第六十三話 焼け野の雉子、夜の鶴 其の壱
── 焼野の雉子、夜の鶴
雉(雉子は雉の古名)は巣のある野を焼かれると、己の身の危険も顧みず我が子を助けるため巣に戻り、鶴は霜の降りるような寒い夜に、己の翼で我が子を覆い暖めることから、子を想う親の愛情が深いことの喩えとして使われることわざ。
「黒檀、白檀、起きて…」
真夜中に揺り起こされた黒檀と白檀は、開け切らない目をこすりながら言われるまま服を着替えた。窓の外はまだ暗い。半分寝ていて足元の覚束ない白檀の腕を支えながら、黒檀は車の後部座席に乗った。
肩に寄り掛かる白檀に「シートベルトして」と言ったあと、黒檀は自分のシートベルトを外し白檀のベルトを探した。白檀の身体にシートベルトを取り付け、黒檀はまた自分の場所に戻ってベルトを締める。
「…どこ行くん」
「病院から連絡来たん」
「ケヤキ? どうしたん? なんかあったん?」
「逢いに来てください、て看護師さんから」
黒檀は横で眠っている白檀の手をギュッと握り締めた。
───
日本の通夜に当たるビューイングにも、葬儀に当たるミサにも、参列したのは四人だけだった。通常どおり死亡広告を出せばもっと多くのひとに見送られただろうが、黒檀と白檀が好奇の目に晒されることを紅は望まなかった。
エンバーミングを施された欅は美しく、その口元は微かに笑みを浮かべているようにも見えた。棺を覗き込んでは泣く白檀を、黒檀は一所懸命なだめた。さすがはお兄ちゃんね、しっかりしてるわね、と言われるのが当たり前だった黒檀は、泣き止んだ白檀を確かめると足早にトイレへ駆け込んだ。
トイレットペーパーをカラカラと手繰り寄せる音の陰に隠れ、鼻をすする音が小さく壁に反射する。
しばらくすると黒檀は、赤い鼻を手のひらで擦りながら白檀たちのいるホールへと戻って来た。そしてまた、棺を覗き込み泣き出す白檀の背中をポンポンと優しくなだめた。
───
「…………」
ベッドから降りた黒檀は、ペタペタと裸足でトイレへ向かった。背伸びをして電気のスイッチを探し、明るくなったトイレに入る。つつがなく用を足した黒檀は、電気を消してペタペタと廊下を歩いた。
そっと扉を開けて顔を突っ込み部屋の中を覗く。暗い部屋に目が慣れると、黒檀は部屋の中に入りベッドへと近付いた。
「……ん、どないしたん? 眠れへんの?」
「シロ…またこっち来て寝てる…」
「さっきトイレに起きて、呼びに来たん」
「ひとりで行ったらええのに……しかも、戻って来いひんし…」
「おいで、黒檀も一緒に寝よ」
ぼくと一緒に寝るからベッド買うてくれ、て大騒ぎしよったくせに、結局ケヤキとこで寝てるやん……ほんまシロはワガママなやっちゃな……黒檀は不満気な顔で欅のベッドに潜り込んだ。右で白檀が寝ているので欅の左側で脚を伸ばすと、欅は「足、冷こなってる」と自分の足で黒檀の足を挟んだ。
「ケヤキ、冷こないん?」
「うちと黒檀で冷こいの半分こしよ」
「ケヤキが寒なってまう…」
「黒檀横にいてるから大丈夫え」
欅のあたたかい足で冷たい足を挟まれた黒檀は、「ずっと冷こいまんまでええのに」と徐々にあたたまる自分の足を少し恨めしく思った。足があたたまれば、欅の足を独占できなくなってしまう。四歳の黒檀には、それがまるで世界の終わりのようにも思えた。
───
温めた牛乳にメープルシロップを入れてかき混ぜ、トースターからパンを取り出し皿の上に重ねる。ベーコンエッグと一緒にダイニングテーブルに並べ、欅は黒檀と白檀に取り皿を渡した。
「ケヤキ、ジャムちょうだい」
「どれ? いちごジャム、りんごジャム、ブルーベリー、アプリコット、マーマレード」
テーブルに乗った木製のトレイには、色とりどりのジャムが入った密閉瓶が行儀良く並んでいる。欅はひとつひとつ指をさしながら、白檀に訊ねた。
「桃のジャム」
「桃のジャムはこの前食べ切ったやろ? あとで買うて来るさかい」
「桃がいい」
「うーん、まだお店開いてへんからねえ……他のじゃあかん?」
「あかん、桃のジャムがいい」
「シロ、ないゆうてるやん…ワガママばっかり言いな」
「なんでぼくがクロに怒られなあかんの!? ワガママばっかりちゃうもん!」
「ばっかりやろ! ないもんはないねん! イヤなら食べんといたらええ!」
「ほないらん! クロのあほ! イケズばっかり!」
白檀は大きな目に涙を浮かべながら、椅子から飛び降りこども部屋に駆け込んだ。自分のせいで、せっかく欅が作ってくれた朝ごはんを無駄にしてしまう、と黒檀は慌てて欅の顔を見た。
「ありがとうな、黒檀」
「…ありがとうちゃうやん……シロ、ごはん食べへんて…」
「困ってるうちをかばってくれたんやろ? ほな、ありがとうや」
「でも…」
欅は黒檀の頭をなでて、「白檀、呼んで来るさかい食べとってね」と笑った。
いっつもぼくが悪者なるなあ、と肩を落とし涙があふれそうな目でふと庭を見ると、何かが動いたような気がして黒檀はそっと玄関の扉を開け顔を出した。
「……あ…」
「シーッ……」
庭で動いた “何か” は口の前にひと差し指を立て、黒檀の前でしゃがんだ。
「今日は逢う日やないんですけど、渡したいもんがあって」
「渡したいもん?」
「知人にお土産もうたんですけど、黒檀くんたちにあげよ思て」
「お土産? 何?」
「ジャムの詰め合わせです。手作りで美味しいお店のものらしいですよ」
「…桃のジャム、ある?」
「ありますよ、白桃と黄桃のジャム」
黒檀は泣きそうな顔で、しかし安堵した声で「よかった」とつぶやいた。それからジャムの詰め合わせを受け取り、少し恥ずかしそうに笑った。
「ほな、僕は行きますわ」
「寄ってかへんの? 一緒にジャム食べへん?」
「次、逢うてもええ日にまた来ます」
「…ありがとう、トウジ」
冬慈は黒檀の頭をなで、家に入りなさい、と部屋の中を指さした。黒檀はジャムの詰め合わせの箱を抱え、小走りに部屋の中へと戻って行った。
欅も白檀もまだテーブルに戻って来ていないことを知ると、黒檀はこども部屋へ向かった。欅に抱き着き泣きじゃくる白檀に「シロ、桃のジャム」と黒檀は大きな箱を渡す。
「…ひっ…う…桃?」
「うん、桃のジャム」
「ふっ…えっ…う…ひっ…く…食べる」
「うん、食べよ」
「黒檀、このジャムどないしたん?」
訝し気に訊く欅に、黒檀は目を泳がせながら答えた。
「……えっと、お土産…」
「お土産? 誰から?」
「シロ、泣いてるから神さまがくれたん」
「……神さま、ね」
神さまの正体に目星の付いた欅は困った顔をしながら笑い、それでも喜んでいる双子の兄弟の気持ちと神さまの厚意を無駄にしないようジャムの箱を抱え「一等賞の子が一番最初に好きなジャムを選べます」と言ってリビングへ駆け出した。慌てて黒檀と白檀も欅のあとを追い、笑い声を響かせた。
トーストはすっかり冷たくなってしまったが、黒檀と白檀はきゃあきゃあ大騒ぎで白桃と黄桃のジャムを塗り、その他のジャムもすべて開け、指先ですくってはそのたびに大喜びした。
───
ここしばらく、家のいろんな場所に広げられていた段ボールがいつの間にか箱の形になり、玄関や廊下、リビングに積み上げられているのを、黒檀も白檀もワクワクしながら見ていた。とはいえ、それほど数があるわけではなく、中くらいの段ボール箱が五、六個程度のものだ。
「ねえケヤキ、いつ行くん?」
「明日のお昼やね、飛行機乗るんは」
「トウジいつ来るん?」
「来いひんよ? うちと黒檀と白檀の三人で行くん」
「なんで!? なんでトウジ来いひんの!?」
「トウジ、一緒に行くんやないの!?」
「行かへんよ? うちら三人だけ」
「……いやや! トウジ行かへんねんたらぼく行かん!」
「白檀、それだけはどうにもならへんよ」
「いやったらいや!」
白檀は真っ赤な顔で泣きながらこども部屋に駆け込んだ。欅は困った顔で笑いながら黒檀を見るが、この時ばかりは黒檀も、大きな目からこぼれ落ちそうになる涙を堪えることに必死だった。そんな黒檀の様子に、涙を堪え切れなくなったのは欅のほうだった。
「ケヤキ……」
「ごめんね、堪忍な……そやけど、どうしても一緒に行かれへんの…」
「……うん、わかったから泣かんといて」
「ほんまにごめんね……」
「うん、泣かんといて…ぼく、シロと話して来る」
のどの奥がヒクっと痙攣し、これ以上喋れないと思った黒檀はさっさとこども部屋へ姿を消した。
引っ越しの準備が終わったこども部屋にはもう大きなベッドはなく、エアーマットの上に乗せた布団に包まって白檀は号泣していた。いまにも泣いてしまいそうだと思った黒檀だったが、白檀の弱々しい姿を見るとなぜかのどの奥がラクになった。
「シロ、シロはケヤキとトウジ、どっちが好き?」
「……ケヤキ」
「ほなケヤキのために泣かんとこ?」
「でもいまはキライやもん」
「ケヤキ、シロが泣くの悲しくて泣いてるん。そやから泣かんとこ?」
「でもトウジも一緒がいい」
「トウジの代わりにぼくいっぱい遊んだげるさかい、泣かんとこ?」
「クロ、ぼくのことすぐ怒るやん……イケズするやん…」
「もうせえへんさかい泣かんとこ?」
「クロ、トウジみたい大きないやん、抱っこできひんやん」
「頑張って大きなる……そやから泣かんとこ?」
黒檀は布団の中に潜り込み、泣きじゃくる白檀を抱きかかえ背中をなでた。白檀にしがみ着かれた黒檀は、泣き虫でわがままな白檀の頼りなさに、胸の奥があたたかくなった。
***
ケヤキが亡くなったあと、その現実を薄めるようにぼくたちは少しずつ変わって行った。例えば一人称が “ぼく” から “うち” になったり、髪を長く伸ばしたり。なんとなくケヤキの真似をすることで、開いた隙間を埋めたつもりになった。
ぼくとシロは喧嘩もしなくなったし、何よりあんなに泣き虫だったシロが泣かなくなった。それどころか、一緒に暮らしていたコーセイが泣くと、シロがそれをなだめるほどだった。
ケヤキの体調が悪くなり入院が重なるようになると、こどもふたりでは不便だし何より危険だということで、以前から親交のあった樒廼家でお世話になることになった。ひとりっ子だったコーセイに兄弟ができて嬉しい、と紅は喜んでくれたし、ケヤキがいなくなったあとも紅はぼくたちを三人兄弟として育ててくれた。
家にあった紅のデスクトップを使って、ぼく自身のことを知ったのもこの頃だった。日本にいる間、家からほぼ出ることのなかった理由や紅とコーセイのこと、それから毎月一度逢いに来てくれたトウジのこと。
「……こいつのせいで」
ぼくたちとコーセイが本当の兄弟だったこと、ケヤキがぼくたちを守ってくれたこと、トウジがケヤキとぼくたちを助けてくれたこと、トウジと一緒に暮らせなかった理由。
「こいつさえいなければ……」
ケヤキがぼくたちを連れて渡米した理由、トウジが一緒に渡米できなかった理由 ──
「こいつさえいなければ、ケヤキは……!」
そんな素振りを見せたことなど一度だってなかったけど、ぼくは一度だけ夜中にケヤキが泣いているのを見たことがあった。いつだって笑顔だったケヤキも、本当は寂しくて支えが欲しかったんだ。トウジの写真に口付けて泣くケヤキは、とてもきれいでとても悲しい顔をしていた。
ぼくとシロとケヤキからトウジを奪った久御山 賢颯を、ぼくはどうしても赦す気になれなかった。手続き上、嫡男という立場を手に入れただけで、ぼくたちとまったく血統の違わないケンソー。ぼくたちが双子じゃなかったら……突然変異のケンソーに成り代わり、優しいケヤキにトウジをあげることができたのに……
ケヤキはもういないけど、ぼくの思いは変わらなかった。
ケンソーがいなくなり、ぼくたちが双子じゃなくなれば、少なくともトウジを手に入れることはできる。ぼくたちは本家当主の正当な血統のこどもなのだから。
「……待っててや、シロ」
ぼくは助手席で眠るケンソーを確かめ、再びアクセルを踏んだ。