その51
どうやって帰って来たのかわからないくらい、僕は動揺してたみたいで、出勤する時車を見たら、きれいにバックで停めてあって笑いが込み上げた。余裕じゃないか。憶えてないけど。
やっぱり僕じゃダメなのかな。もう少し上手くリードする男のほうが、彼女は安心するのかな。愛してるはずなのに、遠過ぎてわからないことが増える。彼女にとって…僕は何者なんだろう。
「…楠本さん」「!!」
突然肩を突っつかれて覚醒する。
「役員視察の最中ですよ」「あ…悪い」
本社のお偉いさんの前で居眠りするくらい、僕は疲れてた。
その52
「お疲れですか?」
湊がコンビニのコーヒーをどうぞ、とくれた。
「疲れてるのかな」
「毎晩遅いですもんね」
「うん、それはまあ慣れてるから」
「彼女さん、ですか?」
女って生き物はこういうときなぜこんなにも勘が鋭いんだろう。
「まあね」
「えっと…何かあったんですか?」
うん、あったけど職場で話す内容じゃないよな。
「フラれるかも」
笑いながらサラッと言ったら、思いのほか湊が驚いて、それを見た僕も驚いた。え、そんなに驚く話? 僕はいつだってフラれることも考えてたけど、そんな、寝耳に水みたいな顔されても。
その53
「みんな楠本さんたちに憧れてたんですよ」
「憧れ?」
「彼女さん大切にしてて、理想のカップルだって」
…昨日寸止めされたまま放置された挙句、他の男から電話掛かって来て、居心地悪くて帰って吐いた僕と彼女が理想的?知らないって恐ろしいな。どこまで僕はいい彼氏なんだ。
「理想、低いねえ…」
「そんなことないですよ」
「僕は頼りないのかな…」ひとり言のつもりだった。
「とても頼りになる先輩ですけど」
「…それはありがとう」
「楠本さん、残業後お時間ありますか?」
残業前提で話をするなよ縁起でもない。
その54
真夜中に僕が帰ったことを知ってるのに、連絡がないってことは、まあそういうことなんだろう。僕から連絡し難いこともわかってるはずだよな。LINEひとつ打てないほど忙しいわけじゃあるまいし。
僕は一所懸命、湊とごはんに行く理由を、行って当たり前の理由を並べる。彼女のほうから距離を置いたのだという事実をかき集める。
呪いの言葉どおり残業を終えると、湊がお疲れさまです、と寄って来た。
「もしかして待たせた?」
「大丈夫です。行ってみたかったお店があるんです」
「駐車場ある?」「はい」
罪悪感もない。
その55
こんな夜遅くに随分と小洒落た店が開いてるんだな…職場から彼女の部屋に直行してて、全然知らなかった。
「楠本さん、辛いの大丈夫でした?」
「うん、平気」
ネクタイを緩めると、湊が笑った。
「…何?」
「女子の好きな仕草ナンバーワン」
「ネクタイ?」「はい」
「へえ…キュンと来た?」「はい!」
「安いな」
社内の男はみんなキュンとさせてんのか。
「で、いつフラれるんですか?」
まさかその話をするためにわざわざ?
「呪詛唱えないでいただけます?」
「楠本さんでもフラれる世の中かあ」
「確定かよ」
湊が笑う。