あのときの僕の話をしよう 8

あのときの僕の話をしよう
物 語

その36

僕が言い出さなければ彼女からその話が出ることはないだろう。相応しくないとか、わたしのためっていうのはイヤだとか、なんだかんだ余計なことを考えてどうせ彼女から求めて来ることはないのだから。

「……少し考える時間もらってもいい?」

 

僕は耳を疑った。

 

考える?

何を?

考えたら何かが変わるの?

 

即決出来ない理由が、素直に僕の胸に飛び込めない理由が、きみの決断を鈍らせる理由が僕にはわからない。

「どうして?」

空気が重くならないように、僕はまるで興味のないテレビに気を取られているフリをしてリモコンを取った。

 

その37

彼女は少し間を置いて「だから、突然の話だから」と言いながら僕の背中を抱き締めて続けた。

「でも、嬉しい」

まったくきみは賢くて、そして狡い。

僕の黙らせ方を心得ていなければ、そんな上手に時間を稼ぐなんてことはできないだろう。

だけどね、僕は不思議でたまらないんだ。契約でもなく、拘束でもない。一緒に暮らすことの何を考えたいのか、ただふたりの時間が増える以外に、抱き合う時間が増える以外に、きみの気持ちを曇らせる何かがあるとでも言うのだろうか。

胸の奥に刺さった小さな棘が、その存在を主張した。

 

その38

腰に回されていた腕がみぞおちをしなやかに滑り上がり、少しだけ緩めてあったネクタイを手際よく解いて行く。シャツのボタンをふたつ外したところでその手が止まり、僕の視界が暗くなった。

「……え、ちょっと、何す」「みっちゃんはね」

僕の言葉を遮って彼女は、僕の目をネクタイで覆い優しく縛りながら囁いた。

「見えないことに対する怖さを知らないのよ」

外そうと思えばそれは容易だった。でも僕は目を塞がれたまま、彼女の言葉を黙って聞いていた。

「目隠しをされていても、余裕があるのね」

彼女の舌が首筋を這う。

 

その39

彼女は僕のベルトを緩めてシャツの裾を引き出し、再びそのボタンを外して行く。肩とシャツの隙間に手を入れ僕のからだから剥ぎ取ると、そのシャツで僕を後ろ手に縛り、両肩を強く引き寄せられた僕はそのまま仰向けで床に押し倒された。

背中に押し潰された手が痛くて腰を浮かす。

「さすがに痛いわね」と言いながら、彼女は僕の脚の付け根を確かめるようにそうっとなでた。

「こんなときでも……それとも、こんなときだから?」

僕の硬さを咎めているのか、その声からは彼女の気持ちを読み取ることができなかった。

 

その40

彼女の柔らかなくちびるの感触が、僕の鎖骨から優しく伝わる。何かを確かめるように肩や胸に押し当てられるくちびる。からだの真ん中をなぞるように尖らせた舌が這う。何度も、何度も味わった舌を僕のからだは正確に覚えている。

目隠しをされていても、何も見えなくても、彼女のくちびるは、舌は、吐息は、まるでプログラムされたように僕を溶かして行く。次の瞬間、スマホの震える音が聞こえた。

途端に僕は覚醒し、からだは凍りついたように何も感じなくなった。抜けない棘が、その存在を主張する。

棘の在り処はここだと言わんばかりに。