第六十九話 未来永劫
「……養子?」
「きみたちはもう十八歳なので普通養子縁組になりますが」
黒檀の病室で穏やかに微笑む冬慈とは対照的に、黒檀も白檀も鳩が豆鉄砲で蜂の巣にされたような顔をして訊き返した。
「あの、ゆうたらなんやけど…うちらもう養うてもらわなあかんほど小さないし」
「そうですね、それはわかってます」
「それにあの…不遜な言い方やけど、遺産相続とか必要ないくらいぼくら資産もあるし」
「財産分与のためでもありません」
「ほな、なんで?」
「きみたちが僕の息子やからですけど」
少し起こしたリクライニングベッドの上で、黒檀は冬慈の顔を凝視した。冬慈の言っていることに間違いはないにしても、産まれて十八年、この手の話に触れたこともなければ、相手方から振られたこともない。それは当然白檀も同じで、ただ黙って冬慈の顔を見つめるだけだった。
「……何をいまさら、ゆう顔ですか?」
「いまさらも何も、トウジには家庭があるというか、妻子があるというか」
「こんなことゆうて、腫れ物に触るような話もないさかい言わさしてもらいますけど」
── 僕は医者やないので詳しい話はわかりません。ほんでも、もしかしたら白檀くんがしんどい病気発症する日が来るかもしれません。仮にそうなった場合、僕はなんも知らんと遠いとこにいててええんやろか、と……なんも気付かんまま、後々になって誰かから聞かされたりするんやろか、と……
じゃあなんで僕は欅さんにこどもを産んで欲しいと頼んだのか、なんで義務や責任ゆう言葉で取り繕って養育費と引き替えに面会の約束を取り付けたのか、思い出したんです。
「勝手な話ですが……僕の血を受け継ぎながらも、自由でしあわせになれる子が…欲しかったんです」
── 久御山の家に生まれて僕は……自由やったことも、しあわせやったこともありませんでした。血統や家柄、世間体にしか執着のない母と、その暴君に逆らえない婿養子の父。ひとをひととも思わない一族の浅ましさと冷酷さ。僕はただ敷かれたレールの上を歩くだけでした。
進学先も会社でのポストも車も、身に着ける小さなものひとつすら僕は自分で選べませんでした。当然、結婚相手も条件に見合った女性を紹介され……家督を継ぐための生贄を、ただ延々とこの世に送り出す。その環の一片でしかない僕は、ひとならざる者として一族に与する以外の生き方を知りませんでした。
我が子すら自分の知らないところで作られる始末で。
もう産まれて来た意味や生きる理由など考えもしなくなった頃……僕は欅さんのことを知ったんです。
元々母は妻にきつく当たるひとでしたが、気付けば箸の上げ下げにさえ苦言を呈するようになっていて……さすがにそれは尋常やない、と思い母とその秘書、それから妻と妻の生家を調べました。
そして興信所から受け取った調査結果で……妻が懐妊しないことと、形代の母親が双子を身ごもって消息不明になっていることを知りました。双子であれば形代としての義務もない、消息不明ゆうことはどこかで産むつもりなんやないか、と僕は再び興信所と弁護士、警察関係者を内密で動かしました。
僕は……初めて僕は、自分の意思で成し遂げたいことを見つけました。欅さんを探している間、僕は呼吸の仕方がわからなくなったんです。酸素を吸って、吐いて、頭で意識しながら懸命に息をして、やっと生きている実感が湧きました。欅さんを見つけられない焦りや不安が、僕を人間だと教えてくれました。
欅さんを見つけ、頑なな欅さんを何日も説得し続け、僕は……”一族とは無関係に生きる我が子” に逢える約束を取り付けました。生贄をこの世に送り出す環から外れた、自由な我が子を……きっと美しい世界を知る子を。
「一族を裏切る、唯一の抵抗やったのかもしれません」
「トウジも大変やったんやな…」
「何より身勝手なことゆうてもええでしょうか」
── 欅さんが説得に応じてくらはって、産まれた子に逢うことも経済的支援を受けることも赦してくらはった時……僕は妻と別れ久御山の家を捨てようと思いました。妻との間にはまだこどももいませんでしたし、僕と別れれば妻も楽になれるのでは、という期待もあったので。
貧乏な暮らしになるかもしれない、もしかしたら逃げ続けることになるかもしれない。それでも、欅さんなら一緒に苦労してくれるんやないかと思いました。何より……なんの足枷もない我が子と一緒に生きられることに喜びが溢れました。
「ケヤキと……一緒になるつもりやったん…?」
「なりたい、と……思いました」
── そやけど、先回りして釘刺されたんです。浮かれてた僕があほやったんですけど……その日、欅さんの顔を見に行こうと思い家を出ようとした僕に、母が言いました。
『最近なんや浮付いてるみたいやけど……外に女でもできたん? まあ浮気のひとつやふたつ好きにしたらええけど、どこの馬の骨かもわからん女孕ませるような真似だけせんといてくださいね。こない嫁でもええとこの娘さんやさかい、離縁ゆう話なったらややこしことなりますやろ? 何千人ゆう社員抱えてることも忘れんといてください』
振り返ると母の後ろで妻が俯いていました。妻がいることを知ったうえで、あえてそういう話をしよったんです。えげつないことしよる思いましたけど……その日から母の秘書のひとりが僕に付きっ切りになりました。要は、僕が逃げたりせんよう監視役を命じられたみたいで。
監視は徹底していました。会社との往復は勿論、社内では常に張り付きトイレにすら着いて来る始末でひとりになれる時間は一秒だってありませんでした。帰宅して寝るときも、部屋の外の廊下にふたり、窓の下にふたり常に目を光らせている状態で……結局僕は駆け落ちすらできなかったんです。
「言い訳にもなりませんけど」
「……しゃあないよ…」
「うん…しゃあない…」
── 黒檀くんと白檀くんが産まれるとき、欅さんにはご主人がいる振りをさせてしまいました。どうにかして逢えないかと考えた末、昔お世話になった友人の家を訪問する体にしたんです。まあ、そのご主人は間もなく病気で亡くなり、恩返しのために僕が生活の支援をするという話にしたのですが。
ふたりが産まれた二か月後 ── 妻から妊娠したことを聞かされました。本来であれば喜び、妻を労わるところでしょうが……妻の手すら握ったことのない僕にとって、妻の妊娠には喜びも寂しさも、何ひとつありませんでした。
「…トウジ、ひとつ訊いてもええ?」
「なんでしょう」
「もしかしてトウジ、童貞なん?」
「…っ、そんなわけないやないですか!」
「あ、そうや、ケンソーの妹は交尾で産まれたんやったっけ」
「こ、交尾て……あの、その前にちゃんと経験済みです……」
「聖母マリアみたいなんかと思たわ」
── 僕は、妻の懐妊を心から喜べない申し訳なさを感じながら、双子の息子に逢える日をいつだって待ち侘びていました。不貞を働いているわけではないにしろ、妻に対する立派な裏切り行為やったわけですが、抑えられなかったんです。逢いたいと願う気持ちも、小さな身体を抱き上げて知った溢れる感情も。
そして賢颯が産まれた時……酷い話ですが、僕は……身体中から溢れ、流れ落ちそうになるほどの喜びを感じてしまったんです。
「…堂々と愛でられる嫡男が産まれて、うちらは用済みなったゆうこと?」
「いえ……これで……妻と離縁できる、と…」
「ケンソーが……不義の子やと思たてこと…?」
「冷凍保存されていた精子で……僕との間に金髪碧眼の子は産まれへんでしょう…?」
── 不貞を働き子を成した妻と、浮気をされた甲斐性のない夫……妻には離縁される理由ができ、僕には当主の器ではない烙印が押され、これで自由の身になれるんやと…家を捨て欅さんとふたりの息子を迎えに行けると、そう思いました。
きっと母は怒りに任せ妻と産まれた子を叩き出し、離縁の責任を妻の生家に取らせる算段をするだろう、と思っていた僕は……母の口から信じられない言葉が発せられたことに耳を疑いました。
『やり直しやなあ……沢渡、ええように片しとき』
母は秘書に……産まれた子を殺して始末しろ、と…そして妻にはもう一度、人工授精をやり直せと言ったんです。何をどうあがいても離縁だけは絶対に認めない、という母の凄まじい執念に背筋が凍りました。
母なら死産ということにして本気でこどもを殺したでしょう。あのひとにとって産まれたばかりの小さな命など、家柄や血統に比べれば取るに足らない塵のようなものでした。そこで……心が折れたんです。
欅さんのことも、ふたりの息子のことも、しあわせな未来もすべて諦め……母が望む理想を叶えるために尽力するその代わり、産まれた子を生かすことを赦してもらいました。僕の力では幽閉まで防ぐことはできませんでしたが。
そのあとのDNA鑑定で賢颯が実子であることは証明されましたが、世間体が悪いと言って母は賢颯を僕たちに返すことはありませんでした。でも僕は……地下に閉じ込められた賢颯を可哀相だと思いながら……母の思い通りにならなかった賢颯の存在が、久御山の家系から弾かれた賢颯の存在が、嬉しかったんです……
「生贄をこの世に送り出す環から外れた子……やから?」
「そうです……母に対する優越感というか…見下す気持ちもありました」
「難儀なことやな……」
── 賢颯が生きている、それは即ち母にとって大きな障害であり敗北でもありました。何もできない小さな赤子が母を苦しめている、そう思うだけで僕は救われるような気になりました。何ひとつ与えられなかった中で唯一見つけたしあわせを失い、すべてを諦め隷属のように生きる僕の……心の支えになりました。
それが間違いだと知ったのは、母が亡くなったあとでした。
地下の牢から救い出された賢颯の ── 同じ人間だとは思えない清らかで美しい瞳は、穢れることを知らなかった。でも、それは……ひととして生きるために必要なものを何ひとつ持っていない故のことでした。文字も、言葉も、物に名前があることさえも知らない、無垢で無知で可哀相な子。
四歳になる僕の息子は……四年経ってもまだ産まれたばかりの赤子のままでした。
その時初めて僕は気付いたんです。苦しいのは僕だけやなかったのに、と。どうして自分だけがこんなに苦しまなくてはならないのか、と周囲を恨み絶望するだけだった自分を恥じました。妻も、賢颯も、欅さんも、黒檀くんも、白檀くんも……それぞれに抱えていたものがあったはずなのに、僕は目を逸らし続けていたのだ、と。
「後悔したくないんです」
「そやけど……奥さんとか娘さん、どうゆうてはるん?」
「ケンソーかて、どう思てるんかわからへんし…」
「養子の話を持ち掛けて来たのは賢颯なので」
「は?」
「妻も娘も快諾してくれましたし」
「そやゆうても…」
「娘は双子の兄と暮らせることを喜んでいます」
「……大丈夫なんか、娘さん…」
「双子、というところが高ポイントらしいですよ」
「なんのポイントやねん」
「もう一度だけ訊ねますが」
── 家族として僕と一緒に生きてくれませんか?
***
「よかったの?」
駅の構内で足を止め、オレは桐嶋と紅さんを振り返った。
「黒檀と白檀がしあわせに生きられるんが、一番大事やさかい」
きっと欅も喜んだはるわ、と紅さんはこどもみたいに無邪気な顔をして笑った。
「いまの世の中、リモートでなんでもできるから問題ないんじゃないか?」
桐嶋は紅さんの顔を見ながら頬を緩ませるだけだった。
オレは父の……冬慈さんの、あんなに安らいだ顔を初めて見た気がした。シロクロを跡取りにすれば? と軽い気持ちで言ったことが現実になろうとしている。クロが退院した暁には、ふたりで京都へと移り住むらしい。
蜜さんのことだけが気掛かりだったけど、冬慈さんの申し出で肩の荷が下りた、と電話の向こうの声は清々しかった。「生涯忘れることのできない傷を、お父さんに残さないで済んだ」と、笑う蜜さんはどんな形であれ冬慈さんを想ってるんだな、とオレも心が軽くなった気がした。
ひとつ気掛かりなことがあるとするなら……華がシロクロと一緒に暮らせる日を指折り数えていることだ。薫子の変態オーラを浴びておかしな方向に舵を切ったりしてなければいいんだが。
冬慈さんが乗った新幹線を見送りながら、ひとつの物語が終わり、そしてまた別の物語が紡がれて行くことを実感し、なんだかバカみたいに人恋しくなってしまった。