初戀 第七十八話

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第七十八話 汝の敵を愛せよ 其の参

 

「せんせー、突き指したぁ」

保健室の扉を開けながら養護教諭の小田切おだぎりを呼んだ女子生徒に、小田切は「しーっ」と口の前でひと差し指を立てて見せた。女子生徒は肩をすくめながら部屋に入り、カーテンの閉まったベッドを一瞥いちべつして「誰かいるんですか?」と小声で訊ねた。少し呆れたような溜息を吐き、小田切は女子生徒に隙間から覗いてみればわかる、と仕草で答えた。

女子生徒は足音を忍ばせながらカーテンに近付き、息を止めて薄い隙間から中を覗き込んだ。

「……っ!!」

 

── 藤城ふじしろ先輩と久御山くみやま先輩が……ひとつのベッドで寝ている…

 

「あ、あの……これってどういう……」
「藤城くんが風邪気味だとかで保健室に来て、お薬飲んだら寝ちゃったの」
「そ…それで、久御山先輩は…」
「様子を見に来て、そのまま一緒に寝ちゃったみたいね」
「い……いいんですか…?」
「……何が?」
「学校イチのイケメンふたりが、同じベッドで寝てるなんて…」
「まあ、寝ちゃったものは仕方ないというか」
「許されざる禁断の恋の香りが……」
「どんな香りよ……はい、応急処置はしたけど、夜になっても痛むようなら明日病院に行ってね」

体育の授業でバレーボールを受け損ない突き指をした女子生徒のひと差し指は、巻かれた湿布の冷たさにじんわりと痺れているようだった。ありがとうございました、と頭を下げ部屋から出て行くついでにもう一度、彼女はカーテンの隙間から中を覗いてみた。

── イケメンふたりが絡んでるなんて、美味し過ぎる……写真撮ってもいいかな…音の鳴らないアプリなら気付かれないと思うんだけど……藤城先輩に抱き着いて眠る久御山先輩……いや、抱き着いてるというより抱きかかえてる感じ…? これはやっぱり久御山先輩がタチで、藤城先輩を鳴かせて……でも世の中には “ケツ抱き” ってジャンルも……

「早く教室に戻りなさい」
「…っ! は、はいっ」

小田切に急かされ、女子生徒は慌てて保健室から出て行ったが、仲間内で盛り上がれるネタを見つけたことに足取りも軽く、胸は張り裂けんばかりに期待で膨れ上がっていた。

 

***

 

「藤城くん、久御山くん」

玄関を出て帰宅の途に着いたふたりは、聞き覚えのある声に振り返った。そこには、いつものように頼りない笑顔を浮かべ、しかしいつもとは違い少々戸惑った顔をしている藍田あいだの姿があった。

「お、藍田じゃん」
「藤城くんと久御山くん、圧倒的一部で大騒ぎされてるよ……」
「圧倒的一部? どういうこと?」

やれやれ、と藍田は溜息を吐きながら鞄からスマホを取り出し、指先を滑らせて目的の物を画面に映したあと、その画面をふたりに向けた。

「ふぁっ!?」
「…あー……」

スマホの画面には、保健室のベッドで眠っている藤城を、後ろから抱えて眠っている久御山の写真が映し出されていた。心当たりのない藤城は顔面蒼白になり、心当たりしかない久御山は困ったように笑った。

「わたしのところにまで送られて来たよ、写真」
「いつの間に撮られてたんだろ」
「待て賢颯けんそう、問題はそこじゃない」
「隠し撮りにしては、きれいに撮れてるよねー」
「待て藍田、感心するとこじゃない」
「いまさらだろー? ね、藍田これから時間ある?」
「うん、あるよー」
「ちょっと付き合えよ、奢るから」

 

どうしておまえはいつも状況を鑑みず欲望に忠実になれるんだ、学校ではやめろっていつも言ってるのに、これが内申に響けばいくらおまえが賢くても受験に不利になる、その後先を考えない大雑把な行動の流れ弾が僕に被弾することをどう思ってるんだ……藤城は思い付く限りこぼし続けたが、当の久御山はどこ吹く風状態だ。

ファミレスのテーブルに突っ伏した藤城のライフはすでにゼロだったが、久御山と藍田はそんな藤城のことなど気にも留めない様子で話している。

「ねえ、圧倒的一部ってどういう意味?」
「ああ……ほら、BL好きな腐女子とか貴腐人って呼ばれてる層?」
「はあ……オレと湊が一緒にいるなんて、珍しくもなんともないじゃん」
「一緒に歩いてるのと、一緒にベッドで寝てるのは違うよー」
「オレ、中庭でチューしてから学校公認だと思ってたわ」
「やめろ、そんなこと公に認められても反応に困る」

ガバッと身体を起こし藤城がつぶやいた。それを聞いた久御山が声をひそめ藍田に訊ねる。

「藍田、どう思う? 付き合ってんのバレたらなんかデメリットある?」
「ないんじゃないかなあ……からかうような気概のある男子もいないだろうし」
「だよな? ほら、だから問題ないって」
「そういうことじゃなくて……」
「わたしは嬉しいかな、ずっと見守って来たから」
「だよな? ほら、だから大丈夫だって」
「だいじょばないよ!」

藤城は半ば不貞腐れたようにドリンクバーの烏龍茶をストローでかき混ぜた。とはいうものの、一年の時から応援してくれている藍田の言葉は嬉しかったし、付き合っていることを隠そうとしない久御山にも安堵していた。

 

「あら偶然、学校帰り?」

三人が顔を上げると、コーヒーカップを持った凪穂なほがにこやかに近付いて来るのが見えた。

「うおっ、デート中に邪魔しないでくれます?」
「デート中なの? わたし、向こうの席で打ち合わせしてるんだけど」
「お疲れさん、はい、用がないなら消えてどうぞ」
「こっちの女の子ははじめまして、よね? あ、岸川と申します」
「ひとの話を聴け」

不機嫌そうな声の久御山と、戸惑い気味に愛想笑いを浮かべる藤城を交互に見ながら、藍田は藤城以上に引きつった笑顔を浮かべ、凪穂の差し出す名刺を受け取った。

「あ、えっと、久御山くんと藤城くんの同級生で、藍田といいます」
「可愛いわねえ……ねえ、藍田さんモデルに興味ない?」
「も、モデル……ですか?」
「あーもー、見てのとおりデート中だから! 邪魔だから!」
「わかったわよう……じゃあ、藤城くんもまたね」
「あ、はい、お疲れさまです」

凪穂は人当りの良い笑顔を浮かべたまま会釈をすると、「なるほどねえ」という顔で打ち合わせ中の自分のテーブルに戻って行った。

── 確かに、骨抜きにされる可愛さだわねえ…

何かを思い付いたようにニヤッと笑った凪穂は、何事もなかった顔で打ち合わせを再開した。

 

***

 

「藤城くん、昨日元気なかった?」

昼休み、購買で並んでいると藍田に声を掛けられ僕は内心ドキッとした。元気がなかったわけじゃないけど、岸川さんと遭遇したことは少なくとも嬉しい偶然ではなかったし、そのせいでいろいろ考えてしまったことは事実だった。

「いや、そういうわけじゃないよ」
「そういうわけでも藤城くんは言わないから」

藍田は僕の顔を心配そうに見上げ、それからふにゃっと笑った。

「……ちょっと、話聴いてもらってもいいかな」
「もちろんだよー、あとで屋上行く? それとも放課後にする?」
「賢颯が用事あって今日いないから、帰りスタバかマクド行こ」
「うん、わかったー」

 

僕は藍田に何を聴いてもらいたいんだろう。

昨日逢った岸川さんが昔、賢颯のセフレだったことか? その岸川さんの子がもしかしたら賢颯の子かもしれないってことか?

それとも。

イザナギとイザナミの間に産まれたヒルコもアワシマも、イザナギとイザナミのまぐわいが正しい交わりではなかったせいで不具の子として産まれ島流しにされたことか。正しい交わりではなかったせいで ──

 

───

 

「ファミレス、マクド、スタバ、ドトール、タリーズ、サンマルク、どこがいい?」
「んー、ファミレスは昨日行ったから、サンマルクにしよう」

学校帰り、藍田と話しながら歩いていると後ろから声を掛けられた。僕に声を掛けるひとなんて限られてるからな……溜息が出そうになるのをこらえ、驚いたように振り返ってみた。

「本当よく逢うわねえ、学校この辺りなんだっけ?」
「あ、はい……割と近くなんで」

一日振りですね、岸川さん……以前はすれ違うこともなかったと思うんだけど、本当に偶然なんだろうか…

「みなとくんだ!」
「こんにちは、朝陽あさひくん久しぶり」
「パパは?」
「…パパ、今日はちょっと用事があるんだって」
「ケンソー、どこか行ってるの?」
「あ、バイト先で今後のシフトの話をするとかで」
「ああ、こっちの仕事入れちゃったから」

朝陽くんを見ながらニコニコしていた藍田は、少し困惑したように僕を見上げた。

「朝陽、こちら藍田……何さんだっけ?」
依清えすみです…藍田 依清」
「えすみちゃん!」
「この子は朝陽、ケンソーの子なの」

岸川さんの口からはっきりと聴いたのは、これが初めてだった。誤解とか、勘違いとか、都合のいい答えを期待していたことを自覚した瞬間でもあった。

「じゃあ藤城くん、ケンソーに週末の撮影よろしくって伝えておいて」
「あ、はい…朝陽くん、またね」
「みなとくん、えすみちゃん、またねーバイバイ!」

 

 

 

「あの、藤城くん……」
「うん」
「そんな、なんにもなかった顔しないで」
「……うん」
「……サンマルクじゃなくて、別のとこ行こう?」

藍田の声はいつもよりしっかりしていた。

 

───

 

藍田はほんとに気が利くというか、僕がいまどんな気持ちになってるかわかってるようで、何も言わずにネットカフェへと向かい、受付を済ませて僕に飲み放題専用のグラスを差し出した。

「はい、藤城くんの分」

 

なみなみといだ烏龍茶は減ることもなく、溶けた氷がグラスの周りに水滴を、底には水溜まりを作っていた。グラスの表面を滑り落ちる水滴を眺めていると、そっと藍田に手を握られ、眺めているつもりだった水滴の行方なんて、まるで目に入ってなかったことに気付いた。

「声……我慢してると、頭痛くなっちゃうよ」
「……え…?」

手の甲にパタッと落ちた水滴は、皮膚の上で滲むように広がりながら床へと流れ落ちた。たとえようのない胸の圧迫感を溜息で解放したら、のどの奥が痙攣してヒュウッと音が漏れた。

誰も悪くない……憎むべき対象があるとするなら、それはきっといまの僕のこの気持ちだけだ。

出逢わなければ、話さなければ、近付かなければ、好きにならなければ、それを口にしなければ、触れなければ、希望なんて持たなければ、何も共有しなければ、心を赦したりしなければよかった。

そうすれば、最初から何もなければ……岸川さんを羨むことも、妬むことも、憎むこともなかった。朝陽くんを邪魔だなんて思うことも、賢颯に裏切られたように感じることも……なかったのに。

 

「はー…っ……自分が醜くて嫌になるな…」
「醜くなんてないよ」
「岸川さんも朝陽くんも……消えればいいって…思っ……最低だ…」
「最低なんかじゃないよ、それはひととして当たり前に持ってるものだから」
「だったら要らないよ……こんな気持ちなんて…」
「……ひとりで答え出しちゃダメだよ? 自分で台無しにしようとしないで」
「僕に答えなんて出せないよ……」

藍田は握っている僕の手をギュッと握り直し、それは僕が泣き止むまで何度か繰り返され、僕はその度に藍田の静かな思いやりを噛み締め、ひとりじゃなくてよかったと何度も確認した。

 

 

「……駅まで送るよ」

放課後にたっぷり三時間も泣いてりゃ外だって暗くなるよな……でも藍田は僕に気を遣ったのか、駅のほうを指差しながら「すぐそこだから、大丈夫だよ」と笑って見せた。

「今日、ありがと……藍田がいてくれてよかった」
「いつでも呼んでね」
「ん……気を付けて」
「また明日ね、藤城くん」

優しい藍田の笑顔は、少し心配そうに曇っているようにも見えた。

 

***

 

「あれれ? 今日、藤城くんは一緒じゃないんですか?」

スタジオの入口で吉村さんは、心底意外そうな声をあげた。挨拶もそこそこに、そんなネタぶっ込まれるって、オレはどんだけ寂しんぼの甲斐性なしだと思われてるんだ。

「用事があるみたいで、今日はオレひとりです」
「初めての撮影で緊張するだろうから、一緒に来ると思ってました」

オレもそのつもりでした。

さすがにいまの湊を同行させるようなことはできなかった。以前みたいにひとりで思い詰めて姿を消そうとはしなくなったにせよ、思いっきり作り笑いをしてるのがわかる。朝陽のことを考えてるんだろうけど……いますぐオレがどうこうできることでもないってのが現状だ。

「先にヘアメイクと着替え、お願いします」
「了解でーす」

種を蒔いてるのはオレなんだから、湊のために早急に刈り取ってやるのが筋だろう。ただ、オレ個人の問題じゃないのが悩ましいところだよなー……落としどころがまだ見えないっつーか……

「失礼しまーす…メイクってここでいいの?」
「あ、ケンソーお疲れ! こちら、ヘアメイク担当の鷹栖たかのすさん」
「よろしくね! じゃあ早速だけどこっち座って!」

楽屋? 控室? メイクルーム? デカイ鏡のあるその部屋はヘアサロンみたいで、凪穂はメイクアップアーティスト? の鷹栖さんに、何やらいろいろと注文を付けていた。うお、カッコイイな鷹栖さん…

「あら、ほんと! シルクみたいなお肌してるのねえ……」
「でしょ? だから皮脂だけ抑えられればいいかなって」
「そうね、じゃあマッサージだけさせてね!」

鷹栖さん……身長高いし、こんだけイケメンなら女にモテるだろうに、なにゆえオネェ言葉なんだ。メイクアップアーティストとかって、自然とオネェ方向に舵切っちゃうもんなのかな。もの凄い偏見だけど。ああでも、顔面を行き交う指先の繊細さは、さすがプロって感じだな……このまま寝そう…

 

「ケンソー、こちらスタイリストのグミちゃん」
「よろしくお願いします! 駆け出しですけど一所懸命頑張ります!」
「オレは駆け出してもないけど、よろしくお願いしまーす」

駆け出すどころか立ち止まって地団太踏んでるところだよ!

今日の撮影は「あくまでも素人の男子」感を出すために、事前にリサーチされたオレの普段着っぽい服で撮影するそうな。着替える必要性をあまり感じないんだけど、一応ファッション誌なので、とグミちゃんに笑われた。ちっちゃいけどオレより年上なんだろうな、グミちゃん。当たり前か。

 

「じゃ、久御山くんBスタジオにお願いします」
「了解でーす」

……モデルってすごいな、いつもこんな風に顔と髪いじられて、リクエスト通りに振る舞えるんだもんな……オレなんて湊のことが気になり過ぎて、何を説明されてもちゃんと頭に入って来ない。

「よろしくお願いしまーす」
「よろしくお願いしまーす……おお、ほんとに格好いいな久御山くん」
「ですよね、もうこのままモデルとして売っても大丈夫かなって思うくらい」

スタジオの中では、フォトグラファーとディレクター、それから凪穂と鷹栖さんとグミちゃん、その他にも雑誌のライターやそれぞれのアシスタントを含め、十人くらいの声が飛び交っていた。吉村さんは雑誌が違うため今日は見学らしい。

 

「はーい、じゃあ早速だけどそこに立ってみてくれる?」

そこ、というのは、ライトとか傘とかレフ板なんかで派手に照らされてるところだよな……立ってみて、ってどんな風に? オレ、完膚なきまでに素人なんですけど? どう考えても「気を付け」か「仁王立ち」にしかならないんですけど? イケてるポーズなんて取れないぞ? グラビアアイドルのポーズしか思い付かねえし。

「腰に手、当ててみて……ポケットに手を入れて……うん、じゃあちょっと腕組んでみて」

あ、ちゃんと指示してくれるんだ……よかった…

それからオレは言われるとおり、手をあげて、さげて、頭に置いて、頬触って、下向いて、上向いて、横向いて、しゃがんで、頬杖ついて、靴紐結び直して、髪かき上げて、耳たぶ触って、三角座りして、脚を投げ出して、胡坐かいて、爪先掴んで、膝立ちして、立ち上がってベルト掴んで、シャツのボタン外して、また留めて、シャツ脱いでTシャツ一枚になって、Tシャツめくって。

 

結構大変だな……ただ澄まして椅子に座ってりゃいいとは思ってなかったけど、こんなに動くとも思ってなかった。

 

───

 

「お疲れさまでしたー」
「お疲れさまー」
「ありがとうございました」
「初めての撮影、お疲れさまでした!」

……はあ……疲れた……オレがこんだけ疲れてるってことは、周りはもっと疲れてるんだろうな……工事現場で鉄骨運んでるほうがラクかもしれない……

スタジオから出て挨拶をしていると、小さな子を抱えた女のひとが手を振りながら近付いて来るのが見えた。

「あれ、朝陽じゃん」
「友人にシッター頼んでてね、仕事終わりに合流してごはん食べに行こうって約束してたんだけど、ケンソーも行く?」
「いや、疲れたから帰らせてくれ……」
「ママー! あ、パパ!」

弾けるような笑顔でほっぺたプクプクさせやがって、クッソ可愛いなおい。朝陽は凪穂の友達の腕から降りて、オレの元へ走り寄って来た。かーちゃんとメシ食いに行くの、嬉しいんだろうな。

「朝陽、元気だったか?」
「うん、パパはげんき?」
「おー、元気元気」

フワフワの髪をなでると、少し恥ずかしそうに笑う朝陽に心が和んだ。あー、オレも余計なこと考え過ぎなのかな。好きなものは好き、欲しいものは欲しい、そこに理由なんてない。こどもはこんな素直なのに、いつからいろんなことを頭ん中でこねくり回すようになったんだろう。

 

「じゃあ、オレお先に失礼します」
「はーい、お疲れー」
「お疲れさまですー」

その時、朝陽の小さな声が聞こえた気がして振り返った。

 

目に映る朝陽は交通量の多い通りに踏み出そうとしていて、オレは全身の血液が沸騰したような感覚を覚えた ──