初戀 第九十九話

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物 語
第九十九話 旱天の慈雨

 

それからのことはほとんど憶えてない。

揺すっても目を開かないみなとの冷たい頬。バカみたいに震えながらスマホを握り締め、たった三つの数字を押すことさえ上手くできなかった。それから宗弥むねひささんに連絡をして……多分、慌ててれんさんとはるかさんが帰って来て……

目の前が真っ暗になる、とか頭の中が真っ白になる、とかそんな生ぬるい感覚じゃなかった。

まるで ──

突然足下の床が抜け、ものすごい勢いでどこかへ落ちて行くような……なんの抵抗もできない、ただその猛烈な速さに身を任せるしかない虚無感。息を吸おうにも吐こうにも、空気の壁に阻まれて溺れているような感覚に、頭が痛くなった。

 

***

 

「ねえ」
「……」
「ええ感じに鬱陶しいんやけど」
「……」
「いつまでそうしてるつもりなん」

── 何を言うても、何を訊いても、賢颯けんそうはひと言も喋らへんまんま「元・自分の部屋」のベッドの上で天井を見続けてるだけやった。離れに行けばクロちゃんもシロちゃんもいたはんのに、わざわざ母屋の部屋にいてるゆうことは、まあっといて欲しいんやろけど、三日目ともなるとお母さんがうるさてかなん。ついでに、お父さんも。

クロちゃんとシロちゃんは「っといたらよろし」と言わはるだけやし、結局わたしが「食事を届けるついでに、ね?」とお母さんに言われて賢颯の生存確認を押し付けられる。お父さんとお母さんの気持ちもわからんわけやないけど……十年以上経ってんのやからもう時効やろ……

「ほな、ここ置いとくで」

机の上に夜ごはんのトレイを置いて、一切手ぇが付けられてへん昼ごはんのトレイを、溜息と一緒に持ち上げる。

十年以上経ってんのに……わたしは鼻の奥がツンとなる感覚に、慌てて賢颯の部屋をあとにした。

 

***

 

「お兄ちゃんよ」

 

「……おにいちゃん?」
「そう、華のお兄ちゃん。いままでちょっと別の所で暮らしてたんやけど、今日から一緒」
「……こん…にちは」

突然家に連れて来られた少年は、いぶかし気な顔と声で様子をうかがう小さな女の子ににっこりと微笑んで見せた。造り戸棚に飾られているフランス人形のように白い肌、その頬をふわりと柔らかく隠すようなクリーム色の髪、少し細めたまぶたは豊かなまつげに縁取られ、隙間から見える瞳は灰色を混ぜたような薄い蒼 ──

はじめこそ何か未知なものでも見ているようだった華は、その少年の美しく儚いたたずまいにすっかり見蕩みとれていた。

「さ、あがってちょうだい」

みつはその少年の背中に優しく手を当て、家の中に入ることを促した。ほんの少し眉を下げ、不安そうに蜜の顔を確かめた少年は次の瞬間、華に右手を掴まれ力任せに引き寄せられたせいで、見事に転んだ。

 

「……ごめん…なさい」

蜜にとがめられ謝る華に、少年はにっこりと微笑んだ。転んで擦りむいた膝は薄く血が滲み、蜜は洗面器に張ったぬるま湯にガーゼを浸しながら、「少ししみるけど、ごめんなさいね」とリビングのソファに少年を座らせて言う。

緩く絞ったガーゼで傷口をそうっと拭い、汚れを落とす。

その間も少年は、ただ微笑みながら華を見ていた。

 

───

 

「おかあさん」
「なあに?」
「あのこ……おみみ、きこえへんの?」

ティーカップを持つ手が一瞬硬く強張こわばった蜜は、何もなかったような声で華に答える。

「あの子、やなくてお兄ちゃん」
「うん…おにいちゃん……おはなし、できひんの?」
「できるよ? いまは静かにしてたいんやない?」
「…でも、はなにはぜんぜん、なーんもゆうてくれへん」

おやつの時間やから、お兄ちゃん呼んで来てくれる? と言われた華は、庭の隅で空を仰いだまま動かない少年に一度声を掛けた。しかし少年はその声が聞こえていないのか、動く気配すらなかった。

蜜に確かめたあと、華はもう一度「おにいちゃん、おやつ」と少年に声を掛けた。声が小さくて聞こえていないのかもしれない、と華は玄関から小さなサンダルを持参し、縁側から庭へ降りたあと、少年に向かって走り出した。

空を見上げている少年のそばまで行くと、華は大きな声で少年を呼んだ。

「けんそう! お・や・つ!!」

空を見上げていた少年 ── 賢颯は、華の声に驚き「…びっくりした」と思わずこぼした。

「おやつ、きらいなん?」
「え、ううん…ごめんね、気付かなくて」
「おそら、なんかおるん?」
「いないよ」
「……ずうっとおそらみてるから、めぇにうつったんかな……おそらのいろ」
「そうかもね」

賢颯はクスッと笑い、華の手を引いて庭から戻った。

── ああ、オニイチャンってぼくのことだったのか。

その時、「賢颯くん」と呼ばれていた少年は「お兄ちゃん」と呼ぶ華の声を憶え、「おにいちゃん」と呼んでも反応がなく名前を呼べば応えてくれるのだ、と悟った華は、二度と「おにいちゃん」と呼ぶことはなかった。

 

───

 

離れのシロクロを訪ねた華は、大きな溜息をついた。そこにいたクロもシロも、洸征こうせい燠嗣おきつぐも一斉にその華のうなだれた姿に目をやった。

「どないしたん」
「コーヒー? 紅茶? 緑茶もあるで」
「…賢颯くん、あのまんまなんです?」
「Let sleeping dogs lie.(放っておけば?)」

華はソファの前のラグに座り込み、ちょうど手に触れたクッションを抱え潰した。

「……四人の兄はみんな優しいのに、なんであの兄だけおかしいねん!」
「ケンソーがおかしいんは、いまに始まった話ちゃうやろ……」
「ぼくは兄やなくて従兄なんやけど…」
「コーセイと一緒んなったら、自動的に兄やんか」
「え、日本てもう同性婚認められてんの?」
「認められてへん……て、ちゃうねん、それはいつか解決するやろけど、絶滅しそうな兄が! 邪魔くさいねん!」

抱き潰していたクッションを二、三発殴り、もう一度大きな溜息をつく華にクロがマグカップを差し出した。

「ねえクロちゃん……賢颯がドナーになるん、そない難しい話なん?」
「そやなあ……コーセイのときとは条件が違い過ぎるさかい」
「でも、検査すら拒むんは意味がわかれへん……」

── ゆうてケンソーのHLAの型はコーセイの時に調べてるからわかってるんよ。嫌がってるんはそのデータと湊のデータとの照合やね。そやから単純に怖いんと違う? うても、合わへんでも、なんしか思うとこはあるやろ。

合わへんかったら待ってるだけの状況は変われへん。ほな、仮に合うたとしたら?

藤城ふじしろさんに骨髄提供できるんと違う?」
「そやな」
「ほな、なんでそれを嫌がるん? 大事なひと助かるかもしれへんのに」
「華は自分の髪とか目ぇの色が周りの人間とちごてても、なんも思わへん?」
「めっちゃ自慢するわ」

そばで話を聴いていた三人は、それぞれの個性に合わせずっこけた。

「洸征くんの白い髪も紅い瞳も、賢颯の蒼い瞳も、めっちゃきれいやん……わたしなら自撮りしまくるわ」
「本人がそれにコンプレックスを持ってたとしたら?」
「え? そんなん持つ必要ひと粒かてないやん? きれいなもんは愛でて推す、世の中の常識やん」
「それかて、遺伝子の」

 

「…っ関係ない!!」

 

華のうわずった大声に、さらにその声が震えていたことに、クロもシロも洸征も燠嗣も目をしばたかせ、息を飲んだ。

「賢颯は……テキトーでいい加減でエエカッコしいでチャラくて、女癖も悪ぅて誰かれ構わず手ぇ出すわ場所かて構わへんし人目もはばからへんしで最低な男かもしれへんけど! 誰より肩身の狭い思いしながら、いっつも周りに合わせながら、家族にも友達にも迷惑ならんようずうっとずうっと自分を偽ってたんよ! 誰よりしんどいはずやのに、親戚からも圧力掛けられて……」

── 普通やないのは賢颯やなくて周りなん違うの!? あないひどいことされて、それでも賢颯はずうっと耐えて来たんよ! 「お兄ちゃん」て言葉の意味すらわかれへんようにしたんは誰なん!? 学校でいじめられても、仕返しすらせえへんとただわろて済まそとする子ぉにしたんは誰なん!?

突然変異でもなんでも、いま賢颯が生きてる、それが総てやないの!? 遺伝子がどうとか、関係あれへん! 失敗作でもなんでもない、賢颯は普通の人間や!! 大事なひと助けたいに決まってるやん! 白血球の型が合わへんかったらみんなで支えてあげてよ! 合うたら説得してあげてよ!

「わたしの……お兄ちゃんを助けてよ……」

 

その時、クッションを抱えて泣きじゃくる華の頭でポンッと大きな手が弾んだ。

「…っ…けんそ……」
「火力高えんだよ」

華の横でしゃがんだ賢颯は、そのまま華の頭をくしゃくしゃとなでた。

「お疲れさん、やっとその気になんたんえ?」
「まあね……っつーかおまえらもう知ってんだろ?」
「うちらが嚙んでて、わかれへんわけないやんか」

シロは三枚の紙をテーブルに並べた。六人はテーブルを囲みながら、その紙を見比べる。

「……おい」
「なに?」
「これはなんだよ」
「いややわぁ、うちら一所懸命海外のデータまで毎日確認してたんえ?」
「おう…いや、そうじゃねえ、湊とオレのデータはわかるんだが」
「ほな、何がわかれへんの?」
「なんでクロのデータがあんだよ!! おまえ腰骨折ってるからドナーになれねえはずだろ!?」
「検査は採血でしはるやろ」
「それはそうだけど……」
「さ、選びなはれ。ケンソーが骨髄提供するか、それともクロにお願いす」
「オレがするわ!!」

ほな、ちゃーんと栄養摂って身体からだ元に戻しとき、とシロはニヤリと笑った。

── まさかオレのHLAが湊に適合するとは思ってなかったけど……それ以上にまさかクロと適合するなんて悪夢としか思えん! 性倒錯変態兄弟の毒を移植するくらいなら、まだ一緒に物の怪になったほうが何億倍もマシだ!

……つーか、腰骨折ってんのに湊のためにそこまで考えてくれてたってことだよな。

「ありがとな……」
「おや、珍しゅうしおらしこと言わはって」
「あとは桐嶋きりしまに言うとくさかい、はよ東京帰りや」
「おう……迷惑掛けたな」

賢颯は華の腕を掴むと「ほら」と立ち上がらせ、優しく肩に手を置いて母屋へ帰ろうと促した。

 

───

 

「……華も、ごめんな」

離れから母屋まで続く小径こみちを歩きながら、賢颯は華の顔を覗き込んだ。それから華の右手を握り、「懐かしいな」と手をつないで歩く。普段なら照れ隠しか「気色ワルイわ」と手を振り払う華も、いまはおとなしく賢颯の手を握っていた。

「藤城さん、もう意識回復したはるんやろ?」
「……ああ、まあ、一応な」
「まだ退院できひん感じなん?」
「救急搬送されてるからなあ……しばらくは入院してんじゃね?」
「…賢颯の骨髄液で、はよ治らはるといいねえ」
「そうだな」
「……やっぱりクロちゃんもシロちゃんもすごいね……あっという間に賢颯説得しはって」
「まあ、変態ではあるものの天才には違いねえからな」

 

── クロのデータを捏造してまで、オレの首を縦に振らせる手腕はさすがだわ……

 

***

 

「…颯……賢颯……賢颯……!……久御山くみやま!!」

思い切り揺すられて跳ね起きたオレは、汗だくだわ動悸は激しいわでまず状況が掴めなかった。何より、実は揺すられたわけではなく蹴とばされ、跳ね起きたわけではなくベッドから蹴り落とされたらしいオレは床に転がっている、その意味がわからなかった。えーっと?

「大丈夫か? えらくうなされてたから何度も起こしたのに全然起きないから…」
「……湊…」
「うん?」
「そんな、あからさまに普通じゃないヤツを心配して蹴り落とすか?」
「や、揺すっても起きないから足でちょっと押しただけなんだけど……」
「ほーう……足でちょっと、ねえ…」
「ごーめーんーて」

そう言うと、湊は床で不貞腐ふてくされてるオレに手を伸ばし、苦い笑みを浮かべながらオレをベッドへと引き戻した。

「なんか……また嫌な夢とか見てた?」
「あー、まあ……うん」
「僕、賢颯の夢の中で何回死んでんだろう…」
「しょーがねーだろ、微妙なタイミングで湊のばーちゃん亡くなったからさ……」

雨が降りしきる八月、湊の母方のばーちゃん(つまり遥さんと宗弥さんのお母さん)が亡くなった。その時、湊は骨髄移植のあとだったこともあり、通夜にも葬儀にも参列できなかった。

造血幹細胞がしっかり生着するか、感染症は大丈夫なのか、いろいろ考えて落ち着かない日々が続く中での訃報だっただけに、さすがのオレもメンタルが相当削られた。そのせいか、こうしてオレは時々ばーちゃんの葬儀と、病院から帰って来るかわからない湊のことが混ざり合って不穏な夢を見る。

「賢颯……まだ不安?」

ベッドに転がるオレの腰辺りで何やら手を動かしている湊が、少し楽しそうに訊く。

「不安ってわけじゃねえけど、あの、何してんすか」
「まだ何もしてないよ」
「いや、そこで動いてる指はなんなんだよ!」
「……授業……間に合うかな」

脚の間からひょいっと顔を出した湊は、すでに口唇くちびるを濡らしながら上目遣いでオレの顔を確かめた。

 

── そう、蒼灰色になった左の瞳で。