あのときの僕の話をしよう 2

あのときの僕の話をしよう
物 語

その6

何しろ彼女は特別だった。

僕にそう思わせていたのは彼女の容姿や学歴や趣味が抜きん出て素晴らしいからではなく、すべては彼女との情交に集約されていた。「からだに溺れる」ってこういうことを言うんだろうなと自覚するくらい、僕は彼女のからだが好きだった。

髪も、唇も、首も、手も、どこに触れても一瞬で僕の男としてのスイッチを入れるに充分なスペックを満たしていた。しかもそれは「愛し合う」という美しい言葉で表せる類のものではなく、本能に突き動かされ、ただの雌としての彼女を感じているようなものだった。

 

その7

バカげているけど、彼女は僕のために産まれて来たんだと心底思ったし、僕も彼女と出逢って恋をするために産まれて来たんだと思っていた。そうじゃなければ不可解なくらいお互いを求め合っていたし与え合っていた。

時々自分を削り過ぎて不安になることもあったけど、抱き合えば何もかも許せたし、何もかも忘れられた。僕には彼女さえいてくれればそれでいいと思った。

「やっぱりからだは別々のほうがいいな」

彼女の頬を両手で包みながら、別々に存在しているからこんなにも愛しくて求め合うんじゃないかなと答えた。

 

その8

抱き合ったまま溶けてひとつになったとしたら、からだってどうなっちゃうのかな。僕のからだに彼女が吸収されるのか、はたまたその逆なのか、うまい具合に混ざり合って全然違う物体になるのか。

どちらにせよこの腕で彼女を抱き締めることはできなくなりそうだから、やっぱりからだは別々のほうがいいや。

「そう言われればそうだよね」

彼女は僕の胸に耳を当てながら小さい声でつぶやいた。

「心臓の音、安心する」

自分の意思で動かしているわけじゃない心臓が規則正しく鳴る。僕が生きるためではなく、彼女を安心させるために。

 

その9

彼女の内側は熱を帯びていて、体温からは想像もできないくらいの温度と湿度で僕の一部を放すまいと絡み付いて来る。いつだって彼女を愛しいと思っているはずなのに、こういうときに込み上げて来る、胸の奥をわしづかみにされるような、切ないような悲しいようなこの気持ちは何なんだろう。

つながっている部分だけじゃなく、時折肌をかすめる彼女の長い髪や、胸に食い込む細い指先にまで、僕の細胞すべてが反応してそのどれをも逃さないようにと感覚が研ぎ澄まされて行く。

愛という目に見えないものなんかじゃない。

 

その10

そのひとを想うだけで、胸が高鳴り、締め付けられ、苦しくなる。出逢わなければ知ることもなかった醜い感情でさえ「愛」と名付ければいとも簡単に許され、理解が得られる。

やがて散って汚らしく乾涸びて行く花にも形があり、この指先で触れることができる分だけ現実味があるような気がする。だって愛なんて見えないし触れない。こんなにも不確実で不安定なものなのに、どうして「愛」の前でひとはこんなにも脆く、弱くなってしまうのだろう。

「ねえ、噛んで」

彼女は薬指を僕のくちびるに押し当てて、切なそうに言った。