The Magic Mirror of Müllsheena
「記憶喪失!?」
「いえ、正確には記憶後退というか……一種の記憶障害ね」
「記憶障害とは……どうなるんです?」
「逢ったほうがわかりやすいと思うわ」
医の女神エスキュラが病室の扉を鳴らす。
「ルフェル、入るわよ」
部屋を覗き込むと、ベッドの上で上体を起こし入口に目を向けるルフェルがいた。諜報部での任務中に事故に遭ったと聞いていたミシャは、大きな怪我を負っていないルフェルを見て安心した。
「ちょっと、心配させないでよ……事故って、何があったわけ?」
ミシャがベッドに近付き声を掛けると、ルフェルは怯えたような声を出した。
「……エスキュラさま……だれ……?」
……さま? いまエスキュラさまって言った? 普段神々のことを呼び捨てにするくせに? そして誰、って言った? それはもしかしてわたしのことを言ってるの?
「ルフェル? からかってるならよしてちょうだい」
「……だ、だれ?」
「ミシャ」
「ミシャ?」
「そう、ミシャ!」
「ミシャなら、さっき川でさかなを」
「……川で?」
「う、うん。いっしょに、さかなとってた」
……何を言ってるの?
「原因はわからないけれど……五歳くらいからの記憶がまったくないみたいなのよ」
「いまのルフェルは……五歳ってことでしょうか」
「まあ、そういうことね」
───
とりあえず事情のわかる者を探しに、ミシャは総合情報局を訪れた。諜報部の事務所で待っていると、その時行動をともにしていたという部員が三名やって来た。
「よかった、他の方は無事だったんですね」
「いえ、大天使長を危険な目に遭わせたのはわたしたちなので……」
「諜報活動の内容はお話できないと思うんですが……ルフェルに何があったんでしょうか」
「……ミュルシーナをご存じですか?」
「いえ……わかりません」
「魔界の女王なのですが」
「魔界の……女王、ですか」
「はい、どうやらその……ミュルシーナの怒りを買ったようで」
あの男はどれだけ女神やら女王やらの怒りを買えば気が済むのか、とミシャは思った。
「ええと、怒りを買った、というと?」
ミュルシーナは世界で一番の美貌を誇る女王でした。ミュルシーナの持つ魔法の鏡に、世界で一番美しいのは誰かと問うと、鏡は決まってミュルシーナの姿を映しました。しかし……女王に娘が産まれると、ある日鏡は娘の姿を映したのです。魔法の鏡は嘘偽りのない正直な鏡でした。
何度訊ねても鏡は、ミュルシーナではなくその娘を映し出し、それに気を悪くした女王は……自分の娘を殺しました。娘を殺した女王はまた、世界で一番美しい女王になったのです。しかし人間であるミュルシーナは当然老いて行きます……世界で一番美しいのは誰かと問うと、鏡に映し出されるのは若く美しい少女ばかりになりました。
ミュルシーナは鏡に映し出される少女を次々と殺し、永遠の若さと美しさを求め、悪魔に魂を売り渡しました。まあ、ここまでであれば、割とよくある話です。
そんな話が割とよくあってたまるか、とミシャは思ったが黙って話を聞いていた。
それから鏡は常にミュルシーナを映し出しました。世界で最も美しい女性はミュルシーナだと鏡は答え続けました。しかしある日……その鏡は別の者を映したのです。
「……フローディアさまか、誰か?」
「いえ……大天使長です……」
「……ルフェルを!?」
どんなすっとこどっこいな鏡だ、嘘偽りのない正直な鏡が聞いて呆れるわ、とミシャは思ったつもりが口に出ていた。
「その鏡は、性別のわからない馬鹿なの?」
「女性に限定して訊ねればよかったのでしょうが……」
「せめて限定して訊ねなさいよ……」
そこでフィンドに潜入していたエージェントから連絡があったのです。ミュルシーナが大天使長を殺そうとしている、と。ですが……大天使長本人にこの話をすることができず……護衛するのも不自然ですし、かといって本人に防御してもらうこともできなくて……
「本人に言えばよかったのに、どうして言わなかったの?」
「世界で一番美しいと鏡が言っていた、なんて言えますか!?」
「……ブチ切れて剣を召喚しそうだわね」
我々天使は水晶に魂を預けているので、通常であれば命の危険はありません。しかし、我々の持つ剣のように、水晶の干渉を受けない武器や道具を、フィンドの連中も当然持っています。まあ、普通に戦闘が始まれば、大天使長にお任せして放っておいても問題なかったのですが……
「普通の戦闘じゃなかったの?」
「ミュルシーナが鏡を持って立っていたのです」
「魔法の鏡って……他に使い道があるの?」
「わかりません。しかし鏡に大天使長が映った途端……その場で倒れてしまったので」
何が起こったのかわからず……とにかく我々は大天使長を連れてエデンに戻ることが精一杯でした。とりあえず大天使長を診療所へと運び、そのあともう一度地上を確かめに行ったのですが、手掛かりとなるものはなく……まさかミュルシーナが地上にいるとも思っていなかったので対策も立てていませんでした。
「なるほど、それで命の代わりに記憶を取られたわけね」
「記憶……ですか?」
「多分、その鏡に吸われちゃったんじゃないかしら」
───
ミシャと諜報部員三名は診療所へ向かい、ルフェルの病室を訪れた。廊下にまで聞こえて来る数多の甘ったるい声に、ミシャは嫌な予感を募らせつつ扉を開けた。
「……何をなさってるんです?」
ベッドに群がる熾天使たちはミシャの姿を確認すると、何事もなかったようにまたベッドへ向き直した。群がっている相手は熾天使であり、ミシャは座天使だ。位階でいえば相手のほうが上なため、ミシャにはこれ以上成す術がなかった。そこに運よく話を聞き付けたフィオナが現れた。
「ほう、普段相手にもされない連中が、ここぞとばかりに狙っておるのか……痛々しいな」
熾天使たちは「失礼いたしました」と丁寧に去って行き、ベッドには……瞳いっぱいに涙を浮かべたルフェルがいた。諜報部員はその姿に驚き、声すら出せなかった。あの大天使長が……翡翠のような瞳に涙を溜めて怯えた顔をしている……常に無表情極まりない大天使長が……透き通るような白い肌を赤らめて硬直している、とは……
「どうしたルフェル、大丈夫か」
「フィオナさま……」
フィオナの姿を見て安心したルフェルはとうとう泣き出してしまった。
「……こう、見てはいけないものを見ているような」
「気まずいというか、居た堪れないというか」
「罪悪感に襲われるというか、背徳感を覚えるというか……」
諜報部員たちは泣きじゃくるルフェルを直視できなかった。
フィオナは優しくルフェルの頭をなでながら、「おまえは本当に泣き虫だな。その器では立派な熾天使になれぬぞ」と五歳のルフェルを相手に話をするが、傍から見れば、ベッドに腰掛けた美しい女神に抱擁される図体のデカい成人男でしかなく、諜報部員たちはますます視点が定まらなくなった。
「……とにかく鏡を手に入れよう」
「そ、そうだな……とりあえずフィンドに向かう計画を」
「このままでは落ち着いて仕事ができないからな」
「心はこどもでも、からだが大人だって自分で気付かないのかしらね」
……ミシャさん!!
「あ、あの、考えないようにしてるので」
「こどもなんだと言い聞かせてるところなので」
「五歳児です、彼はいま五歳児ですから」
「そう? どう見てもイケない現場を覗き見してる気分にしかならないわ」
ミシャさん!!
「ミシャさんは大天使長の幼い頃を知ってるのでしょうが……」
「我々は完成した大天使長しか知らないので……」
「プライベートを覗いている気分にしかなれず……」
「ああ、冷静沈着で無表情で謙虚さの欠片もない無慈悲な大天使長のプレイを垣間見た感じ?」
ミ シ ャ さ ん ! ! !
「……あなたたち、そんなに初でよく諜報部員が務まるわね」
「初なわけではないので」
「ねえ、わたしもフィンドに行っていい?」
「はい?」
「ほら、ルフェルの小さい頃の気配とか、感じ取れるかもよ?」
「あ、うーん……そう言われると……」
「探すものが “記憶” だからなあ……」
ミシャは「あくまでも推測ですが」と、ミュルシーナの鏡にルフェルの記憶が吸い込まれたのではないか、という話をフィオナに伝えた。だとしたら、いまルフェルの記憶はフィンドにあるのではないか、と。
「フィンドか……それはまた厄介な場所に召し取られたな」
「我々が責任を持って取り返してまいります」
「策はあるのか?」
「はい」
……いまから、考えます。
───
総合情報局の諜報部事務所では、全員が腕を組み考えていた。諜報部員はいうなればスパイだ。敵地に潜入するときは命を絶つ覚悟さえ要る。そのために厳しい訓練を重ね、脱落しなかった者だけが残る苛烈な部署なのだ。遠足気分で務まるような仕事ではない、はずなのだが。
「……なぜ大元帥までここに?」
「ミシャさんに護衛を頼まれまして」
「現地で大立ち回りをしてもらっては困る……」
「あ、では大人しく暗殺のほうで」
「そういう話ではないのです、大元帥」
「どういう話なんです?」
大天使長のいないいま、諜報部の最高責任者であるサリエルは悩んでいた。大天使長ならこの状況を許すはずがない。しかし事態は一刻を争う。鏡に奪われたという記憶は、鏡の中に保たれたままなのか、それとも別の何かに移されているのか。破棄されている可能性すらある中で、ミシャの申し出はありがたい。が、しかし……
「悩んでる方々は、まず診療所へ行けばいいと思うわ」
では……とサリエルたちは診療所へ行き、ルフェルの様子を確かめ足早に戻って来た。
「……内密に願います」
「……くれぐれも、ご注意ください」
「そのままでは目立ちますので、こちらへ……」
ミシャとアヴリルのフィンド行きが決まり、着々と準備が進められた。
「変装ってところが、古式ゆかしいわね……」
「ミシャさん似合ってますよ、悪魔」
「翼、真っ黒にされちゃったわ……これ、落ちるのかしら」
「落ちるまで洗うしかないでしょうね」
「大元帥さま……まったく違和感ないですね、女装」
「ありがとうございます」
ここに、ふたりの悪魔が誕生した。それから、これを食べてください、とザクロの実を三粒手渡された。ザクロの実を食べることにより、天使としてのオーラが消えるのだと説明を受けたふたりの悪魔は、食べる必要があるほど天使のオーラを漂わせてはいなかったが、言われたとおりに食べた。
では、飛びますが……入口にあるニレの巨木にはお手を触れませんようお願いいたします。いろいろな魔族の棲み家となっておりますので、起こすと大変面倒なことになります。ひとつ目の門をくぐるまで私語はお控えください。コウモリやカラスが聞き耳を立てておりますので。ちなみに門は七つございます。
とりあえず我々はミュルシーナの古城へと向かいますが、大元帥とミシャさんは西の森に向かってください。西の森にはミュルシーナお抱えの魔女が棲んでいます。魔法の鏡の修理や手入れを受け持つ魔女ですので、もしかするとそこに鏡があるかもしれません。あ、くれぐれも魔女を殺めたりなさいませんよう、ご協力願います。
───
フィンドの入口には確かにニレの巨木があり、鮮やかな色合いで訪問者を迎えてくれた。色とりどりのランプは幻想的に瞬き、闇の世界は美しく、その両腕を広げていた。空を見上げるとコウモリが忙しなく行き交い、なるほど、情報交換に余念がなさそうだ。そしてひとつ目の門をくぐる。
「もう大丈夫ですよ」
「フィンドって、もっと荒廃したイメージだったけどきれいなのね」
「まあ、青空はありませんけどね」
「あの、西の森へはどうやって?」
「みっつ目の門を、左です」
ミシャとアヴリルはみっつ目の門を左へ曲がり、西の森へと向かった。道の両脇には街路樹が植えられ、その枝に吊るされたランプが行く先を照らしている。
「……フィンド、結構お洒落なのね」
「お洒落ですが……ちょっと、しゃがんでください」
何事? と思いながらミシャがしゃがむと、アヴリルはふわりと宙に浮き、踵で “何か” を引き倒した。
「……大元帥さま、大立ち回りは……」
「失礼、こういう気配に慣れていないもので」
「多分……見知らぬ訪問者を覗きに来ただけのドワーフでは……」
「気絶してるだけです。急所は外しましたから」
なるほど、こういう時のためにチャイナドレスなのね……大変心強い護衛ではあるけれど、もしかしてわたし、とんでもない方に声を掛けてしまったのでは? 空中で急所を外すって、どういうことよ。
「あら? そういえば大元帥さま、翼は?」
「わたしたちは変幻可能なんです。戦闘で邪魔になることもあるので」
「あ、それで諜報部の方々も翼がないのね」
「そうですね。彼らも邪魔になるでしょうから」
ミシャとアヴリルは街路樹が照らす道を、真っ直ぐに歩いて行った。
───
「エスキュラ、どうだ具合は」
「生命の樹の実、かじらせてみたんだけど……熱が下がらないの」
「水晶の魂には何の変化も見られぬのだが」
「魂は無事なのに……なぜからだが弱って行くのかしら……」
「やはり……フィンドに記憶がある、というのは本当なのか」
「フィンドに、記憶が?」
フィオナは、ミシャと諜報部員から聞いた話をエスキュラに伝えた。ミュルシーナの魔法の鏡にルフェルが映し出されたこと、地上でミュルシーナの鏡に映ったルフェルが倒れたこと、それから、記憶が失くなったこと。エスキュラは少々難しい顔をして首を横に振った。
「フィンドで呪術や魔法を使われていたら……困ったことになりそうよ」
「それはわかるが……魂も本体もエデンにいるのだ、どうやって呪詛を」
「記憶か……鏡に映し出された姿を通しているとしたら?」
「辻褄は……合うな……」
フィオナはベッドの横に椅子を置き、腰をおろした。突然熱を出し、嘔吐を繰り返すルフェルの手を握ると、発熱しているにも関わらず、その手は驚くほど冷たい。からだの中にある臓器は飾りのようなものなのに、なぜ嘔吐を? フィンドで何が起こっているのだ……
「フィオ…ナさま……」
「どうした? また怖い夢でも見たか」
「くるし…い…」
「ここにいてやるから休め」
「うん……」
フィオナは優しくルフェルの頭をなで、頬に手を当てた。さっきより……明らかに熱いな……いまは諜報部の者に任せるほかないのだろうが……
───
「西の森って……ちゃんと看板があるのね……」
「親切ですね」
「魔女の棲み家にも表札あるのかしら」
「訪問者がいるならあるかもしれません」
「とりあえず森にはたどり着いたけれど……何をすればいいの……」
「魔女の家に行ってみましょう」
「いきなり敵地に乗り込むの!?」
「戦闘におけるいろはの “い” です」
「……戦闘に来たのではありません、大元帥さま」
森の中も木々の枝にランプが吊るされ、薄っすらと桃色に染まる森はどこかあたたかな感じがする。ミシャとアヴリルは建物を探しながら、ぶらぶらと歩いていた。しばらく歩いていると、ミシャが突然足を止めた。
「どうかされました?」
「……大元帥さま、あれ」
「あれ?」
ミシャの指差す方向を見ると……小さなこどもが歩いていた。
「こども、ですね」
「……ルフェル」
「大天使長?」
「あの子……ルフェルだわ」
「どういうことでしょう」
そう言うと、アヴリルは軽く地面を蹴って後ろに飛んだ。飛んだ先で目の前にいる者の顔を背後から腕で固め、のど元に短剣を這わせると、顔を固められている者が必死にアヴリルの腕を叩く。
「……大元帥、勘弁してください」
「ああ、失礼。気付くのが遅れたので少々乱暴になってしまいました」
「生きて帰れるのか不安になって来ました……」
「気配を消したまま近付かないでください。からだが反応してしまうので」
アヴリルは諜報部員から腕を放すと、ミシャがいないことに気が付いた。
「ミシャさんを見失ってしまいました」
「ええっ!!」
「さっき、こどもがいたんです」
「フィンドにもこどもはいますが」
「大天使長だったようです」
「ええっ!!」
歩いて来たのは一本道……さっきのこどもは別の道を歩いていたのか……水の音が聞こえるが、近くに川か池でもあるのだろうか。小さな声と……話し声が水面に反響している……?
「着いて来てください」
アヴリルは地面を蹴って大きく飛んだ。着いて来いって、無茶なことを……わたしたちは諜報部員であって、戦闘員ではないんだが……ああ、また飛んだ……どうせなら翼でゆっくり飛んでくれないもんだろうか……
───
なんとか見失わないように諜報員がたどり着いた場所は、小さな湖だった。その畔でミシャが男の子と話をしている。翡翠のような瞳に白銀色の髪……どこかで……見たことがあるような……?
「じゃあ、どうやってここに来たのかわからないのね?」
「うん……きづいたらここだった」
「お家への帰り道はわかる?」
「……わかんない」
「いまは、どこに行こうとしてたの?」
「あ、これ……とってきてっていわれたから」
「一緒に行ってもいい?」
「うん」
ミシャとアヴリル、そして諜報部員は小さな男の子に着いて行った。
「コルチカムですね」
「何に……使うつもりだろう」
「あれ、そんなに危険なものなの?」
「ユリ科の植物でコルヒチンが含まれています。食べると死にますね」
「何て物騒なものをこどもに取りに行かせるのよ」
「そういえば、古城で何かわかりました?」
「ああ、鏡がなかったので魔女のほうかと」
「なるほど、魔女の家で、何をどうします?」
「鏡の奪取が目的ですが……あの子、何者なんだろう」
「大天使長らしいですよ」
「じゃあいまエデンにいるのは?」
「大天使長でしょうね」
───
だどり着いたのはレンガ造りの一軒家だった。小さな男の子は玄関の扉を開けると、三人を手招きする。ここまで来て隠れているわけにもいかず、三人は何食わぬ顔で家の中に入った。そこには気の良さそうな老婆がひとり、大鍋をかき回す姿があった。
「おばあちゃん、これ」
「はい、ありがとう。お利口さんだねえ」
「こ……こんばんは」
「はい、こんばんは」
三人を気にも留めず、老婆は受け取ったコルチカムを鍋に入れた。
「夜ごはん、ですか?」
「そうだねえ、夜ごはんみたいなものかねえ」
「食べるんですか?」
「いいえ、浸けるの」
「何を?」
「鏡よ」
……大天使長の記憶を吸い込んだ鏡を、猛毒の鍋に、浸ける? それは……いろいろ大丈夫なんだろうか。その前に鏡を奪取して逃げたほうがよいのでは……
───
「フィオナ……覚悟を……してちょうだい」
「覚悟、とは? 本当にもうこれ以上何もできぬのか」
「原因がフィンドにあるんじゃ手も足も出ないわ」
「そうだとしても……死なせるわけにはいかぬ……」
熱は下がらず、吐くものなどないからだで嘔吐を繰り返すルフェルの手足は、氷のように冷たく薄紫に変色していた。呼び掛けても応えることがなくなり、薄く開いた眼に涙を浮かべたまま、時折ひきつけを起こしては呼吸を止める。しばらくすると、上気していた顔が白くなり、それは間なしに蒼褪めて行った。
「ルフェル……どこにいるのだ……」
フィオナがルフェルの手を握ると、ルフェルは小さくけいれんを起こし、薄く開いた眼に浮かんでいた涙は、もう留める力すら失いすべて流れ落ちた。
「…フィ……」
「ルフェル?」
「…オ…ナさ……」
混濁していた意識が戻ったかと思うと、ルフェルはフィオナに弱々しい笑顔を作り、「ご め ん な さ い」と声にならない声で口を動かし、涙で顔を濡らしたままゆっくりとその眼を閉じた。
── 立派な熾天使になれなくて、ごめんなさい
───
「鏡を持って逃げる係、男の子を連れ出す係、魔女と戦う係」
「大元帥さま魔女択一でしょ……」
「でも一番大事なのは鏡を持って逃げる係では?」
「そうだけど、じゃあ誰が魔女と戦うの!?」
「魔女と戦う必要はないかもしれませんよ」
「いや普通怒るでしょ、預かってるもの持ち逃げされたら」
三人は魔女の棲み家で揉めていた。チラリと老婆を確認すると、大鍋の火を止める姿が見えた。もう時間がないのでは、とそれぞれが思っていると、老婆は部屋の奥から “魔法の鏡” を持って来た。大天使長の記憶が、猛毒に浸け込まれるのも待ったなしの状況だ。
そこで、アヴリルがさり気なく魔女に訊ねた。
「少し、お伺いしてもよろしいですか」
「はい、どうぞ」
「魔法の鏡、なぜ鍋に浸けるのでしょう」
「魔力を取り戻すためよ」
「魔力を?」
「そう、魔力を。使っているうちに魔力が切れちゃうからねえ、時々こうして手入れをするの」
「魔法の鏡は毒で死なないのでしょうか」
「だから、避けてあるのよ」
避けてある……?
「ほら」
そう言うと、老婆はポケットから小さな手鏡を取り出し見せてくれた。小さな手鏡には……大天使長の姿が。
「ルフェル! ねえちょっとこれ生きてるの?」
「随分と生気がないようですが、大丈夫でしょうか」
「真っ青じゃないですか……」
「あら、ごめんなさいねえ」
「おばあちゃん何か知ってるの!?」
「手鏡、ポケットに入れたまま鍋を仕込んでたものだから、毒に当たったのかもしれないねえ」
一大事じゃないですか。
「おばあちゃん、鏡に映ってるだけで毒の影響があるの?」
「そりゃあそうよ、鏡の中にいるようなものだからねえ」
「からだに魂入ってないのに!?」
「フィンドの毒が、召喚した剣と同じだとしたら直接害はありますね」
「あれ、ちょっと待って。じゃあルフェルの記憶は?」
「その手鏡の中でしょうか」
「だとしたら記憶も毒されてるということでは!?」
「ああ、鏡に入ってた記憶なら、そこに」
どこですか。
「鏡の手入れをするために避けたの、記憶も。大事なものでしょう?」
「あなた……ルフェルの記憶だったの」
「どうしてぼくのなまえ、しってるの?」
「ミシャよ」
「ミシャ?」
「そう、ミシャ」
「ミシャ、いつのまに、あくまになっちゃったの!?」
「そのうちわかるわよ」
鏡に吸い込まれた記憶は、そのままの状態で鏡から取り出すと消えてなくなってしまうため、魔女がその記憶を持主の形に変えて避けたらしい、が……約二百五十年分の記憶の塊が、なぜ五歳児の姿形をしているのか、ミシャにはわからなかった。エデンでのことを鑑みるに、本来、五歳までの記憶を失った大人のルフェルになるはずでは?
「馬鹿ねえ、記憶なんて目に見えないものでしょう?」
「それはそうだけど……これで二百五十年分なの?」
「物質化するために、記憶の素粒子を分子にするの」
「素粒子を、分子に」
「そうしたらそれくらいの大きさにしかならないの。たった二百五十年くらいじゃあねえ」
魔女って理系なんだな、毒も薬も作れるし、とミシャは思った。
「じゃあ、この子自身の記憶ってどうなってるの?」
「さあ、どうなのかしらねえ、断片的に憶えてるのかもねえ」
「自分の名前もわたしのことも、憶えてるものね」
「ミシャ、いつのまに、おおきくなっちゃったの?」
「あなたもすぐ大きくなるわよ」
ミシャはルフェルを抱き上げると「さあ、帰りましょう」と頭をなでた。
「ねえ、おばあちゃん。記憶、どうしたら元に戻るの?」
「持主に近付けたら勝手に戻るわよ」
「ありがとう、おばあちゃん」
三人が帰ろうとした時、玄関の扉が開きひとりの美しい女性が家の中に入って来た。こんな夜に、魔女の家にやって来るのは、きっとひとりしかいない。世界で二番目に美しい女王以外のはずがなかった。
「おやミュルシーナ、早かったねえ」
「……お邪魔しました」
「お待ち」
やはり……呼び止められますよね……
ミュルシーナは鞭を取り出し、両手でそれをしならせながら、いま正に玄関から出ようとしている三人に近付いて来た。
「時間を稼ぎますので逃げてください」
アヴリルがふたりに告げると、ミュルシーナはアヴリルの前に立ちはだかり、頭の天辺から爪先まで、まるで品定めでもするかのように視線を往復させた。
「おまえ……どこに隠れてた」
「わたしですか?」
「おまえだ。わたくしの鏡に映らなかったのはどういうこと?」
「仰る意味がわかりませんが」
「……殺す」
「殺される理由もわかりませんが」
ねえ、もしかして、大元帥さまが美しいから怒ってるってことかしら……多分そうでしょうね、声を聞いて何か気付くとかないんですかね……まあ、確かに大元帥さまは美人ではあるけれど……5フィートと10インチ(約178cm)もあることを疑問に思うとかないんですかね……とりあえず、逃げましょうか。
ミシャと諜報部員が走り出すと、ミュルシーナの鞭がミシャを目掛けて飛んで来た。
「ちょっと! 危ないじゃない! この子に当たったらどうすんのよ!」
「逃げられると思ってるのか、小娘が」
「……あなた、おいくつでいらっしゃるの?」
「女性に歳を訊くとは不躾な」
「ねえ、ちょっと! このひといくつなの!?」
「多分、二百は超えているかと……」
「あらそう、ちょっとルフェルお願い」
ミシャはルフェルを諜報部員に託すと、右手で空を切った。その手には、黄金に輝き螺旋状に光の帯をまとう正義の剣が納まり、ミシャが一振りすると剣身は真っ白なオーラを放ちミシャを包んだ。
「ルフェルの大事な記憶なのよ……」
「ああ、わたくしの鏡に映った無礼者か」
「性別くらい限定して訊きなさいよ」
「そこの無礼者も始末しなくては」
「わたしですか?」
「だからおまえだ!」
「あとね、わたし若く見られるけれど、これでも二百五十年は生きてるの」
ミシャはミュルシーナに向かい真っ直ぐ剣を振り抜いた。正義の剣の斬撃波がミュルシーナの頬を焼き、ミュルシーナは茫然と立ち尽くす。
「逃げて!」
三人は一斉に逃げ出した……ごめんなさい、わたしまだ力が弱くて斬撃波をちゃんと出せないのよね……いえ、顔に傷を付けられてミュルシーナの動きは止まりましたから成功じゃないですか? ……とりあえず早くエデンに戻って大天使長の記憶を戻さねば……そうね、とにかく逃げましょう。
───
小さなルフェルを抱いて診療所へ駆け込むミシャとアヴリルと諜報部員は、ベッドに横たわるルフェルを確認した。ミシャは小さなルフェルを床におろし、頑張ったねと頭をなでた。
「ルフェル、またあとでね」
「ミシャ、あくまになっちゃだめだよ」
「うん、あとで足を洗っておくわ」
小さなルフェルは手を振ると、ベッドに近付き、そうっと消えた。
フィオナに聞いた話によると、想像以上にルフェルは危険な状態だったようだ。もう少し長く鍋を煮詰めていたら、本当に帰らぬ身となっていたかもしれない。やはりフィンドの毒が原因だったのか、とフィオナは溜息を吐いた。それから、「なぜ翼が黒いのだ」とミシャに訊いたが、見なかったことにしよう、と病室から出て行った。
そのあとエスキュラからフィオナの話を聞いて、フィオナがどれだけルフェルを心配していたのかを知った。「手のかかる子ほど可愛いとはよく言ったものね」と、エスキュラは溜息を吐きながら笑った。
───
「それで?」
総合情報局の諜報部事務所では、全員が立ったまま硬直していた。当然そこにはミシャとアヴリルの姿もあった。
「申し訳ありません」
「何のための秘密情報部なんだ」
「わたしの独断で決めたことですので、他の者は無関係です」
「無関係? 全員で協力し全員で口裏を合わせて無関係か」
「すべて、わたしの指示したことです」
どこから漏れたのか、サリエルはいま大天使長に、素人ふたりをフィンドに連れて行った件で詰められていた。しかしあの時はそうする以外に手立てはないと判断したことが事実であり、その判断に誤りはなかった、とサリエルは胸をなでおろしていた。懲戒免職か、自主退職か、どちらにしても結果は変わらない。
「……なぜアヴリルまでそんなことを?」
「申し訳ありません」
「越権行為だとわかっていたはずだろう」
「はい、申し訳ありません」
ルフェルは深く溜息を吐いた。全員に緊張が走ったが、それよりもみな喜びのほうが大きかった。大天使長が元気で、記憶も元に戻って、こうして無慈悲に詰めていることが何より嬉しかった。
その時、下を向き黙ってルフェルの話を聴いていたミシャが口火を切った。
「……わたしが行きたいって言ったのよ。大元帥さまに護衛を頼んだのもわたしなの。大体あの時ルフェルは記憶を失って大変な状態だったのよ? みんなが何とかしたいと思うことのどこがいけないの? 大元帥さまと諜報部の方々のお陰で記憶が元に戻ったのよ? どうして叱られなくちゃいけないの?」
火に油を注ぐのは控えたほうがいいんじゃないかな、と誰もが思った。
「感謝してない、とは言ってない」
「だったらもう少しみんなの気持ちも考えなさいよ!」
「感情で職務に当たって何かあったらどうするんだ」
「何もなかったんだからいいじゃない!」
「……話にならん」
「お話にならないのはそっちのほうでしょ!」
「自分の身すら守れもせんのに、余計なことに首を突っ込むな」
── その時、誰もが自分の目と耳を疑った。
いま、バシッて凄い音しなかった?
目の前には、平手打ちを食らってうつむく大天使長と……右手を振り抜いた大元帥の姿があった。
「お言葉ですが、わたしたちはミシャさんの正義の剣のお陰でフィンドを抜け出し、エデンに戻って来ることができました。自分の身どころかわたしたち二人の、戦闘部隊の長と鍛え抜かれた諜報部員の命を守ったんだ! どれだけミシャさんがあなたの記憶を大事に守ったのか知りもしないくせに!」
アヴリルは椅子をひとつ蹴飛ばし破壊したあと、事務所から出て行った。あのアヴリルが感情的になるなんて……それよりも……自分より身分が上の者に……手をあげるなんて……
───
諜報部事務所から出て行ったアヴリルを、慌てて追い駆けたミシャは大声でアヴリルを止めた。
「大元帥さま!」
「ミシャさん、どうされました?」
「いえ、あの、大丈夫でしょうか」
「何がです?」
「身分の上下が……その、エデンは厳しいですから……」
「そうですね、アビス行きかもしれません」
「わかっていて、なぜ」
「なぜでしょう、からだが反応してしまったので」
「あの…ごめんなさい……」
「ミシャさんが謝るところじゃないですよ。わたしが暴れん坊だっただけなので」
そう言うと、アヴリルは優しく笑いながら、いまにも泣き出しそうなミシャの頭をポンと軽く払い、「角、可愛かったですよ」と伝え、宿舎のほうへと歩いて行った。
───
── ちょっと! 危ないじゃない! この子に当たったらどうすんのよ!
……なるほど、そういうことだったのか。どうせ記憶が戻るならすべて同時に戻ってくればいいものを、なぜこうもややこしく時系列を無視して戻って来るんだ。最初にこの部分が戻って来ればもう少し穏便にやり過ごしたものを。
それにしても……
「容赦なく振り抜いてくれたもんだな」
事務所の隣の小会議室で、ルフェルは左頬を押さえながら軽く溜息を吐いた。
───
毎度のことながら、どうして疲れて一刻も早く眠りたい時を狙ったように訪ねて来るのだろう、とルフェルはミシャを見ながら思った。そして毎度のことながら、どうしてこういう時に限って酷く疲れて一刻も早く眠りたいという顔をしているのだろう、とミシャはルフェルを見ながら思った。
「寝たいんだけど」
「何よ、今日は直球で追い返そうとするわね」
「疲れてるんだ」
「わかってるけど……」
「何か言いたいことでも?」
「……ごめんなさい。ルフェルの立場を考えたら、わたしのしたことを許していいはずがないものね」
「いや、うん、その件はいいよ」
「でも……頬、真っ赤だから」
「ああ……うん、これは仕方ないと思う」
「……なぜ」
「僕が悪かったって思ったから」
「え、そうなの? どうして?」
「うーん、どうしてって言われても……」
── ミシャ、いつのまに、あくまになっちゃったの!?
僕の記憶が教えてくれたんだ。僕のために、ミシャが悪魔になったことを。