初戀 第九十七話

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第九十七話 無累の人

 

「……ホントにシャワールームできてんじゃねえか」

僕の部屋に入るや否や、元はクローゼットだった場所を覗き込んだ賢颯けんそうは、遠慮なく噴き出し爆笑した。空気を読むとか、相手の気持ちを察して曖昧に済ますとか、そんな繊細な振る舞いを少しでも期待した僕がバカだった……

 

 

── 玄関で待ち構えていた両親とむねさんに、スーツケースひとつとボディバッグ、という身軽さで、「お世話になります」と頭を下げた賢颯は、挨拶すらさせてもらえないほどの勢いで家にあげられ、当たり前のように父と宗さんから酒を勧められた。テーブルの上にはお猪口からロックグラス、ワイングラスにシャンパングラスに至るまでひととおり並べられていて、賢颯が望めばシャンパンタワーさえ用意されるんじゃないか、と僕には頭を抱える以外できることなどなかった。

いわゆる「本当の家族だと思って、遠慮せずなんでも言ってね」というのは、相手が他人だからと委縮しないために掛ける気配りの言葉だと思えるけど、宗さんが「もう家族なんだから遠慮するなよ」と言うと、なぜか「盃を交わした以上逃げられると思うなよ」に脳内変換され、抱えた頭が痛みだす始末だ。

 

***

 

みなとの部屋にあった机や本棚は別の部屋に移したらしく、ベッドと小さなテーブル以外に家具と呼べそうなものはなかったが、クローゼットがシャワールームに変身を遂げていたことに思わず爆笑してしまった。湊は少しばつが悪そうに「防音工事した時、部屋に鍵まで付けてくれたんだよね…」と漏らしながら、ベッドに腰をおろした。

「最中に部屋の扉開けられる心配なくていんじゃね?」
「それはそうだけど……どんな想像されてるのかって思うと、すごく嫌…」
「まあ、想像じゃなくて事実なんだから仕方ない」

湊の横に腰をおろし、向かい合わせになるよう湊を膝の上に乗せ、そっと抱き締めた。

「はあ……湊の匂い、久しぶり…」
「最近バタバタしてたからね」
「何度ひとりで枕を濡らしたことか…」
「……おまえが言うと、涙以外のもので濡らしてたようにしか聞こえないな」
「さすがに枕相手じゃ発情しねえわ」

大学の入学手続き、プレオリ(同じクラスでの顔合わせ)、健康診断、サークルオリエンテーション、入学式の前から授業は始まるわ履修登録しなくちゃいけないわ、それと同時進行で部屋を引き払うための手続きや荷物の分別、要らないものを実家に送ったり、引き取り業者を探したり……

顔は合わせてもカラダを合わせるタイミングはなく、こうして抱き締めるのは何週間ぶりだろう、とたかぶる気持ちは、背中に回した腕から伝わる感触に、じわじわとしぼんでいった。

 

指先で、手のひらで、回した腕の余裕で、湊が以前より痩せていることがわかる。元々細身ではあったけど、あからさまに骨が当たるほどではなかったのに。どれだけ強がって見せても、現実を目の当たりにすると心が砕けそうになる……と思った途端、湊に両肩を押されオレは仰向けに倒れた。

オレの腰の上で膝立ちになった湊は、ベッドに転がったオレの顔の両側に勢いよく手を着き、それに驚いているオレを見下ろしながらつぶやいた。

「小さな変化にいちいちヘコむなよ……」
「……小さかねえだろ」
「もしものときは一緒に死んでくれるんじゃなかったの?」
「死なせねえよ」

望んでもいないことを口にする湊ははかなげで、なんだか桜みたいだ、とまるで文豪のように繊細な気持ちになった。真冬の寒さにさらされることで目を覚ます花芽かが。静かに成長しながら、空気まで桃色に染めるほどの花を咲かせる期間は短く、あっという間にその花弁はなびらを散らす ──

鼻の奥がツンと痛くなり、余計なことは考えまい、と目を閉じた時、湊はオレの口唇くちびるを優しくんだ。

なめらかな舌が口唇を割ってねじ込まれる感触に、以前「人間の口唇ってこんなに柔らかかったっけ」と感じたことを思い出す。口唇の柔らかさも、その舌のなめらかさも、何ひとつ変わらない。上顎をくすぐる舌先はあちこちと場所を変え、絡み合わせた舌の生々しい水音と吐息が部屋の空気を揺らしながら耳の奥で溶ける。

 

「……湊、ひとつ訊いていい?」
「なに?」
「あの、なんつーか……どこまで大丈夫なの?」
「どこまで、って?」
「いや、ほら、感染症のリスクがー、とか血が止まりにくいー、とかさ…なんかあんじゃん」
「おまえのしたいようにされたい」

大袈裟に心配するのはやめようと思っていても、湊のひと言ひと言が、もう手の届かない領域でひっそりと覚悟を決めているように思えていちいち不安になる。平然とした態度も、お気楽な口ぶりも、全部オレを心配させないように無理してるだけな……

「…っ…ん」

ジーンズの中を探る湊の指先に思わずカラダが跳ねた。

「待てっ…オレにも病人をいたわるという一般的な感覚はあってだな」
「そんなこと、言われるまでもなくわかってるけど」
「いまは自分の体調を最優先にだな」
「我慢させることも、よくないと思うんだよね」

いやいや、いまくらいは我慢するのが常識というか当然というか、貞操観念を常に大安売りしているオレが言っても説得力の欠片かけらどころか、その欠片すら粉砕して飛散させている分際で何を言うか、って感じだがとりあえず手を止めてもらってもいいですか。

「……賢颯」
「…うん」
「相変わらず大きいね…」
「なんて?」

病人を労わる気持ちは充分にある。いまは湊に無理をさせるべきじゃない、なんてこともわかってる。多分世界で誰よりオレが湊を失いたくないと思ってる自負もある。

……あるんだが。

湊の柔らかくなめらかな舌をゆっくり這わされた部分は、現実を置き去りにしてあっさり勃ち上がる。さすがに己の倫理観やら道徳心が心配になるレベルだが、あらがえというほうが無理な話だ……口唇の動きに合わせて鳴る水音と、時折漏らす吐息に混じる掠れた声。上気した顔はうっとりと目を細め、的確にオレを殺しに来る。

めてる湊の顔、やっぱり好きなんだよなあ……

 

湊の頭をなでていた指先に力が入る。ああ、もう、このまま吮め溶かして吸収してくんねえかな……ととろけた頭に願望がよぎったところで、湊はゆっくりとカラダを起こし、着ていたシャツのボタンをひとつずつ外し始めた。

「…み、湊さん!?」

肩からスルリとシャツが滑り落ち、湊の白い肌があらわになる。自分でもいつできたのかわからない、という痣だらけのカラダは当然痛々しく見えるものの、なぜかそれ以上に愛しさが込み上げた。普段なら消すはずの電気も点けたまますべてをさらけ出し、オレのカラダの上で湊が腰を落とす。

「……湊?」
「ん?」
「ん? じゃねえ、さすがにアレだ、ヒニンはしたほうがいんじゃね?」
「そうだね」
「って言いながらコトを進めるな。待て待て」
「賢颯…明日のことは明日考えようよ」

小さな入り口を押し広げながら、徐々に湊と同化する。耳をかすめる湊の呻きにも似た鳴き声が、オレの不安と欲望を加速させる。絡み付く粘膜はうねるようにオレを締め上げ、不安と欲望の天秤はいとも簡単にオレの良心を裏切っていった。

熱を帯びて汗ばむ肌と、腰の動きに合わせて漏れる掠れた鳴き声 ──

「……湊、可愛くおねだりして」
「…やだよ、バカ」
「じゃあ横柄に命令して」
「どんなプレイをしようっていうんだよ」

 

セックスなんて、互いの粘膜擦り合わせて気持ちヨくなるための、なんの罪もない行為だと思っていた。簡単に粘膜潤わせて、お気軽に結合するだけのことに、愛だとか肩書きだとか、そんなうやうやしいもんが必要だなんて思ったこともなかった。

それがどうだ。

勝手に粘膜は潤わねえわ、結合するための理由は必要だわ、ゲイだのノンケだのと属性に振り回され、深く踏み込むことが罪にもなるし、そこには愛もなきゃいけない。こんなに難しくて面倒なことを、どんなに苦しくても手放せないなんて。

 

「…賢…颯……賢そ…っ…賢そ…う」

湊がオレの名前を呼ぶ、ただそれだけで目頭が熱くなった。

 

───

 

「登録自体は二十分もありゃ終わるけどな」

電話の向こうで桐嶋きりしまは、落ち着いているというより若干落ち込んでいるとも取れるような沈んだ声で言った。

「そこから先って、そんなに時間掛かるもん?」
「骨髄を提供するドナーのHLA調べて、適合患者が見つかればコーディネーターとの面談、家族の同意取って医師の適格性検査、HLAの精密検査、健康診断、いろいろ含めると実際提供するまでに二か月から四か月は掛かるんじゃねェか」
「……結構掛かるんだな…」
藤城ふじしろのことだ、協力してくれるヤツは多いだろうが……適合するとは限らねェしな」
「まあ……知り合い全員に当たってはみるけど」
「……いま登録してるドナーから見つかる可能性もあるからな」

いつもなら面倒くさそうにオレをあしらう桐嶋でさえ、ここまでまともに取り合ってくれるくらいには、事態は深刻だってことだろう。MGCの協力で、登録してくれた知り合いは即データベースに載せてくれることになってはいるが、HLAが適合するかどうかはわからない。

適合ドナーを待ち望んでる患者も多いんだ、今回湊と合わなかったとしても、どこかに適合者がいるかもしれないんだから、骨髄バンクに登録することは決して無駄ではないはずだ、と自分に言い聞かせながら、その一方では当然奇跡が起こることを望む自分もいる。

勝手な生き物だな、人間なんて。

湊が生きていてくれるならそれだけでいい。いや、しかし個人的には宗弥むねひささんと適合するのが一番望ましい。湊の中で造られる血液が宗弥さんと同じなら、と思うとなぜか安心する。

逆に、シロクロ性倒錯変態兄弟や薫の造血幹細胞には、そこはかとなく不安を感じる。それで湊が助かるのなら土下座してでもお願いする立場であることはわかってるし、血液型が変わったとしても性格や性癖までは引き継がないだろうが、どう控えめに見積もってもヤツらの細胞は常識を覆しそうな気がする。

 

……勝手な生き物だな、人間なんて。

 

***

 

ダイニングテーブルに置かれた紅茶をすすりながら、僕と宗さんはキッチンを眺めていた。

「そうそう、少し根元の部分を残したまま切り込みを入れるの」
「あ、なるほど……そうすればバラバラにならないってことか」
「それからできるだけ細かく……そうちゃん、手際いいわねえ」

どうやら晩ごはんはハンバーグで、いま賢颯は母から玉ねぎのみじん切りについて教わっているようだ。隣で宗さんは二本目の缶ビールを開けながら、ふふっ、と小さく笑って僕に視線を動かした。

「愛されてるねえ……」
「……別に料理まで教わる必要、ないと思うんだけど」
「湊にしてやれること、増やしたいんだろ……少しは察してやれよ」
「まあ、単なるお客さん扱いされるのも居心地悪いだろうからね」
「……随分前からフツーに打ち解けてる気もするけど」

 

高校の入学式で初めて賢颯を見た時、この世にこんな人間離れしたレベルのイケメンがいることに驚いた。見た目もさることながら、声や立ち居振る舞い、ひとつひとつの所作さえきれいで、そのうえ頭と性格の良さまで兼ね備えたチートな高校生とは、何ひとつ接点が見出せなかった。

偶然と成り行きで結ばれた縁 ───

その糸がもつれればほどき、ときには引きちぎって結び直し僕と賢颯はいまここにいる。たくさんのひとたちに支えられながら、挫けそうな時も心が折れそうな時も、僕は何度も立ち上がって来たはずだ。それこそ、病気のほうが治療という手段がある分、悩まなくて済む。

僕の家のキッチンに立っている賢颯の後姿を眺めながら、込み上げる想いにうっかり泣きそうになった。

 

「腹減って泣くとか赤子かよ」

賢颯は、僕の前にハンバーグや付け合わせの野菜なんかが乗った皿を丁寧に置きながら笑った。

「……なんか、普通に食べられそうに見えるね」
「どーゆー意味だよ」
「真っ黒な消し炭を生成して慰められるまでがセットじゃないの?」
「現場監督が隣にいてどうやって失敗すんだよ…」
「まあ、それもそうか」

母は “わたし、本当に横にいただけなのよ” と、賢颯を持ち上げ褒め称えた。はいはい、ほんとお母さんは賢颯が大好きだな。それにしても、なんで宗さんまでここで晩ごはん食べてるんだろう。

 

桜庭さくらばくんも連れて来てくれればよかったのに」

ぽつりとこぼした母の言葉に、宗さんは盛大に咳込んだ。

 

***

 

いままで十八年生きて来た中で、こんなに一日を、過ぎていく時間を、大切に思い考えたことはなかった。何をしても、しなくても、時間は止まることなく正確に進んでいく。ただ息をしているだけで勝手に変わっていった世界は、一所懸命に向き合ったとしてもやっぱり変わっていった。

骨髄バンクが設立されてから約三十年、ドナー登録者数に対し実際に提供まで至った人数は、登録者の2.99%ほどだそうだ。非血縁者とのHLAの適合率がどれだけ低いか、という現実を突き付けられ肩を落とす日だけが続く。

唯一の救いは、湊がとても穏やかで前向きだったことだ。顔色がすぐれない日も、疲れやすい日も確かにあるが、精神面で不安定になることはなく、オレをひとりにしてしまうかもしれない、と思い詰めていた頃とは比較にならないくらい落ち着いていた。それは、常に一緒にいるからかもしれないし、何かしらの覚悟をしたからかもしれない。

 

朝、目を覚ますと、隣に湊がいる。

横顔をぼんやり眺めながら、「ほんと、まつげ長ぇな…」なんて小並感に、ふっと笑みが漏れる。

 

そんな他愛のない毎日が、ただ、しあわせだった。

 

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