初戀 第五十二話

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第五十二話 足下から鳥が立つ

 

「……これは…」

桐嶋きりしまは血液検査の結果を見ながら眉間にしわを寄せた。まあ、これだけでは何とも言えない、と聴診器を首に掛け大きなあくびをした。新宿のクリニックの診療時間は午後五時から午前二時まで。患者によっては延長診療も受け付けるが、早々頻繁にあるわけではない。

しかし現在時刻は午前七時であり、藤城 湊ふじしろ みなとの容体を徹夜で気に掛けていた桐嶋は眠気によりすこぶる機嫌が悪かった。とりあえずバイタルチェックだけして帰ろう……桐嶋はあくびをしながら病室の扉を開けた。

「……おい、シロクロ」
「眠い」
「起きねェか、シロクロ! 藤城どこ行った!!」
「どこって……」

ベッドの上に藤城 湊の姿はなかった。桐嶋はベッドを手で触りながら温度を確かめたが、シロとクロのいる場所以外は冷たいシーツの感触しかなかった。

「いますぐ探せシロクロ! 下手したら死ぬぞ!」

シロクロ兄弟はMacBookを開き、桐嶋はスマホを取り出した。

「俺だ、ひと捜しだよ…細身で身長185くらい、黒髪短髪、高三、ツラはきれい目、多分浴衣だが裸足かもしれん…新宿クリニックの周辺から全員で当たれ…あ? 学会? 知るかおめェ東京湾に沈みてェのか? 急げクソ虫」

電話を切ったあと桐嶋は大きな溜息を吐き、もう一か所電話を掛けた。

「恐れ入ります、四ツ谷メディカルオフィスの桐嶋と申します、はい、ご主人はご在宅でしょうか…はい、そうですか、では成人済みのお兄さんか…ああ、はい、結構です。電話番号をお伝えいただけますか? はい、090……」

桐嶋はスマホを白衣のポケットにしまうと、クシャクシャと頭を掻きむしった。感染症じゃない、白血球が高値なのは裂創れっそうのせいだろう……肺炎の徴候もない、咳も喘鳴ぜいめいもない、風邪やインフルは考え難い。心因性発熱? ストレス性高体温症? レイプの直後だぞ? まだ現実として受け止めるには早いと思うが…

 

せわしなくMacBookを酷使していたシロクロ兄弟が声をあげた。

「新中野駅近くの防犯カメラで捕捉……いまから二十分くらい前やな」
「その先のカメラには映ってへんから、その辺りで倒れてんちゃうかな」
「近くに誰かいねェのか? どっか運び込まれてたら面倒なことになるぞ」
「連絡済みや」

 

───

 

するとクリニックの入口がバタバタと騒がしくなり、同時に桐嶋のスマホが鳴った。

「桐嶋です、大変申し訳ありませんが、そのまましばらくお待ちいただけますか、はい…おい、上じゃねェそのまま処置室運べや、肌に触んな! 血にも傷にも触んじゃねェ! こっち寝かせて…毛布のままでいい、触んなっつってんだろ埋めんぞこのゴミ虫!!……失礼しました、早急に処置を要するのでのちほどまた」
「あの、そちらへお伺いしてもよろしいですか」
「はい、住所はググってください…ではお待ちしております」

桐嶋はニトリル手袋をはめると、湊の浴衣の帯をほどき首筋や顎下がっか、みぞおち、脇腹などを押さえながら確かめ、太腿を垂れてこびり付いた血液と精液を見て大きな溜息を吐いた。それから足の裏を確かめ、もうひとつ溜息を吐く。

湊をクリニックまで運んだ黒いスーツの男は、上着を脱いで白衣をまとい桐嶋と同じようにニトリル手袋をはめた。

「リドカイン0.5、20入れてブラッシング、ゲンタマイシンで被覆材ひふくざい
「了解」
「ったく無茶な小僧だぜ…」
「そういえばうわ言で名前のようなものを呼んでましたが」
「名前? なんだって?」
「くみ…とか」
彼女オンナの名前か?」

裸足で歩き回り傷付いた足の裏の処置をしていると、待合室でMacBookを酷使していたシロが処置室の扉を叩いた。

「桐嶋、お客さん」
「お客さんじゃねェ、患者さんだ」
「湊のお兄さんかお父さん」
「ああ、そりゃお客さんだ…シロ、診察室に連れて来てくれ」

あとの処置をもうひとりの医師に任せ、桐嶋は診察室へと場所を移した。

 

「このたびはお世話になりまして…わたくし、藤城 湊の叔父で樋口ひぐちと申します」
「桐嶋です、とりあえずお掛けください」

桐嶋はコンピューターのモニターにカルテを映し、説明をし始めた。

「単刀直入に言いますが、甥御さんは昨夜複数の男から暴行を受け、倒れていたところをわたしが保護しました」
「倒れていたんですよね? なぜ複数の男だとわかるんですか?」
「採取した精液・尿・唾液・血液・吐瀉物を調べたところ、少なくとも四人分ありましたので」
「……暴行って…」
「レイプです、どこまでお話すればよろしいですか?」
「…事実を把握しておきたいので」
「そうですか」

── 発見時、腕はネクタイを用い背中側で縛られ、ブレザーとシャツは肘までおろされ前がはだけた状態でした。シャツのボタンは引きちぎられたのでしょう、一番下のもの以外はありませんでした。下はベルトが引き抜かれた状態で、下着とスラックスは足首までおろされ、靴は左が脱げた状態でした。

吐瀉物がありましたが倒れる前に吐いたものと思われます。顔のそばではなく身体の下にあったので。身体には精液と尿が掛かっていました。うちに運び込む際ストレッチャーに乗せたのですが、腸内から精液と尿と血液が流れ出たので、一旦その場で確認したところ、裂肛れっこうがありました。

引き抜かれたベルトは……首に巻き付けられていました。

淋病とクラミジアに対しては抗生物質と抗菌剤を投与、肝炎のワクチン接種とHIV感染症の予防薬も投与済みですが、HIV感染予防薬は四週間飲み続けてもらうことになります。

フォローアップ検査として一か月後に肝炎のワクチン接種と梅毒の検査を、六週間後に淋病とクラミジアと肝炎の検査を、三か月後にHIVの検査を、六か月後に肝炎のワクチン接種と検査、それと梅毒、HIVの検査を行います。

「ご質問は?」
「……すみません…あの…湊の様子は…」
「いまは薬で眠っていますが、至って普通に振る舞っています」
「…普通に?」
「はい、普通に話をしていました」
「お話を聴く限り、尋常ではない目に遭っているようですが」
「ええ、かなり悪質な犯行です」
「湊に…逢えますか」
「しばらくお待ちください」

 

***

 

俺ですら立っているのがやっとだ……姉ちゃんになんて言えば…れんさんは学会に出てるから、帰って来るまで言わないほうがいいだろうけど……

「……むねさ…ど…したの」
「悪い、起こしちゃった?」
「ううん…だいじょ…ぶ…」
「具合どうだ?」
「大丈夫だよ…僕のスマホ…生きてる?」
「スマホ? ああ…死んでるな、バッテリー切れてる」
「宗さん、久御山くみやまと連絡取れる?」
賢颯けんそうくん? 多分取れると思うけど…どうした?」
「昨日から探してるんだけど…逢えなくて…」

まさか賢颯くんを探してる途中で…?

「電話してみるけど、なんて言えばいいの?」
「元気なら…それでいいから」

元気かどうかすらわからないくらい、長い期間逢えてないのか? 毎日学校に通ってるのに? 八時十分ならまだ授業は始まってないかな……電話を掛けるために一旦廊下へ出て、発信ボタンを押す。

 

「…宗弥むねひささん? どうしたんですか?」
「朝早くにごめん、いまちょっといいかな」
「はい、何か急用ですか?」
「賢颯くん、具合悪いとことかない?」
「具合? いえ、普通に健康体だと思いますが」
「そっか、それならいいんだ」
「オレ、具合悪そうな生霊でも飛ばしてました?」
「いや、湊が…心配してたから」
「あ、あのオレもひとついいですか?」
「うん」
「昨日から湊と連絡付かなくて、LINEの返事もないままで」
「……あ、うん…何か伝言あったら伝えておくけど」
「伝言? 直接じゃなく? 何かあるんですか?」
「あー…スマホのバッテリー切れてたみたいだから、充電させとく」
「宗弥さん…湊、どこにいるんですか」
「……えーと」
はるかさんに連絡すると、余計な心配掛けるかもしれないと思ってたんですけど」
「うん…」
「オレには話せないことなんですか?」

 

***

 

「桐嶋ぁ!!」

宗弥さんに聞いて新宿のクリニックへと急いだ。振り払っても、振り払っても頭の中は最悪の事態でいっぱいになって、込み上げる感情が怒りなのか悲しみなのか最早わからなくなっていた。

「そんなでけェ声で叫ばんでも聞こえるっつの」
「湊は? ここにいんだろ?」
「あ? おめェ藤城 湊と知り合いなのか?」
「どこにいんだよ」
「ケンソーやん」
「ケンソーやん」
「シロクロまでいんのかよ」
「おめェどこまで聞いてんだ?」
「ザックリ概要」
「逢わせてやるからそのことに触れんなよ」

 

───

 

病室というよりは高級ホテルの一室のような、お洒落な応接セットやソファのある部屋の、デカいベッドで湊は横になっていた。眠ってる湊の頬は……片方は腫れ上がり、もう片方は擦り傷で赤くなっていた。オレはベッドのわきで脚の力が抜け、膝を着いてうなだれた。

「…くみや…ま?」

湊の声に慌てて顔を上げ、湊の顔を覗き込む。湊は安心したような、それでいて少し寂しそうな顔でオレをじっと見つめていた。

「久御山…学校は?」
「サボってしまいました」
「ほんと? 具合悪かったりしない?」
「全然平気」
「そっか、よかった…」
「湊は? 大丈夫なの?」
「うん、久御山の顔見たら安心した」
「どっか痛かったりしない?」
「うん、大丈夫…ねえ、久御山」
「ん?」
「昨日、何か怒ってた?」
「いや…うん…」
「気になって五時限目からサボって、久御山の家行ったけどいなくてさ」
「……うん、ごめん…」
「探しちゃった…僕が悪いなら早く謝りたくて」

…オレがLINEの返事を返していれば……さっさと家に帰っていれば……湊は…

「あ、そうだ、一ノ瀬と嵩澤、多分くっ付いたよ」
「は? なんで?」
「嵩澤と付き合うことにしたって言って一ノ瀬煽ったら、キレた一ノ瀬に殴られて」
「はあああああ!?」
「そのあと嵩澤の腕掴んで引っ張って行ったから、なんとかなったんじゃないかな」
「左頬、腫れ上がってんのって」
「一ノ瀬パンチ食らったからだな」

左頬をなでながら、湊は柔らかく微笑んだ。きっと、嵩澤の気持ちに気付いて、なんとか力になろうと考えたんだろう。

「湊……オレ…」

 

嵩澤が煽って来んの、最初気にしてなかったんだけど、同性愛者だって宣戦布告されてから、いちいち癪に障るなって思い始めて……挙句ノンケなんだから近付くな、とか言われたかと思ったら、湊と嵩澤抱き合ってるし。学校でやめろっていつもオレに言うけど、相手がゲイならいいのかよ、って不貞腐ふてくされた。

非常口で一ノ瀬と話してるのも聞くつもりなかったんだけど、久御山とはそういう関係じゃないよ、あいつ、普通にノンケじゃんって言ってるの聞こえて、ノンケってなんなんだよ、ノンケなのがそんなに悪いことなのかよ、って……イライラ止まらなくて学校にいたくなくて帰った。

学校からブラブラ歩きながら帰ったから…途中休憩とかもしたし、湊が来た時まだ家に着いてなくて。

「そっか、ごめん久御山…そんな風に思わせてたんだな」
「謝るのはオレのほうだろ」
「…なんで? 僕がちゃんと言わなかったせいで不安にさせたんだろ?」

ベッドのわきでひざまずくオレの頭をなでながら、「ごめんな」と言った湊は「久御山の髪、柔らかくて気持ちいい」と笑った。それから「具合悪いわけじゃなくて、ほんとによかったよ」と安心した声でつぶやいた。

 

「久御山、抱きたい」
「えっ……」
「違う、抱き締めたい」
「なんだよ、ちょっと期待しちゃったじゃねえか」

ブレザーを脱いで湊の横に潜り込むと、オレの頭の下に湊は腕を滑り込ませ優しく頭を抱えた。ゆっくり深呼吸をしながら、「久御山の匂いがする…」と湊は小さく囁いた。湊に腕枕をされながら、オレは目の前ではだけてる湊の胸元に釘付けになった。おいおい、ここの病衣って浴衣なのかよ……

身体を起こし、湊に覆いかぶさるようにして口唇くちびるを舐めると、湊はオレの首に腕を絡めて「もっと」と舌を出した。滑らかな舌を吸いながら口唇を合わせ、柔らかな湊の口唇を甘噛みしてると、湊の舌がオレの上顎をくすぐった。時々口唇を吸いながら口の中で舌を動かす湊に、当然オレは興奮した。

「どうした、いつもよりエロいな湊…」
「なんでだろ…したくてしょうがない」
「したい、っておまえ……」

その時、病室の扉が開きシロクロと桐嶋が入って来た。シロクロはわき目も振らずベッドに走り寄り、じれったそうに靴を脱いでベッドに潜り込んで来た。あのな!

「湊、いたない?」
「湊、熱どうや?」
「うん、大丈夫だよ、ありがと」
「……なんでシロクロが懐いてんだよ」
「うちら湊の味方やねん」
「湊、うちらの大事な子やねん」
「また脱いでくれる?」
「ダメに決まってんだろ!!」
「ほなケンソー脱いでくれる?」
「脱がねえ脱がねえ! ほら、散った散った!」
「脱いでくれたらな」
「ひと暴れさせたるで…ケンソーの気が済むまで」
「……脱ぐわ、おまえらの望む最強のシチュエーションで」

宗弥さんの話だと最低でも四人いるってことだったけど、全員調べ付いてんのか……恐ろしい兄弟だな、まったく。