第九十八話 泉下の客、喪家の狗
その日は八月だというのに気温が低く、朝から降りしきる雨が冷たかったことを憶えている。
──まるで水の中にいるみたいだ。
── 視界がぼやけて、音が濁る。
「……せめて屋根のある場所に」
誰かが背中を押す。
「……屋根?」
「風邪、ひくかもしれないから」
「屋根があれば……風邪、ひかないんですか」
力強い腕に手を引かれ、半ば引きずられるように着いて行く。促されるままソファに腰をおろすと、頭がタオルで覆われ細い指が優しく動く。ああ、雨で濡れた髪を拭いてくれてるのか……
なぜかその指先が小さく震えている気がして、目の前にいる手の持ち主をなんとなく見上げた。
── 遥さん……?
その横には、黙ったままただ寄り添う漣さんと、神妙な面持ちでオレを見つめる宗弥さんがいた。
「はい、もういいわよ」と言われ立ち上がると、遥さんが「ありがとう」と小さな声で言った。髪を拭いてもらったのはオレなのに、なぜ遥さんがお礼を? 不思議な気持ちで遥さんを見下ろすと、遥さんはオレの顔を見て涙を浮かべ、不自然に口角を上げた。笑おうとしたのかもしれないけど、笑顔には見えなかった。
雨、ずっと止まないな。
窓ガラスには、室内の様子が映っていた。
随分とひとが集まってるんだな。知った顔がいくつもある。こんなにひとがいるってのに、声より雨音のほうがうるさく感じるほど、会話らしい会話は聞こえてこない。
「そろそろお席に」
背後から声を掛けられ振り返ると、知らないひとが指先を丁寧に揃え、開かれているドアを指した。見渡すと同じ制服を着たひとが数人、散らばっているひとたちに声を掛け、ドアを案内しているみたいだった。
移動し始めたひとたちはドアの向こう側で、それぞれ思いおもいの椅子に腰をおろし、皆同じように下を向く。オレが部屋に入ると、それに気付いた宗弥さんが手招きをした。後ろ側を壁伝いに歩きながら、ふと前方に目をやると、夥しい数の白い花が曲線を描くように敷き詰められ、波紋のように見えた。
……あれ、生花なのかな、それとも造花なのかな。どっちにしろあの数を並べるのは大変そうだ。白い花でできた波紋の中央には、見慣れた顔があった。
いつの写真だろう。
制服だから高校の卒業式あたりかな。
相変わらず無表情極まりないな。
何考えてたんだろうな、その時。
「一同ご着席をお願いいたします。携帯電話をお持ちの方は、電源をお切りいただくかマナーモードに設定していただきますよう、ご協力をお願いいたします」
スピーカーから声が流れると、皆一様にポケットや鞄を探りだす。
スマホ、どこやったっけ……家に置いてきたんだったかな。もう使わないと思って、捨てたんだっけ。
「導師が入場されます。皆様、合掌にてお迎えください」
── 本日はご多忙……ところご参………………して……………ございま……ただいまよ…故…………まの…儀ならびに……式を執り行います…
まるで水の中にいるみたいだ。
遠くで歌うように読経があがる。一定の律動で聞こえる音が心臓の鼓動に似ている気がした。
トクン、トクンと身体に血液を送り出し、行き渡った血液が再び心臓に戻る。自分の意思で動かしているわけでもない心臓が、休むことなく血液を送り続ける。
オレの心臓はいま、誰のために血液を送り続けているんだろう ──
寝ているのか、起きているのか、わからない曖昧な感覚に、思いきりぎゅっと手を握り締めてみた。皮膚に食い込む爪の感触が意識を手繰り寄せ、爪が刺さった場所に心臓が移動する。手のひらが熱くなりトクン、トクンと脈を打った。なんで心臓って、痛いところに移動するんだろう。
「……賢颯くん」
囁くような声に顔をあげると、宗弥さんが目の前に立っていた。部屋に並べられた椅子に座っているひとはもういない。促されて立ち上がると、宗弥さんは一輪の白いカラーリリーをオレに差し出した。
その凛と伸びた美しい花姿を眺めていると、少し声を詰まらせた宗弥さんが「賢颯くんも……」とオレの手を取り、差し出したカラーを手のひらに載せた。
「賢颯くんも……花、入れてあげてくれるかな」
「……どこに?」
宗弥さんは手で口を覆い俯いた。
あれ、オレいま言っちゃいけないようなこと言ったっけ。
波紋のように敷き詰められた白い花の前には、同じように白いカラーを手にしたひとたちが集まり、いくつもの泣き声が折り重なるように部屋の空気を揺らしていた。
───
「……賢颯」
「どうした」
「今日って、何かあるんだっけ?」
「……? 特になんもない、普通の週末だけど」
リビングに顔を出した湊は、訝し気な顔でダイニングテーブルを眺めた。
「誰か来る予定とか」
「一切ないな」
「お父さんとお母さん、明日まで帰って来ないって聴いてるけど」
「おう、金沢だっけ? 兼六園とかひがし茶屋街まわるって言ってたな」
「じゃあこれ、何人分の晩ご飯なんだ!? まさかふたり分のつもりなのか!?」
「いやー、遥さんにいろいろ教わってるから、チャレンジしたくなっちゃって」
肉じゃがにカレイの煮つけ、トリのから揚げ、椎茸の肉詰め、海老の天ぷら、野菜のかき揚げ、レンコンのきんぴら、茶わん蒸し、卵焼き、揚げだし豆腐、ひじき煮、オクラと長芋のサラダ、キュウリと茄子の浅漬け、大根と薄揚げの味噌汁、五穀ご飯……品数はともかく、さすがに量は多いかな、と確かにオレも思った。
「肉じゃがとカレイとから揚げと肉詰めと海老天、どれがメインなんだよ…」
「全部?」
「居酒屋で、食べたいもの全部頼んだ合コンのテーブルみたくなってるんだけど…」
「余った分は真空パックにして冷凍するから大丈夫」
まったく、手加減するとか手心を加えるとかって言葉を知らないヤツだな! と言いながら、湊は椅子に腰をおろした。
そのくせ、小皿に取り分けた肉じゃがも、カレイも、から揚げも、肉詰めも、海老天も、ホントに少しではあるものの、すべての料理を口に運び、真面目な顔で「美味いな…」と感心したようにつぶやいた。失敬な。
「すごいな賢颯、高校時代は購買と学食で生きてたのに」
「毎日遥さんのお手伝いしてるからかな」
「花嫁修業、効果絶大だね」
「マジで? じゃあ嫁にしてくれる?」
「いや、もう嫁同然だろ……他にどこ行くつもりだよ」
「オレが死ぬまでそばにいてくれる?」
「……いるよ、なんの心配してるんだよ」
湊は「せめて、皿洗いくらいは手伝わないとな」と言いながら席を立って、使った小皿や茶碗を持とうと手を伸ばし、次の瞬間その場でへたり込んだ。
「…っ…湊!」
「ああ、立ちくらみ……」
そう言うとゆっくり立ち上がり、小皿や茶碗をキッチンのシンクへと運ぶ。服が濡れないように袖をまくると、ところどころに内出血の痣が見える。半袖のシャツやハーフパンツなど、肌の見える服は着なくなった。
「オレやるから、座ってて」
湊からキッチン用のスポンジを取り上げ、微妙な顔で俯くその頬に軽くキスをした。
「甘やかし過ぎだよなあ…」
そうつぶやいた湊はオレの背中に抱き着き、カラダをなでるようにその手をすべらせ、カチャッと音を立てながらジーンズのベルトを外した。
「…湊さん? オレがいま何してんのか見えます?」
「晩ご飯の後片付けしてるよね」
「で、おまえは何しようってんだよ」
「自分にできること、しようと思って」
ジーンズのファスナーをさげた湊は中に手を入れ、パンツの上からその部分を擦る。そこまですんなら直接来いよ! なんでちょっと焦らすようなことするかな!
「……簡単にはみ出すね」
「いや、おまえが勃たせるからだろ…」
「お皿、割らないように気を付けて」
「はい?」
パンツを少し下げ元気に勃ち上がるソレを握った湊は、鈴口でヌルヌルと親指を往復させた。さすがにその程度で皿を落としたりはしないが、溢れて来る先走りを自力で抑える能力も理性もない。往復させていた親指で溢れる体液をまんべんなく塗り伸ばされ、くびれから尖端を扱かれた瞬間、オレの手は止まった。
「…っ…危ねえ」
「ほら、手止まってるよ? 早く後片付け済ませようよ」
「これ、なんて拷問?」
根元から竿全体を扱かれたかと思えば、指先で裏筋を攻められ、手のひらで包み込んだ亀頭を舐めるように刺激され、そのうえ服の中で胸元を弄る湊の左手が、イイ塩梅で乳首を抓んでは指先で先端を突つく……
「み、湊……ちょ、待って」
「だから、おあずけのできない犬だって何度言えば」
「ココで、この体勢で出すのは…さすがに気が咎める…」
「あ、なるほど…確かにそうだね」
仮にもキッチンなんだぞ、ここは……聖域を冒涜するようで…って湊さん!? なんで前に回ってしゃがんでんスか!?
湊を挟んでシンクに手を伸ばしながら、オレの手は完全に止まっている…なんて状態を通り越し、シンクの縁を掴んで膝が崩れそうになるのを堪えることが精一杯だった。
湊の口の中は熱くて、滑らかに動く舌で存分に甘やかされたオレの愚息は、ただその感触にすべてを委ねた。ああ、もう、なんでこんなに……こんな状態でも抗う気が起こらないくらいイイんだろう……胸の中に居座り続ける不安が、一瞬薄らぐ。
「…っ…飲む…なよ…」
ペロッと口唇を舐めながら湊はオレを見上げ、「ラムジュート換水法ってヤツ?」と言って笑った。
床に座り、しゃがんでいる湊を抱き寄せ、向かい合わせに膝の上に乗せる。そっと抱き締めると、湊は力一杯オレに抱き着き、「そんなに気遣わないでよ」と、まるでこどもをあやすように囁いた。
── 気を遣ってるわけじゃない。
ただ、怖いだけなんだ。
治すことも癒すこともできなくて、「死なせねえよ」なんて虚勢を張ることが精一杯で、朝晩の寒暖差で具合が悪くなるんじゃないか、立ちくらみを起こすたびに病状が悪化してるんじゃないか、風が部屋に吹き込んだだけで湊がいなくなるんじゃないか……些末なことでさえすべてが怖いだけなんだ。
「……なあ、湊」
「うん」
「オレがおまえ自身だっていうならさ」
「うん」
「おまえはオレだってことだよな?」
「うーん…… “A=Bと仮定する” なら、そうなるけど」
「ユークリッド原論の公理の話?」
「うん、でも賢颯の話って数学の話じゃないし、日常生活の中で100%の正しさなんて証明できないじゃん」
「じゃあおまえの中でAとBは同値じゃねえの?」
「おまえの中でもAとBは同値じゃないだろ?」
── そうだな、きっとオレも湊も “自分より相手が大事” で、それはイコールにはならないだろう。だからこそ、相手が傷付かないように自分を大切にする。自分にもしものことがあったら、相手が悲しむことを知っているから。
湊に “もしものこと” があってはならない。そうなればオレがどれだけ悲しむかを湊はわかってる。だとしたら、病気の進行が止まらない中でオレの命まで背負ってる状態って、湊にとって相当なプレッシャーなんじゃないか。
あの時、何も気付かないフリで湊から離れていれば、当たり前に寂しかったり悲しかったりはしただろうが、湊はいまほど苦しまずにいられたのかもしれない。そばにいたところで何もできないなら、せめて “相手を悲しませたくない” という湊の想いに応えてやるべきだったんじゃないか ──
勝手な二律背反の感情が、物事の正しさを歪めてしまう。それに気付く日が来ることを、オレは怖がってるだけなんだ……
───
「現時点ではゼロや」
「海外バンクも?」
「そやな…ゆうて毎日更新されるさかい、急いてもしゃあないで」
「それは……わかってるよ」
スマホから聞こえるシロの声は冷静だった。湊を心配する気持ちは強くても、シロもクロもドナーにはなれない。クラッキングや情報操作は容易くできても、いま一番必要なことに協力できない立場で感情を表に出すことは、彼らにとって赦されることじゃないらしい。
「関連企業の従業員にまで御触れ出したはるさかい、しばらくは様子見やな」
「……は? 冬慈さん、そんなことしてんの!?」
「社会貢献の一環やゆうて、特別休暇付けて登録促したはるわ」
……金と権力とコネクションは持っておくべきだな……関連企業の従業員まで含めたら万単位じゃねえか。まあ、ドナーとして登録するには年齢制限もあるし、社会貢献には違いない。
テラスからそっとリビングを覗くと、湊はソファで横になっていた。別に聞かれて困る話でもないが、積極的に聴かせたい話でもない。適合ドナーが見つかることを切望してるのは、他の誰でもない湊自身だ。さらに付け加えれば、それはきっと自分自身のためじゃない。
また連絡する、と言うとシロは「ほなな」とあっさり電話を切った。欅さんのこと、クロが死に掛けたこと、自分自身の病気のことなんかを考えてるんだろうな、とシロの素っ気ない態度に申し訳なささえ覚える。死生観なんてひとそれぞれだろうが、シロもクロもそこから近い場所で生きてるんだ。
湊の話まで加わることがふたりにとってどれほどつらいかなんて、想像するまでもなかった。
スマホをジーンズのポケットにねじ込み、さて、どんなテンションで戻ることが最善なのかと迷ったオレは、わざわざテラスに移動しておいて何事もなかったような顔をするのはいかにも白々しいと思い、少し大袈裟に溜息を吐きながら窓を開けリビングへ戻った。
ソファで横になっている湊が「どうした?」と訊けば、シロが言っていた冬慈さんの話でもして「金と権力が欲しい!」とでも言えば湊は笑ってオレを慰めるだろう……が。
「……なんだ、寝てんのかよ」
少なからず緊張していたオレは肩透かしを食らったような、安心したような複雑な気持ちで、ソファを陣取る湊を見ながらそっと床に腰をおろした。いろいろな詮索のパターンは想定していたが、なぜか「無言」という反応だけは想定外だったことに、己の自意識過剰さを見たような気がして居た堪れない気持ちになる。
はあ……あーんなにちっちゃくて女子かっつーくらい可愛くて、軽々とオレに抱き上げられ落ち込んでた湊が……いまやひとりで三人掛けのソファを占拠するほどデカく育ちやがって。こうやって見ると、やっぱ宗弥さんに似てきたよなあ……これ、普通に学校に通えるようになったら色めき立つヤカラが後を絶たんのでは。
……オレってこんなに嫉妬深くて独占欲強くて執着するタイプだったっけ。
自分の醜い内面とは打って変わって、静かに眠る湊の顔は本当にきれいだった。