code.04 選ばれし者
ルシを殺すことはできない。仮に殺すことができるとしたら、ルシの認めた半身もしくはルシと契約を交わした守護者のみ。しかし冥界ではそのために甚大な被害を出している……エデンで同じことを起こすのは避けたいが……ここはルシが半身を見付ける前に、わたしが守護者となったほうがいいのだろうか。
それなら早々に魂を切り離し、地上へ降りることも不可能ではない。堕天してしまえばルシは人間となり、アリキーノとして……リミテッドシードとして狙われることもなくなる。しかし片翼として産まれたことに……エデンを終わらせること以外に何か理由がある気がしてならんのだが……
「そういえば、永遠の命の話だが」
「永遠の命を持って産まれたことを誰が判断したのか、か?」
「運命の三女神ですらわからないことを、一体誰が」
「簡単な話よ。おまえは創造物ではないからだ」
「……どういう意味だ」
「おまえは、完全体の両親から産まれたフルブラッドだ」
「……ちょっと待ってくれ、そんな話いままで聞いたことすらないんだが」
「誰も……言わぬだろうからな」
いまはさまざまな理由から、産まれた天使はみな三年以内に魂を切り離し、その魂を水晶に収め管理している。ナーサリーの一族……新生児室で子育てをする者たち以外はほぼ切り離されるだろう。しかし以前は完全体を必要としている機関が他にもあったのだ。
「完全体を必要としている機関?」
「……いま、おまえのいる所だ」
「総合情報局で? むしろ危険な目に遭うことが多いと思うが……」
「機関員はともかく諜報部員は “危険な目に遭う” レベルではなかろう」
「だからこそ、生命の樹の実が使える状態じゃないと……困るんじゃないのか」
「もしかして、捕らわれた場合を想定して特殊器官を残していたということでしょうか」
「そういうことだ。これが、例外の危険任務」
「捕らえられた際に……拷問器官が働くということか」
「働くというか、己で動かすのだ」
まあ……並の神経でできることではあるまいよ。以前はいまと比べ異界との境界が曖昧だったこともあってな。諜報部員の需要も、危険度も高かった。そこで “選ばれし者” を完全体のまま育て特殊訓練ののち諜報部員として秘密情報部に着任させた。おまえの両親はその “選ばれし者” だ。
「その、フルブラッドというのはみな永遠の命を?」
「そうだが……そう多くはない。何せ “選ばれし者” にのみ赦された特権だからな」
「 “選ばれし者” の条件とは、一体何だったのでしょうか」
「これも簡単な話でな、産まれた時に二対三翼、六翼で産まれた者だ」
「基本的に産まれた時は二翼だと聞きますが」
「基本的には、な」
「……例外的に産まれた六翼の天使が “選ばれし者” ?」
運命の三女神が天使を創造する際に決められるのは “寿命” と “性別” のみだ。仮に寿命を三百年としたところで、必ず熾天使となる素質を持って産まれるわけでもない。産まれたばかりの天使はみな下級三隊の天使だが、早い者は二週間ほどで才能を開花し位階が上がる。
その中で産まれた時から六翼を持つ者……つまり産まれた時から熾天使という位階にある者は五百名に一名いるかどうかという確率だ。当然他の天使とは何もかもが異なる。力も、知力も、外見もな。そこで完全体のまま特権階級として育てられ、エージェントとして秘密情報部の仕事に就く代わりに子を遺すことを赦された。
「……いま完全体として残っている者は」
「秘密情報部の者で生き残っている者はおらぬ」
「では、わたし以外のフルブラッドというのは」
「……エデンにいるのはおまえだけだ」
「エデン以外にいるということか」
「地上にふたり、天空の北部にある森にひとり」
「……生きているのか」
「ああ、しかしエデンの管轄からは離れておるのでな」
「どういうことだ」
地上のふたりは堕天して人間になった。通常であれば人間になると寿命は短くなるが、フルブラッドゆえほぼ不老不死に近いだろう。北部の森にいる者は、水晶を持ってエデンの中枢から出て行ったのでな……魂の浄化など、エデンの領域からは手を切っておるのだ。わたしたちも干渉しないという取り決めの下、一切の詮索も口出しもしない。
「……なぜ、堕天を許したんだ」
「おまえの両親の話を誰もしたがらないのと同じ理由だ」
「誰も話したがらないほどの出来事が?」
フィオナは長い溜息を吐くと、ルフェルの腕の中で眠るルシを確かめ、それからルフェルの瞳を真っ直ぐに見ながら、「まさかおまえに話す日が来るとはな」と少し困ったように笑った。
おまえの母親……ルチアはとても美しく聡明で、腕の立つエージェントだった。彼女にできないことなどないと言わしめたほど、周囲の信頼も篤かった。バディだったステファノとは公私に渡り深い絆で結ばれ、ルチアとステファノはエキスパート班のスペシャリストとしてどんな任務もこなしてくれた。
その日……ルチアは最後の任務のためにフィンドに赴いていたのだが、運悪く仲間のひとりが捕まってしまってな。通常であれば捕虜の救出はよほどの余裕がない限り行わないはずだが、どうしてもとステファノが引き返した。当然ステファノは仲間を連れて戻って来るはずだった。しかし……ステファノは戻らなかった。
ルチアもまた……ステファノと仲間が戻らないことが気掛かりで引き返した。そこでルチアが目にしたものは、裏切った仲間と ── ステファノの変わり果てた姿だった。ルチアは慌てて残りの仲間を逃がし、魔族の手に落ちた。本来であればここで特殊器官を……拷問器官を動かすはずなのだが、ルチアにはそれができない理由があった。
ルチアはエデンに戻って来た。一番最初に見付けたのはわたしだった。エスキュラとメイディアとアナシアと……医術、秘術、治癒、と呼べる者はすべて呼んだがルチアを救うことは……できなかった。手足の爪をすべて剥がれ、歯を折られ、両目を刳り貫かれたルチアは……臓腑と一緒に引きずり出された小さな天使を抱いて……ここまで戻って来たのだ。
ルチアは小さな子を……おまえをわたしたちに託し、力尽きた。何もなければその日でエージェントを辞め、オフィサーに転向するはずだったのだ。そうすれば母親として穏やかな暮らしを送ることができた。ルチアの最後の任務で脱落者を出したくなかったステファノの優しさが……結果、徒となったのだが。
「…………裏切った仲間、とは」
「始末した」
「エキスパート班のスペシャリストを謀った相手をか!? 始末できる者がいたなら、なぜ!」
「始末したのはプロフェッサー……おまえの父親だ」
「……ステファノが……父親じゃないのか……?」
ここまで動揺する大天使長を見たことがない、とアヴリルはルフェルの腕からルシを抱き上げた。目を開けたルシはルフェルの姿を追ったあと、アヴリルの顔を見て再び寝息を立てた。
ステファノは……子を望めない身体だった。しかし美しく聡明なルチアの血を残したいという強い意志を持っていた。天使が子を遺すことは選ばれし者にのみ与えられた特権だ。相手が誰でもよいわけではないうえに、ルチアの想いもある。当然ルチアは受け入れられないと拒んだが……ステファノは譲らなかった。
いつ命を絶つことになるか、明日をも知れない我が身を思うとステファノには他に手段がなかった。ルチアを守るためにも子を成して安全な場所にルチアを留めておきたい。そこでステファノはル・ルシュに……おまえの父親にすべてを打ち明けた。秘密情報部のプロフェッサーであり大天使長であるル・ルシュなら申し分ないと思ったのだろうな。
確かにル・ルシュは非の打ち所のない熾天使だった。力も、知性も、品位も、見た目も、誰が見ても完璧だった。しかし……ただひとつだけ、ル・ルシュにはステファノの願いを受け入れられない事情があったのだ。
「……血縁関係でもないだろうに、そこまで知ったうえで拒む理由があるのか?」
「ル・ルシュは……ルチアに想いを寄せていた」
誰にも気付かれることのない、密やかな想いだった。ステファノがそうであるように、ル・ルシュもまたいつ命を絶つことになるかわからぬ身だ。ルチアとの間に子を成して、もしル・ルシュが死ぬことになれば……ステファノに背負わせるものが大き過ぎる。想いを秘めたままでいるなら、何も遺さないほうがいいとル・ルシュが思うのは妥当だろう。
ところがステファノに懇願され続けたルチアがそれを承諾したのだ。そうなるとさすがにル・ルシュも断りづらい。一寸の気の迷いが死につながる任務に就いているエージェントを、そんな不安定な状態で置いておくわけにもいくまい。ル・ルシュも相当悩んでいたが……ある日わたしの執務室に来て、すっかり打ち明けたあとでひとつ願い出たことがあってな。
ステファノとルチアの話を引き受ける代わりに、堕天させて欲しい、と。
死んで忘れ形見を遺すような結果にだけはしたくない、と……ル・ルシュなりのけじめのようなものだったのだろうが、大天使長という立場の跡目をすぐ用意できるわけがない。そこで、願い出たことは受理するが時を待て、と留め置いたのだ。それからほどなくしてルチアは懐妊し……そして最後の任務へと向かった。
エデンに戻ったルチアを……そのルチアが抱く小さな天使を見たル・ルシュは、黙って姿を消した。どこに行ったかは訊くまでもなかったが、単身で乗り込む場所ではない。情報部の者も追いかける準備をし、とうとうセスまで動き出そうとしたその時……姿を消した三日後に、ル・ルシュは帰って来た。
片手に、元は諜報部員だったであろうと推測するのも困難な肉塊を引きずってな。
顔に傷を負っただけで帰って来られたことは奇跡に近かった。しかしル・ルシュは……もう二度と笑うこともなくなった。そしてル・ルシュが仇を討って帰って来てから五日ほどで、堕天したいと願い出た。もう引き止めることすらできなかったわたしに、ル・ルシュは言った。
「ルチアの子を……返してください」
「あれは確かにおまえの子だが……どうするつもりだ」
「地上で……ひとの子として僕が育てます」
「……わたしが赦しても他の神々が赦すはずがない」
「赦しを請うているわけではありません」
「無茶だ、十二翼の “奇跡の仔” を神々が手放すとでも思うのか」
「ならば奪ってでも連れて行くまでだ」
「おまえの堕天は認めよう、だが幼子を連れて行くことはあきらめろ」
「……ここで……エデンで飼い殺すつもりか!」
「そういう宿命を背負って産まれたのだ、おまえにわからぬはずがなかろう」
「宿命!? 僕がいままで一体どれだけの犠牲を払い、どれだけの命を見送ったことか! 宿命だと言えば聞こえはいいが、させていることは奴隷と同じだ! あの子に同じ思いをさせるつもりか!」
「ル・ルシュ……言いたいことはよくわかるが……」
「わかると言うならあの子を返せ!」
「動かせない現実も……あるのだ」
「……だったらいますぐルチアを返せ……あの子を抱く日を…指折り数えていたルチアとステファノを…!」
「……すまぬ……何も……」
「何が忠義だ……命ひとつ救うことすらできなくて何が神だ! 誓った忠誠は何のためだ! 奪われるためだけに産まれたわけじゃない! ルチアを返せ! それができないならあの子を連れて来い! こんな所に置いておくなんてできない……天空にあってもここは奈落と変わらない……!」
わたしは小さな天使を……まだ産まれるには早過ぎた小さな天使を、ル・ルシュに渡した。ル・ルシュは手のひらに乗るほどに小さな天使を、指先でそっとなで……「すまない」と言って泣いた。ル・ルシュが謝ることなど何ひとつなかったが、フルブラッドとして産まれた我が子の宿命を嘆いたのだろうな。
それから三日ほど、ル・ルシュは運命の三女神と一緒に新生児室にこもっていた。育て方を教わっているのかと思っていたが……ル・ルシュは一通の手紙を残し、エデンを去った。
手紙は、ルチアの書いたメモにル・ルシュが加筆したものだった。
産まれて来る我が子の名前を考えルチアが残したメモには “lūx” と書かれていた。ラテン語で “光” を意味する言葉だ。ルチアは産まれて来る子に、LuciaとLe Lucheの子Lucifel…… “光をもたらす者” と名付けたが、ル・ルシュは縁起が悪い、と共通していた一文字に打ち消し線を引いた。
Lufelがしあわせになりますように、と締め括られていた手紙は……まあ、わたしの部屋に来れば実物を渡そう。片翼に荒らされた部屋から見付けるのは一苦労だろうがな。
「やけにあっさりと手放した印象がありますが、彼に何があったのでしょうか」
「わからぬが……気になるなら三女神に訊いてみるといい」
「……ル・ルシュ自身も宿命を背負っていた、ということか」
「ル・ルシュもフルブラッドとして産まれた生得の熾天使だ」
「では、いま地上にいるフルブラッドのふたりとは……」
「ひとりはル・ルシュだ」
「ル・ルシュは諜報部にいながら魂を切り離していたのか?」
「フルブラッドとして産まれて来たのだ、産まれたその日に切り離される」
「ちょっと待ってくれ、魂を切り離しているのに……なぜ子を成せるんだ」
「ああ、フルブラッドと創造物ではまったく身体の造りが異なるのでな」
「……いま、わたしの中に特殊器官が?」
「あるにはあるが、そもそも廉直器官も拷問器官も創造物にしかない器官だ。説明しただろう?アダムとエヴァが身に付けた知識を、天使が持たぬようにと付けられた器官だと」
「魂を切り離されても、フルブラッドは完全体に近いということか…」
「気になるなら逢いに行きますか、大天使長」
「……何のためにだ」
「ルシの守護者になってくれるかもしれませんよ」
「……守護者は人間でも構わんのか」
「構わぬが……それならば魂を切り離し、堕天させたほうが早いだろう」
「地上で頼れる宛てがあるなら、堕天しても大丈夫でしょう」
「魂を切り離したあとで、ル・ルシュが頼れないとなったらどうする」
「では切り離す前に、一度逢いに行きましょう」
切り離すとしたら猶予はあと一日しかない。三年なのか、三歳なのかわからないのでは、不安要素の少ないほうを選ぶしかないんだが……いくら何でもフィオナから話を聞いたばかりで、いきなり “父親” に逢いに行くのはさすがにわたしでも気後れする。アヴリルは他人事だろうが、わたしにとっては割と重大なことのような……
「フィオナさまの仰る場所だと、この辺りですが」
「……この森の中を散策しろとでも?」
ルフェルとアヴリルはルシを連れて地上に降りた。中心街から離れ住宅地を越えたその場所は、見渡す限りの平原と森の入口しか見付けることができない。溜息とともに森の中に踏み込むと、さほど歩くことなく一軒の大きな平屋があった。その庭と思しき場所で、人影が動いている。ルフェルとアヴリルは垣根の隙間から庭を窺った。
「優しそうな大天使長、といった感じですね」
「堕天して人間になっても……まったく歳を取らんのか……」
「フルブラッドは不老不死だと、フィオナさまが仰っていたような」
「それにしても二百五十年以上経っているはずなのに、一切の老いすらないとは」
「見た感じだと二十歳そこそこですね」
「覗きが趣味なんですか?」
ルフェルとアヴリルが顔を上げると、目の前で “優しそうな大天使長” が不思議そうな面持ちでふたりを眺めていた。
「失礼しました、ル・ルシュさんですか?」
「……何か御用ですか」
「少しお話を伺いたくてまいりました」
「……どうぞ、玄関開いてますので」
大天使長より少し大きいな、と思いながらアヴリルはル・ルシュの後ろを着いて行った。普段空気を読むことも、他人を慮ることもなく、自分が周りにどう評価されているかなど気にも留めないルフェルだったが、この時ばかりは慎重にならざるを得なかった。何しろ相手は……複雑な事情から堕天して人間になった実の父親なのだ。
「お目に掛かれて光栄です。防衛総局に勤めております、アヴリルと申します」
「防衛総局……僕、何かしましたっけ」
「いえ、この子はルシ。産まれて二日目の……アリキーノです」
「僕には二歳くらいの子に見えますが」
「はい、こちらは現大天使長の……ルフェルです」
「……十二枚の……翼」
「ええ、総合情報局の秘密情報部で総指揮を」
ルフェルは何が起こったのかわからず、ただ硬直していた。アヴリルは咄嗟のことに驚きホルスターから針を抜き構えた……が、右手で頭を、左手で背中を抱えルフェルを抱き締めるル・ルシュの姿を見て、そっと針をしまった。大天使長が身動きひとつ取れない状況とは珍しいな、とアヴリルはその様子をしげしげと眺めた。
「……申し訳ないんだが、あまり積極的過ぎるのも困る」
「思ったより声低いんだね、身長もこんなに伸びてすっかりおとなじゃないか」
「……貴殿が天空を去ってから、二百五十年は経っているんだが」
「ああ、もうそんなに経つのか……大きくなるはずだよなあ……」
「放してもらえると……助かるんだが」
「あの時は手のひらに乗るくらいだったのに……」
「密着していなくとも話はできるのではないだろうか」
「きみ……ちょっと硬過ぎない? 仮にも僕はきみのち」
「わかった、わかったから放してくれ」
アヴリルとルシは、大天使長にも歯が立たないものがあるのか、とふたりの様子を興味深く観察していた。「大天使長、照れてるんでしょうか」とアヴリルが小声で訊くと、ルシは笑顔で頷いた。ルシが言葉を理解し始めていることに気付いたアヴリルは、あまり時間がないことを痛感する。
ル・ルシュは抱き締めていた腕を緩めると、ルフェルの肩に手を置き顔を覗き込んだ。ルフェルは極限まで顔を背けるが、若干背の高いル・ルシュはあっさりとその顔を捉えてしまう。
「瞳は……ルチアにそっくりなんだな……宝石みたいだ」
「……訊きたいことがあってここに来たんだが」
「でもやっぱり男の子だなあ、全体的に僕に似て残念極まりない」
「男の子……」
「髪の色、自前? うわ、近くで見るとまつげ長いなあ……肌も白いね、母親譲りなのかな」
アヴリルは「鏡を見ながら褒めているようなものだな」と思っていたが、ルシが部屋の中を歩き回るためゆっくり観察もしていられなくなった。ルシは通された部屋のキャビネットの前で立ち止まり、その中を覗き込んだまま動かない。何を見ているのだろう、とアヴリルは一緒にキャビネットを覗き込んだ。
……これは
「訊きたいことがあって ここに来たんだが 少々時間をもらっても?」
「いいけど……その他人行儀な硬い態度、なんとかならない?」
「……と言われても、わたしは貴殿の存在をつい先ほど知ったばかりなんだが」
「ろくな話じゃなかっただろ……それなのによく逢いに来たね」
「ろくでもない話かどうかは、いま特に問題ではない」
「そうか、それなら話を本筋に戻そう。その硬い態度、なんとかならない?」
「態度がどうであれ、貴殿の話す内容に差があるとは思えんが」
「訊きたいことがあるって言ったよね? 何かを頼むならそれなりの礼儀ってものがある」
「……わたしにも我慢の限界というものがあるんだが」
「僕に敵うと思うなら……剣でも拳でも、掛かってくればいい」
キャビネットの中も気になるが、どう考えてもル・ルシュとルフェルのやり取りの行方のほうが気になるアヴリルは、黙ってふたりを見守っていた。元大天使長の実力はいかほどだろう……いくら父親でフルブラッドとはいえ、大天使長は現役だから……
「喧嘩を売りに来たわけでもない」
「そうだな、じゃあこうしよう。きみの持ち時間は五秒」
「五秒?」
「その間、僕に触ることができたらきみの言う通りにしよう」
「ほう……貴殿の持ち時間は?」
「三秒だ」
「アヴリル」
ここまであからさまに見くびられるのも初めてだが……現役を退いて二百五十年……どれだけ自信があるというんだ。体格はほぼ変わらない。リーチの長さは同じくらいだろう。剣を召喚する時間も入れて……三秒あれば仕留められるが……いや、召喚する時間が惜しいな。
「差し出がましいようですが、ル・ルシュさんは大天使長の力をご存じでしょうか」
「知る機会もなかったからね、未知数だ」
「仮に怪我をした場合、どうすれば?」
「それは、僕が怪我をした場合?」
「ええ、そのつもりで訊きましたが」
「逆の場合は、考えてる?」
「大天使長が怪我をした場合、ですか?」
たいした自信だな、とアヴリルは少々驚いた。当然ルフェルもたいした自信だな、と少々苛立っている。
ではカウントしますね、とアヴリルが言い、始まりの合図として指を鳴らした。
── どういうことだ
指を鳴らし終わったと同時に、ルフェルの左頬から一筋の血が流れ、アヴリルはル・ルシュの手元を見た。武器は……ない。一体何がどうなって大天使長が流血する事態に……?
「五秒経ったみたいだけど」
「なぜ、大天使長から血が流れるのでしょうか」
「理屈としては召喚武器と同じようなものかな」
「武器は持っておられなかったと思いますが」
「うん、持ってない。だからそこまで深い傷は付いてないよ」
「身体が武器になる、ということでしょうか」
「身体がってわけじゃないけど、似たようなものかな」
二百五十年鈍ってる動きなんかじゃない……避けるだけで精一杯だった……まともにもらってたらこの程度の傷じゃ済まなかったが、人間になってもここまで力を残しておけるものなのか?
「……それで? どうすればいいんだ?」
「まずは傷の手当てをしようか」
ル・ルシュはルフェルの頬を見ながら、まずまずだなあとつぶやいた。
「まずまず、とは?」
「いまの勝負、僕が勝ったと思うけど」
「……まずまずって?」
「予定ではもう少し傷は浅かったんだ」
「それは、僕の避け方が足りなかったってことかい?」
「そうだね、あと〇.二秒ほど反応が早かったら無傷だった」
「……精一杯避けたつもりなんだけどな」
「まあ、きみじゃなければもっと深く入ったと思うけどね」
「堕天して人間になっても、それだけの力が?」
「……堕天、してませんよねル・ルシュさん」
「……どういうことだ?」
アヴリルは、ルシが覗き込んだまま動かないキャビネットを指差した。ルフェルはキャビネットの前まで行くと、しゃがんで中を覗き込む。これって……
「エデンまでご同行願おうか」
「せっかく少し砕けたのにまた元通り?」
「……相談したいことがあるんだ。でも話はフィオナから直接聞いたほうが早いから」
「なるほど、アリキーノの件ね」
「ちなみに、冥界に片翼が現れた時は?」
「当然駆り出されたよ。僕はフィンド担当だったけどね」
「あ……ちなみに、何て呼べばいい?」
「そりゃあパ」 「行こうか、ル・ルシュ」
「父を呼び捨てなのか……」
アヴリルはルシを抱き上げ、「なかなか興味深い親子ですね」と言うと、ルシは「ん」と笑顔で答えた。さて、堕天したはずの元大天使長と大天使長がふたりでエデンに、となると賑やかになりそうだな、とアヴリルは溜息を吐いた。