第三十八話 屠所の羊は鷺を烏と言いくるめ
「……悪い、話が見えないというか」
「どこまで記憶あんの?」
申し訳なさそうな顔をしつつ、いま自分の身に何が起こっているのかわからなくて、若干怯えたような声を出す桜庭を見ていると俄然楽しくなって来た。さあ、どう料理してやろうか…オレは忘れてねえぞ、湊に「いつでもおれの胸に飛び込んで来て」つったことをな。
「……外せない授業ひとコマだけ出て」
「ひとコマだけ出て」
「考えごとしながら歩いて羽田まで行って」
「羽田に」
「そこからまた歩きながらコンビニで飲み物買って」
「ほお、飲み物を」
「それ以降は…憶えてないというか…」
「…は? 駒場から羽田に行って、そこからここまで歩いて来たの?」
「ここって……」
「吉祥寺だけど」
「……吉祥寺」
「じゃあ土砂降りの中うずくまってたのは憶えてないんだ?」
「憶えて……ないな…」
「オレが声掛けたことも」
「悪い……憶えてない…」
羽田からここまで30km近くあると思うけど……そりゃー胸焼けするほど考えごとできたんじゃねえの? ったく、どんだけ考えたいんだよ……憶えてないくらい酒飲んでたら意味ないけどな。起き上がった桜庭は、そっと掛布団をめくって自分のカラダを確かめた。見たくらいじゃなんもわかんねえだろ。
「で? 何があったわけ?」
「何が、って……」
「宗弥さんと揉めてんじゃないの?」
「別に…揉めては…」
「そうじゃなければ……他の男とセックスなんてしないでしょ」
「他の男って……久御山と?」
「うん、オレと」
「それ……本当に…?」
「こんなつまんねえ嘘吐いてどうすんのよ」
「だっておまえ、藤城は!?」
「内緒に決まってんだろ……つーか、アンタ共犯者だってことわかってる?」
「……頭が…追い付かない…」
「バイト帰りにコンビニ寄ったら、駐車場でうずくまってるアンタがいて」
土砂降りの中ずぶ濡れでまともに立ち上がれもしないから背負ってここまで運んで、濡れてる服脱がせてベッドに寝かせて、ああ、服は洗濯して乾燥機にぶち込んであるわ。それで寒そうにしてたから添い寝して、アンタが寂しそうにするから冗談で抱いてやろうか? って訊いたらうなずいてさ。
あんまりにも慣れてなさそうだったから、前戯に相当時間掛けたわ。中で出すと腹痛起こすこともあるから、ちゃんと避妊はしたけどね。汗かいたままだと風邪ひくかもなあと思って、終わったあとわざわざ風呂にまで入れたけど、本気でまったく全然憶えてないの?
「風呂……」
「さすがに他の男の唾液とか精液にまみれたまま帰れねえでしょ?」
「……運んでくれてありがとう。洗濯までしてもらって…本当に申し訳ない…けど」
「カラダで払った記憶がない、と」
「身体で……って…」
「あ、もしかして信じてないの?」
口ごもる桜庭を横目に、ゴミ箱を持ち上げて中から証拠品を取り出した。
「はい、これで信じる気になった?」
「…っ」
まあ、この使用済みのゴムは一昨日湊としたときに使ったヤツだけどな……証拠品をゴミ箱に戻し、ゴミ箱を床に置く。ここまで見せられたら疑いようもないだろ。これで平常心は失ってると思うけど、お話聞かせてくれるかしら。
「で? 宗弥さんと何があったわけ?」
「……おれとの間には何もないよ」
「ああ、じゃあ浮気現場に踏み込んじゃったとか、それ系?」
「……そんなところかな…ホテルから出て来たところに遭遇したから」
「宗弥さんが? ホテルから?」
「昨日帰って来なかったし……仕事だと思ってたけど」
「仕事でホテルにいたのかもしれないのに?」
「…朝の7時にチェックアウトする仕事って? 女性とふたりきりで? 仕事でフォーシーズンズに泊まるか?」
「まあ、泊まらんわな……」
「それくらいおれにだってわかる…」
「それで? 自分じゃ敵わないから身を引こうと思ってんの?」
「……そのほうが…平和なのかもな」
「そっか……じゃ、もっかいヤる?」
「……いいよ、おまえがいいなら」
待てまてマテ。そこは拒んどけ。オレは宗弥さんを敵に回すつもりはない。しかし、いまさら宗弥さんが女と浮気するとは思えないんだが……なんか誤解とかすれ違いがありそうな……まあオレには関係ないけどね?
「……じゃあ、勃たせて?」
桜庭の耳元で、目一杯モノ欲しそうな声を出しながらパンツをさげ、人畜無害に萎えているモノを握って目の前に差し出した。硬直する桜庭のあごを持ち上げ、焦点の定まらない目を覗き込み口唇を指でなぞる。
「このお口で咥えてくれる?」
「……おまえ、本当にそれでいいのか?」
「どういう意味?」
「藤城が知ったら悲しむとか思わないのか」
「湊は何も言わないよ」
「何も言わないからって、何も思ってないわけじゃないだろ」
「そうだな……でも、言ってくれないとわかんないから、伝わらないって点では同じじゃね?」
「同じではないだろ…」
「宗弥さんが無罪でも、何も言わなけりゃアンタの中では有罪なんだよな?」
「それは……」
「まどろっこしいな」
桜庭を押し倒し、枕元にあるスマホを手に取った。イイ感じにシーツは乱れてるし、桜庭の髪はワックスも落ちてサラサラだし何より裸体だし。はい、チーズ。
「何撮ってんだよ…」
「桜庭パイセンのハダカですけど?」
「何のつもりだよ」
「まあまあ、一夜を共にした記念に」
「消せよ……何やってんだ」
現在時刻は午前三時。脱いだTシャツとスウェットを着てコーヒーでも淹れるか、とキッチンに立った。考えてみたら桜庭事変のせいで晩飯食い損ねてるじゃねえか…かといっていまから何か作る気にもなれない。コーヒーの砂糖を多めにして脳を活性化させるしかないか。
「桜庭、コーヒーに砂糖入れる?」
「いや、要らないけど」
「じゃあ、はい」
服がなくてベッドから出て来れない桜庭に、コーヒーを渡す。服はもう乾いてるだろうけど。
「…インスタントじゃないんだ」
「貰いもんのドリップパックだけどね」
ベッドに腰掛けて甘めのコーヒーをすすりながら、憐れなくらい動揺してた桜庭を思い出して笑いが込み上げた。
「アンタさ、オレとヤったって聞いてどう思った?」
「…あり得ないと思ったけど……信じざるを得ないもの見たから」
「ああ、アレね、アンタとのじゃないよ」
「え?」
「オレ、ゲイじゃないから男じゃ勃たないんだわ」
「…ノンケだっていうのは本当なのか」
「なに、そんな噂でもあんの?」
「学校で盛ってるからだろ……」
「あー、昔はね、そんなこともあったね」
「いまは…?」
「清く正しく高校生活送ってますけど?」
「藤城は?」
「……何が言いたいんだ?」
空いたカップを受け取り、キッチンに持って行くとちょうどインターホンが鳴った。時刻は午前三時半。マンションの入口を解錠すると、すぐさま部屋のインターホンが鳴る。
「…どうぞ」
「こんな真夜中に申し訳ない」
寝室の扉を指差して、とりあえず洗濯機の中で乾いてる桜庭の服を取り込んだ。
「……宗さん…?」
「はぁ……何やってんだよおまえは」
宗弥さんは桜庭の腕を掴むと、そのまま連れて帰る勢いでその腕を引っ張った。まあ、こんな時間にスーツで現れるくらいだから、仕事が終わったあといつでも出られるように、着替えもせずそのままだったんだろう。それだけ宗弥さんにとっては非常事態だったわけだ。
「宗さん待って、服が、おれいま」
「どうでもいいわ、そんなこと」
「いやかなり優先度高いですから!」
「捕まりかねないんで、どうぞ、乾いてますし」
桜庭に服を渡し宗弥さんの顔を見ると、オレの視線に気付いたのか宗弥さんと目が合った。着替えてる桜庭を寝室に残し、なんとなくふたりでリビングに移動した。
「悪いな、賢颯くん」
「…オレ、宗弥さんに殴られるかもって覚悟してましたけど」
「迷惑掛けてる元凶は俺だろ?」
「恋人の不貞を、罪の重さで裁くんですか?」
「……不貞? 賢颯くんとハルが?」
「そう思うように、わざわざ写真送ったんですけど」
「あ、あの写真そういう意味だったのか」
「どういう意味だと思ったんですか?」
「邪魔だから早く取りに来いって意味かと」
「全然疑わなかったんですか?」
「賢颯くん、ゲイじゃないでしょ?」
「ゲイではないですけど…」
「写真は流出の危険があるからオイオイとは思ったけど」
「ああ、削除済みです」
「賢颯くん、俺と似たニオイがするから疑いようがないかな」
「……なるほど?」
湊拉致事件の時に、オレと湊の関係がバレたかなと思ってたけど、これは予想どおりバレてる感じなのかな。似た匂いってのは多分、ゲイじゃないけど桜庭だけが好きって意味だろう。しかし宗弥さん、自分の甥がオレに蹂躙されてるってことに何も思わないんだろうか。
「こんな時間に本当申し訳ない、恩に着るよ」
「久御山、悪かったな…ありがとう」
「いえいえ、これが後日宗弥さんとのディナーデートになって返って来ると思えば安いもんですよ」
「ふふっ、了解、期待して待ってて」
午前四時にふたりを見送り、なんとなーくスッキリしないモヤモヤしたものを感じてソファに転がった。自分が好きなひとを諦めることで訪れる平和ってなんなんだよ。宗弥さんがノンケだから相手が自分じゃ駄目だとでも言いたいのかよ。真夜中にタクシー飛ばして迎えに来る恋人を「ノンケだから」って分類すんのかよ。
ああ、モヤモヤするのは……きっと湊が同じように身を引くだろうっていう予感があるからだ。ヘテロだとかゲイだとかバイだとか、別に分けなくていいじゃねえか。いちいち看板背負ったりするからややこしくなる。
オレは、湊が女の子に見えるくらい可愛いからセックスするわけじゃない。当然、男だからって理由でもない。
……じゃあ、湊がオレのことを好きじゃなかったら?
抱きたいと思うくらい、湊に興味を持っただろうか。
***
帰り道、お互いひと言も発することなく不穏な空気を纏ったまま家に着いた。家に着くなり腕を掴まれ、寝室へと連行された挙句ベッドに押し倒された。宗さんの顔から一切の感情が消えるなんて初めてだった。
「なんで帰って来なかった?」
「…すみません」
「謝れなんて言ってねえだろ、理由を訊いてんだ理由を」
「特に…これといって理由は…」
「ご丁寧にスマホの電源切ったのはなんでだ」
「…すみません」
「謝れなんて言っ…何回させんだよこのクダリ」
「あの、もうしませんから」
「そこを咎めてんじゃねえよ」
「…じゃあどこを」
「何も訊かないつもりなのか」
「……おれには宗さんのすることに、口を出す権利はないかな、とか…」
「…そうか」
宗さんはネクタイをほどくと、おれの両手を掴み後ろ手できつく縛り上げた。
「宗さん…?」
「俺のすることに口出さねえんだろ?」
胸座を掴まれ身体を引き起こされたと思ったら、宗さんはそのままおれのシャツのボタンを引きちぎった。四方に飛んだボタンは短い滞空時間ののち、軽い音を立てながらフローリングの床で何度か飛び跳ねた。宗さんは無言のまま、おれのジーンズのベルトを外してファスナーを下げた。
抵抗するつもりなんてないけど、宗さんが何を思っているのかわからない。下着ごとジーンズを膝までおろされ、うつ伏せでベッドに肩を押し付けられて身動きが取れなくなった。
「なあ、ハル」
「……はい」
「このまま俺に力尽くで犯されるのと、実家に戻るの、どっちがいい?」
「どうしてですか!?」
「…答えろよ、俺が訊いてんだろ?」
「宗さんは……どっちが楽ですか…」
「だから、俺の質問に答えろって」
「……宗さんが……望む通りに」
「…そうかよ」
宗さんはおれの手首に食い込んだネクタイをほどき、ワードローブを開けアニエスべーの黒シャツを手に取ると、おれの身体の上にそれを掛けて優しい笑顔を見せた。
「ボタン、悪かったな…代わりにそれ着といて」
ほどいたネクタイを首に引っ掛け、宗さんは寝室から出て行こうとする。慌てて呼び止めると何事もなかった顔で振り返り、どうした? と低く穏やかな声で答えた。
「どういうことですか?」
「どういうことって?」
「何もしないってことは、実家に帰れってことですか?」
「いや? そんなことは思ってないよ?」
「おれは…どうすればいいんですか」
「……特に、何もしなくていいかな」
いままで通りでいいってことなのか? あんなに不機嫌だったのに? じゃあさっきの選択肢はなんだったんだ? 宗さんは何を望んで…
「俺が出て行くから」
目の前が真っ暗になった。