第二十五話 世の中には月夜ばかりはない
「…あ…っ…んん…ん」
「…っ…ん…」
場所はどこでもよかった。屋上でも、図書室でも、保健室でも、音楽室でも、教室でも、どこかの部室でも。時間帯によってひとが来ない場所なんていくらでもある。誰かに見つかっても構わなかった。受験のストレスで、と言えばある程度のことは赦されるような気もしてた。
「なんで真光はこんなことしてんの?」
「なんで、って……して、って言うからでしょ?」
「……なんで断らないの?」
「断って欲しいの?」
「そうじゃないけど……誰彼構わず盛ってるから」
「別に盛ってるわけじゃないよ」
「好きなひととかいないの?」
「……いるよ」
「……いるんだ…それなのに、ところ構わず盛ってんの…?」
「盛ってないというのに……」
「大事過ぎて好きな子には手を出せないとかいうアレ? 文学的な感じ?」
「どうだろう……そうなのかな」
大事過ぎて手が出せない以前の問題だ。相手はおれの気持ちすら知らないんだから……
最初はバレたらマズいな、という気持ちもあった。マズいというか、知られたくないというか。回数を重ねるうちに、まったくバレないことが少々寂しくもあった。ああ、まったく眼中にないんだな、おれに1ミリも興味がないんだな、と思い知ってからは、好きな相手を忘れるための手段にしていたかもしれない。
ここに来て、こういう展開になるとは思ってもみなかった。
──
「ねえ真光、エッチしよ」
職員室の前で誘われるのも、まあ背徳的で悪くはない。うん、と言い掛けて横を見ると、プリントや地球儀を抱えキャパオーバーになっている……藤城がよろよろと通り過ぎて行った。
「…ごめん、また今度ね」
右手に抱えている地球儀を持ち上げると、藤城は慌てておれを見上げ少し安心した顔をした。
「橘さん…」
「どこまで持って行くの?」
「社会科資料室ですけど、大丈夫ですから」
「……迷惑?」
「いえ…そうではないんですけど」
「もしかして、襲われるかもって思ってる?」
「ち、違います…!」
入学式で宣誓文を読んだという話を聞いて、確かに勉強できそうな感じだな、と思った。けれど、その他は突出した何かがあるわけでもなく、特に優れている面が見えるわけでもなかった。それなのに藤城には、構いたくなるような何かがあるような気がした。庇護欲をそそられるとか、そういう感じなんだろうか。
社会科資料室の鍵を開け、持って行ったプリントと地球儀を片付ける。藤城は言葉どおりにっこりと笑って「ありがとうございます、助かりました」と声を弾ませた。
「藤城って、なんで桜庭と仲いいの?」
「以前、階段から落ちそうなところを助けてもらったことがあって」
「へえ……そんなことが」
「橘さんは桜庭さんと仲いいんですか?」
「水と油かな」
「…そうなんですか?」
「真面目で努力家の桜庭と、教室でエッチしちゃうおれ、合うと思う?」
「……わ、わかりません…けど…」
「崇高過ぎて、とてもとても……」
薄暗い資料室で藤城の眼鏡をそっと外すと、しばらく硬直したあと大慌てでその手を突き出した。
「もう…返してください!」
「……ビックリするくらい…可愛い顔してたんだね…」
「橘さん! 見えないから返してください!」
藤城の口唇を舌でこじ開けると、両手でおれを押し返そうと力を込め全身で拒絶する。
「…ん…っ…たち…ば…なさん…!」
「……嫌がる割に、慣れてるのはなんで?」
藤城の顔色が変わった。
「…なんで…って…」
「何にも知らないみたいな顔してるのに、絡めた舌が柔らかいから」
「やめてください…」
「あ、ごめんね……困らせるつもりはないんだけど…」
「充分困ってます…」
「付き合ってる子、いるの?」
「……いません…けど…」
「そうなんだ、じゃあおれと付き合わない?」
「……はい?」
「いきなり好きになれっていうのはアレだから、お友達から」
「いえ、あの、僕……好きなひとはいるので…」
真っ赤な顔でそう言った藤城が、可愛くて、儚くて、羨ましくて……憎らしかった。
「ふふっ……冗談、あまりに可愛かったから、ちょっとからかってみたくなっただけ」
「…やめてくださいよぉ…!」
泣きそうになっている藤城に眼鏡を返し、頭をなでた。意識の遠いところで、「こういうのが好きなのか」と他人事のように考えている自分がいた。
──
家にいると憂鬱な思いに心が絡め取られる。受験に専念したいと思う反面、大学に行ってまで何がしたいのかわからなくなり、何もかも投げ出したくなる。
桜庭に借りた問題集を開き、数字を目で追ってみる。何度も同じ行で目が滑る。集中しようと思えば思うほど、頭の中は霧が掛かったように不鮮明な視界を作り出す。そして、部屋の扉が音もなく開き、背中から回される腕をそっと取って目を閉じる。
「真光……」
「眠れないの?」
「薬が…効かなくて…」
「うん、眠れるまでそばにいるから」
細い身体をベッドに横たわらせその手を握ると、泣きながらごめんなさい、と繰り返す。頭をなでながら大丈夫だよ、と言って笑うと今度は「愛してる」と繰り返しながら、安心したように腕を伸ばす。
── 愛してる
「あ…ああ……っ…あ」
長く艶やかな髪が顔をかすめ、粉っぽい甘い香りに抗う心が崩れ出す。
「…ん…真光……あ…」
大丈夫だよ、大丈夫だよ、大丈夫だよ……
「ああ…っ…あ…あああ」
「……母さん」
おれが、そばに、いるから ──
***
放課後、図書室で参考書と問題集を開いていると肩を叩かれ、振り向くとそこには桜庭が立っていた。
「珍しいな橘、どうした?」
「なんか集中できる環境が欲しくて」
「ああ、自宅だと誘惑が多かったりするよな」
「……うん、五分のつもりで朝まで熟睡とかね」
「うち、来る? 夜まで親はいないし、静かだとは思うけど」
「え、いいの…?」
「眠らないように監視するくらいはできるよ」
そう言って桜庭は微かに笑った。
桜庭の部屋はきれいに片付けられていて、真面目な性格をそのまま表しているようだった。ただ、部屋の一角にはゲーム機がいくつか置いてあり、その横にはソフトが積み上がっていた。
「……桜庭、ゲームするの?」
「うん、たまに」
「PSとWiiとXboxとって…たまにするヤツの部屋じゃないよね…」
「Switchもあるけど」
弓道にしか興味がないと思っていたけど……年相応にゲームとかするのか。
桜庭が「はい」と言って、マグカップを差し出す。
「……桜庭が淹れたの?」
「インスタントだけど」
「コーヒー淹れたりするんだ」
「なに、そんなにおれって何もできなさそうに見える?」
「勉強と弓道以外、興味ないのかと思ってたから」
「そんなわけない……」
「…そういえば、イケメンラヴァーがいるんだったっけ?」
「…っ…あれは雑誌社のひとが面白がってそう書いただけだよ」
「まあ、そうだろうね……桜庭、女の子にモテるし」
「橘こそ、いつも女の子に囲まれてるだろ」
「おれは……興味ないんだけどね」
「へえ…なんで?」
「振り向いて欲しいひとは、振り向いてくれないから」
桜庭が何か言い掛けて、それを飲み込んだのがわかった。詮索も、下手な慰めもしないのは桜庭の誠実さの表れなんだろうな、と思った。
「…メネラウスの定理か、ベクトルか、直交座標か…どれで解くか」
「気合いも根性もないから座標はパスだな…」
「でも橘、文系じゃなかったか?」
「図形問題は文系でも出るでしょ…」
「志望校、変えたって聞いたけど」
「うん、ジュリアードの推薦状もらってたんだけどね」
「ジュリアードって……アメリカの?」
「そうそう、ニューヨークにあるアレ」
「……橘、実はすごいヤツなんだな」
「実は、ってどういう意味よ……桜庭はなんで東大?」
「……家から近いから?」
「全国の受験生に謝れよ……」
本当の動機はなんなんだろう、と少し気になった。
***
クラスメートがいなくなった教室で、橘は席に座り黒板を凝視していた。帰り際、廊下からその光景を目にしたおれは、そのまま通り過ぎることができなかった。
「帰らないのか?」
「…桜庭……いや、もう帰るけど」
教室の中に入り橘の前の席に腰をおろすと、橘は机に突っ伏してボソッとつぶやいた。
「…もう勉強したくない」
「わかる……詰め込み過ぎていろいろ見失ったりするよな」
「このままだと犯罪者になりそうで」
「ありがちな話だけど、それは勘弁してくれ」
橘は顔を上げて頼りなく笑った。
「うちに来ない?」
「……いいけど、突然行って迷惑じゃないか?」
「全然…誰もいないし」
家に行く理由はなかったけど、いまの橘を放っておけないと思った。なぜそう思ったのかはわからない。ただ、酷く疲れた顔をしている橘が単純に心配だったのかもしれない。
「橘……成城に住んでるんだ…」
「うん」
一階に二台分の駐車場がある大きな家の前で橘は立ち止まり、「ここ」と言って階段をのぼって行った。橘の優雅な外見の何割かは、この環境によって作られたものなのかな、と思った。
「おかえりなさいませ」
「ただいま、えっと、こどもの頃から家を任せてる志紀さん」
「お邪魔します、桜庭です」
「同級生の桜庭」
「いらっしゃいませ……お飲み物はお部屋にお持ちしましょうか」
「うん、お願い」
まさか、専属のお手伝いさんがいるような家だとは思ってなかった……せめて菓子折りのひとつくらい用意するべきだったんじゃないか…いや、学校帰りに同級生の家に寄るだけなのに、それも変か…
「どうぞ」と通された橘の部屋で、思わず足が止まった。
壁に造り付けられた大きな机とベッド。その他には何もない、広々とした部屋だった。
「…何もなくて、ドン引いてる?」
「いや、まあ…本当に何もないな」
「無趣味な男の部屋なんて、所詮こんなものよ」
橘は自嘲気味に笑ってみせた。学校にいる間は常に女の子に囲まれ華やかに見える橘が、なぜか寂しそうに見えた。
大きな机に並んで向かい、参考書や問題集を広げながら話した。志望校が同じだということで、宗さんから聞いた傾向と対策はそのまま橘にも当てはまった。特に科目ごとの出題傾向は、橘にとって目から鱗だったようだ。
「どうしてジュリアードやめたんだ?」
「もう、ピアノを弾く必要がなくなったから」
「……必要?」
「うん、割と義務感に駆られてたっていうか」
「ああ、なるほど…わかる気がする」
「迷うことあった? 弓道やってて」
「あったよ。中らなくて何度もやめようと思った」
「へえ……意外」
「そうか?」
「桜庭は、回り道はしても諦めたりしないのかな、って思ってた」
「買いかぶり過ぎだろ」
橘に頼まれた志紀さんが、軽くつまめる物を、とサンドイッチを作って持って来てくれた。本当にこういうお手伝いさんのいる家庭ってあるんだな……
「橘……これ、何?」
「サーモンのパテかな」
「こっちは?」
「レバーペーストかな?」
「…おれの知ってるサンドイッチじゃないな」
橘は「志紀さんがいいところ見せたくて頑張ったんだろうね」と声をあげて笑った。その姿を見ておれは少し安心した。
「桜庭はおれが苦手なんだと思ってた」
「そんな風に思ったことはないけど」
「うん、いろいろありがとう…助かってる」
その時、なんとなくひとの気配を感じて振り返った。おれと橘の他には誰もいなかった部屋に、女性がひとり立っていた。
「……母だよ」
「あ……お邪魔してます」
そのひとはおれを見ると、少女のようなあどけない笑顔で小首を傾げた。驚いた……いきなり無言で背後に立たれると、さすがに同級生の家族でも焦るな……
橘が立ち上がると、母親は橘の背中に黙って着いて行く。喩えようのない違和感の中、母親は立ち止まった橘の前でひざまずいた。
どうしたんだろう、とふたりを眺めていると、カチャッと小さい音が鳴り橘のズボンが滑り落ちた。ちょっと待て、一体何を……驚くおれの耳に、規則的に鳴る水音が響いた。
「……橘…?」
「狂ってるでしょ?」
── このままだと犯罪者になりそうで
しばらく続いていた水音が止まり、言葉を失っているおれの前でその母親はおもむろに服を脱ぎベッドへと納まった。橘に向かい真っ直ぐ腕を伸ばすと、小さな声で「真光」と橘を呼ぶ。
「せっかく来てもらって悪いけど…」
掛ける言葉もなく、おれは玄関の外で立ち尽くした。
***
いきなりこんなものを見せられて、桜庭も動揺しただろうな……ただこれで、もう引き返す道などないという現状が、自分の決心を萎えさせないための楔になった。
仕事にしか興味のない父と、その父にしか興味のない母。父が遠くなるごとに心のバランスを崩し、愛されたくて半狂乱になる母の姿は、そのままおれの姿だったんだろうな、と思った。愛されたくて、愛されなくて、紛い物の愛で自分を満たそうとして、でもそれが過ちだとわかっていたからこそ、手放せずにいた。
手放せば……容赦なく降り掛かる現実を認めなくてはならなくなる。何にも気付かない振りをして、まやかしの愛情に浸っているほうが楽だったんだ。母も、おれも。
机の引き出しを開け、隠しておいたものに手を伸ばす。
牛刀包丁だと大袈裟過ぎるかな、と選んだのはペティナイフだった。使い途に変わりはないのに、何が大袈裟で何がちょうどよかったのか、いま思うと笑えて来る。
「……おいで」
ベッドから抜け出し裸体でおれの前に立つ母は、いつもと勝手が違うことに戸惑いを見せた。
「きれいだね……でも、おれは親父にはなれない」
両腕を伸ばしおれの首にしがみ着いた母が泣き出すと、心が折れそうになった。愛するひとの関心を惹けなくなり、抜け殻のように生きる可哀想なひと。狂って行く毎日の中で、救いなんてあったんだろうか。
「もう、終わりにしよう」
トン、と手に軽い衝撃が加わり、それを慎重に押し込んだ。手元に抵抗を感じ力を入れると、明らかに “何か” をかき分けるような感触に気分が悪くなる。結構力が必要なんだな……なぜか頭の中はすっきりと冴えていた。
「……ごめん」
そう言うと母は大きく目を見開いた。おれの声が聞こえているのかはわからない。
足元に生温かいものが触れ、俯いて確かめた。結構ゆっくり流れるものなんだな、と床に広がって行く赤黒い血液を眺めた。とんでもないことをしてしまった、という感覚よりも、これですべてが終わるんだ、と心が軽くなって行く感覚のほうが鮮明だった。
── さようなら、母さん。