第二話 及ばぬ鯉の滝登り
「藤城……は、現状維持で」
「……はい」
夏休みに入る前、担任からそう言って渡された成績表をそっと開き、まあまあかな、と思って閉じた瞬間、真上から声が聞こえた。
「本当に頭いいんだな、おまえ」
「……な、なに見てんだよ!」
「偶然見えただけだよ」
「覗き込んでおいてどんな偶然だよ、ほら、見せろ」
「は?」
「おまえの、ほら」
「いいけど……」
そう言うと久御山は僕に成績表を差し出した。
「え、ほんとに見てもいいの?」
「別に面白くもなんともないけど」
他人の成績表を見ることなんてないからな……少しドキドキしながら成績表を開いて……僕は溜息を吐いた。
「おまえ……見た目いいのに頭までいいのかよ……」
「藤城だって見た目も頭もいいじゃん、同じでしょ」
「はあ? 全っ然違うよ!」
「違くねえよ…………藤城、部活入ってたっけ」
「は、入ってないけど……」
「一緒に帰ろうぜ」
「なんで!?」
……こうして言われたとおり玄関で待ってたりするからナメられるんだろうな。特に用事も予定もないからいいんだけど、別にいいんだけど……
考えてみれば高校に入って三か月、こうして誰かを待ったことなんて一度もなかったな。まあ、中学三年間も誰かを待ったことなんて一度もないんだけど。
しばらくすると階段を下りてこっちに歩いて来る久御山が見えた。やっぱり格好いいよな……ただ歩いてるだけなのにひとりだけ雰囲気が違うっていうか、少女漫画なら絶対薔薇の花背負ってるんだろうな。
「ごめん、待たせた?」
「いや、大丈夫」
「徳田の話長くて……」
「徳田って……生徒指導の?」
「おお、それそれ」
「うちの学校、服装とかそんな厳しくないよな?」
「そうだな、服装については特になんも言われてない」
……不純異性交遊でもバレたのか?
ふたりでなんとなく歩き、なんとなくコンビニに寄って、なんとなくまた歩いた。お互い家の場所も知らないし、一緒に帰るっていってもいまどこに向かってるのかさえわからない。
「藤城、身長何センチ?」
「……ひとが気にしてることを、そんな堂々と訊くかなあ」
「は? 気にしてんの? なんで?」
「なんでって……久御山は? 何センチ?」
「182くらい? もうちょっと伸びてるかもしれんけど」
「デカっ……いいなあ……そんだけデカいと景色違うよなあ……」
「なによ、おまえ何センチなのよ」
「ひゃく……ろくじゅう……よん……てん、よん」
「その “てん、よん” が重要なんだな?」
「うん、僕にとっては死活問題」
「死なねえ死なねえ」
「はあ……せめて170は欲しい……」
「成長期、まだなんじゃね? 卒業する頃にはオレよりデカいかもじゃん」
「そうかな!」
久御山の肩が小刻みに震えてるのがわかる。なんだろう、この余裕綽々な感じ。
「なーにがおかしいんだよ」
「いや……藤城って素直で可愛いなあと思って」
「え……素直とか……言われたことない」
「マジで? 超素直じゃん」
素直じゃないから……僕は普通がわかんないんだよ。
「……藤城、うち来る?」
「え……」
「ここから割と近いし、ただ歩いてるのも非生産的だし」
「そ、そんな、突然行ったら邪魔じゃない!?」
「全然へーき」
久御山はイケメンで女の子にモテモテだけど、誰とでも分け隔てなく接するからか男からのウケもいい。さぞかしたくさん友達がいるんだろうな、とスマホを触る久御山を見て思った。
「なんもないけど、どうぞ」
着いたのはマンションで、案内された部屋は ──
「久御山……ひとり暮らしなの?」
「おお、内緒な」
「え、内緒なの? 誰も知らないの?」
「おまえ、こんなことがバレてみろ、汚え野郎どもの溜まり場にされんだろ」
「きれいな女の子、泊め放題じゃん」
「なるほど、それは盲点だったな」
ひとり用の小さな玄関。無垢材のフローリングがお洒落なリビングには、革張りの大きなソファと小さなガラステーブルしかなく、シンプルな暮らしっぷりが窺えた。もしかして……「オレだけこんななの」が、ひとり暮らしの理由なのかな……
「あー……実家、追い出されたわけじゃねえぞ?」
「そ、そんなこと思ってないよ」
「うん、ただなんつーか……オレがね、息苦しいっつーか居場所ないっつーか……ほら、疑惑は晴れてんだけど、やっぱ変なのがウロついてると親父も気にするっつーか、いや親父もそんなことは言わねんだけどさ」
「……やめろよ、変なのとか言うの」
「あ、うん……いやでもほら……やっぱ、ちょっと違うじゃん」
「久御山は格好いい。超イケメン。肌も白くてきれいだし髪もふわふわで薄茶色だし目の色もすごくきれいだし身長高いし男にも女にも甘いし挙句頭いいし、いいとこだらけ。もっと誇れよ」
「……藤城にはオレがそんな風に見えてんの?」
「僕だけじゃなくてみんなそう思ってるよ」
「みんな、ねえ」
顔を上げると、着替えてる最中の白い肌が目に映りドキッとした。同じ歳だと思えないよな、この身体……久御山と目が合い、慌てて目を逸らした。
「久御山……腹筋割れてんだね……」
「おまえ、工事現場のバイトなんざ単なる肉体労働だかんな?」
「バイトって……工事現場で働いてんの!?」
「こっちにツテとかないし、十五、六だと限られるんだよな」
「え、バイトって毎日? もしかして生活費!?」
「週三か四くらい。家賃は親が出してくれてるけど、光熱費とか食費は自分持ちだから」
「久御山って……見た目に反して苦労人なんだ……」
「見た目、そんな苦労してなさそうかよ……」
「……僕も工事現場で働いたら…そんな格好いい身体になるかな……」
「そりゃなるだろうけど……結構しんどいよ?」
僕は久御山の注いでくれた麦茶を飲みながら、この麦茶も久御山が稼いだ金で買って久御山が作って冷やしたもんなんだよな、となんだかありがたくなってグラスを握り締めた。麦茶がこんなに尊いと思う日が来るなんて、想像すらしてなかった。
「麦茶……こんなに美味しいと思ったの、初めてだ」
「スーパーのお徳用だけど……」
「うん、でも久御山が買って久御山が注いでくれたから」
「……藤城……おまえ、可愛いこと言うよな……」
「え、可愛い? 可愛かった!?」
「顔も可愛いけど、いちいち言うこととか可愛いよなあ」
「は? 顔?」
「うん、顔……この前眼鏡取ったの見て正直驚いたもん」
「え、眼鏡?」
「ほら、屋上で卵焼きもらった時の」
「……あ、ああ、そういえばそんなこともあったね」
「……藤城、自分の顔ちゃんと見たことないの?」
「裸眼だと鏡に映る自分の顔も見えないから」
「でもほら、写真とかあるだろ」
「写真、撮らないから……」
「なんで?」
「なんでって……写真撮る機会なんかないもん」
「卒アルとか」
「眼鏡掛けてる」
「……よし、眼鏡取れ」
「なんで!?」
「写真撮っちゃる」
「い、いいよ! そんなことしなくても大丈夫だから!」
眼鏡を取ろうとする久御山をかわしながら眼鏡を取られまいとする僕たちふたりは、誰が見ても十五とか十六の高校生がふざけ合ってる姿だったと思う。
結局身長差のせいで久御山に眼鏡を取られ、取り返そうと腕を伸ばした僕は……バランスを崩して久御山をソファに押し倒してしまった。慌てて抱き留めてくれた久御山の腕の力強さに、僕は息ができなくなった。
「ごめん、大丈夫か?」
「う、うん……」
成り行きで……そのまま、ただなんとなく僕は久御山にキスをされ、ただなんとなく……入って来る舌を受け入れた。あの時は……無理やり口の中をかき回されたように感じたけど……久御山の舌は探るように僕の舌を掴まえ、優しく絡ませて……やらしく音を立てた。
「ん……久御山……ちょっ……んんっ」
「写真……撮ってもいい?」
「……恥ずかしいから…」
「撮らせてくれないならもっと恥ずかしいことしちゃうけど、いい?」
もっと恥ずかしいことって…………恥ずか……駄目に決まってるだろ!
結局僕は眼鏡を外し写真を撮られることにした。
「ほら、見てみ?」
久御山が差し出すスマホを受け取り画面を見てみる。
……誰だ、これ。
「誰、これ……」
「誰って……おまえだろ……」
「僕……こんな顔してる?」
「力一杯こんな顔してるな」
昔から顔が幼いとか女顔だとか言われたけど、成長するに従って男っぽくなるもんだと思ってた。でもスマホの画面に映ってる顔は、どこからどう見ても……女子だ。いつの間にこんな顔になってたんだろう……なんかもう身長とか腹筋とかの問題じゃなくて、根本的に久御山とは違うんだな……
「なに、まさか落ち込んでんの?」
「…だって……こんな顔してるなんて知らなかったし……」
「度の強い眼鏡掛けてるからなあ……つーか落ち込む必要、ある?」
「あるよ! 男らしく格好良くなりたいのに!」
久御山は僕の頭をポンポンと軽く叩いたあと、もう一度僕にキスをした。
「……こんな顔でも男なんだけど」
「わかってるよ」
「なんで、あの……わかってるのにそういうことするのかな…」
「そういうことって?」
「……キス…とか…」
「え……考えたことなかった」
「は?」
「や、えっと……なんか身体が勝手に……」
久御山、おまえそれもう犯罪者の言い訳だよ……
「藤城は可愛いよ。お肌すべすべで髪も黒くてツヤツヤでそれなのに虹彩の色味薄くてまつげ長くて首も細くて。なんか息を潜めながら集団の中にいる感じが儚くて、それなのに学年イチ頭良くて。誇ればいいじゃん」
「……男が可愛くて、なんか価値ある?」
「価値、ねえ……少なくともオレは欲情するけど」
「よ……欲情って、おまえ」
「でも凛として他人を寄せ付けない感じ」
そんな風に言われたのは……初めてだ。
「ま、オレもその他人のひとりなんだけどな」
飄々とした態度で無防備に近寄って来るくせに、時々こうして久御山は予防線を張る。そんな時、近付きたいのかそうじゃないのかわからなくなって、僕は次の言葉に困った。
「……欲情するとは言ったけど、手出したりしないからそんな構えんなよ」
「か、構えてないよ!」
「藤城はなんつーか、汚しちゃいけない感じするし」
……僕は……そんなきれいな人間では……
帰りの電車の中で、僕は無性に悲しくなった。
久御山はなんていうか人たらしってやつで、相手が男だろうと女だろうと変わらず優しいんだと思う。イケメンで背が高くて腹筋も割れてて頭も良くて、みんなきっと久御山を好きになる。知らないところで悩んで苦労してる久御山を、人前でそんなこと微塵も感じさせない久御山を、きっとみんな好きになる。
僕の欲しかったものを、僕の持ってないものを全部持ってる久御山は、僕が当たり前に持っているものを持っていなかった。灯りの点いた家とか、母親が作るごはんとか、こどもとしてもらってて当たり前のものを久御山は持たずに生きてる。
生きて行けてる。
僕は……
「湊……どこか行ってたの?」
家に帰ると母が心配そうに玄関まで出て来て僕の姿を確かめた。
「まだ八時だけど」
「いつもより帰りが遅いから、どうしたのかと思って」
「どうもしない」
「でも、湊」
「何もないから!」
急いで自分の部屋に入り、頭を抱えた。心配させてるのは自分なのに、どうしても母にきつく当たってしまうのが堪らなく嫌だった。
ベッドに転がって久御山のことを考える。
入学式で誰よりも目立っていた久御山は、あっという間に学校中の人気者になった。いつだって女子に囲まれて、そうじゃないときは男に囲まれて、みんな久御山のことが好きで楽しそうにしてるのに。
…なんで僕なんかに……キスするんだろう……
やっぱり挨拶みたいなものなんだろうか。いや、挨拶でさすがに舌は…入れないだろ……女の子に相手にされないから仕方なく僕をっていうならわからなくもないけど、超相手にされてるもんな。選び放題なんだからわざわざ男を相手にする必要なんてどこにもない。
僕が男だということを証明するただひとつのものが、硬く熱くなって行くのがわかる。制服の中に手を入れてソレを握ると、胸の奥がぎゅうっと締め付けられたように苦しくなった。
── 久御山……
こんなこと、想像しちゃいけない……そう思いながら、久御山の舌をゆっくりと、丁寧に思い出す。なめらかに動く舌が音を立てながら絡んで……あの舌で吮められたら……動かす右手の摩擦係数が下がる。僕は同級生をオカズに、こんなに興奮してこんなに……濡らしてるのか。
誰にも知られちゃいけないことが増える。
あの時のことも、久御山のことも ──
「あっ……」
久御山に吮められイった僕は、しばらくの恍惚感と……果てしない罪悪感に襲われる。うわ、最低だ……久御山にこんなことさせて……いや、させてはいないんだけど……ごめん、久御山……
変なの、は僕のほうだ。