが日本にいて、なんの関わりもなかったその男と実は兄弟で……なんて話を聴いたあと、そいつに命を救われるなんてスケールのよくわからん話が起こりゃオレでも少しは混乱する。
「……心配しなくても、ぼくはアメリカに戻るよ」
ベッドの縁に腰をおろし、洸征は溜息まじりにボソッとつぶやいた。
「え……なんで?」
「なんで、って……ぼくは手術を受けに来ただけだし、生活基盤があっちにあるし」
「そりゃそうだろうけど……紅さんは?」
「コウは日本に残るよ……キリシマとのこともあるし」
「おまえ、紅さんと桐嶋のこと知ってたの?」
「そんなの、調べればすぐわかるでしょ……」
そう言われて、心臓が跳ね上がった。
「……どこまで知ってんの?」
「表向きは知らないことになってる」
「どういう意味だよ」
「コウだってクロだってシロだって、本当のことなんか教えたくないでしょ」
洸征はベッドから立ち上がるとキッチンへ向かい、冷蔵庫から取り出したペットボトルのミネラルウォーターをオレに投げて寄越した。
「別にどうでもよかったんだ、そんなことは」
同じく冷蔵庫から出したミネラルウォーターのキャップをひねり、洸征はキッチンのカウンターにもたれ掛かってボトルに口を付けた。
「ぼくがアンタのために創られたパーツ取りの胚細胞クローンだってことも、欠陥品だったから海外に飛ばされたことも」
「欠陥品、ておまえ……」
「そもそも、長男のアンタが失敗作だったこともね」
「……失敗作、ねえ……作品としての体すら成してねえっつの」
「設定上は生き別れの異母兄弟ってことになってるし、ぼくはそれを信じてる健気な弟だよ、オニイチャン」
いやまあ、無理矢理にでもそういう設定にしておかねえと、もしものことがあった場合、困ることになるのは洸征のほうだってことくらい、紅さんもクロもわかってただろうけど……
「どういう理由で創られたか、なんて一般的なこどもにだってわかんないよ。愛し合ってたのか、レイプか、人工授精か、たまたまデキちゃったか、どうしたってこどもに選ぶ権利なんてないんだからさ」
「……やけに達観してんだな、おまえ」
「日本っていいよね……顔がカッコイイ、背が高い、英語が話せる、ってだけでチヤホヤしてくれて」
「単一民族の島国なんだから当たり前じゃね?」
「顔や身長なんて自分の力じゃないし、英語が母国語の国で育ってるんだから英語が話せるの当たり前でしょ」
「そりゃそうだろうけど……何よ、なんかムカついてんの?」
「いきなりアンタが訪ねて来るからだろ」
「ああ、そいつは悪かったな……」
腰掛けてたベッドから立ち上がり、帰ろうと思った瞬間、洸征に腕を掴まれ、ビビった。
「…なんだよ」
「返せよ……」
「は? ……何を?」
「Give it back to me! Right NOW!!」
腕に食い込む指先の力で、洸征が本気で怒ってるんだな、ということだけはわかった。