Frailty, thy name is The “Lufel”!
scene.3 女神の戯れ
「……シッ!」
ミシャが突然立ち止まって振り返り、くちびるの前でひと差し指を立てた。何があるのか気になりミシャの肩越しに覗き見ると、ああ、これは確かに「……シッ!」だわね、とフィールはおとなしく従った。ふたりの視線の先にはこちらに背を向け誰かと話をしているルフェルがいる。物陰に隠れつつ話の内容に耳をそばだてるが、そもそも普段からルフェルの声は控え目であり、いまのこのシチュエーションを考えるに話を聞き取るのは無理だろうとふたりは思った。
───
エデンの中枢である “神々の塔” の周りには居住区があり、上級三隊、中級三隊、下級三隊とに分かれた建物内に天使たちは自室を構えている。その宿舎にはそれぞれに独自の規則があり、中級三隊と下級三隊は階級ごとにフロアが分かれているが、ここ上級三隊の宿舎にはそれがない。中級と下級に倣えば、上階に行くほど階級の高い天使の自室があり、当然最上階にルフェルの部屋があるはずだが、職務以外に労力を割きたくない彼の自室は平凡にも二階にあった。
できれば最上階のワンフロアを彼専用にし、よほどの用事がない限りは近付かなくてもいいようにして欲しいと、彼以外の天使はみな思っているが、誰ひとりとしてそれを口に出すことはできず、口に出せないことを咎める者もいなかった。地上の棲み家に帰って欲しいという満場一致の切実な希望も、エデンでの仕事が積み重なっている以上あきらめる他なく、二階を通るときは誰もが足音も羽音も鳴らさないよう細心の注意を払っていた。
そしていま、ルフェルがいるのは一階の通用口であり、さらに言えばそこは通称「密会口」と呼ばれ、中級と下級の天使が上級の天使に逢うために利用する、言うなれば「逢瀬専用口」なのだ。正面の入口から入るほうが階段も近いことから考えるに、労力を惜しんで通用口を利用したわけではないことは明らかだった。
「……度胸あるわね……あの大天使長さまを呼び出すなんて……」
「度胸はともかく、誰よ、あんな職務以外に興味のない鈍くて面倒くさがりな男に逢いに来る物好きは」
「あなただけよ……そこまで悪し様に大天使長さまを罵れるのは……」
「それにしてもよくルフェルが出て来たわね……私情なら絶対追い返しそうなものなのに」
「まあ確かに上級天使でも追い払う勢いではあるわね……」
声を潜めながら、なんとか話が聞こえないものかと様子を窺うふたりの耳に、バシッ……と鋭く重い音が鳴り響いた。
……平手打ち!?
慌てて物陰から確認すると、いま正に平手打ちを喰らったルフェルと、立ち去って行く……美の女神フローディアの後ろ姿が見えた。ミシャとフィールは何食わぬ顔で、いま、入口から入って来たばかりです、という風を装いながら、密会口から戻って来るルフェルと合流した。
「あらルフェル、なんで通用口から?」
「お疲れさまでございます」
「…………」
ルフェルはふたりを一瞥すると、無言で自室へと向かった。
「……あれは……追い返せないでしょうね」
「ルフェルが手をあげたのだとばかり思ったから意外だったわ」
「いくら大天使長さまとはいえ、私情で手をあげたりはしないわよ……」
「まあそうね、ルフェルなら剣を召喚するはずだわ」
「……あなたの中で大天使長さまは一体どういうお人柄なのよ」
「職務以外に興味のない、鈍くて、面倒くさがりで、気が短く、説教の長い、外側だけは抜群に恵まれた権力者でしょう?」
「……わたしはまだ命が惜しいから、回答は差し控えさせてもらうわ」
───
「で、フローディアさまと何があったの?」
この鈍い男に遠回しな訊き方をしても伝わるわけがないと思っているミシャは、まだ左頬の赤みすら引いていないルフェルに、興味津々な顔付きを隠すことなく事の顛末を訊ねた。そしてこの好奇心旺盛でひとの都合などお構いなしに、自分の欲求を満たすことを最優先させる幼馴染みにルフェルは心底うんざりしていた。
「……何もないよ」
「何もないのに、女神さまが、わざわざ天使の部屋を、訪ねたりするわけ?」
「フローディアに訊きに行けばどうだい?」
「何もないのに、女神さまが、大天使長の横っ面を、張り倒すわけ?」
「……見てたのか」
「見てたも何も、真っ赤よ? 左の頬……」
「まいったな……」
「一体何をどうすればそこまで女神さまの怒りを買えるわけ?」
「……ミシャ、僕にもプライバシーというものがあるんじゃないかな」
「まあ……そうね、じゃあひとつだけ教えて?」
「……何だい?」
「フローディアさまに、何を言ったの?」
「僕にもプライバシーというものが」
「ないわ」
「頼むからもう寝かせてくれないか……」
確かに夜は遅いうえ、ルフェルが激務に疲れていることはよくわかっていたので、ミシャはおとなしくルフェルの部屋をあとにした。まあ、明日どんな顔で執務室に現れるのかを想像すると、楽しくもあり、憐れでもあった。あの頬、いくら水晶が浄化されてるとはいえ明日までに治まるとは思えないのよねえと、ミシャは足取りも軽く自室へと帰った。
───
……まあ……考えなかったわけではないが、まさか今夜だとも思ってはいなかった。些か言葉が過ぎるかと思ってはいたので、平手打ちは想定の範囲内だった。が……少々ひんしゅくを買ってでも、はっきり断らないと引き下がってもらえないと思ったから平手打ちまでもらったというのに……まったく無意味だったんじゃないのか?さっきのいま、なんだが……
「……フローディア」
「なあに?」
「実力行使か?」
「人聞きの悪いこと言わないでちょうだい」
「……では、なぜいまここにいるのか理由を訊きたいのだが」
「あなたの言ったことが本当かどうか確かめようと思って」
待て! 待ってくれ!
「それは……今夜でなければならないことか」
「そういうわけではないのだけど」
「では今夜は外してもらえないだろうか」
「い・や・よ」
「明日も早いから休みたいんだが」
「寝ててもいいわよ?」
寝られるか!!
「ねえルフェル、わたしにだって愛と美の女神だというプライドがあるのよ」
「プライドがあるのなら、こういう真似はやめてもらおうか」
「あなた本当に動じないのねえ……憎いわあ……」
「そうとわかったなら外してくれ」
「……いやよ。こうなったら、からだに直接訊くことにする」
実力行使じゃないか!!
動じないわけではない。わけではないが眠りたい。明日も朝から審理の立ち合いに書類の確認に予定の調整に庭園の確認に、すなわち休む暇がない。だから無駄な体力は使いたくないし夜はゆっくり眠りたい。シーツ一枚隔てただけの限りなく低い防御力に、この世で一番美しいと言われる美の女神が裸体で自分の上に跨っているという圧倒的な攻撃力。どうすれば回避できるのか、どうすれば事を荒立てずに済むのか、どうすれば出て行ってくれるのか、眠くて頭が回らなくて思い付かなくて焦ってはいる。
権力の上下は似たようなものだが、相手がおとなしく帰ってくれる “あれ以上の言葉” が浮かばない。かといって女神相手に剣を振るうわけにも行くまい。もうこのまま抱えて部屋の外に放り出してしまおうか……その場合何の罪に問われるんだ……女神を侮辱し、恥辱を与え屈辱を覚えさせ羞恥を晒させる……辱めのオンパレードじゃないか……駄目だ、眠い。眠らせてくれ……
───
部屋のドアが開くと同時にルフェルは飛び起きた。
「ルフェルー? 大丈夫なのー? もうとっくにみんな集まってるけど」
普段なら絶対に遅刻などするはずのないルフェルが、時間になっても執務室に現れないことを不思議に思った天使たちは、とりあえず何があっても大丈夫なようにとミシャを部屋へ向かわせた。ドアを開けたミシャは「大変失礼いたしました」と優雅にお辞儀をすると、そのドアをそっと閉めた。
……大ニュースじゃない。
「……最悪だ」
大慌てで身支度を整え部屋を出ようとしたルフェルの腕を掴み、
「嘘吐き」
と、この世で一番美しい微笑みを浮かべフローディアが囁いた。
こっちも最悪だ……
───
誰も何も言わないが、だからといって何も思っていないわけではない。大天使長が遅刻して来ること自体はあり得ない話だが、当の大天使長は朝から一言も発することなく、部屋を出たり入ったりしながら黙々と職務にあたっている。その光景は特に珍しくもなく、むしろ見慣れたいつものものだ。しかし、部屋を同じくして職務にあたる天使たちは全員同じことを思っていた。
あの左の頬と、飛び跳ねた寝ぐせは……一体何があったんだろう……
───
「……え、それ本当なの?」
「思い切りドアを開けちゃったからかえってこっちが慌てたわよ」
「なるほど……それで大天使長さまは遅刻を……」
「まあ……フローディアさまに目を付けられたなら、しばらくは続くんじゃないかしら」
「やはりフローディアさまほどのお美しい方がお相手だと、大天使長さまでさえ抗えないのねえ」
「抜群に恵まれた外側が役に立つ数少ない機会だもの、逃したくはないんじゃない?」
「なんて身も蓋もない言い方するのよ」
「それ以外にあの抜群に恵まれた外側をどう使うのよ」
「お人柄を気に入られたのかもしれないじゃない」
「ないわ」
───
遅刻をしたのはその日だけだったが、それから三日ほど経った今日、大天使長であるそのひとは明らかに疲れ切っていた。虚ろな目で書類に目を通し、立ち上がれば足元がふらつくありさまだ。これはいけない、と誰もが思った。もちろん体調の心配などではない。
「……この資料を作ったのは」
……始まった、と全員あきらめた。
「わたくし……です……」
「読めん」
「申し訳ございません、すぐに作成し直してまいります」
「昼までだ」
そう言うと、ドサッと机に大量の資料を乗せる。この大量の資料を昼までに……誰もが戦慄し、手の空いた者はただちにその資料の再作成を手伝った。大天使長さまが昼までと言えば、それは昼までに仕上がっていなければならない。それから書庫の本の並び方がわかり難いと言い出し、その中から数冊を手に取り表紙や背表紙の状態がよくないものすべての補修を言い付ける。
疲れ切り自身の状態が悪くなると、その状態での最良を求め出す。かすんだ目で見ても文字が読めなければならないし、ふらついて邪魔になるようなものが足元にあってはならない。ルフェルがこの状態になると最早手が付けられないことを、関わる誰もが知っていた。ミシャでさえこうなったルフェルには逆らえず、ひたすら書庫の本を並べ替える。
司法職の方々は大変ねえと、殺気立つひとつの部屋を横目にフィールは自室に戻った。大天使長さまのことは尊敬しているけれど、死と隣り合わせの職務には就きたくない。この調子で結晶の管理部や経理部も薙ぎ払われて行くのね……どちらにも携わっていなくてよかった……とフィールは心の底から安堵した。
───
そろそろ寝ようかしら、とフィールがベッドに入ったとほぼ同時に、入口のドアが勢いよく音を立てて開き、何が起こったのかと驚いたフィールは飛び起きて入口に目をやった。
「……匿ってくれ」
「……はい?」
「ひと晩だけでいい……」
そう言ってルフェルは部屋に入ると、歩きながら器用に服を脱ぎ散らかしベッドに潜り込んだ。なるほど、この前もこうして脱がれたから裸体だったのねとフィールは納得し、いや、違う、と思い直した。大天使長さまをお泊めするのは別に構わないのだけれど、この前とは明らかに状況が異なる。前回は “朝、気が付くと隣に類稀なる美形が裸体で寝ていた” で、今回は “全裸の類稀なる美形が寝ているベッドが目の前にある状態” だ。
さすがにそこに入って一緒に眠る勇気はない。どんな粗相をするかもわからないうえに、いまの大天使長さまの状態であれば何が粗相で何が粗相じゃないかの判別すら難し過ぎる。このまま放置してミシャの部屋にでも泊めてもらおうかしら……大天使長さまの理不尽にミシャも疲れ切っているだろうけど、まだそのほうが生存率が高い気がする。
そう思っていると、ルフェルが何かを思い出したように上体を起こし、フィールの腕を掴んでそのままベッドに引きずり込んだ。
「何もしないから」と言うと、ルフェルはフィールを抱え込んであっという間に眠りに落ちた。ま、まあ……フローディアさまのお相手をなさっていたのなら、さぞかしお疲れでしょうし何もする気など起こらないでしょうけど……むしろ大天使長さまがここまでお疲れになるほど激しいのかしら……いけない、あらぬ妄想が膨らんでしまう……
今朝も当然いつもと同じ時間に目覚めたフィールは、自分を抱えたまま眠っているルフェルを見て一瞬心臓が止まった。あ、そうそう、昨日は大天使長さまがいらっしゃって眠られたんだったわ……この体勢から類推するに、寝相が悪くて大天使長さまを蹴飛ばしたような形跡もないし、何より泥のように眠っておられたから多少の粗相があったとしても気付いておられないはず。
目を覚ましたルフェルは自分の抱えているものがフィールだとわかるまでしばらくぼんやりしていた。それからそうっとフィールを解放すると、両腕を伸ばしながら「久しぶりに寝た気がする」と安心し切った声で言った。ということは毎晩寝ずに……? ここ数日間……!? わたしが妄想していたよりずっと激しいじゃないの……
「……ごめんよ、ちゃんと眠れたかい?」
「はい、おはようございます大天使長さま」
「はあ……でも助かったよ……」
「あの……フローディアさまを無下にされて大丈夫なのでしょうか」
「……その話、どうして知ってるんだい?」
「ああ、大天使長さまが遅刻なさったとかで、速報が飛び交ってましたよ?」
「……ということは?」
「むしろ知らない者などいないのではないでしょうか」
「……最悪だ」
───
朝から執務室で職務にあたるルフェルを見てその全員が安堵した。整った銀髪にくまのない美しく白い顔。優雅な立ち居振る舞いと隙のない身のこなしに誰もが心の安寧を覚えた。結晶の間で、水晶の間で、裁きの間で、大広間で、庭園で、ここエデンでルフェルの姿を確認した者はみな同じように安堵し、そして同じように思った。
── 解放されたのだな、と。
しかし、ただひとりだけ困惑する者がいた。珍しく帰りが遅くなり今日は忙しい一日だったと思いながら自室のドアを開け灯りをつけると、床には脱ぎ散らかされた服が点在し、朝整えたはずのベッドがなぜか盛り上がっている。おかしい、確か昨日の夜はひと晩だけでいいと仰っていた気がするのだけど……
その日から一週間ほど、それは毎日続いた。職務に携わる者はいつもの有能な大天使長と適度な緊張感の中、普段通りに職務にあたることができることに感謝し、フィールだけは毎晩当たり前のように自分の部屋に眠りに来る大天使長に困惑し続けた。しかし今夜は静かだった。あ、本格的に解放されたのねと、フィールにもまた心の安寧が戻って来た。
───
「……フローディア」
「なあに?」
「いつまで付き合わせるつもりなんだ……」
「だあって、ここ一週間ほど夫の目が厳しくて抜け出せなかったんだもの」
……なんだって!?
ではこの一週間フィールの部屋に身を隠していたのはまったく意味がなかったということか……
疲労と眠気に襲われる中、シーツ一枚隔てただけのないに等しい防御力の前に、この世で一番美しいと言われる美の女神が一週間体力を温存し裸体で自分の上に跨っているという桁違いの攻撃力。
───
次の日、エデンの居住区にある上級三隊の天使の宿舎に新たな規則ができた。
下記内容を確認し本日中に完了せよ。
一、 下層を座天使の居住区とする
一、 中層を智天使の居住区とする
一、 上層を熾天使の居住区とする
一、 最上階を大天使長の専用階とし、特段事由のない者の立ち入りを禁ず。
最上階は施錠し、已むを得ない事由がある場合に限り、鍵を預かったミシャの了承を得て訪問すること。
上級三隊の宿舎でひときわ大きな歓声があがった。
───
そしてルフェルは、光をもたらす者、明けの明星、エデン史上最凶に邪悪、冷酷無残以外に「聖なるStallion」という二つ名が付いていることを、まだ知らない。