光を、呼ぶ声 0.

光を、呼ぶ声
物 語

Prologue

 

男は苛立っていた。

そんな男の苛立ちを知りつつ、ゆっくりと、念入りに書類を確かめ、もう一度上から下まで書類を丁寧に読んでから、少し複雑な面持ちで「よろしいですよ」と、判子を押した。

「次は、ありませんから」
「あ、はい」

男は書類を受け取ると、呪縛から解かれたように軽やかな足取りで部屋を出て行った。

 

「……チッ!腹立つわあ!」
「死ねばいいのにね……」
「ほんと、それ!」
「お気軽な人生の道連れなんかにされちゃ、たまったもんじゃない」

 

 

「午後から申し込んであった、藤條ですが」

窓口でIDカードを出すと、藤條は周りを見渡した。今日は職員が少ない気がする、そう思いながら窓口のカウンターに置いてあるフライヤーに手を伸ばし、さっと流し見たあと鞄の中にしまった。

「藤條さん!すみませんお待たせしました」

カウンターの向こうから小走りで近付いてくる成瀬が見えた。

「いえ、あの……今日、何かあったんですか?」
「ああ……ちょっと中規模のアレ・・がありまして出払ってるんですよ」
「中規模って、どれくらい?」
「事前情報では、二十くらいです」
「二十……」
「あ、どうぞ」

藤條は成瀬に促され、部屋の後方にある扉から通路へ出た。別の出口から出て来た成瀬と合流すると、いつもの場所へと向かう。通い慣れたいつもの廊下だが、藤條は毎回その廊下を歩くたびに「新鮮な、いやな気持ち」を味わった。

入口の鍵を開ける成瀬の背中を見ながら、「成瀬さん、この仕事つらくないのかな……」と思っていると、

「まあ、つらくないと言えば嘘になりますが」と、成瀬が答えた。
「あっ……すみません……声に出てましたか」
「いえいえ、でも藤條さんのような方もいらっしゃるので救いもあるんですよ」

鍵の開いた部屋に入り、成瀬が立ち止まった所を覗き込む。

「……この仔ですか?」

決して広いとは言えないはずのケージが、やけに広く見えるほど、「この仔」はケージの隅に小さく張り付いていた。

「問題行動あり、で特殊枠として収容された仔です」
「あ、問題行動の内容をまだ伺ってなかったんですが」
「理由もなく、飼い主に襲い掛かるそうです」
「理由もなく?」
「はい、理由もなく、突然」
「……この仔が?」

二段になっているケージの上段で、理由もなく飼い主に襲い掛かる問題ありの狂暴な猫は、ケージの隅でこれ以上はないほど身を縮こまらせ、頼りない目付きで藤條の様子を窺っているようだった。苛々とケージの中を行き来するでも、突然の訪問者を威嚇するでもなく、理由もなく襲い掛かる狂暴な猫は、ケージの隅で藤條から目を逸らした。

「あの……本当に突然襲い掛かるんでしょうか」
「収容して一週間経ちますが、襲われた職員はまだいませんね」
「でしょうね……とてもそんな風には、見えませんし」
「いるんですよ、そう言えば断られないからって、変な入れ知恵されて来るのが」

成瀬はケージの扉を開けると、どうぞ、と藤條に場所を譲る。ケージに手を入れようとした藤條に、「あ、でも気を付けてください。引っ掻きますんで」と添えた。相手は猫なのだ。引っ掻くことだってあって当たり前だろう、と藤條はそのままケージに手を入れ、隅で縮こまる猫の頭をなでた。

「どうします?基本的に特殊枠の仔の譲渡はしてないんですが、藤條さんならと思って」
「ああ、もちろん連れて帰りますが、この仔いくつくらいです?」
「十一歳だそうです。前の飼い主が仔猫の頃から飼っていたそうで」
「十一歳!?」

藤條は思わず素っ頓狂な声で訊き返した。仔猫の頃から十一年間一緒に暮らしていてセンターに持ち込めるものか?いや、その前にこの仔は十一年間飼い猫として暮らして来た猫なのか?いくら知らない場所に連れて来られたとはいえ、この縮こまり方は尋常じゃない気がするけど……

「大丈夫よ、わたしが必ず里親さんを探してあげるから」

藤條はケージの隅から猫をはがし、持参したキャリーの中に、暴れる猫をなんとか収めた。

「じゃ、いつもの誓約書お願いします」
「はい、あ……あの、二十のアレ……」
「収容し終わったら状態を確認して連絡しますね」
「はい、よろしくお願いします」

 

藤條 依子とうじょうよりこはWebサイトを更新するためにPCを立ち上げ、愛護センターから渡された書類に目を通していた。黒猫・雌・十一歳・不妊手術済み・FIVなし・FeLVなし……問題行動あり。一応記載はしておいたほうがいいと思うけど……どうしたものか。その時、手元のスマホが鳴った。

「はいはーい、連れて来たよ」
「お、譲渡OKだったんだ?よかったよかった」
「でもねえ、言ってた問題行動っていうのが、ちょっと引っ掛かるんだよね」
「何?スプレーとかそゆの?」
「ううん、大変狂暴なお嬢さまみたいなの」
「狂暴?多頭だったのかな」
「ううん、単体だけど、飼い主を襲うんだって」
「はあ?一体何すりゃ襲われるのよ」
「理由もなく、突然、らしいよ?」
「んなわけあるか。で、どうする?依子さんとこ?それとも預かりさんとこ出す?」
「んー、様子見たいから、わたしの所で」
「りょうかーい。明日見に行くわ」

依子はWebサイトを更新し、「どうか連絡がありますように」と手を合わせる。これはいつもの儀式のようなものだ。

にくきゅう倶楽部

新着情報

2020年5月25日:黒猫さん(女の仔)の里親さんを募集しています。詳しくはこちらをご覧ください。

問題行動の部分は「若干問題行動あり。詳細はお電話にてご確認ください」と、記した。

 

依子は仕事のかたわら、ボランティアで保護猫の里親を探す「にくきゅう倶楽部」を主宰している。捨て猫や野良猫、愛護センターからの譲渡などで保護した猫の里親を、Webサイトと定期的に開催する譲渡会で探し譲渡しているのだ。倶楽部に所属するメンバーは十二名、それぞれ仕事を持ちながらも、保護活動を支えてくれるありがたい存在だ。

いまや、犬や猫はペットではなく家族だ。誕生日を祝い、写真をSNSにアップし、病気になれば病院に連れて行き、亡くなれば葬儀をして墓まで用意する。確かに以前に比べれば動物への扱いはよくなった。数え切れないフードや療養食、おやつにおもちゃ。アニマル保険というものまでできたほどだ。しあわせな仔は本当にしあわせな一生を過ごす。

しかし、気軽に飼育環境を整えられるようになったため、気軽に手を出し気軽に捨てるひとがいることも事実だ。テレビCMで人気を博した犬や猫は、驚くほどの速さでショップに並び、驚くほどの速さでその姿を消す。そしてしばらくすると、愛護センターはかつて人気を博した犬や猫で満員になる。

 

「……理由もなく飼い主を襲う猫、ねえ」

依子はセンターから引き取った黒猫を見ながら、溜息を吐いた。

小さな黒猫は依子が管理している保護施設のケージの隅に張り付き、縮こまっていた。

 

 

── 男は部屋から出ると、判子が押されたその書類を両手でクシャっと丸め、目に留まったゴミ箱の中に投げ込んで建物をあとにした。駐車場で自分の車を見付けると、素早くそのドアを開け運転席に納まった。

上着のポケットからスマホを取り出すと、LINEを開く。

 

猫、いなくなったから大丈夫だよ

 

すると間なしにLINE通話が鳴った。

「もしもーし、うん、本当に」
「ふうん……まあ、いいけど」
「なによ、前の彼女の飼い猫なんていやだっつったのきみでしょうよ」
「違う、未練たらしく飼い続けてるのがキショいって言っただけで」
「別に飼ってたわけじゃねえですし。家にいたってだけで」
「同じじゃん……つか、なんで彼女、猫連れてかなかったの?」
「おれが知るわけないじゃん」
「あ、そうか。夜逃げされたんだっけ?」
「うるせえよ」

まあ、もうあの黒いのはいない。長かったなあ……十一年。

 

 

── うん、条件としてはまったく問題ない。むしろ希望通りだ。

ここにいま、Webサイトを見ながら電話番号を確認し、丁寧に数字を押すひとりの姿があった。