ACT.9 生命
……
何かが小さく弾けるような音を聞いて、天使は振り返った。
「いま、何か音がしなかった?」
「音? どんな?」
「ええと……何か……小さなものがぶつかったような……」
「いいえ? 聞こえなかったわ」
「……そう? 気のせいかしら」
「ふふ。毎日忙しいものね、この水晶の間は」
「そうね、ちょっと疲れちゃったのかしら」
「今日はもう終わりだから、ゆっくり休むといいわ」
天使たちはそう話しながら、水晶の間の扉を閉め、鍵を掛けた。
おびただしい数の水晶の中のひとつに、小さな亀裂が入ったことに気付くこともなく。
───
ノエルは朝の支度をしながら、時折ふらつく足元を気にしていた。用意した朝食を途中で残し、全身の倦怠感や疲労感をルフェルに打ち明け、「風邪かしら」と笑ってテーブルの上を片付けようと立ち上がる。
「医者に診せたほうがいいよ」
ルフェルは皿を取ろうとするノエルの腕を掴み制止すると、普段の柔和な態度を一変させ厳しく訴えた。
「……どうしたの? ルフェル、風邪なんて誰でもひくものよ?」
「風邪だなんて言い切れないだろう」
ルフェルの脳裏に、三十年前のあの夜の出来事が甦る。赤黒い血で染まった自分の腕。息をする間もないほど咳込む小さなノエル。そのノエルを抱きかかえ走った先で医者に告げられた言葉。
この子はもう、そう長くは生きられないでしょう、と言う医者に、何度も何度も間違いではないのかと確かめたあの夜。
「大丈夫よ、少し休めばよくなるわ」
「駄目だ、後片付けは僕がするから医者に診せて」
「大袈裟ねえ……人間ですもの、疲れることだってあるわよ」
「何もないことがわかるなら、それでいいじゃないか」
生命の樹の実を口にしているとはいえ、元は人間だったノエルには何が起こるかわからない。風邪だろうと何だろうと用心に越したことはないのだ。ちょっとした病気が引き金となりノエルを失うことにでもなったら、と考えただけでルフェルは生きた心地がしなかった。何よりノエルが必要なのだ。ルフェルは頑なに医者に診せることを譲らなかった。
「……わかったわ、だからそんな心配そうな顔しないで」
自分の腕を掴むルフェルの手が、小さく震えていることに気付いたノエルは、白く美しいルフェルの顔がいっそう白く、不安を隠し切れなくなっている様子に少し驚き、それからすべてを察してルフェルの頬にやわらかくキスをした。
「あなたの心配が杞憂に終わることを証明しなくちゃね」
多分風邪だと思うから、とノエルは何度も念を押し、何も言わなければ同行しそうな勢いのルフェルをなだめ、ひとりでその村にあるたったひとつの診療所へと向かった。
───
結晶の器を探している間も、ルフェルはノエルが気掛かりでならなかった。多分ただの風邪なんかじゃない。掴んだノエルの腕から伝わって来たものは、いままでに感じたことのないものだった。あの夜に感じた闇のような気配ではない、もっと違う……大きく変質した何か……
ルフェルの心に大きな不安がのし掛かる。
── そしてその不安は、別の形で的中した。
「ルフェル……ルフェル!」
家に戻ったルフェルが玄関の扉を閉め終わるが早いか、ノエルはルフェルに駆け寄り真っ赤な目をしてその腕に抱き付いた。
「ノエル……どうしたんだい? 医者には診てもらったんだろう?」
ルフェルは気が気ではなかった。ただごとではないノエルの様子に、いますぐ医者の話を訊き出したいという焦りはあったが、自分の動揺が伝わることで更にノエルを追い詰めるかもしれない、と努めて冷静に振舞った。腕にしがみ付くノエルをもう片方の腕で優しく抱き締めると、いままでひとりで耐えて来た緊張の糸がぷつりと切れたように、ノエルは声をあげて泣き出してしまった。
ルフェルは椅子に腰をおろすと向かい合わせにノエルを膝に乗せ、泣きたいだけ泣けばきっと落ち着くだろう、とノエルの背を優しくさすり続けた。
「ルフェル……どうしたらいいか、あなたから教えて」
「うん、じゃあ、話を聞かせてくれるかい?」
「わたし……わたしのお腹の中に……こどもが……」
「……なんだって?」
まったく予想だにしていなかったノエルの言葉に、ルフェルは取り繕う余裕もなくただ訊き返すことしかできなかった。
まさか……そんなことがあるはずがない。
ノエルは結晶の器ではないし、ディオナにそんな報告すらしてもいないのだ。もちろん、そんな報告などできるはずもない。ディオナが祝福した結晶を、ディオナが運命を吹き込んだ結晶を受け取ることもなく子を宿すなんて、この長い地上の歴史において前代未聞だ。
「ノエル、間違いってことはないのかい?」
「あなたは……間違いであって欲しいと望んでいるの?」
ノエルにそう言われ、ルフェルは言葉を詰まらせた。
天使と人間の間に……こどもが……?
そのこどもは……人間なのか? 天使なのか? あるいは……
珍しく煮え切らない態度のルフェルを、ノエルは不思議に思った。常に穏やかで優しくあたたかい、かといって情に流されるようなことのない芯の強さを持ち、いけないことはいけないとはっきり言葉にするルフェルが、思い詰めた顔でうつむき、視線を合わせようとすらしない。
「ルフェル、いま何を考えているのか教えてちょうだい」
「……少し……考えがまとまらなくて……」
「まとめなくてもいいわ。思っていることをそのまま聞かせて」
「いや……その……信じられなくて……」
言葉を濁すルフェルの表情は、いままで見たこともないほどに動揺を隠し切れておらず、明らかに困っているように見えた。あのルフェルが、こんなに頼りなげな姿を晒してしまうほどのことなのだろうか、とノエルは急に悲しみを堪え切れなくなり、ぽつりとつぶやいた。
「……産まれては……いけない子なの?」
ノエルの漏らした悲しい声に、はっとして顔をあげたルフェルは、普通なら誰もが喜びしあわせを噛み締めるはずの報告を無下にしてしまったことに気付き、ノエルの濡れた長いまつげを見て激しく後悔した。そしてノエルの頬を両の手のひらで包みながら優しく訊いた。
「ノエル、もし産まれてくる子が人間や天使じゃなくても、愛せるのかい?」
「……どういうこと?」
「地上では……前例がないんだ。女神の祝福を受けた結晶もなしに、子を宿すという前例がね」
そしてルフェルは続けた。
「もちろん、人間と天使との間で子を宿したという前例もないんだ」
「……愛せるわ」
ノエルは力強く答えた。
「だってルフェル、あなたとわたしの子なのよ? あなたとわたしが愛し合っている証がいま、わたしのお腹の中にいるのよ?」
「……それが人間の形をしていない、異形の物の怪であったとしても?」
「愛するわ」
「……ルフェル、あなたの血を受け継いだ子なのよ……愛する以外にどうしろと言うの?」
ノエルのその言葉にルフェルは目が覚めた。
そうだ、僕たちには失うものなど何もない。美しく愛しい僕のノエルが子を宿した。父親は僕だ。ノエルとの愛が形となって触れることができるようになるのだ。何を迷う必要がある? 何を悩む必要がある?
「一瞬でも悩んだりしてごめんよ、ノエル」
ルフェルはノエルの額に自分の額を合わせ、静かに目を閉じ、この先どんなことが起ころうとも、ノエルとこのお腹の中の小さな命を守って行くのだと誓った。
「ふたりで、愛して行こう」
──
ありったけの文献をかき集め、片っ端から調べてはみるものの、やはり女神の祝福を受けた水晶もなしに、子を成したという前例は見つけられなかった。神と人間との間に生まれた子の話はうんざりするほどあるが、水晶に魂を預けた天使と人間との子に関する話は、ただのひとつもなかった。
「……当然、か」
書斎で読み終わった本を閉じたあと、ルフェルは溜息混じりにつぶやいた。
人間との恋に落ちることは、絶対に赦されない。それは、面倒なことを避けるためではなく、神の創り給うた “人間” という愛すべき生命を、神の創造物であり隷属でもある天使風情が惑わせてはならない、という魂の理の根元だからだ。
僕だって……それを理由に、数え切れない天使たちを裁き、屠って来たじゃないか。
天使と人間とでは、生命の価値が違う ──
ディオナに……ディオナにだけは話してしまおうか……いや、エデンでの身分や立場になど塵ほどの未練もないが、咎人として神に拘束されてしまえば、もう二度と地上に戻ることができなくなる。それだけは絶対に避けなければならない。
父親は、僕だ。
───
ノエルのお腹の中で、小さな命は順調に育って行った。何の問題もなく健やかに、ノエルは毎日を過ごしていた。お腹が大きくなるにつれ、掃除や洗濯の体勢に工夫は必要だったが、さてどうしたものかと考えていると、決まってルフェルが「お腹の子に障るから」と、ノエルの仕事を取り上げた。
「もうルフェルったら、わたしは病人じゃないのよ?」
「手伝いたいんだよ、ノエルと僕の子のために」
「産まれる前から甘いパパで困るわねえ」
ノエルは呆れたように笑いながら、お腹の子に同意を求めるよう話し掛けた。それを聞いていたルフェルは同じように、「放っておくと無茶ばかりするママで困るんだ」とノエルのお腹に話し掛け、再びノエルを笑わせた。
あなたのパパはこんなにも優しくて、誰よりもあなたを愛してるのよ。とても美しい十二枚の翼を持っていて、銀色の髪は陽の光を跳ね返すほどに輝き、エメラルドの瞳は吸い込まれそうなほどの深い愛を湛え、大きな手のひらでいつもわたしを守ってくれるの。わたしはあなたのパパが大好きで、そのパパとの間に産まれるあなたを心から愛してるのよ。
時折胎内で暴れる我が子に「誰に似たのかしら!」と、大きくなったお腹をさすりながら言うノエルに、「きみの小さな頃にそっくりだ」とルフェルは笑いながらお腹に手を当て「少し手加減しておくれ」と穏やかに話し掛ける。
産まれて来るその日を心待ちにするふたり。
それはごくごく当たり前の、人間の夫婦のような時間だった。
───
そして、そろそろ冬の足音が聞こえて来ようかという寒い朝、ノエルが朝食の支度をしている時にそれは訪れた。
突然の痛みにノエルの手から滑り落ちた皿は予想外に大きな音を立てて割れ、書斎で調べものをしていたルフェルは驚き慌ててノエルに駆け寄った。
「どうしたんだ!?」
「お腹の子が……あなたに逢いたがっているようよ」
── いよいよだ。
いよいよ、愛と血を分けた我が子に逢える時が来た。
もし、異形のものが産まれたとしても覚悟はできていた。僕とノエルの血を受け継ぐ愛しいものが増えるだけだ。恐れることも、失うものも、何もない。ただ無事に産まれてくれれば、それだけでいい。
ルフェルはノエルと我が子の無事を、心から祈った。
ベッドの上で呻き声をあげ続けるノエルを、ルフェルはただ見守ることしかできずにいた。いままで幾度となく子を産む女の姿は見て来たはずなのに、それが自分の愛しいものに置き換わるだけで胸が張り裂けそうになる。
「ルフェル……なんて顔してるの」
「だって……」
「まるで最期の祈りを捧げる御使いみたいよ」
ノエルは笑いながらそう言うと、大丈夫よとベッドのわきでひざまずくルフェルの頬を優しくなでた。
本当に大丈夫なのだろうか。もう随分と時間も経つというのにまだ苦しみ続けなくてはならないのか。こんなときに何ひとつできない自分を嫌悪し、ノエルの手を握り締めながら、ルフェルは早く時が訪れてくれることだけをひたすらに祈った。
そして月灯りが部屋を包み始める頃、小さく弱々しくはあるものの、愛しい者を求めるやわらかな産声がふたりの耳に響いた。
「ノエル…」
「……ルフェル……こどもは……」
産まれた子は、どこから見ても “人間の子” にしか見えなかった。
「翼はなさそうだ」
「……それは残念だわ」
ルフェルは慣れない手付きで産まれたばかりの赤子を湯に入れ、小さな小さなからだを優しくなでた。それから清潔なガーゼで赤子を包み、そうっとノエルの胸元に顔が見えるよう寝かせた。
「この子が……ルフェルの血を受け継いだ子なのね……」
ノエルがその小さな手に触れると、赤子はノエルの指をきゅうっと握った。込み上げる愛しさと喜びに、ノエルはこぼれる涙を止められなかった。
「ノエル……ありがとう」
ノエルの頬にキスをしてそれから、小さな小さな我が子の額にキスをするルフェル。
異形のものではなかった……それだけでルフェルの不安は払拭されて行くようだった。ノエルも、こどもも、無事だった。こんなに素晴らしいことが他にあるだろうか、とルフェルの胸は喜びに震えていた。
愛しい宝物が、自分の世界にひとつ増えた。
「名前を考えなくちゃいけないね」
ルフェルはそう言うと、もう一度ノエルの頬にキスをした。
そして次の日、信じられない出来事が起こった。