code.12 終わらせる者
ルフェルたちは少し離れた場所で、アリキーノから出て来たひとりの女性とル・ルシュが話しているのを見ていた。アリキーノから出てきたあの女性は一体……? ただ、ル・ルシュとは知った仲のようだ、と戸惑いと安堵の混ざった視線を向ける。
「教授にどうしても伝えなくちゃいけないことがあって」
「なんだい?」
「ステファノが死んだことで……自分を責めてるんじゃないかなって」
「……俺のせいだ」
「ステファノから預かった手紙を渡しそびれてたんだ」
「手紙……?」
「なんとなく内容に見当が付いたからね……渡せなくて」
「どういうことだ?」
「手紙……探してみて。エデンにあるから」
「そんなざっくりしたヒントじゃ探しようもないだろ……」
いたずらな笑顔を浮かべるルチアは、ル・ルシュの少し困ったような優しい顔を見ると、心底安心したように吐息を漏らした。これでもう大丈夫だ、という満足気な顔を覗かせ、ル・ルシュの右手を取り頬ずりをする。
「最期にちゃんと話せなかったから……逢えてよかった」
「ルチア、俺は……」
「…あっ…こどもは?」
「後ろに……あの背の高い白銀色の髪の」
「男の子だ……ねえ教授、どっちに似てる?」
「残念なことに俺そっくりだよ」
「ほんと?」
するとルチアは「ねえ、そこのきみー!」と大声でルフェルを呼んだ。
「はじめまして、だね」
「アリキーノ……?」
「……ルチアだ」
「ルチ……え!?」
「わあ、ほんとに教授そっくり……わたしの血はどこに行ったんだ……」
「瞳とか…肌の白さ…かな」
「教授の遺伝子、どんだけ自己主張激しいんだよ……」
「それを俺に言われても困る……」
「ねえ、抱き締めてもいい?」
「駄目だ」
「教授には訊いてないよ……」
ルチアはルフェルの背に手をまわし、力一杯抱き締めた。
「体型も教授にそっくりなんだね」
「いや、そこまでは……僕にはわからないけど……」
「声は教授より少し低めかな……掠れるところはよく似てるけど」
「なぜ……あなたがここに?」
「ね、ちょっと抱き上げてみて」
ルフェルは言われたとおり、ルチアを抱き上げた。「おい!」と慌てるル・ルシュを尻目に、抱き上げられたルチアはルフェルを愛しそうに見つめ、その頭を抱き締めながら「少し歩いて」と囁いた。
「ふふっ……髪、ふわふわだね」
「ちょっとくせっ毛で……困ることもあるけど」
「近くで見ても教授そっくりだなあ……いいね、かっこいい」
「いい…のかな……」
「ねえ、教授のこと……なんて聞いてる?」
「なんて……ああ…協力者というか、提供者というか…」
「まあね、そのどっちも間違いではないんだけど」
「あなたの血を遺すために……選ばれた、と」
「……きみは自分を、単なる世継ぎとか跡継ぎくらいに思ってる?」
「純血種だって話を聞いたのは最近だから……でも、わざわざ “作られた” 感はあるかな…少し」
「わざわざ作ったんだよ」
「……うん」
「愛する教授との子が欲しくて」
「……え?」
「生きてたら……親子三人で仲良く暮らしてたはずだったのに」
「え、だって……その……ご主人がいたはずでは…」
「うん……きみも探してみて、手紙」
「手紙?」
「ステファノが教授に宛てた手紙……執務室にあるから」
「執務室だけでも二十部屋以上あるのに……」
「ねえ、名前は?」
「……ルフェル」
「あ、惜しい……一文字足りない……」
「ああ、共通してた一文字を抜いたとかなんとか」
「……じゃあ、きみの名前は教授が付けてくれたんだね」
「そう…なるのかな…」
「ルフェル……ル・ルシュとわたしの大切な子…」
「……」
「忘れないで、ルフェル……きみが愛の証だってこと」
「……うん」
「わたしがきみを愛してるってこと」
「うん」
「ル・ルシュがきみを愛してることも」
「うん」
「ル・ルシュ、しっかりしてるけど寂しがり屋なんだ。そばにいてあげてね」
少し離れたところでふたりを見ていたル・ルュは気が気ではなかった。親し気に一体何を話しているんだ。いや、親子なのだから親し気に話をしていてもなんの問題もない。しかし、ルフェルにしてみれば突然現れた美しいひと、でしかないわけで、親し気に話す内容などないはずだ。
ヤキモキしていると、ルチアがルフェルの腕から降りてル・ルシュへと走って来る。
「そろそろ時間切れかな……身体が軽くなって来た」
「ルチア……ごめん……」
「教授が何を謝ってるのかわかんないけど、聴きたい言葉はそれじゃないな」
「気付かなくてごめん、裏切らせてごめん、助けられなくてごめん」
「ル・ルシュ……」
「……愛してる」
ル・ルシュがルチアを抱き締めると、ルチアの爪先が内側から赤い光を放ち、それはゆっくりと身体をめぐり全身が眩い光に包まれた。
「ルチア……ずっときみを愛してる」
「やっと聴けた……ありがとう、ル・ルシュ」
「愛してる……誰よりもきみを……守りたかった……」
「……この子の半分を…左の翼だった半分を、連れて行くね」
「アリキーノを?」
「わたしが右の翼として一緒にいれば、きっと寂しくないはずだから」
「じゃあルシは……」
「同居人がいなくなっちゃうから寿命は短くなっちゃうけど、ただの天使になるよ」
── ル・ルシュ……愛してる……
二百五十年の長い呪縛から解き放たれたルチアは、アリキーノの魂を胸に抱き、静かに帰天した。
───
かくして魔界での大乱闘も、諜報部員の加勢により無事一段落を見せ、ルフェル、アヴリル、ユリエル、ル・ルシュ、ミシャはエデンへと戻った。ユリエルの腕にはルシが抱かれていた。
ル・ルシュへと預けられていたルシの魂は水晶に移され、魔界で負った傷は医術、秘術、癒しの女神たちの手により篤く治療が施された。おかげでルシは一週間ほどで元気になり、いまはユリエルの弟子として魔術を勉強している。アリキーノの魂が帰天した日から、ルシの成長は止まった。左側の翼も失い、ルシは翼のない天使になった。
「ユリ、空をとぶまほうってないの?」
「ないわけやないけど……まずは属性魔法からやな」
「ルシ、みんなみたいにとべないんだもん…」
「あー……そやなあ……」
ユリエルはルシを連れ、三女神のところへ訪れた。創造物を造っている女神なら、翼のひとつやふたつ……新生児室で慌ただしく働くアトスとカシスとクロトは翼の話を聴いて首をかしげた。
「造れないわよ」
「さよか……」
「わたしたちには無理だけど、フィオナかセスにでも訊いてみるといいわよ」
「え、全能の神さん、翼造らはるん?」
「ユリエル……あなたもあまり賢くないのね」
「唐突に貶されるん、なんでなん…」
「座天使が智天使になるとき、翼が増えるの、知らないの?」
「あれ、勝手に生えてくるわけじゃないのよ?」
「いや、僕その辺りはまったく無関係やさかい…」
とりあえず三女神には無理だ、ということを知り、ユリエルとルシは新生児室をあとにした。全能の神さんか、死の神さんか……そこらで偶然逢えへんやろか……
新生児室から神々の塔の中心にある全能神の部屋へ向かう途中、ル・ルシュを見つけたルシは「ルル!」と彼を呼び止めた。それにはユリエルも助かった、と思った。
「セスに翼を?」
「そやねん……ゆうて僕、全能の神さん苦手やさかい…」
「ああ、じゃあ僕も一緒に行くよ」
「おおきに、ほんま助かるわ」
───
「魔界での話、聴いたわよ。ル・ルシュもユリエルも……ルシもご苦労さま」
セスが上機嫌で三名を労ったことに、ル・ルシュは違和感を覚えた。
「え、魔界から苦情とか入ってないの?」
「いいえ? むしろ天使の魂を二百五十年も幽閉してた咎で領土の一部を差し押さえたわ」
「……ルチアの魂、か」
「異世界同士でもきちんと取り決めがあるのよ。わたしたちだって理由なく魔族を拷問したりしないでしょ」
「まあ、それは確かに」
「で? 今日はなんの用?」
セスは鳥かごの蓋を閉めると、三名に歩み寄った。
「……翼を?」
「元々ルシは片翼だったけど、その翼もルチアが帰天する時に連れて行ってしまったからね」
「ああ、そういうことなのね、いいわよ」
セスはルシの背に手を当て、小さく式術を唱えた。
「全知全能の神たる我が名において求めよ…定められし道 形となれ」
セスが背をなでると、ルシの背中には二対三翼の翼が広がった。
「……熾天使!?」
「あら、だって元々左側に六翼あったんだから、これで丁度でしょ?」
「大出世やなあ……」
「えっ…ルシ、すごいの??」
意味がわからないルシは何やら慌てていたが、ル・ルシュとユリエルが笑っているのできっと大丈夫なのだろう、と思った。
「そういえばル・ルシュ、あんたはいいの?」
「え、何が?」
「翼、元に戻さなくて」
「……元に戻す?」
── ああ、あんたは知らないかもしれないけど、右側の三翼、わたしが預かってるのよ。二百五十年前にあんたがひとりで魔界から帰って来た時……右側の三翼に大きな傷があったの。そのままでも治ったんでしょうけど……ルチアのことがあったものだから、傷が痛むたびに思い出してつらいんじゃないかと思って。
その時の魔界での記憶と一緒に翼を抜いたの。返して欲しいっていうなら、ついでにいま返すわよ?
「いや、いいよ……忘れてたほうがいいことだって、あるだろうしね」
「あら、そう? じゃあ返して欲しくなったら言ってちょうだい」
───
「へえ……パパの翼にはそんな秘密があったのねえ」
「二百五十年前の瘢痕、と言われればそんな感じだったわね」
「セスさまも、わがままに振舞ってらっしゃるだけでお優しいのね」
「優しいかどうかはまあ、よう知らんけど」
ミシャとエアリエル、そしてフィールは相変わらず診療所の待合室でティータイムを過ごしていた。なぜか今日はそこにユリエルも加わっている。五歳児が診察室のベッドで眠ってしまったため、起きるのを待っている間にミシャがやって来て、話に割り込んだ、ただそれだけだった。
「でも、ルシが元気になって本当によかった」
「そやな……そこはほんま神さんに感謝してるわ」
「司法長官が盾になるなんて思いもしなかったけど」
「どゆ意味ですやろ……」
ミシャは慌てて口ごもり、あ、そうそう、ルシはあと五年間このままの姿なのか、それとも永遠にこの姿なのか、という話を振った。
「五日で五歳になったのがアリキーノの影響なら、五年後に正しく時が動き出す可能性はありそうね」
「みんな成体になるまで育つけど、もっと早く成長が止まる天使っていないのかしら」
「いないのではないかしら……運命の三女神さまがお創りになられてるのだし」
エアリエルとミシャとフィールの話を聞きながら、生きててくれただけで言うことないわ、とユリエルはほんの少し、頬を緩ませた。
───
── ステファノが教授に宛てた手紙……執務室にあるから
ルチアはそう言ってはいたが、諜報部の者が司法省や安全保障省など管轄外の執務室に手紙を隠すことはないだろう。見つけて欲しくなければ燃やしてしまえば手っ取り早い。そうしなかったのは見つけて欲しいからだ。だとするとやはり、わたしの執務室ということになるが……
二百年以上見ても触ってもいない場所……
机やキャビネットの中、底面、二重引き出し、この辺りは普通に見る。椅子の底……書類ケースの底……この辺りも普通に触る。書庫の中、だとすると厄介だな。何かの本に挟まっていることは考えづらい、となると……
ルフェルが執務室で頭を捻っていると、扉がコンっと鳴りル・ルシュが現れた。
「手伝うよ、手紙」
「手伝うというか……そもそもわたし宛ではないのだが」
「まあ、そうだね……じゃあ、手伝ってよ」
天井裏や床下など大掛かりな場所ではないだろう、という推測のもと、やはり執務室の中にある書庫が怪しい、という話になり、ふたりは書庫の中を探していた。
本は定期的に片付け直すので本と本の隙間にはないはずだ。では棚はどうだろう。棚は動かすことがないため、棚と棚の間に滑り込ませている可能性はないわけではない。
「棚の隙間か……これ、全部動かす?」
ル・ルシュの声からもわかる通り、書庫の本棚を全部動かすとなると一日や二日では到底終わらない、途方もない作業になるだろう。ルフェルもそれは遠慮したかった。したかったが、他に考えられる場所もほとんどない。
「……手始めに簡単なところからいこう」
書庫に飾られている絵が六点。ふたりで分けしながら額縁を取り外す。執務室にある額縁は調べ終わっていることから、古典的な手を望めるとすれば書庫の絵画だった。
「…ないな」
六点の額縁に絵画を戻しながら、やはり棚か……と溜息を吐く。額縁に収めた絵画をもう一度壁に掛けようとした時、ル・ルシュが不穏な声をあげた。
「ルフェル……これ、なんだと思う?」
言われてみると、絵画で隠れていた壁が少し盛り上がっている場所があった。
「まさか、壁の中に塗り込んである、とか…」
「だとしたら優秀な諜報部員だね……これはさすがに気付かないよ…」
「確かに優秀な諜報部員ではあったけど……こんな大掛かりな…」
削ってみる? とルフェルに言われ、ル・ルシュは持っていた携帯用の小刀を取り出した。
なにせ二百五十年前の手紙だ……慎重に扱わなければ、ボロボロと崩れる可能性もある。
壁に小刀の刃をほぼ水平に当て、そうっと削ってみる。二、三回繰り返すと壁が大小の塊でバラバラと床に落ちた。壁の中には確かに、何か布のようなものが見える。
小刀をしまい、あとは指で壁をめくって行くと、シルクの布で覆われた手紙が顔を現した。
「……封蝋までそのままだ」
ゆっくりと慎重に手紙を取り出したル・ルシュはその文字に目を走らせ ── 動きを止めた。
***
── 教授、すみませんでした
僕のわがままで、もう随分と長いことルチアを引き留めてしまった。でも、本来いるべき場所へ……ルチアが望む場所へ、僕はようやく彼女の背中を見送ることができそうです。
教授の苦しみを知りながら、見ないフリをし続けた僕の弱さを赦してください。
僕は……ひとりで上手に死ねるか不安だった。常に死と隣り合わせの職務に就きながら、病で死んで行くことが怖くて堪らなかった。それがたとえ敵だとしても、誰かの意思によって命を失うことには何らかの意味があると思えた。けれど、自分の身体が自分の命を蝕むことに……死ぬ意味を見出せなかった。
だから死の瞬間に、この手を握ってくれる誰かが欲しかった。
僕のために涙を流してくれる誰かが欲しかった。
── 僕は自分の命を盾に……ルチアの想いを握り潰して来た
あの日 ── 教授にあの無茶な相談をした日、僕は余命の宣告を受けました。来るべき時が来たんだな、と思ったと同時に、いままで歪に積み上げて来たルチアへの愛を手放さなくてはいけない、と思いました。このまま僕を失えば……ルチアは永遠に僕の妻で居続けるに違いない、そう感じたからです。
そばにいない僕を思いやり、彼女自身はひとりで生きて行く……それに優越感を覚える醜い僕と、それだけは赦されないと己を叱責する僕がひしめき合い、生きて来た中で最も苦しい感覚を味わいました。僕はこの選択を間違えてはいけない、と何度も何度も思いました。
きっと ── 自由になってもいいと言えば、ルチアは笑って自由にしていると言うでしょう。彼女に植え付けた傷は、それだけ根を深く張り巡らせ、彼女の心すら食い殺していたに違いありません。
だから……
彼女が迷わずあなたの元へと駆け出して行けるよう……
慈しみ深い彼女はきっと、血を分けたあなたと彼女の子を悲しませるようなことはしない。
いままで散々苦しめて来た僕の言えた義理ではありませんが、どうか……どうか、彼女をしあわせに……彼女としあわせに生きてください。やがて産まれ来るあなたとルチアの子とともに……
そして、赦されるなら……
僕のことを、少しだけでもいい。憶えていてください。
With all my love, Stephano
***
「…どういう……意味だ…?」
「ステファノはルチアの血を遺すためではなく……ル・ルシュとしあわせになれるよう、協力者という体で子を作らせた…か」
「病気だったなんて、ひと言も聴いてない……僕たちは上司と部下ではあったけど、友達だったのに…」
「なおのこと、言い出しにくいんじゃないかな……」
── ルチアはル・ルシュのことが好きで、ステファノもそれを知っていた。ただ、愛情深いルチアが病気で亡くなってしまう夫と別れ、ル・ルシュの元に行くはずもない。ステファノの死後、ルチアがル・ルシュの元に行かなければいけない、という必然性が欲しかった。そのために……子を成した。
まさか、ルチアの気持ちもル・ルシュの気持ちも知っていたステファノが「僕は死ぬので妻をよろしく」なんて言えるはずがない。自分の命を人質にルチアをそばに置いておいたと思っていたなら尚更だ。
「その彼を……俺は殺した、か」
「任務が命懸けなことくらい、諜報部の者なら叩き込まれてる」
「仲間を謀ったヤツを見抜けなかった、俺の失態だ」
「そうやって自分を責めても……ルチアもステファノも喜ばないよ、お父さん」
「…っ…!」
「ふたりが帰天したいま……生きてるお父さんがしあわせにならないと、誰も報われない……僕もね」
「ルフェル……」
「さて……アリキーノの件も片付いたし、今度は本気で堕天する? それとも僕と一緒にいてくれる?」
「ここに……戻ることになるとは思わなかったよ」
───
「羽根を?」
「ええ、在庫はまだ少しあるのだけど、補充しておきたくて」
「構わないけど……どれくらい必要なんだい?」
「そうね……百くらいあればいいかしら」
「百……」
「あなた、他の者より多いのだから、それくらいケチケチしないの」
運命の三女神であるクロトとカシスとアトスはいま、ルフェルの執務室にいた。ルフェルから少し離れたところで書類の整理をしているル・ルシュに天使の創造をするための材料として羽根の交渉をしているところだ。アリキーノの一件でルフェルには断られると思った三女神は、それならとル・ルシュに目を付けた。
「これって、持主の影響はないの?」
「ない……とは言えないけれど、百以上もある材料のひとつに過ぎないんだから、大丈夫よ、きっと」