第九十四話 図南の翼
「……は? マジで?」
如月さんと別れたあと、僕と賢颯はなんとなく109の中をうろうろと冷やかしていた。別にヒカリエでもパルコでもマルイでもよかったけど、この手の場所にあまり縁がない僕にとっては、どこも同じように思えた。
「いまや連絡手段の王道だろ、LINEなんて」
「いや、それはそうだけど……湊が自分から連絡先の交換するなんて思ってなかったから」
「関係の修復させようと思って、逢わせたんじゃないの?」
「まあ、似たようなもんだけどさ」
ふ、とアクセサリーショップの前で足を止め、「さあどうだ、可愛いだろう」と言わんばかりのディスプレイを見ながら、いろんなものがあるんだなあ、と思ってると、隣で賢颯もネックレスやイヤリングを手に取りながら「こういう所、久しぶりだなあ」とつぶやいた。
「そういえば賢颯、欲しいもの決まった?」
「さすがにこういう店にあるものは可愛過ぎなんじゃね?」
「ここで見つけろとは言ってないよ……」
そりゃそうだ、と笑いながら賢颯は店内を練り歩き、ギリギリ店に足を踏み入れてるかどうか、くらいの場所からぼんやりと中を眺めてる僕に手招きをした。
「こーゆーのは?」
賢颯は、シルバーの細いチェーンに十字架や王冠の小さなモチーフが付いているブレスレットを手に取り、僕に差し出した。
「……さすがに、おまえの腕には小さ過ぎるんじゃないか?」
「オレんじゃねえわ、沙羅にだよ」
「…如月さんに?」
「って、そのために来たんじゃないの?」
手紙のことで長い間傷付いていた如月さんへのお詫びか、もしくは手紙をくれたことへのお礼か、何か贈ろうと思ってここに来たんじゃないの? LINEの交換もしてるんだし、と賢颯に言われ、「あ、うん、まあ」と僕は曖昧に答えた。
そんなつもり、ひとつまみもなかったけどな。
賢颯の差し出したブレスレットを受け取り、「じゃあ、これにしようかな」と僕はそのままレジに向かった。如月さんに似合うか、とか喜ぶか、なんてことは脳裏をかすめもしなかったけど、賢颯の細やかな気配りはいまの僕にとって都合が良かった。
***
小さなカウンセリングルームのテーブルの上にあるディスプレイをゆび指しながら、処置室で湊を診察した医師は少々厳しい声で俺と姉ちゃんに説明を始めた。
「こちらが正常値、左側が今日の採血の数値です。数値の横に “L” と表記されているのが見えますか」
「……はい」
「今回行ったのは一般採血ですが、赤血球、白血球、血小板の数値が正常値に比べ低いんです」
「あの……それは、何か病気だということでしょうか」
健康なら正常値が出るだろうよ……と思いつつ、動揺を隠せない姉ちゃんの顔を見ると、落ち着かせるためとはいえ冗談めいたことを言ってもいい状況ではないんだな、と感じた。
「これだけでは判断できませんので、精密検査が必要だと思います」
「精密検査、と言いますと…」
── この検査結果で疑われる病気はいくつかありますが、一過性のものという可能性もないわけではありません。例えば炎症により一時的に白血球数が増えたり、貧血によりヘモグロビンが減ったりする場合もあります。貧血にも種類がありますし、確定診断のための除外検査が必要かと思います。
何か外的な要因があって数値が下がっているのか、それとも血液を造る過程で何か問題があるのか、だとしたらどの過程に問題があるのか、検査をしないと正確な治療法の提案ができません。
「現時点で、一番疑わしいと思われる病名を教えていただけませんか」
「……再生不良性貧血ではないか、と思われますが……似たような病気もあるので断言はできません」
「似たような病気、とは」
「骨髄異形成症候群や急性骨髄性白血病などです。造血機能がどのように障害されているのかによって変わるので」
「……治るんでしょうか」
「数値的には重症と言えるレベルではないので、早めの検査をおすすめします」
「わかりました……ありがとうございます」
───
「……湊にちゃんと言ったほうがいいの?」
「念のために骨髄検査しておこう、はさすがに無理あり過ぎだろ」
「それはそうなんだけど……」
「湊だって小さなこどもじゃないんだ、ちゃんと話して本人の意向を汲まないと」
点滴室の扉を開けると、天井を見上げていた湊は少し訝し気な顔で俺たちに視線を向けた。点滴はもう少しで終わりそうだったが、何もすることのなかった湊は暇を持て余していたに違いない。
「着替え、持って来たんだけど点滴終わってからじゃないと袖通せないわねえ」
「……お母さん」
「なあに?」
「泣くの我慢してます、みたいな顔で何事もなかったように振舞われても、僕も反応に困るんだけど」
「……あのね、湊…」
「いいよ、宗さんから説明してもらったほうが正確な気がするから」
……俺かよ。
湊は身体を起こし、俺を見上げて小さく溜息を吐いた。いまから聴かされる話が、受験勉強のせいで疲労が溜まっていたんだろう、という話じゃないことをなんとなく察しているような、まあ、いい話ではないということは、姉ちゃんの様子から窺うことはできただろうし。
「結論から言うと、ある病気が疑われるから精密検査が必要なんだってさ」
── 処置室では湊のいる手前、睡眠不足で疲労が溜まってたんだろう、って言ったけど、あとで姉ちゃんに説明するつもりだったんだって。ただ、その前に俺がちょっと違和感を覚えて、処置してくれた医師を訪ねたんだよね。それで姉ちゃんが着替えを持って戻って来た時に一緒に話を聴いたんだけどさ。
採血の結果見せてもらったんだけど、赤血球と白血球と血小板が正常値より少ないんだって。赤血球が減ると身体に酸素がうまく送れなくて疲れやすくなるし、白血球が減ると感染症に罹りやすくなるし、血小板が減ると血が止まり難くなる。それが一時的なものなのか、血液を造る機能によるものなのか、検査しようって話。
「それって、治る病気なの?」
「だから、それを確かめるために検査が必要だ、って話だろ?」
「ああ、そっか……検査ってすぐ終わる感じ?」
「二、三日入院は必要みたいだな。結果見ながら答え合わせして行くから、検査項目の増減の関係で」
「……結果が最悪だった場合、死ぬ可能性ってある?」
「百パーないとは言えないけど、それはどの病気だって同じだろ」
「まあ、そうか……ねえ、お母さんと宗さんにお願いがあるんだけど」
「……賢颯くんには言うな、って話?」
「うん……絶対、必要以上に気にするから」
「俺と姉ちゃんからはあえて言わないけど、言わなくちゃいけない場合があるってことも考えとけよ」
わかってる、と言ったあと、湊はそれ以上口を開かなかった。
***
「あの……藤城くん」
「うん」
「これは、その……どういう意味で受け取ればいいの…?」
クチコミサイトで調べたオープンテラスのあるカフェで、まだ少し冷たい風が通り抜けて行くテラス席に座り、如月さんは小さな黒い箱と僕の顔を交互に見ながら、明らかに戸惑っていた。
「手紙、せっかく書いてくれたのに、渡してくれたことも、その気持ちも、踏み躙っちゃったから……お詫びっていうか」
「そんな、わたしが勝手にしたことだし、手紙の内容で傷付いたわけじゃない、ってわかっただけで充分なのに」
「それでも、向き合わずに逃げたのは僕のほうだから……受け取ってもらえると救われるかな」
「……なんだか、余計に気を遣わせちゃったみたいで…ごめんなさい」
「それともうひとつ、実はお願いしたいことがあって」
「お願い? わたしにできることなら……どんなこと?」
そう言いながら如月さんは、黒い箱に収められているシルバーのブレスレットをそっと手に取り、瞬きもせずにそれを見つめた。いまでも僕のことが好きだっていうのが思い込みや勘違いじゃなければ、こういう贈り物はきっと余計な期待をさせるに充分な役割を果たす。と、思う。
そのブレスレットを如月さんから取りあげ「右? 左?」と訊くと、躊躇いがちに「左」と答えた彼女の左手首に、僕は小さな留め具に苦戦しながらようやくそれを着け終えた。細い手首でシルバーの十字架や王冠が揺れ、とても綺麗だな、と思った。
「手紙の内容はね」
「…うん」
「僕は……義務感と責任感でこなしていただけのことを、ここまで好意的に受け取ってくれるひとがいるんだ、ってことに驚いたし、嬉しかったよ。居眠りしてるのを見られてたことは、ちょっと恥ずかしかったけど」
でも正直、好きだっていう感覚はわからなかったんだよね。それまで誰かを好きだと思ったこともなかったし、どういう気持ちのことを「好き」っていうのかわからなかったから。趣味や娯楽を好きだと思うこととは、明らかに違うじゃない? だから、手紙を読み終わったあとは、どう返事すればいいのかな、ってことしか頭になかったんだ。
「それをそのまま……伝えてくれればよかった…かな」
「うん、そうだね……ごめんね、そうできればよかったんだけど」
「…そうできない理由が……何かあったの?」
「……いまからする話は、手紙とは一切関係ない、ってことをまず理解して欲しいんだけど」
「うん、わかった」
僕は如月さんに、洗いざらいぶちまけた。
小四の時トイレでされたこと、それがあってから人付き合いが苦手になったこと、だから塾に行かずに家庭教師を選んだこと、その家庭教師が僕に教えてくれたこと、もらった手紙を取り上げられて読まれたこと、その直後に家庭教師に言われたこととされたこと ──
これだけえげつない話を聴かされて、平然としていられるはずがないこともわかっていたから、目の前の如月さんが泣き出したのは想定の範囲内だけど、そのあと彼女がつぶやいた言葉は想定の範囲から大きく外れていた。
「…家庭教師の先生が女性だったら…違ってたよね、きっと…」
「……どういう意味?」
「酷いことされたのは変わらないけど……相手が異性なら、行為自体は普通っていうか…」
……確かに、それはそうかもしれない。先生が女のひとだったら、好きか嫌いかは別としてエッチ自体は一般的な組み合わせっていうか、少なくとも僕が死ぬほど痛い思いをすることはなかったと思う。
「訊いていいかわからないけど……藤城くん、その家庭教師の先生のこと、好きだったの?」
「いや、全然」
「じゃあ、カラダの関係を持ち続けてたのって、別の理由があったってことだよね…?」
「んー……拒むのが怖かった、って感じに近かったのかな…拒んだら味方がいなくなるって思ってたし」
「そっか……じゃあ別に男のひとが好きだったわけじゃないんだ…」
「……え?」
「恋愛経験、なかったんでしょ?」
「ああ、うん、あの当時そういう感情は知らなかったから」
「カラダが気持ちいいのと、心が気持ちいいのは別ものなんじゃないかなって思うんだけど…」
先生としてる時、心が満たされたことはなかった。捨てられたくないって気持ちのほうが強かった。ただ、身体は充分過ぎるほどの快感を覚えたし、経緯や背景を除外すれば、行為そのものは決して嫌なわけではなかったような…
「……女の子と…あの…経験って、あるの?」
「ないよ」
「だったら、女の子が相手でも気持ちいいかもしれないよね」
「……考えたことなかったかな、それは…」
「カラダの気持ち良さだけで、自分の性的指向のラベルって貼れなくない?」
「まあ、そうかもしれないけど……僕、女のひとに反応しないっていうか…」
「とっても言い方は悪いんだけど……それって “パブロフの犬” 的なものなんじゃ…」
餌を見た犬は無条件に唾液を分泌するけど、餌を与えると同時にメトロノーム音を聴かせ、それを繰り返すとメトロノームの音を聴いただけで、餌が目の前になくても犬は唾液を分泌するようになる。 “条件付け” による条件反射を確立させた有名な実験だ。
本来、唾液の分泌とはなんの関係もないメトロノーム音という “中性刺激” が、餌という “無条件刺激” との組み合わせにより条件反射を引き起こすようになり “条件刺激” に変化する。
この場合、僕にとって “中性刺激” だった男という存在が、 “無条件刺激” である性的接触により快感を覚える “無条件反射” を引き起こし、男が “条件刺激” になって、男に反応するという “条件反射” を起こすようになった、って話か?
「……そうかもしれないけど、そうじゃない部分もあるかな」
「そうじゃない部分?」
「うん、これがさっき言ってた “お願い” につながるんだけどさ」
「あ、うん……わたしに協力できること?」
「これからもこうして、たまに逢ってもらえないかな」
「……え…っと…わたし、藤城くんのこといまでも好きって言ったよ…ね?」
「うん、それが単なる思い込みかどうか、逢っていくうちにわかるかもしれないし、僕は如月さんのことを好きになって、実はゲイじゃなかったってことがわかるかもしれないから」
「単なる思い込みじゃなくて、逢うたびにどんどん好きになるかもしれないよ?」
「そうなったら、僕を落とせばいいだけじゃない?」
如月さんはしばらく考えたあと、「わかった」とうなずいた。何度逢おうと、なんの取り柄もないこんな平凡な男に想いを募らせて行くなんてことは考えられないし、僕が如月さんを好きになる可能性は、万にひとつもないことは明白だった。
ごめんね、如月さん。
僕は ── 世界で誰より大切なひとがこの先も笑顔で生きて行くために、きみを傷付けることを選んだ最低な人間なんだ。