第九十二話 解語の花
「本っ当に三十分だけだからな」
半ば強制的に連れて来られた “新規オープンの小洒落たカフェ” のテーブルの上に、タイマーをセットしたスマホを置いた。沙羅は「オーダー取りに来て、商品が提供されるまでの時間はノーカウントでしょ」と、そのスマホを手に取りキャンセルボタンをタップした。
「賢颯くん、どれがいい?」
メニューを開きこっちに向けながら沙羅が訊く。小洒落たカフェのシャレオツなメニューを選ぶための時間が惜しい。
「好きなの、ふたつ頼めば?」
「え、いいの? ちょうど、どっちにしようか迷ってたのよねー」
そう言うと、沙羅は店員に手招きをしてメニューを見せながら「コレとコレを…アイスティーのセットで。あ、ガムシロ要らないから」と慣れた風に注文し、満面の笑みをサービスした。
ファッション誌で読者投票一位の人気モデルなだけあって、見た目は可愛い。うん、確かに可愛い。ツヤツヤな髪もツルツルの肌もウルウルの瞳もプルプルの口唇も、まあ可愛い。
「……なあに? 可愛いなあ、って見惚れてるの?」
「可愛いのにもったいないなあ、って呆れてんだよ」
「もったいない? わたしのどこが?」
「自分の可愛さが武器になるって知ってんのに、その武器の使い方がバチクソ下手なところ?」
「ふふっ、いまわたしとここにいるくせに、負け惜しみ?」
「オレはアンタの可愛さに釣られたわけじゃありませんけど?」
運ばれて来たアイスティーと二種類のチーズケーキを、「手、付けないで」と言いながら、鞄からスマホを取り出しグラスや皿の角度を調整し始める。お洒落なモデルさんがSNSにアップする写真は、当然お洒落でなくてはならない、ってとこか。若いうちから仕事熱心でご立派なこった。
さっき沙羅にキャンセルされたタイマーを再びオンにして、テーブルの上に置く。
「……で? 本当の目的はなんなんだよ」
「だーかーらー、将来のトップモデルとお茶したかっただけだってば」
「あのねお嬢さん、オレがそこまで女に慣れてない無垢な少年にでも見えんのか? あ?」
「全然……ねえ、食べないの? 美味しいよ? ほうじ茶のチーズケーキ」
薄っすらと笑いを浮かべ、黙ったまま沙羅から視線を逸らさずにいると、よほど居心地が悪かったのか、沙羅は動かしていた手を止めフォークを置いた。
「出版社のひとから、性格もいい完璧なイケメンだって聴いてたのに」
んなもん、相手によるに決まってんじゃねーか。オレになんの興味もないオーラ漂わせながら何言ってんだ。
すると沙羅は、テーブルに伏せてあった自分のスマホを手に取り、指先で何度か画面をタップしたあとそれをオレに向け、いままでの唯我独尊な態度が消滅したかのような、か細い声で訊いた。
「……これ…このひと、藤城くん…藤城 湊くん…だよね?」
スタジオのソファで本を読んでいる湊の写真……そのスマホを持っている沙羅の手は小さく震えているようだった。
「……アンタ、何者?」
「ねえ、一緒にスタジオに来てたんだよね? 賢…久御山くん、藤城くんの知り合いなんだよね?」
「その前に答えろよ……アンタ、何者なんだ」
「……藤城くんと…同じ中学校だったの」
「は?」
「一度……て、手紙を渡したことが…あるんだけど…」
── まさか、以前湊が話してくれた……家庭科の授業で作ったクッキーかなんかと、手紙を渡したっていう……同じ図書委員をしてた隣のクラスの……?
「次の日からしばらく、藤城くん学校休んでて……それで、久しぶりに登校して来たの見て、声を掛けようと思ったの。身体の具合悪かったのかな、とかもしかして手紙のせいで気分悪くさせちゃったのかな、とか……でも……あからさまに避けられたから……手紙のせいだったんだ、って……」
「……藤城、同じ高校で三年間同じクラスだったけど」
「…っ…あのっ…逢わせてもらえないかな…!」
「卒アルとかに連絡先とか載ってない?」
「……ひとりだと…やっぱり怖くて……」
この子が……沙羅が手紙を渡したこと、それ自体はなんの問題もないどころか、多分湊にとっては初めての出来事で、驚きはしただろうけど、嫌な気持ちになんてなってなかっただろう。ただその手紙が……湊にとって最悪な事態を引き起こすきっかけになったことは事実だ。
「……手紙のこと…謝りたいの…ずっと、そう思ってたんだけど…話すこともないまま、卒業しちゃったし…」
「藤城に確認してみるから、ちょっと時間もらってもいい?」
沙羅は涙ぐみながら、何度も何度もうなずいた。
オレはその姿を見ながら言葉にできない感覚を覚え、脳内で怒りと悲しみと憐れみと寂しさがぐちゃぐちゃに混ざり合い、どんな顔をすればいいのかわからなかったし、実際どんな顔をしているのか不安になった。
***
家に帰ると部屋は空っぽで、オレは残念なような、それでいて安心したような複雑な思いで溜息を吐く。
沙羅のことを湊に言うべきだろうか。そのことで湊が……つらくて、苦しくて、忘れたくて、ずっと蓋をし続けて来た思いに、再び囚われたりはしないだろうか。七種とのことはシロクロのおかげもあって、一旦は決着を見たはずだ。だからといって、現実は “過去” にはなっても “なかったこと” にはならない。
図書室で居眠りをする湊の姿を、まるで本から抜け出して来たのかと見紛うほど、沙羅の瞳には湊が美しく幻想的に映っていただろうし、その沙羅の想いにはなんの打算もなかったはずだ。
当然……その綺麗な湊が家庭教師に凌辱されていたことも、沙羅の手紙を読んだ七種が “他のヤツに自分の従順なペットを横取りされるかもしれない” と焦り、より一層支配欲を募らせ、超えちゃいけないラインを越えたことも、沙羅にはなんの罪もないし、湊に咎があるわけもなかった。
湊が他人を避けるようになった理由を、沙羅は知らない。それどころか、自分の渡した手紙で湊が気分を害したんじゃないか、といままで自分を責め続けて来たのかもしれない。
その時から……六年近く、沙羅は傷付いたままだったんだろうか。
仮に湊と沙羅を直接逢わせなくても……電話で話すとか、オレが代わりに伝えるとか、別の方法はあるかもしれない。怖いのは……いま落ち着いている湊が、沙羅のことを思い出すことで、同時に七種とのことを思い出し、ふりだしに戻る可能性が否定できないことだ。
以前桐嶋が言っていたように、湊はしかるべき医療機関でのカウンセリングや治療を受けていない。周りにバレないことを最優先に、心と気配を殺して生きて来たんだ。どんな些細なことがきっかけで、また奈落を彷徨うことになるかもわからない。
はあ……と溜息を吐いてソファに横たわると、スマホが鳴った。このタイミングで鳴る着信音は心臓に悪い……けど、あれ?
「……宗弥さん? どうかしました?」
「賢颯くん、今日撮影だったんだって? もう家に帰ってる?」
「ええ、ついさっき帰って来たところですけど」
「湊がね、うちの親に呼ばれて、いま俺の実家にいるのよ。あ、湊のじいちゃんとばあちゃんのところな」
「何かあったんですか?」
「いや……怠惰な年寄りが卒業祝い渡したいとかでさ」
「ああ、それで湊が呼ばれて行った、ってことですか」
「うん、でも出先でスマホの充電切れたみたいで……母ちゃんから家電で俺に連絡あったんだよね」
「充電器……ないんですね…」
「父ちゃんも母ちゃんも、らくらくホンなんだわ…しかも使ってねえし」
「なるほど、まあ、しょうがないですね、それは」
「夜には行くって言ってるから、ちょっとだけ待っててやってくれる?」
「了解です、わざわざありがとうございます」
……まあ、繊細に見えて割と雑で粗忽モンだからな、湊……わざわざ充電器なんか持ち歩かないだろうし、居場所がわかってるなら心配することもないか。
それより、沙羅のことをどう伝えるか、のほうがいまのオレにとっては重要で深刻だった。
***
「ごめん賢颯、遅くなった」
玄関の扉を勢いよく開け、湊は転がるように部屋に駆け込んで来た。
「おう、そんなに慌てなくても……」
「本当はもっと早く戻って来て、待ってるつもりだったんだけど」
「宗弥さんから連絡あったし、問題ないよ」
「お詫びと言っちゃなんだけど」
湊はアウターのポケットに手を突っ込んだあと、ドヤ顔でオレの顔に祝儀袋を押し付けた。
「戦利品……卒業祝いにおばあちゃんからもらって来た」
「祝儀袋、ってところが奥床しいというか」
何やらお洒落な水引をサクッと外し、中の封筒を確認した湊が一瞬硬直したように見えた。
「どうした? 図書カードでも入ってたか?」
「……ううん、現金だけど…」
「祝儀袋に現金が入ってて戸惑うヤツに驚くんだが」
「五万円……って…多くない!?」
「いや、オレに訊かれても……相場とか知らんし……」
「一応、大学の合格祝いも兼ねて、ってことなのかな……」
「まあ、身内のお祝い金って結構高いもんじゃねえの? 可愛い孫の卒業祝いなんだしさ」
「そっか……大学落ちたらどうするつもりなんだろう…」
「落ちねえ落ちねえ、もらっとけもらっとけ」
「……じゃあ、これで何か買おうよ」
「何かって?」
「んー、お揃いの靴とか、ネクタイ……は、賢颯売るほど持ってるか…」
「持ってない! え、何、どういう心境の変化!? お揃いで、なんていままで言われたことないのに!」
「んー……炊飯器でも買う? ホームベーカリーとか、圧力鍋とか」
「ヤダ! 身に着けるものがいい!」
「……とはいえ、服は好みが違い過ぎない?」
「確かにそれはそうだけど……ちょっとネットで探してみよ」
「派手なアクセとかは無理だからね!?」
別にオレに言わなくても、自分の欲しいもの買えばいいだけなのに……しかも “お揃い” っておまえ、可愛過ぎだろ……どうした、オレに鈴でも着けたいって思うくらい、独占欲が芽生えてんのか?
あまりにも発想が可愛くて嬉しくて、思わず湊を抱き締めたオレは ── 瞬間、なんだかイヤなことを悟った気がした。
「……湊」
「ん? もう欲しいもの思い付いた?」
「いままでどこにいた?」
「どこ、って……おばあちゃん家に」
「……エタノールの匂いがする」
「おばあちゃん家の消毒の匂いじゃない? 庭の手入れで指先切ったりするからオキシドールとか使ってるみたいだし」
「消毒用アルコールと、傷口に塗る消毒液って匂いが違う、って知ってる?」
「……そっか」
湊は少し硬い表情でアウターを脱ぎ、中に着ていたシャツを肘までまくり上げた。
「今日ちょっと家でお母さんと話してて……立ち上がったとき、立ちくらみ起こして転んじゃってさ」
「……それで点滴まで必要になるもんか?」
「ちょっと血圧低いから、点滴で少し栄養入れておこう、って話になって」
「その点滴の跡がそこまで広範囲に内出血するもんか?」
「看護師さん、下手だったんじゃないかな……漏れると内出血酷くなるみたいだし」
「湊……いま、やり過ごせたとして、それになんの意味があるんだ?」
「……」
「遥さんか? 宗弥さんか? 誰に連絡すればわかる? どこの病院?」
「…わかったから……説明するから、ちょっと落ち着けよ」
湊はまくり上げた袖を元に戻しながら、小さく溜息を吐いてソファに腰をおろした。その湊の前で正座をしたオレを見て、湊は思わず噴き出した。
「明日からちょっとだけ、入院する……っていっても、検査するだけだから、そんな長い期間じゃないよ」
「検査、って……なんの? どこが悪いの?」
「おまえが入院するたびに不安になった、僕の気持ちがわかったみたいで何よりだよ」
「検査って、何を調べるため? どっか具合悪いってことだろ!?」
「受験勉強のせいでさ、栄養不足と睡眠不足が祟って、ちょっと貧血気味なんだって」
「……貧血?」
「うん、鉄分足りないのか、ビタミンや葉酸が足りないのか、ちょっと詳しく調べましょうって」
「ほんとにそれだけ? 検査結果出たら薬とかで治る?」
「原因がわかれば薬の種類も決まるだろうしね」
湊の足元で正座するオレの頬を両手で覆い、湊は小さな声で囁くように言った。
「だから…なんていうか……数日…できないからさ…」
「湊……」
「おまえは…心配でその気になれないかもしれないけど…」
「心配なのは……当たり前だろ」
「うん、でも……」
── 賢颯……そのカラダ、僕の好きにさせて……
そっと舌を差し出すと、湊のなめらかな舌に巻き取られ、まるで抱き締めるように絡めた舌で、まとわり付く唾液と増して行く熱さを確かめ、上顎を優しくなでられながら口唇を包み込まれた時にはもう、オレは湊の一部になったような感覚に陥った。
背中に回された手にカラダを引き寄せられ、ソファの上で湊はそっとオレを押し倒す。ゆっくりとベルトを外し、ジーンズのファスナーをおろした湊は、湿度の高い吐息を漏らしながらジーンズをさげ、硬く張り詰めた部分を布の上から愛しそうに食んだ。
布越しに伝わる口唇の柔らかさと、舌を這わせ濡れた部分が徐々に密着して行く感触。腕を伸ばし、湊の頭をそっとなでると、唾液で濡れた薄い布を、湊は口唇で器用におろした。
何度も何度も求め合い、繰り返して来たはずの行為が、今夜ほど愛しいと感じたことは、初めてだった。