その71
いま僕はどうすることが正しいんだろう。背中で泣く彼女を優しく抱き締めればいいのか、激しく求めればいいのか、冷たく突き放せばいいのか。
結局、抗えずに抱き締めた。
可哀想な彼女と酷い彼氏は、酷い彼氏が折れて丸く治まるんだろう。ごめん、と言いながら彼女の頭をなでて、僕は優しい彼氏に戻る。それで彼女がしあわせだと思うならいいかなと思った。やっぱり彼女を愛しいと思うし、可哀想だとも思う。LINEや指輪や僕では、満たされない何か。
腕の中で眠る彼女は確かにここにいるのに、心はないみたいだ。
その72
彼女が慌てて腕をすり抜け、寝過ごしたと言いながら部屋をあとにする。一度自宅に戻って用意する時間あるのかな、と時計を確認したら僕も一気に目が覚めた。
着替えて車の鍵を取ろうとテーブルに手を伸ばすと、腕に当たって、彼女のスマホが、落ちた。 慌ててたから気付かなかったのかな…手元にないと不便だと思うけど。
とりあえずポケットに突っ込んで会社へと急いで車を走らせた。どうか、社内回覧が回ってませんように。
「楠本、ちょっと」
出社直後に神崎部長に呼ばれるのは心臓に悪いんだが、回覧のあとなのか。
その73
「おはようございます」
「楠本、おまえいま何年目だ」
「えーと…8年になります」
「本社行く気あるか」
…え、いきなりヘヴィな話だな。
「欠員ですか」
「出世だよ」
「…時間、いただけますか」
出世って、どういうことだ。 興味がないわけじゃないけど、本社は遠い。ここから通勤…は、無理だな。
「楠本さん、転勤ですか?」
振り返ると、湊と津川が何やら心配そうに立っていた。
「話、早いな」
「元人事のコネがあるので」
…で、湊はともかく津川はいきなりどうしたんだ。
「あ、楠本さん、同志です」
ほんとにいたのかよ…
その74
「楠本さん、ランチ行きましょう!」
昼になると、湊が津川とふたりで現れ、有無を言わさない雰囲気を醸された。
「…いいけど」
本社のことなら朝話が出たばっかりで、何も言えることなんかないんだが。
「本社の開発部、EPの課長が飛んだんですよ」
「…飛んだ、とは?」
「あ、地方に」
紛らわしい言い方をするな。
「結局欠員の補充ってことか」
「出世には違いないですよ」
「その課長、何やらかしたの?」
「不倫らしいですよ」
「…津川、何でそんなに詳しいの?」
「研修が本社の開発だったので、ツテが」
…怖いツテだな。
その75
不倫課長の後釜ねえ…まあその辺は個人の事情だから、関係ないと言えば関係ないけど。すると、ポケットが震え、驚いて手を突っ込んだ。…あ、彼女のスマホすっかり忘れてた…けど。
「早く逢いたい」というLINE、夜中のお母さんからの電話、日中のデート。どれもこれも誤解で、僕の思い過ごしなんだろうか。 ロック画面を見ながら、暗証番号を考える。誕生日か記念日か電話番号か
… 1回目で突破してしまい、セキュリティ甘いなという思いと同時に、知らないほうがいいこともある、という気持ちが頭をもたげた。