地上の愛 XII

地上の愛
物 語

ACT.12 罰

 

それからの日々は穏やかだった。

ルフェルの翼はそれ以上抜け落ちることもなく、シルフィは健やかに育って行った。

 

しかし、ノエルにはひとつ気掛かりなことがあった。泣き声以外にシルフィの声を聞いたことがないのだ。話し掛けても振り向きもしないことさえある。機嫌良く抱かれることもあれば、抱き上げた瞬間まるで火が点いたように泣き出し暴れることもあった。顔を覗き込んでも視線が合うことはほとんどなく、どこか遠くを見ているように感じていた。

「赤ん坊っていうのは、こういうものなのかしら……」

初めてですもの、わからないことがあって当たり前よね、とノエルはシルフィの問題ではなく、母親として自分がまだ未熟なのだと考えることにした。焦る必要はどこにもないし、他の子と比べる意味なんてないわ。きっとシルフィにはシルフィの時計があって、わたしが思うよりそれはゆっくり進んでいるのよ、と。

 

───

 

元気に床を這いまわるシルフィから目を離すことのないよう、ノエルは食事の支度を始めた。一瞬鍋に目をやった隙に、シルフィはもう場所を変えているという有り様だ。

「お嬢さん、もう少し大人しくしていてくれないと、ちっとも食事の支度が進まないわ」

と、ノエルは笑いながらジャガイモの皮を剥き始めた。

二か月半で首が座り、半年でもうこれだけ元気に動き回っているのだから、やっぱりわたしが気にし過ぎていただけなのね、とシルフィに目をやると、わき目も振らず背の高い本棚に向かい這って行く姿が見えた。

「シルフィ! 危ないわよ!」

ノエルは大声を張り上げたがシルフィに止まる気配はまるでない。慌ててシルフィに駆け寄りながらもう一度大声で名前を呼んだが、その声にぴくりともひるむことはなく、ノエルがシルフィを抱き上げる前に……本棚にぶつかった振動でバランスを崩した分厚い本が五冊、シルフィの頭の上に降って来た。

 

家に戻ったルフェルが一日分の疲れを浅い溜息として吐き出し椅子に腰をおろすと、ゆりかごを揺らす手を止めノエルはルフェルの足元でひざまずいた。

「どうしたんだい?」
「ルフェル……ごめんなさい……」
「どうしたんだノエル、そんな深刻な顔をして」
「あなたの大切なシルフィに……怪我をさせてしまったの……」
「……怪我、とは……どれくらいの?」

ノエルは夕方の出来事を話し、落ちて来た本の角で額を小さく切ってしまったこと、慌てて医者に診せたことをルフェルに打ち明け、もう一度謝ったあとガクリと肩を落とし大きくうなだれた。

シルフィの怪我の具合を確かめたかったが、いま目の前で酷く落胆するノエルに追い討ちを掛けるような真似はするまい、とルフェルはノエルの頬を優しくなであげ、ふふっと笑った。

「そういえばノエルもよく怪我をしてたね」

ノエルはうつむきうなだれたまま、そのうち小刻みに肩を震わせた。額を少し切ったくらいでこれはいくらなんでも大袈裟ではないか、と思ったルフェルは、ノエルの次の言葉を待ったが、ノエルから聞こえて来たのは言葉ではなく嗚咽だった。

 

「……一番伝えたいことは、怪我のことじゃなさそうだね」

ルフェルはノエルの腕を取ると、ゆっくりと引き寄せ向かい合わせになるよう膝に乗せた。ルフェルの首にしがみ付き泣き続けるノエルの背を優しくさすりながら、大丈夫だよと繰り返す。ノエルをなだめるためか、自分に言い聞かせるためかはわからないが、とにかくルフェルは大丈夫だよ、と繰り返した。

「……診療所でね、傷の手当をしてもらったの」
「うん、ありがとう。ノエルがいてくれて助かったよ」
「その時ね……医者が誤って器具の入った箱を落としたのよ」
「まあ、医者だって人間だから完璧ではないだろうね」
「たくさんの器具が床に落ちて、それは大きな音がしたわ。わたしが驚くほどだったのよ」
「金属特有の耳障りな音が重なれば、僕だって驚くさ」

 

「……シルフィは何も反応しなかったわ」

 

それを不思議に思った医者は、そのあと指を鳴らしたり、手を打ったり、テーブルを叩いたりと何度も音を立てたけれど、シルフィはそのどれにも反応しなかったの。それどころかシルフィは、目の前で手を打ち鳴らされても瞬きひとつしなかったのよ。

「それは、つまり」
「あの子は……シルフィは目も見えず、耳も聞こえてないそうよ……」
「目も……耳も……?」
「わたしたちの愛しいシルフィは……音のない暗闇の中にいるの」

確かに反応が鈍いような気はしていた。いや、鈍いというよりまったく意に介さないというか……呼んでも振り向きもしないのに、触れると飛び上がるほど驚く。いままでいろいろな人間の子を見て来たが、これほど極端に振舞いがぶれる子は少なかったし、そういう子たちには “理由” があった。なるほど、シルフィにもその理由があったということか。

「ルフェル……これは……わたしたちへの罰なの……?」
「……罰? 何に対する?」
「人間に恋をしてはいけない天使と……それを受け入れた人間への……」
「シルフィの深閑しんかん常闇とこやみが、僕たちに対する罰?」
「愛する娘が目の前で怪我をしたのよ……見ているほうがつらいわ」

ルフェルは静かに目を閉じた。ほんの束の間、気まずさにも似た沈黙が流れ、ゆっくりと開くルフェルの瞳を見てノエルの鼓動は跳ねた。以前見た深紅の瞳とはまた違う緋色の瞳。落ち着いてはいるけれどその瞳が何かを咎めていることは明らかだった。

「異形の物の怪であっても愛すると……言わなかったかい?」
「……言ったわ」
「きみは産まれた子が異形のものだったなら、毎日その姿を見ては心を痛め泣くのか?」
「……ルフェル、怒ってるの?」
「怒ってるんじゃない、叱ってるんだ」

どんな子が産まれても愛すると言いながら、産まれた子の不幸を自分への罰だと嘆く……世の中にはね、ノエル。無事に産まれることができなかった子も、産まれてすぐ消えて行く命もあるんだ。

女神の祝福を受けながら、それでも重い病気を持って産まれる子も、からだの一部を母親の胎内に忘れて産まれる子だっている。その子たちはみんな、親に科された罰を肩代わりしている、とでも言うのかい?

人間と天使との間で子を宿したという前例はないんだ。その命がどんな姿を持って産まれて来ようとも、愛する以外の選択肢はない、と言ったのはきみじゃなかったか?

愛らしい姿と引き換えに音と光を失ったことは悲しい。けれど、ふたりで愛して行こうと決めた日から僕の決意が揺らいだことはただの一度もない。

 

「……ごめんなさい、ルフェル……わたしが間違ってた……」
「僕ときみが、シルフィの音となり光となるんだよ」

ルフェルの首にしがみ付き、ごめんなさいと何度も繰り返しながら、ノエルは声をあげ泣き続けた。その背を優しくさすりながらルフェルは大丈夫だよ、とノエルをなだめ、そばにいるから、と励ました。

 

── わたしたち、じゃない。その罰を与えられたのは……僕だ。

 

───

 

シルフィは音も光もない世界にいたが、それ以外は病気を患うこともなく健やかに暮らしていた。家の中でならつまずくこともなく、何よりノエルとルフェルから惜しみなく注がれるあふれんばかりの愛を全身で吸収した。優しく抱き締めるルフェルを、やわらかくキスをするノエルを、シルフィは感触で確かめ、安心して眠ることもできた。

「シルフィは小さな頃のきみにそっくりだね」

ルフェルは腕の中で眠るシルフィを見つめながら遠い昔を思い出す。

「まあ! じゃあわたしはとても可愛らしいこどもだったのね」と、ノエルは笑った。

 

耳の聞こえないシルフィは突然抱き上げられると驚いてしまう。そこで最初に頭をそうっとなで、次に両の手のひらで頬を包み、それから抱き上げるようにした。そうするとシルフィは、相手がわかり安心して腕に納まった。

意思表示をするときは、ノエルやルフェルの服を引っ張った。ビー玉のような青い瞳から感情を読み取ることは難しかったが、小さな手と小さなからだを動かしながら、遊んで欲しいこと、散歩へ行きたいこと、抱き上げて欲しいこと、その思いのすべてを懸命に訴えた。

手をつないで散歩に行くと、道のわきに生える草花の手触りや匂い、流れる小川の水の冷たさに驚き喜んだ。花の甘い香りに、草の青い匂いに、土のあたたかさに、風の心地よさに、シルフィは世界を感じそれらを受け止めた。

音のない暗闇の中で、シルフィの暮らしはあたたかく丁寧に作られて行った。

 

───

 

他愛なく流れて行く時間がこれほど愛しいものなのか、とルフェルは毎日しあわせに身を浸した。そして、当たり前のように繰り返される日常をつなぎ留めておきたい、という願いも日増しに大きくなって行く。

一度エデンに戻って……水晶と生命の樹の実を持ち出せないだろうか。

生命の樹の実を手に入れることはたやすい。問題は水晶だ。権力をもってすれば人払いなどわけもないが、亀裂が入り欠けた水晶が、いままでと変わらず水晶の間にあるとは考え難い。おそらくはモーリアの管理下にあり、厳重に監視されているだろう。

しかしその水晶さえ持ち出すことができれば……地上で割って堕天したあと生命の樹の実を口にするだけでいい。そうすれば僕はノエルと同じく永遠を生きる人間になる。ノエルとシルフィのそばで生きることに比べれば、特級の熾天使セラフという身分も、誰もが羨むほど博した名声も、残して来た称えある功績も、そのどれもが取るに足らない。

神々に捧げた永遠の命 ── 久遠の忠誠を誓い忠義を尽くすことを第一義に生きた。大天使長としての立場も、義務も、責任も決して軽いものではないのだと骨の髄まで沁みついている。結晶の器を見定める職務に誇りもあった。そして何より、自分を愛し育ててくれた神々への恩がある。

でもいまは……天使という種族もエデンの厳粛な掟も、足枷であり呪詛に等しい……

 

思い悩むルフェルは、バサバサッという音を聞き床から少しの振動を感じた。目の前には羽毛が舞い上がっている。足元に目をやると、いま正に抜け落ちたばかりの翼が瞬く間に黒く乾涸ひからび、見る影もなく屍を晒していた。

「ルフェル、一体これはどういうこと!?」

同じ音を聞いたノエルは慌ててルフェルに駆け寄った。

「……ノエル……もしかして僕は……」
「大丈夫なの? 痛くはない? どこか苦しかったりはしない?」

 

僕はこのまま……人間になるんじゃないか……?

 

神々に背き生命の樹の実を人間に与え魂のことわりに干渉した。厳粛なエデンの掟を破り人間を愛し、その人間との間に子まで成した。神々は本当に、それに気付いていないのか。それとも……

 

ルフェルに残された翼は二枚だけになった。

それでも、ノエルとシルフィとのしあわせな日々は当たり前のようにそこにあった。翼は二枚になってしまったが、だからといってノエルやシルフィを想う気持ちは翼のように抜け落ちるはずもなく、神々に誓った忠誠よりも人間になりたい、という欲望ばかりが日毎ルフェルの胸を突き上げて行く。

ただ、結晶の器を探すことは困難を極めた。

以前ならぱっと見ただけで、素材の年齢やある程度の健康状態、果ての森で結晶化したかどうかまで把握できた。しかしいまは、かなりそばに寄って神経を研ぎ澄まさなければそれが感じ取れない。翼を失ったルフェルはその能力までもを失ったかのように、素材の適正を見極めることが難しくなっていた。

僕は本当に、このまま人間になるのではないだろうか……熾天使としての力はおろか、天使としての能力まで日に日に衰えて行く気がする。水晶に亀裂が入ったことも、翼が抜け落ちたことも、すべてはそのための布石ではないのか。

 

そんな夜、ノエルが村で気になる話を聞いた、とルフェルに告げた。

「近所の農場でね、ニワトリが死んでいたんですって」
「……? ニワトリだって生き物なんだ、死ぬことだって」
「それがね、普通の死に方じゃないらしいの」
「普通じゃない?」
「ええ、何か強い力で捻り上げられたような……」
「ニワトリくらいなら……大人の力で捻り上げることくらいできそうだけど……」
「そうね、でも問題は “誰が” じゃなくて “なぜか” のほうよ」
「殺すだけなら……そんな面倒なことしなくてもいいな」
「何か……不吉なことが起こってなければいいんだけど……」

ノエルはルフェルの胸に顔を埋め、不安そうにつぶやいた。

 

しかしノエルの嫌な予感は、次の朝的中した。

ニワトリが殺された農場で、今度は羊が同じように捻り上げられたような姿で死んでいた。さすがにどんな屈強な大人でも、羊を捻り上げて殺すことなど到底できないだろう。

一体何が起こっているのか、と村中が騒然とした。とにかく無闇に外に出てはいけない。外に出れば何が起こるかわからない。村では魔物の仕業だと言い出す者まで出始め、そしてそれを疑う者はひとりとしていなかった。

「ルフェル……天使のあなたは魔物を見たことがある?」
「精霊や妖精ならその辺にもいるし、グリフィンやケルベロスなんかもいるけど……」
「グリフィンやケルベロスが羊を捻るなんて話、聞いたことがないわ」
「うん、だから棲み処や縄張りを持たない魔の物というものは見たことがないんだ」
「でもみんなそう言ってるわ。そうじゃないと辻褄が合わないって」

ノエルはシルフィを抱き締め、怯えながらそう言った。

確かに人間の力では無理だ。羊ほどの大きさの動物を、しかも抵抗して暴れる動物を捻り殺すとなると、よほどの力が必要になる。仮に僕が……熾天使として最大の力を発揮できたとしたら……仕留めるまでに三秒もあれば充分だ。しかしそのための手段として捻ろうなどとは思うまい。仕留めることが目的ならば最速で最短を狙えばいい。

では三秒で羊を捻り殺すことができる者がいたとしたら? その者にとって捻り上げることが最速で最短な方法だったとしたら? ……いや、それも考え難い。何しろ仕留めた獲物は農場で放置されていたのだ。食べるわけでも、皮を剥ぐわけでもないなら殺す理由がない。そこには “魔物の仕業” でもなければ、何ひとつとして説明の付くものがなかった。

そして次の日の朝。

 

 

ディオナの祝福を受けたこどもが無残な姿で見つかり、それはそのままエデンの知ることとなった。