第二十八話 石を抱きて淵に入る
「澄晴……大学どうするんだ?」
爽やかな朝、家族が集まる食卓で親父の心無いひと言がボクの心を抉る。口に入れたクロワッサンを咀嚼しながら、どう言えば角を立てずに進学を辞退できるだろう、と考えた。
「……行かなくちゃダメかな」
「なんだ、行きたくないのか」
「んー…目標とかないし…」
「だったら尚更、大学で目標を見つければいいだろう」
新聞から視線を外すことなく、親父はさも当たり前のようにボクを窘めた。まあ、簡単に納得してもらえるなんて思ってたわけじゃないし、ある意味予想どおりの返答だった。
「澄晴、お父さんの立場も考えなさい」
温まったティーカップのお湯をボウルに空けながら、母が少し困ったような声で言う。お父さんの立場……市議会議員の息子っていうのはどこ大学を出ればいいんだろう。
「無理に行かせることないよ、澄晴はギター弾いていたいんだから」
「またそうやって、純暁は澄晴を甘やかす……」
「お父さんもお母さんも厳し過ぎるんだよ」
爽やかな朝も逃げ出すくらいの白々しさに、ボクは食べ掛けのクロワッサンを置いて立ち上がった。
「澄晴、朝ごはんくらいちゃんと食べなさい」
「ごめんお母さん、今日早く行かなくちゃいけないの忘れてた」
ギターを担いでボクは走り出す。
逃げたい。どこか遠くへ。ボクのことを知るひとのいない場所へ。
海で溺死、山で滑落死、樹海で縊死……他に、迷惑が掛からない方法は……
お父さんの立場? お母さんは出来のいい自慢の息子が何をしてるのか知ってる? 誠実でクリーンな市議の長男は、六つ下の次男を庭の池に突き落として殺そうとしたんだ。庭師に助けられた次男を見て長男は「死に損ない」って嗤ったんだ。次男は長男を怒らせないよう、神経をすり減らした。
仕事で遅くなったときにでも使えばいいって、長男のためにお父さんが借りてるマンションはね、長男の乱交パーティーに使われてる。長男はそこで、借金の返済のため次男にカラダを売らせて小遣いを稼いでるんだよ。ねえ、知ってた?
それから次男はね……
次男は、血のつながった実の兄とのセックスによがり狂ってるんだ…
── 誰か…助けて……
「…ヤ……アヤ」
「…っ…な、なに?」
「呼ばれてるよ、進路相談」
「あ、ああ……うん、行って来る…」
タチバナに見送られながら、視聴覚室へ向かった。
どうせ言われることはわかってる……授業に出ろ、大学に行け、お兄さんは優秀だった……判で押したようにみんな同じことを言う。お兄さんは、お兄さんは、お兄さんは……
「綾小路、まだ大学決まってないのか」
「はあ……まあ…」
「お兄さんは? どこ出たんだっけ?」
「…慶応です…けど…」
「就職は?」
「銀行です…」
「優秀な兄貴だなあ……で、おまえは? やりたいこととか、ないの?」
「……やりたいこと」
「将来の夢、ってやつかな」
「…ハーバードに行って……ダブルメジャー制度があるので音楽学と物理学を専攻しようかと。リベラル・アーツ教育にも、ハーバード・ハウスでの共同生活にも興味ありますし、MITとの交流も盛んなので大学院はそっちに行こうかな、と。将来はリンカーン研究所の天文台で働けたらいいなっていうのと」
「……お、おお……それと?」
「もしくは……海の泡になって人間をやり直します」
進路相談担当の松永は何も言わなかった。っていうか、多分言葉を失ってたっていうか、開いた口が塞がらないっていうか、そういう状態だったんだろうけど。ハーバードなんて、まずGPAが足りなくて無理だってことくらい松永にでもわかんだろ。
はあ……大学、ほんとにどうしようかな……
──
「ん……あ…っ…ああ…」
「いつまで怒ってんの」
「はぁっ…あ…ああ…ん…」
「ちゃんと最後までしてあげるから、ご機嫌直して」
別宅に着くなり、純暁はボクの服を乱暴に剥ぎ取った。またカラダにもの言わすのかよ……不満気なボクをベッドに押し倒し、純暁はボクの首筋に口唇を押し当てた。
「澄晴、口開けて」
「……?」
「大丈夫、合法だから」
口移しで水を注ぎ込まれ、純暁が合法だと言ったクスリを飲み下す。前回そう言われて飲んだヤツは悪酔いが酷くて三日間寝込んだのを思い出した。
「おまえはほんと可愛いよなあ」
「あっ…ああ……んん…」
「捨て犬みたいでさ」
「あああ…っ…あ」
「お兄ちゃんにアナル吮められて感じる変態だけどな」
「う…っ…あ…あ」
「そろそろ欲しくなって来た?」
「んっ…ああああぁぁっ!!!」
てめえだって弟のアナルに突っ込んで喜んでる変態だろうが!
「あ…あ…あ…あ…イくイくイく」
「早いな…おクスリ美味しい?」
「あ、あ、あ、イく」
「いいよ……好きなだけイかせてあげる」
あ、あ、あ、あ、あ……目が…回る……
「あああ…あ…あ…イく…」
「ふっ…際限ねえな」
「あ、あ、あ、あ…あ、あ……」
「こーんばーんはー…って、もうハメちゃってんの?」
「もう終わるから」
「久々ーお招きアリガトウ」
「澄晴、もうトんでんじゃん」
…な…に……あ…あ…あ……
「キヨ、おまえがいつまでも怒ってるから、ご機嫌直してもらおうと思って友達に来てもらったんだ。思う存分楽しんでとっととご機嫌直してね……じゃあ、おれ帰るから終わったら鍵ポストに入れといて」
「はーい、純暁またねー」
「鬼のようなおにーちゃんだな」
「はい、じゃあ選手交代ね…澄晴こっちおいで」
「あ、あ、あ、あ、あ…あ…」
「欲しくて仕方ないって感じだな」
「暴れると余計痛いからねー」
「わ…勃ってんのにブジー突っ込むとか鬼畜だろ」
「大丈夫だよ、ね」
あ…ああ…っ…
「尿道責め、そんなに気持ちイイ?」
「前から後ろから大変だな」
「澄晴、挿れてあげるから上乗って」
「もう自分で動けねんだろ」
「いいよ、乗せてあげる」
「澄晴、あーんして」
ああああああっ…
「澄晴、イくの早過ぎじゃね?」
「純暁がおクスリ仕込んでるから」
「まーたそんな危ないことを」
「もう弟じゃなくて性奴隷だもんな」
あ、あ、あ……
── 気が狂う
「澄晴、大丈夫?」
「大丈夫じゃね? 息してるし」
「あっそ、じゃあ記念に入れとこ」
「何の記念だよ」
「えー、おれたちのおもちゃになった記念?」
「…さすがにそれは痛いんじゃないか?」
「大丈夫だろ、コイツ穴だらけだし」
……な…にを……
「…っ…ぅあ…ああああっ!!」
「暴れんなって……」
「痛そー…」
「外すなよ」
「男の乳首にピアスって、意味あんの?」
「知らね」
「じゃあね澄晴」
「また遊ぼうねー」
……ふっ…まだ生きてる…
海で溺死、山で滑落死、樹海で縊死……腹上死はなさそうだな…もう迷惑とか……どーでもいいかなあ…バカだから……きっと赦してもらえるよ……ボク出来損ないだから…ずっとそうして来たから…明日って何曜日だっけ…まだ学校あったりするかな……もう……いいか…
ボクはもう……疲れた……
「……アヤ?」
「…ん」
「こんなところでしゃがみ込んでどうしたの」
「ちょ…と休んでた」
「休んでたって……」
「も、大丈夫」
「…なに、これ…服、真っ赤になっ」
「ん、平気…」
「…病院行こう」
「ダメだよ…親父さんに迷惑掛かる…」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」
「大丈夫だから…病院は行けない…」
「んなこと言ってる場合じゃねえだろ!!」
……タチバナが…怒…った…
──
「みっちゃん、どうしたの?」
「ママが…おそとであそんでてって」
「じゃあボクと遊ぼ」
「…いいの?」
「うん、みっちゃんと一緒がいい」
みっちゃんは、泣きながらお外にいることが多い。暗くなっても、ひとりで公園にいる。
「みっちゃん、泣かないで…ボクがいるから」
「きよくん…」
きれいなみっちゃん。優しいみっちゃん。ボクは泣いてるみっちゃんがスキだ。泣いてるみっちゃんに優しくすると、みっちゃんはなんでもお願いを聞いてくれる。
「みっちゃん、こっち」
公園の滑り台の下はトンネルになってて、暗くて狭くて自然とカラダがくっつく感じがスキだった。みっちゃんの高い体温はなんだかボクをドキドキさせた。
「みっちゃん…触ってもいい?」
「…うん」
みっちゃんのズボンの中に手を入れ、湿っぽくてあたたかいところを探す。優しく握るとみっちゃんの息が熱くなって、ボクはそのことに安心した。
「ん…ふ…きよくん…」
「みっちゃん、大好き」
「ぼくも…きよくんすきだよ」
「ずっと一緒にいようね」
ずっと一緒にいようね、みっちゃん。だってボクたち、こんなに分かり合ってるんだから。
──
「……み…っちゃん…」
「……大丈夫?」
「…ん…寝ぼけた…」
ずっと寝不足だったせいか、ボクはタチバナのベッドを占領して寝ていたみたいだ。声を荒げたタチバナは普段と変わらない笑顔でベッドの際に腰をおろす。
「病院行きたくないって言うから、とりあえずおれの部屋だけど」
「……ん、ありがと…」
「その身体の傷、どうしたの」
「あー…なん…か…エスカレートした…っていうか…」
「プレイなら何も言わない。レイプなら力になる」
「…っ…や…大丈夫だから」
「アヤが大丈夫って言うときは、大丈夫じゃないことが多いから」
「ほんとに大丈夫だから」
「……そんな傷だらけになってさ、心配するなって言うほうが厳しくない?」
「…ん…ごめん…」
「放っておいたほうがいいの?」
「……だって…」
「おれにできること、ない?」
「……じゃあ、ボクとやらしーことしよ、タチバナ」
「…はい?」
「そんで、ボクをよがり狂わせてくれる? イイ声で鳴くからさ」
「アヤ」
「あ、タチバナに突っ込んだりしないから心配しなくていいよ」
「アヤ、ちょっと待って」
「気持ちイイことしよ? イヤなこと全部忘れられるくらい思いっきり突き上げてよ」
「…アヤ……」
「もうどうすればいいかわからないから、何も考えられなくして、ダメになってもう眠りたい」
……ボクを抱き締めるタチバナの手の大きさに、背中を覆う優しい感触に、そのあたたかさに、首筋から香るムスクの香りに、ボクの涙腺はあっけなく壊れた。
「アヤ……そばにいるから」
「ボクのせいで純暁が見劣りするって……ボクのせいで不幸になるって言うから」
「アヤのせいじゃないよ……」
「ボクがテストで百点取ったら、純暁が怒るから、だからボクは」
「アヤのせいじゃない…」
「死ねって言うから…ボク一所懸命純暁の言うこと聞いて、逆らわないようにしたのに」
「アヤ……」
「どうして……どうしてそんなにボクが嫌いなんだよ……どうして……!!」
海で溺死、山で滑落死、樹海で縊死……でも、ボクが死んでも純暁は悲しんだりしない…
***
特にこれといった理由はなかった。幼稚舎の頃は「きよくん」「みっちゃん」と呼び合っていたけれど、なんとなく気恥ずかしくなって小学校の高学年になる頃には「アヤ」「タチバナ」と呼び合うようになった。呼び名が変わったところで何かが変わるとも思えなかった。
「……みっちゃん」
「どうした?」
「しんどい…」
学食に行く途中、アヤはそう言っておれに抱き着いた。
ここしばらく様子のおかしかったアヤは、あの日の夜から明らかに精神状態が不安定だ。音楽準備室にギターを弾きに行くこともなく、窓の外をぼんやり眺めていたかと思えば突然泣き出したりする。おれを「みっちゃん」と呼び、おれに抱き着いては呼吸を整える。
「学校の廊下で大胆だな」
声に振り返ると、久御山が立っていた。
入学して三日で学校中に名前を轟かせた一年生……フランス人とのハーフだとかって噂だけど、確かに騒がれるだけあるな…十五、六でここまで仕上がってるなんて…
「綾ちゃん、どうしたの?」
「…っ、知り合い?」
「え、うん……橘…さん、でしたっけ」
久御山に気付いたアヤは、縋るように久御山に腕を伸ばした。
「お、どうした? オレが恋しかった?」
久御山は笑いながらアヤを抱き留め、その背中を優しくなでた。アヤは久御山にもたれ掛かり、おとなしく背中をなでさせていた。アヤは表向き誰とでも仲良くするけど、実は心の垣根が高く常に一定の距離を保とうとする。こうして無防備に背中をなでさせることは稀だった。
「何かあったんですか?」
学食のテーブルに突っ伏したアヤを見ながら、久御山が声をひそめる。
「…心配?」
「そうですね」
「連絡先、教えてもらえる?」
「は?」
「……あとで連絡する」
LINEの交換をして、教室に戻って行く久御山の背中を見送った。アヤはテーブルに突っ伏したまま、身動きひとつしなかった。