第三十一話 一富士二鷹三茄子
「久御山くん、ちょっと休憩しない?」
遥さんに手招きをされ、ブラシとホースを足元にまとめた。大掃除の必要がないよう常にきれいに保たれている湊の家で、年末年始お世話になるお礼に何か手伝いがしたい、と申し出たら遥さんは快く仕事を振ってくれた。
「……寒くて死にそう」
湊は震えながら家に入り、慌てて口を付けたお茶に泣かされていた。いくら寒くてもお茶の熱さは平常運転だよ…
「わあ、やっぱり網戸きれいにしてもらうと違うわねえ」
「ほんとですね、今年は僕がお客さまみたいだ」
ダイニングテーブルで用意してもらったお茶に息を吹き掛けていると、遥さんの弾んだ声が聞こえたので振り返った。遥さんの隣で穏やかに笑うひとを見ながら、えーと、宗弥さんじゃないこの男のひとって、もしかして、もしかしなくても。
── 湊の親父さんじゃん…
「すみません、ご挨拶が遅れまして…お世話になります、久御山です」
「こんにちは、いつも湊と遥がお世話になってます」
「いえ、こちらこそいつも甘えっぱなしで」
同級生の母親に逢うことはあっても、父親に逢うことはあまりない。免疫がないので当然緊張する。いつも仕事が忙しく家にいることが少ない印象だったけど……家庭を顧みない仕事人間、という殺伐さは一切なく、絶えずニコニコと笑顔を崩さない優しそうなひとだった。
慌てて立ち上がったオレに、親父さんは手のひらで「座っててくれ」と促した。
「…お父さん、久御山と逢うの初めてだったっけ」
「うん、だから今日は楽しみにしてたんですよ」
「菩薩みたいな笑顔で圧掛けるのやめて」
「圧……掛けてますか?」
「いえ、笑った顔が優しそうだなって思ってたところです」
「ああ、よかった……湊くん、大丈夫みたいですよ」
───
いっちょ揉んでやるよ、と湊に言われリビングでゲームのコントローラーを握り締めた。ゲーム、ほとんどしたことないんだよなあ…
「ひとつ、訊いていい?」
「お父さんのこと?」
「あ、うん…親父さん、なんで敬語なの?」
「職業病かなあ……大学教授なんだよ」
「教授!? 若くない!?」
「まだ三十代だから若いかもね」
「へえ……あ、湊」
「なに?」
「親父さんも身長高いんだな」
「喧嘩売ってる? 年末商戦? 出血大サービス?」
そのあとマリオカートで完膚なきまでに叩きのめされたことは言うまでもなかった。だから、アイテムの使い方くらい教えろっつの。
「オセロとかテトリスとかぷよぷよとかないの?」
「あるけど、それじゃ僕が勝てないじゃん」
「大人気ねえなオイ」
後ろで小さな笑い声が聞こえた気がした。
───
夜初詣に行きたいというオレたちのために、遥さんは晩ごはんに年越しそばを用意してくれた。手伝うことはないか、と訊こうとしたとき遥さんの隣で食器を洗う親父さんに気付き、微笑ましいなあとしばらく眺めた。
「仲いいなあ…」
「……お父さんがね、ベタ惚れなんだよ」
「理想的な夫婦じゃん、羨ましい」
「羨ましいの?」
「だって湊、普段つれないんだもん」
「普段だって優しいだろ……ちゃんと手加減してるし」
ストリートファイターで全敗してるオレに、湊は不敵な笑みを浮かべ言った。手加減っていうのはオレにも勝算がないとまったく意味がないんじゃないのか?
「お父さん、名前なに?」
「男のひとも続柄とか役割で呼びたくないの?」
「藤城教授、って呼ぶのはおかしいだろ」
「藤城教授でも結構ですが、少々他人行儀で寂しいですね」
「…っ!!」
いつの間にか、リビングでゲームをしていたおれたちの後ろに親父さんが立っていた。
「漣です、ハスの花じゃなくてさざなみのほう」
「ああ、さんずいの……湊とは水つながりなんですね」
「お父さん、と呼んでくださってもいいんですよ?」
「漣さーん、ちょっとー」
漣さんは遥さんに呼ばれキッチンへと戻って行った。オレは湊と顔を見合わせながら「お父さん、と呼んでくださってもいいんですよ」の意味を考えていた。
───
藤城家の年越しそばには海老の天ぷらとかき揚げが乗っていて、にしんそばが定番だったオレはテンションが上がった。しかも大根おろしが乗っていて、そば屋で食べるそばみたいだった。
「賢颯くんの家って、やっぱりにしんそばなの?」
宗弥さんがオレに発泡スチロールの箱を差し出しながら訊く。
「にしんそばでしたね……これ、なんですか?」
「お年賀ってヤツかな」
「…デカい蟹がいる」
「北海道直送タラバガニ」
「久御山くん、おだしくどくない?」
「あ、美味しいです昆布だし……こっちって鰹だしが多いのでは?」
「江戸っ子は気が短いから鰹だしが多いみたいね…昆布はだしを取るのに時間が掛かるから」
「そういう理由だったなんて僕も知らなかった」
「宗くん、久保田と越乃寒梅どっちがいいですか?」
「漣さんは? あー、そば食ってるから久保田で」
「湊と久御山くんはこれ」
「なんでそばにコーラなの!?」
「宗弥、カニの箱片付けるから取って」
「姉ちゃん一味どこ?」
「久御山くん、海老おかわりは?」
「あ、いただきます」
「お母さん大根おろし欲しい」
「大根おろしてくれたの漣さんだから漣さんに訊いて」
藤城家の大晦日は賑やかだ……こんなに賑やかに楽しく大晦日を過ごすなんて初めてだな…厳かに過ごしているであろう華に、タラバガニの写真を撮って送ってみる。秒で返って来た返事には「蟹にチョン切られてしまえ♥」と書いてあった。
───
漣さんと宗弥さんは場所を移し、リビングで酒盛りを始めた。完全なる偏見だけど、日本酒が好きなひとは本当に酒が好きなんだろうな、と思う。そういうひとたちに振舞うには物足りなかったかな、と思いながら持参した貢物を献上した。
「お、ヴーヴ・クリコだ…賢颯くんシャンパン派なの?」
「日本酒の良さがまだわからないこども舌なので」
「普段はビールなんですか?」
「スーパードライ派です」
「お父さんも宗さんも、久御山が高校生だってこと忘れてない?」
「いまどきの高校生は酒くらい飲むだろ」
「あ、じゃあ久保田いかがですか?」
「いただきま」
「お父さん!」
「酔っ払いのアルハラ上司は放っておいていいから、久御山くん」
遥さんに止められ、オレは湊と初詣に出掛けることにした。なんとなく湊が拗ねてるように見えるのは気のせいだろうか。
───
「夜中に初詣行くのハジメテだ」
「そうなの?」
「元日の昼から親族集まって百鬼夜行? 昼行だな、それが定番だったから」
「……来年も帰っちゃダメだよ」
「来年の話をすると鬼が笑うっつってだな…」
「あ、まだ年明けてないや…再来年も帰っちゃダメだよ」
「鬼も大爆笑だな」
大きな神社のほうがご利益がありそうな気もするけど、ひと混みで押し潰されながらカウントダウンをしたくなかったので、歩いて行ける小さな神社を選んだ。とはいえ、伏見稲荷と同じ宇迦之魂神を祀っている神社なので、個人的に親しみを感じていた。
オレと伏見稲荷はまったくといっていいほど関わりもつながりもない。
「最初は右手で汲んで左手に掛ける」
「左手に……」
「あ、柄杓にいっぱい汲まないと」
「継ぎ足しちゃいけないの?」
「うん、それから左に持ち替えて右手に掛けて」
「右手に…」
「柄杓を右手に持ち替えて、左手の手のひらに水を溜めて口をすすいだら左手を流して」
「んー、んー、んー!?」
「ペッしなさい、ペッ」
「の、飲みそうになった……」
「そしたら柄杓をそっと立てて、残った水で柄を洗って戻す」
「すごいね久御山、覚えてるんだ」
「一年に一回のことだと、つい忘れちゃうよな」
手水舎で手水のとり方を説明しながら、なんでこんなこと覚えてるんだろう? と自分で不思議に思った。特に神社に行く回数が多かったとも思えないんだけど。
「さて、お賽銭いくら入れようかな」
「五円? 語呂合わせでいろいろあるよね」
「うん、でもお賽銭て日々のお礼なんだよね」
「そう言われると困るね……どうすればお礼になるんだろう」
「んー……170円にしよ」
「なんで?」
「オレん家から湊ん家までの電車賃」
「あ、じゃあ僕もそうする」
参道を通りご神前で「お参りの仕方は?」と湊に訊かれ、どうだったかな…としばらく考えた。
「会釈、お賽銭入れてから二礼、二拍手、一礼、会釈して去る」
四月からいろいろあったよなあ……オレの手癖の悪さが引き寄せた運かと思うと、お天道さまに顔向けできねんだが。決定的だったのって夏休み前のアレかな…二学期始まってからもなんやかんやあった気するけど。結局桜庭とは何にもなかったのかな……いや、確かめてビンゴだったら絶対不機嫌になる自信あるな。
……半分逃げるようにこっちに出て来たけど、湊のおかげですげえ救われてね?
はあ……神さま、ありがとう。いまばかりは心底感謝します。
「……湊、どんだけお礼言ってんの」
「今年は出逢いがたくさんあったから」
「…たくさん」
「久御山と、都築さんと、藍田と、桜庭さん、宗さんも帰って来たし、華さん、燠嗣さん、橘さんに綾小路さん…沓川と一ノ瀬も」
「……ほー…」
随分と長い間目をつむり頭を下げていた湊は、「よし」と言って頭をあげ、オレの姿を確かめると無邪気に笑いオレの鼓動を加速させた。可愛くて純粋で潔くて、オレを絶対否定しない湊に……オレはちゃんと優しくしてあげられてるんだろうか。
「あ、久御山! 明けましておめでとう!」
「お、日付変わった? 明けましておめでとうございます」
「今年一番最初に逢ったのが久御山って、なんかスゴイな」
「去年一番最後に一緒にいたのもオレだね」
見た目はともかく、結構現実的で厳しいところのある湊が、こんな風に乙女らしさを滲ませるところが好きだ。普段つれないから特にそう感じるのかもしれない。
「ねえ、おみくじって結んだほうがいいの?」
「持ち帰ってもいいよ? 決まりはないから」
「そうなんだ?」
「悪いことが書いてあったら、その場に残して行くために結ぶって意味合いもあるみたいだけど、生きた木に結ぶことで神さまとの橋渡しになってもらって願いが叶うとかなんとか」
「久御山って神主か何かになるんだっけ」
「ならねえわ……オレん家神職じゃないし」
「煩悩まみれの生臭坊主になるのかと」
「いやそれ神社じゃなくて寺の住職だろ」
手を差し出すと、湊が迷わずその手を握るようになった。細くてひんやりと冷たい指先が庇護欲をそそる。ふたりで歩きながら他愛ない話をして、家までの距離を何度笑ったかわからない。マリオカートのアイテムの使い方をいま聞いても忘れるに決まってんだろ…
湊の家では漣さんと宗弥さんの酒盛りが続いていた。
部屋には湊のベッドの横にオレ用の布団が敷かれていた。遥さんが用意してくれたんだろうな、と思いつつ布団の中に入ってみると、なんだか新鮮な気持ちになった。どこか温泉宿にでも泊まってるみたいだ。夜中なのに変にワクワクした。
──
次の日も藤城家は朝から賑やかだった。
「賢颯くんの家って、やっぱり丸餅に白味噌なの?」
「そうですね、里芋とか入ってた気が」
「湊、お餅いくつ?」
「えー…二個かな、三つ葉入れないで」
「久御山くん、お正月なのでお神酒どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「お父さん、久御山はまだ高校生だってば」
「縁起物なので口を付ける真似だけでも」
「姉ちゃん、シャンパングラスどこ?」
「食器棚の下のほう」
「久御山くん、すまし汁大丈夫そう?」
「美味しいです、すましの雑煮…鶏肉とか新鮮で」
「賢颯くん、はいこれ」
「宗さんも、高校生にシャンパン勧めないで!」
「湊も、はい」
「え…僕にも?」
「賢颯くんからもらったシャンパンだから」
湊はシャンパンをひと舐めして「酸っぱくて渋い…?」と不思議そうな顔をしていた。それを見ていた宗弥さんが「みーくんはまだお子さまだから」と笑うと、「みーくんって呼ばないで!」と湊は憤慨し、グラスのシャンパンを飲み干した。
「はい、賢颯くん」
「……? なんですか、これ」
「お年玉ってヤツだよ」
「えっ!?」
「あ、宗くん抜け駆けですか……久御山くん、僕からもこれ」
「ええっ!?」
「何よ、ふたりして……久御山くん、わたしもこれ!」
「えええっ!?」
「いつも湊くんと遥さんと宗くんの面倒を見ていただいているので」
「俺もその中に入るのかよ」
「オレのほうこそ、いつもよくしてもらっていて」
「今年もよろしくお願いしますね」
「いえ、こちらこそ…よろしくお願いします」
思いがけずお年玉をもらってしまった……なんとなくじんわり感動していると、フラフラと湊が近付いて来ていきなりオレに抱き着いた。
「…!?」
「あいさつ、おわったー?」
「は? 何おまえ酔ってんの…?」
「よってない!」
「酔っ払いは必ずそう言うよな…」
「よってないってば」
「…湊、こんなに酒弱いの? シャンパン飲ませたのマズかった?」
「グラス一杯なので問題ないと思っていましたが…」
「よってないっていってるのに…」
そう言いながら湊がオレの背中に手を入れて来たので、慌てて湊を抱え「部屋で休ませて来ますね」とその場をあとにした。その時、「今年もよろしくお願いしますね…いろいろと」という漣さんの声が聞こえたのは気のせいだろう。
───
部屋に入り湊をベッドにおろすと、「暑い」と言いながら服を脱ぎ出した。止めるべきか、黙って見守るべきか……迷っていると全裸になった湊がベッドの上からオレに手を伸ばす。
「襲っちゃうよ?」
「ん……たべたい」
「や…ほら、みんないるから…」
「くみやまの、おっきいので、こすって…?」
おいいいいい!! ここが! オレん家だったら…! いまここでヤったら絶対鳴き声ダダ漏れだろ!? いまの湊に我慢するなんてできるわけないだろ!? 元日から何の修行なんだ!? 可愛いかよ! いやそうじゃなくて!
「くみやまぁ…ほしいよう…」
「待って、湊…状況が状況だけに…」
このあと湊が寝落ちるまで、オレは湊のエロい攻撃に耐えることになったけど……こんなに酒弱いってわかってよかったな…絶対外で飲ませないようにしなくちゃ、何をしでかすかわかったもんじゃない。外で他のヤツにエロエロビームを放たれても困る。
とりあえず二日間禁欲した分は、明日から冬休みが終わるまでに返してもらおう。