第二十九話 冬来たりなば春遠からじ
「開いてるよ」
扉を開けて中へ入ると、玄関まで出て来た純暁さんが驚いた顔で動きを止めた。別宅の存在はアヤから聞いていたけど、実際にあがるのは初めてだった。
「お久しぶりです」
「……真光? どうしたんだ、こんなところに」
「澄なら来ませんよ」
「……え?」
「澄の代打で……って言えば、伝わりますか?」
リビングに通されたおれは、促されるままソファに腰をおろした。スーツ姿の純暁さんは、いかにも銀行員といった誠実そうな面持ちでおれの顔を何度か確かめた。
小さい頃はアヤと一緒に、よく純暁さんに遊んでもらった。面倒見のよかった純暁さんは六つも年下のおれたちを邪魔にすることなく、いつだって笑顔で構ってくれた。
「…キヨからどこまで聞いてるの?」
「どこまで、とは?」
「ここで何をするのか、とか」
「それは聞いてます」
そう言うと、いきなり純暁さんに押し倒され首筋を噛まれた。流れるように事を運ぶんだな……アヤの態度から、もしかしてと思ったけどここまで淀みなく推測が当たっているとさすがに閉口する。
「慣れてんの?」
「いえ、初めてですけど」
「…初めて?」
「はい」
純暁さんはおれのベルトを外しズボンを下げると、シャツをたくし上げ耳元で囁いた。
「初めてが知らないヤツって怖いでしょ」
知ってるヤツでも充分恐怖でしょ……純暁さんは自分のネクタイを外し、おれの両手を縛り上げてクスクスと笑い出した。「まさか真光を抱けるとは思ってなかったな」と言いながら、慣れた手付きで脚の間を弄る。
自分の勘が外れててくれることをどこかで願っていた。純暁さんは面倒見のよかったあの頃のまま、アヤの傷は別のどこかで付けられたもので、純暁さんとアヤの間には何の確執もなく……とんだお伽噺だ。どれだけ信じたくなくても、両手を縛られ扱かれていることが現実だった。
「小遣いに困ってるわけでもないだろ」
「…そうですね、お金には」
「ふうん……じゃあ男に餓えてるんだ?」
うつ伏せにされ尻をなでられると本気で恐怖を感じた。ここ数年まともに逢うことはなかったけど、おれは近所に住む弟の友達で、以前は家族ぐるみの付き合いまであったのに……それを本気で抱こうっていうのか。
「…っ!!」
「力抜いて……ちゃんと舌で柔らかくしてあげるから」
こんなとき、男という生き物は本当にどうしようもないな、と思う。そんなつもりはなくとも、物理的な刺激があれば素直に身体は反応するし、おれが悦んでいると思われても不思議はない。
「そろそろいいかな…」
純暁さんの硬くなったモノを押し当てられて身体が仰け反った。
「高校生手籠めにするのはマズいんじゃないかなあ」
「遅い、久御山!!」
「そそるね、エロい格好しちゃって」
「馬鹿、早くこれほどけよ」
「ヤられちゃったあとだった?」
「ギリギリ」
間一髪で踏み込み、スマホで現場を押さえた久御山がニヤっと笑う。
「……真光? 一体どういうことだ?」
放心状態の純暁さんが口唇を震わせながら、状況を確認するようにつぶやいた。
「ご覧のとおりですよ」
久御山に腕のネクタイをほどいてもらい、服を直してスマホの写真を純暁さんに見せる。当然純暁さんは顔面蒼白でうろたえるだけだった。
「今後、澄には手出し無用です……写真、ばら撒かれたくないでしょ?」
何か言いたげに恨みがましい目を向ける純暁さんを残し、おれと久御山はマンションをあとにした。行き当たりばったりな計画ではあったけど、何とかこの先の被害は阻止できたんじゃないかな、と少し楽になった。
「あれ、誰?」
「アヤのお兄さん」
「なんで襲われてたの」
「あのマンション……ブロッセルなんだよ」
「ブロッセルって…売春宿?」
「そう、アヤという専属の男娼がひとりいるだけのね」
「……は?」
「多分アヤは……断れなくて不特定多数の相手をさせられてたんだ」
「どういうことだよ」
「久御山……ギフテッドって知ってる?」
生まれ付き高い知能や才能を持つ天才……神さまからギフトを授かったこども。音楽的知能、対人的知能、論理数学的知能、博物学的知能、視覚空間的知能、内省的知能、語学知能、運動感覚知能の八つの分野において、ひとつ、または複数の能力を発揮する桁外れの天才だ。
アメリカではギフテッド専用のカリキュラムを用意して、その才能を伸ばすことが当たり前になっているけど、日本ではまだそこまで認知されてない。それどころか、ギフテッドの特徴であるこだわりの強さやコミュニケーションの難しさに囚われて、病気として考えられる場合が多いんだよ。
アヤは……そのギフテッドなんだ。
IQ130以上が目安とされている中で、アヤのIQは175という驚異的な結果だった。幼稚舎の頃から成長に合わせて何度か検査をしたみたいだけど、十歳の時の結果はIQ180だったらしい。
アヤは一度聴いただけの曲を譜面に起こし、それをギターで弾くことができた。耳がいいのかな、って思ってたけど楽器を操る技術にも長けてたんだ。それともうひとつ、一度読んだ本の内容は図鑑だろうと辞典だろうと忘れない。その飛び抜けた記憶力でテストは常に満点だった。
でもね、純暁さんが……自分の立場を脅かす弟の存在を疎ましがったんだ。両親の愛情が弟に移り変わることを恐れた純暁さんは、アヤの才能を潰すべく力でアヤを支配した。簡単に言うと、手酷くアヤをいじめたんだよ。もちろん、純暁さんが直接手を下すことはなかったけどね。
外で知らないヤツらにいじめられて、それを純暁さんが助けてくれる。その純暁さんを失ってしまうと、護ってくれるひとがいなくなる。純粋で無垢なアヤは純暁さんの望む弟像をなぞって行った。思ったことを言葉にすることができないという性質を持ったアヤは、何も言えないまま……純暁さんに従う外なかったんだ。
「アヤは純暁さんのために、できないフリをしてるんだよ」
「売春まがいのことをさせてんのは、いじめの延長なわけ?」
「だと思うよ……おれも最近まで知らなかったけど」
「……なんで気付いたんだ?」
「ここしばらくアヤの様子がおかしかったから」
「おかしかったって?」
「遅い時間に家の周りでウロウロしてたり……身体中に傷があったり」
「…傷? どんな?」
「擦り傷と引っかき傷が多いんだけど」
「他にもあんの?」
「……体液まみれで放り出されたりね」
「体液って……」
「でもアヤは何も言わないんだ」
「……よし、通報しようぜ」
「そこまでできるほどの証拠はないよ……それに、そんなことしたらまたアヤが自分のせいだって思い込むから」
「根本的に助ける方法ってないの?」
「……難しいだろうね」
誰より純暁さんに認めてもらいたがっているのは、アヤ自身だから……
──
「おかえり、みっちゃん」
家に帰すのが不安だったこともあり、アヤをしばらくおれの家で預かった。一緒に受験勉強をすると伝えたら、アヤのご両親は二つ返事で許してくれた。こんなとき、外面だけはよくしておいてよかったと心底思う。
「晩ごはん食べた?」
「うん、志紀さんが用意してくれたから」
「そっか、よかった」
「みっちゃん、どこ行ってたの?」
「どこって?」
「……兄貴から連絡あったよ」
「へえ、なんだって?」
「……やめてよ、みっちゃん」
「なにを?」
着替えている途中でシャツを引っ張られ、アヤを押し倒しながらふたりでベッドに転がった。アヤはおれの上にまたがると、両腕を押さえ付けいまにも泣きそうな顔でおれを見下ろした。
「どんなことされるか、みっちゃんはわかってない」
「どんなことされるの?」
「…言いたくない」
「言いたくないようなことされてるの? それを見て見ないフリしろって?」
「ボクはいいんだ…もう…」
「……何がいいの」
「もう、終わらせようと思ってるから」
「終わらせる?」
「……できないフリも、物分かりのいい顔も、大学を選ぶのも、おもちゃにされんのも、カラダを売るのも、笑ってんのも、もう疲れた」
「うん、つらかったね」
「だから、もうやめるんだ」
「どうやって?」
「海で溺死、山で滑落死、樹海で縊死、迷惑とか考えなかったらビルから転落死、電車に飛び込んで轢死、硫化水素作って中毒死、オーバードーズで服毒死、いまからの季節なら凍死……あとは圧死、焼死、窒息死、それから餓死」
「……確実なのは樹海かな…硫化水素は場所に困るね」
「転落死も奇跡的に助かる場合あるからね」
「溺死と焼死は苦しいと思うよ」
「じゃあやっぱり樹海かな」
「いつにする?」
「……え?」
「や、いつにする? アヤに合わせるけど」
「何言ってんの、みっちゃん…」
「え、付き合うよ? ひとりだと寂しいでしょ」
「何言ってんの!? 冗談じゃないんだよ!?」
「うん、冗談だなんて思ってないよ? だから予定訊いてるんだけど」
「…ふざけんなよ!! なんでみっちゃんが」
「ふざけてないって……ずっと一緒にいようねって言ったでしょ」
「……みっちゃん」
押さえられていた腕を押し返しアヤの腕を掴んで引き寄せると、胸の上にアヤが倒れ込む。そのまま抱き締め、耳から首筋を口唇でなぞって鎖骨に歯を立てる。
「アヤ」「タチバナ」と呼び合ったって何も変わらないと思っていたのに、「みっちゃん」と呼ばれて思い出すことがあったなんて不覚だった。
「澄……おれがそばにいるよ」
「あ…っ…あ…」
「澄が澄のままでいられるように、一緒にいるから」
「ん……あ…あっ…」
「だから、おれのそばにいて」
「あ…みっちゃ…ん…」
愛だとか恋だとか、そんなことはわからない。でも、おれの存在が澄の生きて行く理由になればいいと思った。大事だから、必要だから、そばにいてよ、一緒にいようよ。心だって身体だって、嫌というくらい求めるから。
「…みっちゃん…やだ…」
「え……」
「は…恥ず…かしい…」
「……おれだって恥ずかしかったよ」
「…なに…?」
「公園で何してたか忘れたの…?」
「…っ…!!」
── ずっと一緒にいようね、ボクたち、こんなに分かり合ってるんだから
二学期の期末テストで澄は全教科満点という成績を修め、担任も学年主任も進路相談担当も腰が抜けるほど驚いた。事前に所持品検査と身体検査が行われる手前カンニングの疑いようもなく、このことは当然ご両親にも報告された。
***
兄貴からのLINEを見て、みっちゃんは鼻で笑った。
「笑いごとじゃないよ…」
「だって “おまえの代わりに真光で稼ぐから” って、無理に決まってるでしょ」
「なんで? 純暁はなんだってするよ!?」
「そうなったらおれ純然たる被害者よ? 被害届出したら終わるよ?」
「……そうなの?」
「うん、だから澄は余計な心配しなくていいよ」
学食で酢豚を突っつきながら、この先のことを考えてふと不安が過る。パイナップルを持て余していると、「パイナップル、嫌いなの?」と言いながら久御山が隣に腰をおろした。
「嫌いじゃないけど、酢豚に入れる必要はないかなあ……」
「わかりみが深い…オレもハンバーグの上のパイナップルとかカレーのレーズン苦手」
「ああ、久御山スキキライ激しそうだもんね」
「そうでもないよ? あ、そういえばオレいいもん持ってんだけど取り引きしない?」
「取り引きって……なんの?」
「なんかあったらオレに助け求めるって約束して」
「……助け?」
「うん、オレじゃなくて橘さんにでもいいから」
「え…それと引き換えに何くれるの? いいもんってナニ?」
久御山の出現を気にも留めず昼飯を食べていたみっちゃんの手が止まり、無言で久御山を威嚇する。
「はい、これ」
差し出されたスマホの画面には……誰かを押さえ付けてる純暁と、これ……ボクじゃないよな…? 顔が写ってないから誰かわからないんだけど……
「…まさか、みっちゃん…?」
「仰け反る背中と腰から尻のライン、きれいでしょ?」
「うん…え、くれるの? もらっていいの?」
「一応、護身用だな……何かあったらこれで兄貴黙るだろ」
「あ、なるほど……」
眉間にしわを寄せていたみっちゃんも、護身用と聞いてしょうがないなあという顔をした。ボクのためにみっちゃんと久御山はこんなことまでしてくれたんだ……
「オレ、ギフテッドがどうとか、わからんけどさ」
「…うん」
「十三の時の知能検査、IQ192だったよ、オレ」
久御山は笑いながらボクの頭をポンと叩き、「お揃い」と言って戻って行った。おまえもそのままでいいじゃん、そう言われてる気がして泣きそうになるのを、酢豚を突っついて紛らわせた。
そのあと久御山から写真が二枚送られて来た。一枚はさっき見せてもらった写真で、もう一枚は……
「なんでそんなスマホ凝視してるの」
「あ、いや、なんでもない」
「……? 顔赤いけど」
「…なんでもない……」
苦しそうな顔で目に涙を浮かべながら、でも頬を紅潮させてるみっちゃんの写真……同じ場所で撮ったんだろうけど、よくこんな表情狙って撮る余裕あったな久御山……みっちゃんのエロい顔…
考えてみたらボクみっちゃんのこんな顔見たことない。
「みっちゃん」
「うん、どうしたの?」
「ボク、みっちゃんと同じ大学行くからご褒美ちょうだい」
「え、ほんと? いいの? っていうかご褒美ってなにが欲しいの?」
「合格したら、でいいから」
とりあえず、みっちゃんのエロい顔を生で見るために、ボクは生きてみようと思う。