ACT.4 ノエル
“結晶の器” となる女を探すことは、そうそう簡単なことではなかった。
年齢、健康状態、伴侶との信頼関係、家計の状態、近所の評判や親族の品格、そして何より “前世は何者だったのか” 。果ての森で結晶化した魂を持っている者は結晶の器にはなれない。
つまり前世で “悪い行い” をした者は、次の産まれ直しでは母親にはなれないのだ。
すべての条件を備えている女は多くはない。ルフェルは毎日条件に見合った女を探し、見つかればディオナに報告をする。新しい命を産み出すための仕事に携わっていることを、ルフェルは誇りに思っていた。
そう、あの悲しい運命を知るまでは。
───
その日も、結晶の器を探していたルフェルは、成果のなかった一日の疲れを癒すため海を見に来ていた。
天空には海がないため、天使にとって海はとても珍しい場所だった。波打ち際に立つと、足の裏で砂が動く。波が寄せては引き、同時に砂もルフェルの足をくすぐる。海は不思議だ。
しばらくその感触に浸っていると、遠くから何かが近付いて来る気配を感じた。
砂浜をよたよたと歩み進んでくる “何か” に、ルフェルは目を凝らした。ルフェルの視力がきちんと “何か” の正体を捉える位置まで進んで来るのを待って、そしてルフェルは驚いた。
怪我をした動物かと思っていたそれは、小さなこどもだった。
こんな陽も暮れた海に小さなこどもがひとりで?親は一体何をしているんだ?
心配になり、よたよたと歩いてルフェルの後ろを通り過ぎて行こうとするこどもに声を掛けた。
「ちょっと待って」
こどもはよたよたと砂に足を取られながら、それでもなお進んで行こうとする。
「ちょっと待って」
今度はこどもの肩に手を置いた。
こどもは、こちらが驚くほど飛び上がりからだを硬直させた。ルフェルがこどもの正面に回り込んでしゃがむと、こどもの瞳には恐れや悲しみが色濃く見て取れた。
「大丈夫だよ、何もしないから。でも、きみはどこに行くんだい? パパやママはどこ?」
ルフェルがこどもの頭をなでようとすると、こどもは反射的に両腕で自分の顔をかばった。
……殴られると思っているのか?
「大丈夫だよ、僕は何もしやしない」
そう優しく諭しても、こどもは両腕で自分の顔をかばったまま硬直している。ルフェルはそのまま、こどもの頭を優しくなでた。大丈夫だよ、と繰り返しながら。
殴られないことがわかったのか、こどもは恐るおそるその両腕をおろした。そして目の前にしゃがむ美しい天使を見て大きな目をさらに大きく丸くした。
「こんばんは、僕はルフェル。きみはこんな時間に、何をしているんだい?」
「あー」
「パパやママは? どこにいるんだい?」
「あーあー」
「お家の場所はわかるかい?」
「うー あ」
こどもは確かに小さかったが、歳の頃としては五歳前後だろう。人間のこどもだって、二歳くらいにもなれば言葉を覚え始め、三歳にもなれば会話もできるはずだ。しかし、いまルフェルの目の前にいるこどもとは、意志の疎通がはかれない。
「きみは、僕の言っていることがわかるかい?」
こどもは目を丸くしたまま、ルフェルの真っ白な翼にふわりと触れては初めての感触に驚き、今度は翼を触った手をじっと見ていた。そしてまたふわりと翼に触れる。
こどもが自分の翼に興味を持っていることに気付いたルフェルは、こどもがそっと触れている翼をパサリと動かした。
驚いて手を引っ込めるこども。ルフェルは、もっと触ってもいいんだよと翼を小刻みにパタパタと動かした。動く翼を熱心に見ながらそうっと手を伸ばそうとした瞬間、遠くから怒鳴り声が聞こえた。
「おまえはこんな所で何をしてるんだい!!」
こどもはそのまま硬直し、興味深げに丸くしていた大きな瞳からはすべての感情が消え失せ、まるで透明なだけのガラス玉のようになった。
怒鳴り声の主はどんどん近付きルフェルの隣まで来ると、小さなこどもの耳を指先でつまみ、そのまま力いっぱいねじり上げた。
「おまえってやつは! じゃがいもの皮も剥かずに逃げ出すなんて!」
「ちょ、ちょっと待ってください」
ルフェルはこどもの小さな耳をねじり上げている指先を咎めた。
「天使さま……いいんですよ、こいつは」
体格のいいその女は、こどもを突き飛ばしてそう言った。
「さあ、仕事はまだまだ残ってるんだ。早く帰っといで!」
突き飛ばされたこどもを、ルフェルは優しく抱き上げた。
「わたしが家までお連れします」
「天使さまにそんなことをしていただくわけには……」
女は断ったが、ルフェルは譲らなかった。
「足を、傷めているようですし」
ルフェルはこどもを抱き上げたまま、女のあとを着いて行った。こどもは、ディオナが新たな運命と鼓動を吹き込み、しあわせに産まれ育つよう神々や天使から祝福を受けているはずだ。
しかしどうだ、このこどもは。
怪我をした足を引きずり、家畜のようなにおいを放ち、ガラス玉のような瞳を持って、言葉すら話さない。伸びっぱなしの髪は泥と埃にまみれ黒く固まり、まだ小さな両の手のひらは小傷で埋め尽くされている。
───
女の家に着くと、女は信じられない言葉を放った。
「ああ、それはどこかその辺にでも転がしておいてください」
……それ、とはこのこどものことか。
「ちょっと待ってください。あなたはこの子の母親では?」
「違いますよ! そんなやつの母親だなんて、考えただけでもおぞましい!」
「ではこの子の母親はどこです?」
「知りゃしませんよ。あたしゃいま当番の時期で、それに餌を与えているに過ぎませんから」
曰く、そのこどもはある朝、その村の教会の前に捨てられていた。
しかし、この小さな村の教会には常駐する神父がいない。さらに、その赤子が捨てられていた日から、村には不審なことが起こり始めたと言う。牧場が火事になったり、村のこどもが神隠しにあったり、長雨が続き農作物の出来がよくなかったり。
村ではその赤子のせいではないかと、すべての災いの原因を赤子になすりつけ、殺すと呪いがあると信じて疑わず、とにかく生かしておくことだけを約束し、当番制で村人の家をたらい回していた。女は憎々しげにそのこどもについて知り得る限りの話をした。
どこで運命が狂ってしまったのだ? ディオナが祝福したこどもが、なぜこんな扱いを受けているのだ?
「この子を、しばらく預かっても構いませんか?」
ルフェルは女に申し出た。
「それがいなくなるのは願ったり叶ったりですけどね……そのせいで、村にまた災いが起こりゃしませんかねえ」
女はとにかく村のことを、自分のことを心配していた。ルフェルには、いま自分にしがみ付くこのこどもを、その場に残して行くことなどどうやっても考えられなかった。
───
ルフェルは地上にある自分の棲み家に戻ると、まずそのこどもを風呂に入れようとした。
何をされるのかわからず暴れるこどもをどう扱っていいものか、さすがのルフェルも手を焼いた。力尽くで抑え込むわけにも行かず、かといって手を緩めると全力で逃げ出そうとする。
「大丈夫、痛いことも怖いこともしないから」
「あー! あー! うー!」
「約束するよ、絶対に傷付けたりしない」
真っ黒な肌にぬるめの湯を少しずつ掛けながら、優しく肌をなでて行く。
しばらくすると、指先がずるりと滑りルフェルはぎょっとした。小さなこどもの皮膚とはいえ、この程度の力で皮膚が剥けるはずは……溜めた湯の表面に黒いかさぶたのようなものが浮いている。肌だと思っていたそれはふやけ、触るとポロポロと剥がれ落ちた。
……まさか、これは全部、汚れなのか?
何より髪を洗うことは困難を極めた。汚れと泥と埃が油で固まり、まったく指が通らない。慣れない手付きで少しずつ髪をほぐしながら、逃げようとするたびにからだを優しく抱え、また髪をほぐしてはからだを抱える作業を延々と続けた。
“温かい水” に驚き、嫌がり、暴れて逃げ出そうとするこどもを、なだめながらなんとか洗い上げるまで、ゆうに二時間は費やしただろうか。それから、傷めている足の手当てをするために、さらに時間を費やした。
「驚いたな……」
目の前にいる小さなこどもは、真っ白な肌に蜂蜜色の髪を輝かせていた。ルフェルはその変貌ぶりに……ここまで変貌を遂げるようになるまで、長い間放置されていた事実に驚愕した。
小さなこどもに自分のシャツを着せて、丁寧に袖口を折り曲げながら、「さすがに大き過ぎるけど、今日はこれで我慢しておくれ」と優しく声を掛け、驚かせないようそうっと頭をなでた。
───
ルフェルは一度天空へ戻り、あの小さなこどもの両親の居場所を調べていた。あのこどもの母親は一体どこにいるのだ。結晶の行方はしっかりと管理されている。調べることなどわけもない。
そしてたどり着いた答えに、ルフェルは愕然とした。
母親はあのこどもを産んだあと夫を手に掛け、さらに自らの命を絶って、いまは果ての森にいた。
母親の素性は良好だった。年齢も、健康面も、伴侶との信頼関係も、家計の状態も、親族の品格も前世も、そのすべてが良好だったのだ。なぜだ。なぜ……なぜ母親はこどもを捨てて死んだのだ。しかも父親を道連れにしてまで。
ルフェルはその両親を案内した御使いを探し、最期の様子を訊ねた。
「わたくしも詳しくはわかりません。ただ……」
「ただ?」
「女の夫は最期に愛していると言葉を残し、女もそれに応えておりました」
「……お互い、愛し合っていたと?」
「はい。ふたりの愛を永遠のものにするのだ、と言っておりました」
ふたりは深く愛し合っていた。深く、海よりもなお深く。
自分たちの血筋を残したその時、現世での役目を終えたとばかりに、ふたりは永遠の愛を守るためこの世のすべてのしがらみを断ち切った。誰にも干渉されることのない、ふたりだけの世界を信じて ──
……馬鹿な。なんて人間は愚かなのだ。死してなお一緒にいられるとでも思っていたのか。現に父親は灰色の結晶となり、母親は果ての森へと送られているではないか。
なぜ愛し合うその気持ちのひとかけらだけでも、我が子に与えられなかったのだ……
「……人選を誤ったようね」
その話を報告に行くと、ディオナは自身を戒めるよう、厳しく悲しい声でつぶやいた。
「申し訳ありません……わたしの至らなさが招いた失態だ……」
ルフェルは膝を着いて肩を落とし、茫然とディオナにそう言うと、ディオナがそれを止めた。
「いいえ、ルフェル。最終的に見極めるのはわたしの役目ですもの」
しかしディオナはルフェルの様子に、いくらかの違和感を覚えた。
膝を着き肩を落としてはいるものの、その表情はまるで氷塊を思わせるほど硬く冷たく凍てつき、ところが瞳は激昂し怒りの焔火がゆらゆらと燃え滾っている。
ああ、なるほどと理解したディオナは、少し呆れたように笑いながらルフェルを咎めた。
「ルフェル……あなた、いまにも果ての森へと赴き、その母親を剣の餌食にでもしそうな顔をしてるわよ?」
「……赦されるのであれば」
「赦すわけがないでしょう」
実直なルフェルの態度にディオナはもう一度笑った。
「あなたは優しいひとね、ルフェル。だけどしょうがないひと。恨んでは駄目よ、それはいつかあなたを蝕むのだから」
ディオナは責任を感じてはいたが、それ以上にあの小さなこどもの不遇を嘆き、憐れで可愛い小さき者が愛情深くしあわせに育つことを心から祈り、願い、ルフェルに託した。
「どうかルフェル、あの小さなこどもを守ってあげてちょうだい」
───
地上の棲み家に戻ったルフェルは、まず大き過ぎるシャツを着ているこどもを着替えさせた。
「今度はちょうどいい大きさのはずだよ。ディオナが選んでくれたから」
こどもはダブルガーゼのやわらかなワンピースを着せられ、麻のサンダルを履かせてもらった。ルフェルはクスリと笑って言った。
「きみ、そうしてると天使の子のようだね」
「あー う 」
この小さなこどもをたらい回していた村の者たちは、この子に話し掛けたり、本を読んだりと言葉を教えてはいなかったようだ。もう四、五歳にもなろうというのに言葉がまったく出て来ないなんて、普通ではあり得ない。
「きみには名前が必要だね」
言葉を教えるにしても、何をするにしても、まず名前がなければやり難い。ルフェルは天使の子のような、しかし可哀相なこのこどもの名前を考えた。
「よし、決めた。きみの名前はノエルだ」
「う ぁ 」
「いいかいノエル、 “エル” というのはね、ヘブライ語で “神” を意味するんだよ」
── きみに、神の祝福がありますように…
ルフェルはノエルを膝に乗せ、心からそう願った。