初戀 第三十二話

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第三十二話 その男、藤城 漣

 

「失礼します……藤城ふじしろ教授、ちょっといいですか?」
「はい、どうしましたか?」

校内にある教授の部屋を訪ねた学生は、藤城の顔色をうかがいながらやんわり切り出した。

「レポートの提出なんですが……今日でもいいでしょうか…」
「提出期限は先週の木曜日です。本日は月曜日ですが」
「お願いしますお願いしますお願いします」
「提出期限厳守、と最初に言ってありましたよね?」
「……どうしてもダメでしょうか…」
「期限を守ることも大切なことですよ」
「…あの、藤城教授は……ぼくみたいなのは嫌いですか…」
「……好き嫌い以前に、まずその脱いだ服を着てください」
「お願いします…ぼく、藤城教授になら……」

 

藤城 漣ふじしろ れんは困っていた。目の前で上半身をあらわに、自分のスラックスのベルトを外そうとする男子学生をどう引き剥がせばいいものか……下手に騒ぐとあらぬ噂を立てられかねない。教授が学生に手を付けた、などという噂が周知されようものなら……今週三件で済んでいるこの手の学生が増える……

「わかりました、受け取りますので放してください」
「…本当ですか!?」
「はい、その代わり今回だけですよ?」
「ありがとうございます!」

学生はレポートを藤城の机の上に乗せると、もう一度「ありがとうございます!」と頭をさげ、足取りも軽く藤城の部屋をあとにした。同じ手口で今週は三件も期限超過のレポートを受け取っていることに、藤城は大きな溜息を吐いた。

 

「教授、お疲れですか?」

声を掛けられ、目を閉じただけのつもりがしばらくうたた寝をしていたことに気付き、藤城は慌てて椅子に座り直した。

「あ、西條さいじょうくんでしたか」

助手の西條は藤城にコーヒーを手渡しながら、本や書類が山積みになっているテーブルの上に避難場所を作って自分のコーヒーを置いた。多少埃が舞っていることなど、気に留めるまでもなかった。教授の部屋というものはそういうものであり、美しさや機能を追求する場所ではないのだ。

伸びた薄茶色の髪を後ろでひとつにまとめ、くたびれた白衣を着ている西條は、いかにも大学教授の助手、といった風貌に見えたが、小さな顔にバランスよく並んでいる目はきれいな平行の二重で、鼻筋は細く真っ直ぐに伸び、薄い口唇は口角が持ち上がってよく見ればかなり端正な顔立ちをしていた。

しかし残念なことに、それに気付く者はほぼいなかった。

「僕はそんなに独身っぽく見えるのでしょうか」
「また学生に言い寄られたんですか?」
「いえ、言い寄られたというか…」
「藤城教授がゲイだって噂のせいじゃないですか?」
「既婚ですし結婚指輪も着けているのですが」
「ああ、カムフラージュだってもっぱらの噂ですね指輪」
「……毎日お弁当でも作ってもらえば疑いが晴れるでしょうか」
「そんなことより」

藤城は西條の提案に二つ返事で乗っかった。

 

──

 

「……写真?」
「はい」

帰宅した藤城は、早速妻のはるかに協力を仰いだ。

「えっと、どうして?」
「僕を独身だと勘違いする学生がいるので、机に飾りたいのです」
「…漣さん、やっぱりモテモテなのね」
「そういうわけではありませんが」
「わたしなんかの写真で効果あるのかしら」
「遥さんの写真じゃないと意味がないので」
「…一緒に写ってたほうがいいんじゃない?」
「いえ、遥さんひとりの写真が欲しいので」

自分が一緒に写っているとアノ時・・・に邪魔になる、と思った藤城だったがさすがにそれを妻に言う気概はなかった。しかし愛する妻の写真を簡単に手にする口実ができたことに、藤城は少なからず感謝していた。僕を独身だと勘違いしてくれてありがとう。おかげで遥さんの写真が手に入る…

正直に「いつでもきみの顔を見たいから写真が欲しい」と言ったほうが遥も喜ぶことを、藤城は知らなかった。

 

──

 

「とりあえずプリントアウトしますか」

使ってないから、と遥が用意してくれた銀色の華奢なフォトフレームを丁寧に箱から出し、写真用の光沢用紙を自室のプリンターにセットする。スマホの写真をクラウドにアップし、写真を選んで印刷のアイコンをクリック……しても何も起こらなかった。

「…おかしいですね」

設定が間違っているのか、と藤城はプリンターの取説を読み始め、その途中でやって来た西條があっという間にプリントアウトを完了した。

「プリントアウトする時はプリンターの電源を入れてください」
「ありがとうございます……そんな初歩的なミスだったのですね」
「教授の奥さま、可愛い方ですね」
「はい、ひと目惚れでした」
「……藤城教授が?」
「はい、後輩のお姉さんでして」

西條から受け取った写真を慎重にフォトフレームに入れ、藤城は荒れ果てた机の上に隙間を作り写真を飾る。遥さんはやっぱり素敵だなあと脳内に壮大なお花畑を栽培しているとき、西條はもう一枚プリントアウトした写真をこっそりポケットにねじ込んだ。

「これで教授をゲイだと思う学生も減ると思いますよ」
「はい、ありがとうございます」

素直な藤城の反応に、西條は頬を緩めた。本当に大学教授っていうのは世間知らずで純粋でなんて可愛いんだろう。四年間大学に通い、それから修士課程二年、博士課程三年、その時点ですでに二十八歳。藤城は運よく講師で採用され、准教授、教授とトントン拍子で来ている。

当然西條は、藤城が教授になるためにどれだけの努力と苦労を重ねて来たのかわかっていた。とはいえすべてが学校内でのことだ。徹夜で研究をしても、論文を書いても、外の世界とは大きな隔たりがある。大学という場所で培養された手垢の付いていない無垢な存在。それが西條から見た大学教授の有様だった。

 

───

 

「失礼します……藤城教授、ちょっといいですか?」
「はい、どうしましたか?」
「レポートの提出なんですが……今日でもいいでしょうか…」
「提出期限は先週の木曜日です。本日は火曜日ですが」
「藤城教授が同性愛者だという噂は本当ですか?」
「提出期限厳守、と最初に言っ……それは単なる噂です」
「……では異性がお好きなんですね」
「間違いありませんが、その言い方には少々語弊があるといいますか」

レポートの提出に来た女子学生はブラウスのボタンを外し、ふくよかな胸の谷間を露わに藤城を誘惑……ではなく脅迫する。相手が女性では遥さんの写真も最終兵器に成り得ない。藤城は大きな溜息を吐きながら「今回だけですよ」と四件目の期限超過レポートを受け取った。

 

 

「……何が足りないのでしょうか」

研究室にある自分の机で藤城は頭を抱えていた。いや、頭を抱えている場合ではない。学生のレポートや研究結果の確認、テストの作成に予算の会議、講義の準備や自分の論文のまとめとやらなくてはいけないことは山のようにある。しかし、身体を武器に物を言わせる学生が後を絶たないのは大きな問題だ。

平均年齢が五十代後半の大学教授の中で、三十代の藤城は若い部類に入るだろう。学生から少々見くびられたとしても仕方ないのかもしれないが、こうも簡単に思惑通りの対応をさせられていることは腹に据えかねる。どうにかして身体は武器にならないということを知らしめたい。

第一、藤城は妻一筋なのだ。何よりも妻を愛し誰よりも妻子を大事にしているというのに、そんな人間に色仕掛けが通用すると思うほうがどうかしている。

「……ラボの机にも写真欲しいな」

藤城は妻一筋なのだ。

 

───

 

部屋に戻りプリンターの電源を入れて光沢用紙をセットする。今回はつつがなくプリントアウトに成功し、藤城は印刷されたばかりの写真を眺めた。もうひとつフォトフレームが必要だな…遥さん、やっぱり素敵だな……チラリと腕時計を確認し、23時を過ぎたところか……と椅子に腰をおろす。

今日も終電に間に合いそうもない。ラボに戻ってまずはレポートの添削をしなければ……昨日は少し早く帰れたのだから、写真を撮らせてもらったあとに頑張ればよかった……もうどれだけ遥さんに触れてないだろう…いや、ラボに戻って発注書の確認を……藤城はもう一度腕時計を確かめてから、ベルトを緩めた。

はあ、と溜息を吐いてからファスナーをおろし椅子の背もたれに背中を預けると、ギッと年季の入った音が鳴り椅子のくたびれ具合が部屋に響く。机の上のフォトフレームを見える場所に移すべく隙間を作り、左手で掴んだスマホにも同じ写真を表示させ、やっぱり素敵だなあと藤城は目を細めた。

「……遥さん」

考えてみれば無謀だったな……修士課程の真っ最中に結婚を申し込んで……なぜ遥さんは承諾してくれたのだろう。苦労することが目に見えていたはずなのに。いつだって遥さんは笑顔で…

「…ん…っ」
「藤城教授」
「…っ、はい!!」

扉が開いた音に気付かなかったのは不覚だったな、と藤城は慌てて白衣のボタンを合わせ立ち上がった。部屋に入って来た西條は、少々申し訳なさそうに藤城を仰いだ。

「実習のアレ、培地を乾燥させて菌を全滅させたらしいのですが」
「あ、ああ……菌が少なかったのかもしれませんね」
「黄色ブドウ球菌使います?」
「そうですね、そうしてください」
「時間も時間ですので今日は帰しますから、教授もお帰りください」
「あ、僕はまだ」
「可愛い奥さま、想像するだけでは足りないのでは?」

 

……終電より随分早い電車に乗れた。0時過ぎには家に着くなあ、と思いながら藤城は電車に揺られ、西條の言葉を脳内で繰り返した。想像するだけでは足りないのでは? ということは、想像していたということが大前提なわけで、なぜ想像していたのか、を考えれば何をしていたのか、は容易に導き出せるわけで。

ちゃんと施錠するべきだったな、と藤城はうなだれたが、「ああいうことを、学校ですべきではなかったな」という方向で反省していないことに疑問を感じるべきである。

 

───

 

「おかえりなさい」

家に入るとまだ起きていた遥が玄関まで迎えに出て来た。お疲れさま、と言いながら漣の首に腕を回し頬にキスをすると、漣はそのまま遥を抱き上げわき目も振らず寝室へと直行した。

「漣さん、ごはんは? お腹空いてない?」
「空いてますけど」
「お風呂、どうする? 入るなら沸かし直すから」
「入りますけど」
「写真、効果あった?」
「ええ、僕に」

首にしがみ着き笑っていた遥をベッドにおろすと、漣はネクタイを緩め脱いだ上着をテキトーに放り投げた。

「漣さん、上着しわになっちゃう」
「このままだと僕のしわが増えそうなので」
「毎日遅くまで大変だもんね」
「遥さん」
「なあに?」
「湊くんに……弟か妹、作りませんか」
「いまさら!?」

学生結婚という茨の道を選んだ漣と遥は、実家からの援助によりなんとか生活することができた。漣が講師になりやっと収入ができてからは、五年間たゆまぬ援助を続けてくれた実家への返済で余裕がなかった。研究結果という実績を挙げなければならない漣の生活基盤は大学中心になった。

とどのつまり、湊の弟妹ていまいを作る余裕も育てる余裕もなかったのだ。

「漣さん、湊はもう十六なのよ?」
「わかっています」
「我慢を覚えたり、円滑な人間関係の構築を覚えたりするには遅いわねえ」
「何かの役に立たせようと思っているわけではありません」
「漣さんは、もうひとりこどもが欲しいの?」
「湊くんが家を出て行ったあと……遥さんが寂しいんじゃないかと」
「まだ先の話じゃない?」
「そのときになって寂しくなっても困るじゃないですか」
「えー? やっとふたりっきりの生活が始まるのに?」
「……遥さん」

遥は漣のネクタイをほどき、ワイシャツのボタンをひとつずつゆっくり外すと、耳元で「父親じゃなくて漣さんが欲しい」と囁いた。学校の自室で西條に寸止めを食らっていた漣が堪え切れなくなるまで、さほど時間は要さなかった。

 

───

 

「実物も可愛いなあ…」

買い物に出掛ける遥が家から出て来たところを眺めながら、西條はニヤリと口の端を吊り上げた。職員名簿を見れば自宅の住所は簡単にわかる。焦る必要はない。

西條は家の周りを歩きながら、ゴミ捨て場や隣近所で犬を飼っている家、日中誰もいなさそうな家や小さなこどもがいる家などを確かめた。家の近くにある公園に出入りしているのはどういう層のひとたちなのか、宅配便業者が回るのは何時頃か、遥が習い事などに通っていないか、定期的に逢う友人などはいないか。

別に強盗に押し入るわけではないが、下調べは入念にするに越したことはない。誰にも見られない時間、誰にも見られない場所……調べものをすることに慣れている西條にとって、この手の作業はまったく苦になることはなかった。

 

 

「藤城さんですか?」

後ろから声を掛け、振り返ろうとしたところを口を塞いで車に引きずり込む。トリクロロメタンやエトキシエタンは研究室で簡単に手に入るが、テレビドラマや推理小説のようにハンカチに薬品を含ませそれを吸引させて気絶させる、ということがフィクションだと知っている西條は力技に出るしかない。

力技といっても、三番目もしくは七番目の頸椎に手刀で当て身をかますなどという技術は有しておらず、それを会得する機会もなかったため、まず暴れないよう身体にまたがり、大声を出されないよう口にガムテープを貼り、それから目隠しをしたのち腕と脚を縛る、というなんとも古典的な方法を取るしかなかった。

一応、怪我はさせていないはずだ。

 

西條は運転席に戻ると、何食わぬ顔で車を走らせた。