あのときの僕の話をしよう 9

あのときの僕の話をしよう
物 語

その41

緩い暗闇の中で、心もからだも黙り込んだ僕に彼女が告げる。

「…みっちゃん、LINE、会社のひとからじゃない?」「え?」

その途端視界が明るくなって、目の前にスマホが差し出された。ああ、神崎部長からだ。そして僕はまんまと会社に呼び戻された。

「すまんな楠本、他の連中が捕まらなくて」
「いえ、大丈夫です」

他は間違いなく通知欄からの未読スルーだろう。誰だって帰宅した夜に出社したいとは思わない。溜息を吐くと彼女からLINEが届いた。

「そういうところが、いやなの」

どういうところなんだ。

 

その42

僕も通知欄で確認して未読スルーしていれば、いま頃は腰の上に彼女を乗せていただろうし「そういうところが、いやなの」なんて言われなくても済んだのだろう。会社に戻ることが? それとも隣にいなくなることが? どちらにせよ偽善者の烙印を押されたことに変わりはない。

仕事とわたし、どっちが大事? なんてわかり切ったことを、わからなくしてるのはきっと僕のほうだ。

でも、会社の上司を切り捨てて、知らん顔をする僕に彼女は満足するのだろうか。

そうなれば悩まなくてもよくなるのだろうか。

彼女は安心するのだろうか。

 

その43

たとえば結婚とか同棲とか目に見えるものじゃなくて、僕が会社を辞めるとか、いや、辞めたら生活できないな、降格になって仕事量が減るとか、友達付き合い、家族との付き合い、親戚付き合いをすべてやめるとか、そうして僕が孤独になって、本当にもう彼女しかいなくなれば、彼女は安心してくれるだろうか。LINEのリストも彼女だけにして、電話の連絡先も彼女だけにして、すべてを断って…

「楠本さん」
「…あ、奏さんも来てたんだ」
「他のひとたちに明日ランチ奢ってもらいましょうね!」

奏の屈託のなさに笑った。

 

その44

「どうして湊 “さん” なんですか?」
「え」
「いつもは呼び捨てなのに」

特に意味はなかった。ただ彼女のことを考えていた時にいきなり声を掛けられたから、何となく取り繕っただけで。

「ちょっと、よそよそしくて、傷付きました」

と、言われても咄嗟に口を付いただけだからなあ…

「ごめん、よそよそしいつもりはなかった」
「…許しません」
「頼むよ湊、ちゃんとカラダ(仕事)で返すからさ」
「楠本さん、いつもそうやって茶化すんだもんなあ」

茶化してるわけじゃないけど、それ以外思い付かないしできることがない。

 

その45

思った以上に手のかかった修正が終わったのは0時が過ぎてからだった。

「湊、足あるの?」
「バスなんで、歩いて帰ります」

さすがにこの時間、歩いて帰らせるわけにはいかないし、神崎部長に送らせるわけにもいかないだろうな。

「送るわ」

そう言うと、湊は大丈夫ですと断ったが、こっちが心配で大丈夫じゃない。

助手席に湊を乗せて真夜中に車を走らせてると、湊がポソッと「楠本さんの彼女さんが羨ましいな」と言う。

「なんで?」

僕の彼女なら多分、いま世界で一番不幸だって顔をして、泣いてるか、怒ってるかの最中だ。