第四十三話 東男と京男 其の弐
「一時的な記憶障害でしょう、すぐ戻りますから心配いりませんよ」
「すぐ、とはどれくらいの時間を指すのでしょうか」
「そうですね……数分から数時間、といったところでしょうか」
医師の説明に、数分と数時間では大きな開きがある、と藤城は思ったが黙ってその言葉を飲み込んだ。言ったところで現状は何ひとつ変わらない。医師と看護師は「大丈夫ですよ」と言って病室から出て行った。
「僕ちょっと…電話して来る」
「あ、うん……」
病室の中で携帯って使わないほうがいいよな、と藤城は病棟の中を歩きながら通話可能な場所を探したが、考え事と探し物と心配事と悩み事のコンボで脳の処理速度が低下していたため、迷っているうちに正面玄関まで来ていた。そのまま外に出て家に電話を掛け、帰りが遅くなることを伝える。
「久御山くん、大丈夫なの?」
「うん、医師は大丈夫だって言ってるから」
「何か必要なものとか、ある?」
「いや、ひと晩だけだから」
藤城は母親の遥との電話を切ったあと、少しだけ病室に戻るのを躊躇った。自分のことを知らない久御山に逢うのが居た堪れない。とはいえ、容態が心配なこともまた事実だった。
重い足取りで病室の前まで来た藤城は、そっと入口のドアを開けて、硬直した。
ふたり用の病室は、片方のベッドは空いているためいまは久御山しかいない。そして、その久御山がいるベッドはカーテンが引かれ、中から看護師のクスクスという含み笑いと一緒に、水っぽいリップ音が漏れ聞こえる。
すっと目の前が暗くなる感覚を覚え、藤城は入口のドアの取っ手に手を掛けた。それと同じタイミングでカーテンが開き、「あ、ごめんなさい…ちょっと体温と血圧測ってたので」と、看護師は笑顔で会釈をして出て行った。
なるほど、病衣の胸元がはだけているのは検温のせいか。ベッドで横になっている久御山をチラっと目の端で確認し、藤城は椅子に腰をおろした。
「……あの」
「……何?」
「気のせいだったらいいんだけど……もしかしてなんか怒ってる?」
「心当たりでもあるの?」
「や…ない…けど…」
「じゃあ気のせいだよ」
病院に搬送されてから二時間 ── 久御山はベッドの上で居心地が悪そうに、落ち着かない素振りを見せるばかりで記憶が戻りそうな気配はない。数分ではなく数時間のほうだったか、と藤城は久御山から視線を逸らした。
「学校に戻って荷物取って来るよ」
「あ、うん…」
病院にいるなら特に鞄は必要ないが、いまふたりきりでいると間が持たない。藤城は、何か別のことをしているほうが気が紛れるような気がして学校へ向かった。
───
「お、藤城……大丈夫なのか? 久御山」
「医師の話では大丈夫だそうですが、念のため今晩は入院するそうです」
そうか、お大事になーと生徒指導担当の徳田は職員室に入って行った。担任に呼び止められ、養護教諭の小田切に呼び止められ、進路相談担当の松永に呼び止められ……式神でも飛んでいるのか、学校に着いてから久御山を知る教師陣に次々呼び止められ、藤城は少々うんざりしていた。
教室で久御山の荷物と自分の荷物を抱え、藤城は一度その荷物を机の上に置き、椅子に腰をおろした。
「……記憶障害、か」
── いまは考えないようにしよう。胸の奥が重くなり、喉の奥が突っ張るように痛みを起こす。病院に向かってる途中で医師の言った「すぐ」が訪れるかもしれない。ネガティブマインド全開になるのは僕の悪い癖だ、と藤城は荷物を抱えて立ち上がった。大丈夫だ、きっと…
───
「湊、久御山くん大丈夫なの?」
家に帰ると遥が慌てて藤城を出迎えた。
「うん、完全看護だし問題ないよ」
静かに答えた藤城は、そのまま自室へとあがって行った。それならいいんだけど、と遥は階段をのぼる藤城に「ごはんは?」と訊ねたが、頼りない声で「いいや」とこぼすのがいまの藤城には精一杯だった。
── 荷物を取りに学校へ戻り、荷物を抱えて病院に着いたのが17時半。その時点で階段から落ちて四時間半経っていたが、久御山の記憶はまだ戻っていなかった。一時的なもの、とは言うけれど、一時的という言葉も時間を限定したものではない。焦っても仕方ないとわかってはいても、気持ちが逸る。
「あの……」
「何?」
「えっと……オレときみって、どういう関係なの?」
「どういう……同じ学校のクラスメートで友達みたいなもの、かな」
「友達みたいな……友達ではない、ってこと?」
「そうだね、友達、というわけではないかな」
「はあ……」
久御山が困惑するのも当然だった。出逢った当初のように、藤城が女の子以上に可愛かったならまだわからなくもないが、いま目の前にいるのはデカくて愛想のない単なるイケメンである。それが、甲斐がいしく自分の世話を焼くに至った経緯を不思議に思うのは至極当然のことだった。
「ひとつ訊いてもいい?」
「あ、うん」
「憶えてないのは、僕のことだけ?」
「どうだろ……名前とか家の場所とか学校のこととかはわかるけど」
「…そっか」
短い会話を交わしたあと、面会時間が終わる20時まで無言で待った。付き添いは必要ない、と看護師に聞かされていたので、藤城は明日迎えに来ることを伝え、家に帰った。
久御山との会話を思い返し、忘れたはずの絶望的な不安が心の中で楔に変わる。
憶えてないのは……僕のことだけ。
───
「……あの、わざわざごめんね」
「いや……僕は大丈夫だけど…」
次の日、病院に久御山を迎えに行った藤城は、久御山を自宅まで送りそのまま部屋に残った。一週間は経過観察をしてください、という話だったが、それよりも戻らない記憶が気掛かりだった。「一時的」なもので「数分から数時間」で戻るはずの記憶は、階段から落ちて二十四時間以上経ったいまでも失われたままだ。
久御山が荷物を置いて着替え始めたのを見て、家の中のことはちゃんと憶えてるんだな、と藤城は若干複雑な気持ちになったが、それすら忘れているほうが大問題じゃないか、と小さく溜息を吐き、リビングのテーブルの上で参考書と問題集を広げた。
「……受験勉強?」
「ああ、まあ……他にすることもないから」
「冷静なんだな」
「え……なんで」
「友達が記憶喪失って、オレならもっと慌てる気がしたから…」
「……慌てても事態は変わらないから」
藤城も充分慌てて焦って戸惑っていた。
そして、いつもならそれは久御山には伝わっているはずだった。
「……飲む?」
ビールを飲みながら同じものを差し出した久御山を藤城は黙って見上げた。顔色は悪くなく、何より飲んでいるのだから吐き気や目眩もないんだろう、と差し出されたビールを受け取り、プルタブを引いた。見ているだけならいつもと変わらないのにな、と慣れないアルコールを胃に流し込む。
「このまま戻らなかったら、どうなるんだろう」
ソファに腰をおろし、ひとり言のような話し掛けているような、曖昧な口調で久御山が言う。
「……どうもならないよ」
「え、そうなの? なんで?」
「自分の名前すら覚えてなかったら困るけど、そうじゃないから」
「や、きみのこと覚えてないじゃん」
「……支障ないよ」
藤城はビールを一気に飲み干し、空き缶をテーブルの上にコン、と置いて再び問題を解き始めた。
── 映画や小説なら、記憶を失くした主人公に戸惑いながらも、「大切なのは過去じゃなくて未来だ」って展開になって「もう一度出逢って最初から始めよう」とか「もう一度恋ができるなんて素晴らしい」って、手を取り合ってハッピーエンドだ。でも僕と久御山ではそういうわけには行かない。
まず、僕が変わり果てた。
出逢いをやり直せないんだな……藤城は喉の奥が突っ張り痛くなる感覚に目頭を押さえた。
「……どうした?」
「ちょっと目が疲れたかな、って」
「ずーっと勉強してるから……」
「うん、そうかも」
「少し休んだら?」
「うん……そだね」
── いままでだって何度も考えた。そのことで立ち止まりそうになると、必ず久御山に腕を引かれた。なくならない罪悪感はいつだって正義を振りかざし、正しい道を照らし続けた。それでも僕はぎゅっと目をつむったまま、足元のおぼつかない暗い道を、久御山の腕を掴んだまま歩き続けた。
もしかしたら……久御山を自由にする時が来たのかもしれない。
このまま久御山の記憶が戻らなければ……僕だけがその記憶から抜け落ちたままになるなら……
消えよう。
「……大丈夫なのか?」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
「いや全然大丈夫じゃないだろ…」
「なんで?」
「やけにグッタリしてんじゃん……もしかして、飲めなかったとか……?」
「のめるよ、だいじょうぶ」
「とりあえずソファで休んで」
「あつ……」
「ああ、水持って来るから待ってて」
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しグラスに注いでいると、背後で空き缶の跳ねる音が聞こえ振り返った。藤城がもどかしそうに制服を脱ぎ散らかす姿に、久御山は慌ててグラスを運んだ。
「とりあえず水飲んで」
「ん、あつい……シャワーしてくる」
「いやいや、そんなフラフラなのに危ないだろ…」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
鼻歌まじりにフラフラと藤城は浴室へと向かい、久御山は脱ぎ散らかしてある藤城の制服を拾いハンガーに掛けた。
いくらなんでも、どれだけきれい好きでも、たかがシャワーに四十分は長くないか……? 久御山は浴室の外から藤城に声を掛け、返事が返って来ないことに焦って扉を開けた。
「……何やって…」
頭からシャワーを浴びながら微動だにしない藤城の腕を掴み、立ち上がらせようと引っ張るが動く気配がない。久御山は藤城を抱きかかえようと身体に腕を回し、藤城が声もあげずに泣いていることに気付いた。
「……どうした」
「くみやまが」
「うん、立って」
「くみやまが、ぼくをわすれたのは」
「うん、ほら掴まって」
「きっと、くみやまが、つらくないように」
「うん、とりあえず出よ?」
「くみやまが、わらっていられるように」
「うん、わかったから」
「かみさまが、そうしてくれたんだよ……だから」
「掴まれって」
「じょうずに、さよならしようね」
── ぼくは、しぬまで……きっと、だいすきなままだ…
***
あ……ん……あ、あ、あ……あ…っ…
「…っ!?」
「ん…目、覚めた?」
「あ…っ…ちょ…なにし…て」
「いや、ハダカのまま寝ちゃったから…」
「だから…って…久御…や…ま」
「すんなり挿入ったけど、やめちゃう?」
久御山は自分のモノを引き抜くと、僕を仰向けにして身体にまたがり乳首を口唇で挟んだ。アルコールでぼんやりしていた頭が一気に覚醒して腰が仰け反る。え……なんで僕はベッドにいるんだ……あ、あ、あ、あ…あ……久御山の舌の感触に鳥肌が立つ……
裸体のまま寝ちゃったから、ってそんな理由で男を抱くとか……記憶なくても見境ないのか…あ、あ、あ…あ、ちょっと……いままでずっと我慢して回避してたのに…
「久御山…電気、消して…」
「…なんで?」
「いいから…消して…って…」
「せっかくこんないいカラダしてんのに」
だから嫌なんだよ…
柔らかい舌先が突然硬く尖り、いままでと違った感覚が身体を突き抜ける。あ、あ、あ……声……出したくないのに……手で口を押さえても、その隙間から声が漏れる。久御山は僕の硬くなったままのモノを握り、手の中でぬるぬる滑らせながら、口を覆う僕の手を掴み、キスをする。
舌に絡んで来る久御山の舌が、時折吸い上げられる口唇が、何もかもが気持ち良くて身体の芯が震える。口唇で塞がれるだけでは心許ない口元からは案の定、途切れることなく低い喘ぎ声が吐息に混ざって漏れる。甘くて優しい久御山の舌が、僕の淫らな本性を探り当てるように動く。
いま、おまえが握ってるモノは男性器なんだってわかってるのか……?
久御山は自分の指を咥えると、卑猥な水音を立てながら唾液で濡らし、その指を僕の口の中に差し込んだ。
「しっかり濡らしてね」
久御山の指に舌を巻き付け言われた通りに唾液で濡らすと、久御山はその指をそっと口から抜いて後ろの穴にぬるっと挿し込む。優しく内壁を擦られながら、小さく盛り上がる場所をぎゅっと押し込まれると、強い刺激に身体が跳ね上がった。
「ん、あああああ……っ…!」
挿し込まれた久御山の指が僕の一番弱い部分を擦るたびに、身体がビクっと跳ね意に反して声が出る……いやだ……こんな風にされて感じる自分の身体が……
目を閉じて耳を塞いで、何も見ず何も聴かず、何にも気付かないで……
「あああ……あ、あ、あ……ッ…あ……」
久御山はそうっと指を抜いて、僕を抱き締めた。