第二十四話 その男、橘 真光
最近仕事が忙しく帰宅が深夜になる宗さんに頼まれ、僕は三年生の教室がある東棟で桜庭さんを待っていた。通常ならいろいろ怖くて近付かない場所だけど、放課後ということもあり僕以外に人影はなかった。
桜庭さん、弓道場からいつ戻って来るのかな……顧問の先生に呼ばれたって言ってたけど……
なんとなく廊下を歩きながら、同じ校舎のはずなのに東棟は雰囲気が違うなあと思った。何が違うのか、具体的に挙げられないけど、一年と二年の教室がある南棟に比べると、片付いているというか落ち着きがあるというか。
その時、微かにひとの声が聞こえた気がして僕は足を止めた。
……誰か残ってたのか……全然わからなかった……
気付かれないよう、そっと教室の中を覗いてみる。あ、まだ残ってるひとがいた…んだ……って……え?
視線に気付いたのか、扉に顔を向けた男子生徒と目が合った。そのひとは慌てるでもなく女子生徒の腰を抱えたままニヤっと笑って見せた。次の瞬間、抑えていたであろう喘ぎ声が教室の外にまで響き、僕は居た堪れなくなってその場から逃げ出した。
「悪いな藤城、わざわざここまで来てくれたのか」
東棟で待っているわけにもいかなくなって弓道場の外で待っていると、桜庭さんが申し訳なさそうに頭をさげた。
「いえ、大丈夫です……あ、これ宗さんから」
「……宗さん、物持ちいいな……すごくきれいに使ってる」
預かった参考書を渡すと、桜庭さんの頬が少し緩んだ気がした。
「ところで藤城……熱でもあるのか? 顔、赤いけど」
「いえっ、あのっ、ありません、大丈夫です!」
……とはいえ、あの光景が頭から離れてくれない……いくら放課後でひとがいないからって、教室でするか? 誰か来たらどうするつもりなんだ…って、僕と目が合っても動じることもなく笑ってたからな……どんだけ肝の据わった三年生だよ。桜庭さんと同じ歳のはずだけど、やたら妖艶というか……艶めかしいイケメンだったな…
──
「藤城 湊、いる?」
四時限目が始まる前の休み時間、名前を呼ばれて顔をあげると、見知らぬ生徒が教室を覗き込んでいた。
「知り合い?」
「いや…知らないひとだけど…」
「また知らない間に喧嘩でも売ったとか」
「やめてくれ……縁起でもない」
訝し気に事情を窺う久御山が見守る中、僕を呼ぶひとに近付くと「ここじゃアレなんで」と、着いて来いという仕草でそのひとは歩き出した。なんだろう……本当に、知らない間にまた誰かの恨みでも買ってるのかなあ、と少々荒んだ気持ちになる。そのまま着いて行くとチャイムが鳴り、僕はそのひとを呼び止めた。
「あの、授業始まるんで」
「そうだね……次、何?」
「英語…ですけど…」
「じゃあそれ教えてあげる」
いや、そういう問題じゃなくて、と言おうとしたら、そのひとはくるっと振り返って右手を差し出した。
「これ…返して欲しいでしょ」
……なんでこのひとが僕の生徒手帳を持ってるんだ?
屋上に出るとそのひとはネクタイを緩め、眼鏡を外した。
「……思い出した?」
「……!」
昨日教室で……イタしてた三年生だ……
「あ、あの、すみません……覗くつもりは…」
「え? ああ、別にいいよそんなこと」
「…どういったご用件ですか」
「うーん? 特に用事があるわけじゃないんだけど」
用事もないのに授業をサボらせるとか意味がわからない……とにかく生徒手帳を返してもらって戻ろう。そう思って顔を上げると、屋上の扉が開く音が聞こえた。
「……ちょっとここで待ってて」
そう言うとその三年生は屋上の出入口に向かって歩いて行ってしまった。
ちょっと待っててって言われても……用事、ないんだろ? 待ってる必要あるのか? ……ああ、生徒手帳返してもらってないや……別に授業はどうでもいいけど、まったく知らない上級生に用もなく引き留められている心地悪さが…
「…あ…っ…んん…ん」
…はい!?
ちょ、ちょっと待て……い、いまの声って、もしかして、その…
「ん…真光…あ…ああ…っ…」
ひとを待たせておいて、しかも授業中に屋上で何してるんだよ!!
パンッと素肌の当たる音と喘ぎ声の響く中、息をひそめただ時間が過ぎるのを待った。あの久御山ですら学校でこんなことは……いや……僕が知らないだけで、してたかもしれない。常識に囚われないと言えば聞こえはいいけど、平たく言えば非常識でマイペースな歩く下半身、だもんな……
「ごめんね、待たせちゃって」
上から声が聞こえ慌てて見上げると、何事もなかったような顔で三年生が僕を見下ろしていた。
「……興奮してるの?」
「ちが…っ…」
「顔、赤いけど」
そりゃ思いもよらない形で二度も他人がエッチしてる現場に居合わせれば顔くらい赤くなるよ! AVの類をまったく観ない僕からすれば、他人の喘ぎ声を聞くことすらないんだから!
「あの、返してください」
「ん? ああ」
その三年生はブレザーのポケットから生徒手帳を取り出すと、はい、と僕に差し出し、それを受取ろうと伸ばした僕の手を掴んで引き寄せた。
「やっぱり興奮してるんだ」
「……放してください」
「こんなに硬くなってるのに?」
「放してください!」
制服の上から股間を鷲掴みにされて、驚きと焦りと恥ずかしさで僕は身動きが取れなくなった。そっと口唇を舐められ、その舌が口の中に入って来ると、意に反して硬くなったモノがビクッと脈打ち、それを握る手に力が入る。
「ねえ、そんなに身構えないでよ」
「……放して…」
「橘」
「…え」
「三年二組、橘 真光」
……橘さんは僕を自由にしたあと、「仲良くしてね」と僕の頬にキスをして校舎の中に戻って行った。
「……橘? 隣のクラスだけど…なんで?」
学食でアジフライを突つきながら、桜庭さんは不思議そうな顔をした。
「あ、えっと…生徒手帳、拾ってもらって」
「そうなんだ。一年の時同じクラスだったよ」
「あの……どういうひとなんですか?」
「…おまえ、ああいう耽美系好きだったっけ」
「ち、違います!」
「格好いいけど、久御山とはまったくタイプが違うから」
「だから違います……そういうんじゃありません…」
「一年の時からモテてたよ。本人は控えめな感じだけど、取り巻きがイケイケでさ」
ああ……やっぱり橘さんにも「橘派」って言われるお取り巻きがいるんだな……久御山派と桜庭派を敵に回したいま、橘派まで敵に回すと僕の身が持たない気がする…
「…噂をすれば」
「えっ……」
振り返ろうとした僕の頭をポンと軽快に叩き、橘さんが隣に腰をおろした。
「藤城、学食使ってたっけ」
「いえ、ちょっと桜庭さんに用があったんで」
「橘、久しぶり」
「うん、久々……桜庭、全統模試どうだった?」
「まあまあ……おまえは?」
「ちょっと伸び悩んでるかな……」
あれ……なんか、普通の高校三年生みたいに見える……とても屋上でエッチしちゃうようなひとには……
「あ、先達に教えてもらった問題集、貸そうか? おれもう解き終わってるから」
「ほんと? 助かる…問題集選ぶのも最近自信なくて」
「わかる」
すると学食の入口で数人の女子が橘さんを呼ぶ声が聞こえた。
「呼ばれてるよ、色男」
「…はあ……鬱陶しい…」
大きく溜息を吐いたあと、「じゃ、あとで」と言って橘さんは立ち上がり、僕の頭をなでて学食からいなくなった。
「……荒れそうな予感」
「何がですか?」
「いや、なんでもない」
桜庭さんは苦笑いで、付け合わせのブロッコリーを口に放り込んだ。
──
「……で?」
なんだろう、久御山からただならぬ圧を感じる。
「で、って?」
「四時限目サボって昼休みいなくなって、何してたのよ」
「ああ、生徒手帳落としちゃったみたいで、受け取りに行ってた」
「それだけ?」
「えっ……うん…」
「おまえね…生徒手帳、どこまで取りに行ってたの」
「いや、うん……ちょっと屋上まで…」
ふうん、と言って久御山は僕のブレザーのボタンを外し、シャツの上から胸の辺りをまさぐった。ちょっと待て久御山、ここは学校でしかも閉ざされた空間でもなんでもないんだぞ……
「ちょっ、久御山」
「上のお口は堅そうだから、下のお口に訊いてみようか」
「何言ってんだよ!」
屋上の塔屋の上でシャツ越しに突起をつままれ、それを指の腹でそっと擦られて僕は呆気なく声を漏らした。慌てて手で口を塞ぐと、久御山がその手を押さえ耳元で囁く。
「ここで、誰に、何されてたの」
「何も……くみや…ま…待っ」
「生徒手帳受け取るだけで、1時間半も掛かる?」
「言う…言うから……放…せって……あ…」
「エロい顔しちゃって……」
く、久御山ぁーーーーーッ!!!!!
「……橘?」
「知ってるの?」
「名前だけ。学コンのピアノ部門で1位取ったとかで、女の子が騒いでたな」
「学コンてナニ?」
「全日本学生音楽コンクール」
「なに、そのすごそうなコンクール……」
「地区予選から本選に勝ち上がる人数が十人程度だから、相当レベル高いんじゃなかったかな」
「へえ……そんなすごいひとなんだ…」
「その橘に? キスされて舌入れられて股間鷲掴みにされました、と」
「……いや、だって…そんなことされるとは…」
「湊は無防備過ぎ」
「そ、それを言うならおまえだって似たようなもんだろ…」
「オレは別に無防備なわけじゃないから」
「……ちゃんと防備してるってこと?」
「そこまで構えてないけど、無防備なわけでは」
「へえ……備えてんのにキスされたり抱き着かれたりしてるんだ…」
「…っあ、ちょっと待って」
「いや、おまえが悪いとは思ってないからいいんだけどさ」
「あの、湊……」
「気を付けてるのにキスされたり抱き着かれたりしてたんだ…そっか…」
「湊さん……」
「じゃあ、これからもずっと防ぎようないよね、それ」
……別にいいんだけど。女の子が寄って来るのは仕方ないし、久御山が自分から手を出してるわけでもないし、それで何かが変わるわけでもないし、久御山を縛るつもりはないし。
僕は屋上に久御山を残し教室へ戻った。
──
放課後、今度は宗さんに渡して欲しいものがあるという桜庭さんに頼まれ、弓道場に向かった。部活は引退したはずなのに、ちょっとした用事で度々顧問や後輩に呼ばれる桜庭さんは、なんだかんだと弓道場にいることが多い。
「…桜庭さん、ですか?」
弓道場の入口で中の様子を窺う橘さんを見掛けて声を掛けると、彼は少し驚いたように振り向き僕を見て優しく笑った。
「昼間言ってた問題集、取りに来たんだ」
「あ、なるほど……橘さんも受験生なんですね」
「…おかしい?」
「あんまり悲愴感がないので……」
「充分悲愴だよ……志望校考え直すくらい」
そう言って橘さんは溜息を吐いた。なんだろう、教室や屋上であんなことをしちゃうのは、受験のストレスからなのかな……充分悲愴だよ、と言った橘さんの顔はやっぱり格好良かった。優し気な目に、それとは対照的な上がり眉が相変わらず妖艶な雰囲気を醸している。
「何してんの? こんなとこで」
明るい声に振り返ると……金色の長い髪を束ね、ギター? ベース? のケースを肩に担いだ派手なひとが立っていた。制服を着てるってことはここの生徒なんだろうけど、ここまで派手なひとをいままで見たことがない……
「あれ、アヤ……いまから練習?」
「うん、スタジオは18時からだけど、その前に楽器屋寄りたくて」
「一緒に行くからちょっと待ってて」
「なんか用事あってここにいるんじゃないの?」
「桜庭に問題集借りるだけだから」
橘さんの友達らしいそのひとは、人懐っこい笑顔で僕を見た。釣られて笑った僕を見て、その金髪バンドマンは不思議そうな顔をした。
「タチバナ、このチビッコ……ナニ?」
「”何” じゃなくて “誰” だよ、アヤ……」
「あ、そっか……ダレ?」
……悪気はないのかもしれないけど、自由過ぎないか……呆気に取られていると弓道場から桜庭さんが現れ、僕たちの前で何やら困ったような顔で言った。
「……なに、おまえら討ち入り? 道場破り?」
桜庭さんがこんな冗談めいたことを言うとは思わなかった僕は、思わず噴き出してしまった。
「橘、これさっき言ってた問題集……で、綾小路はどうしたの?」
「ありがとう、助かる。アヤは通りすがりの通行人A」
「どうも、通行人Aです。たまたま通りかかったらタチバナが見えたからさ」
「じゃあおれたち行くわ…暇なときにでもまた相談に乗って」
「ああ、またな」
橘さんはやっぱり僕の頭をなでて「またね」と笑った。それを見た綾小路? さんが同じように僕の頭をなでて「ばいばい、チビッコ」と笑った。ふたりの後ろ姿を見送っていると、桜庭さんが再び困ったような顔で言う。
「おまえ、綾小路とも仲いいの?」
「いえ、いまここで初めて逢いましたけど」
「あ、そうなのか」
「あのひとは、どういうひとなんですか?」
「どういう……変わったヤツ、かな…橘の幼馴染みらしいけど」
「変わってるってことは、なんとなくわかります…」
「学校に来てもずっと音楽準備室でギター弾いてるから、いるのかいないのかわからなくて絶滅危惧種って言われてる」
「なるほど……それで見たことなかったのかな…」
世の中って広い、と思いつつ桜庭さんからのお届け物を預かる。
「以前話してたやつ、って言ってくれればわかるから」
「わかりました。ちなみに中身は?」
「DVDだけど」
「……ぁぁ」
「…ちょ、待て、ちょっと待ておまえいま何想像したんだ」
「宗さんにDVDなんて…他に想像するものがないというか…」
「あのな……おれが宗さんにAV貸すわけないだろ…」
「そ…それもそうですね」
「そうじゃなくても……」
「…そうじゃなくても?」
「……なんでもない、口が滑った忘れてくれ」
「わかりました。宗さんに訊きます」
「言うからそれだけはやめてくれ」
桜庭さんは深く溜息を吐いてから、「絶対、宗さんに言うなよ」と前置きをして話し始めた。