Fatal of Goddess
休日くらいはおとなしく休んでいて欲しい、という天使たちの切なる思いなど知る由もなく、ルフェルは朝から黙々と報告書に目を通してはそれを仕分けていた。最近は司法省の仕事が立て込んでいたため任せきりになっていたが、本来は総合情報局の秘密情報部が彼の所属先なのだ。休みを返上でもしない限り、仕事が片付かない。
秘密情報部の主な仕事は諜報活動であり、奈落と冥界と魔界の内情を探り、それを総合情報局が取りまとめ、地上やエデンに害が及ぶことのないよう対策を立てている。アビスには立ち入ることができないため、堕天使との接触はもっぱら地上で行われるが、ハデスやフィンドには直接赴くこともあった。
現場では常に危険と隣り合わせの諜報部員にとって、エデンの中にある本部の事務所は憩いの場だったが、いま、ここは現場よりも厳しい修羅場になることを誰もが覚悟した。
「……この報告書を作ったのは」
「あ、わたくしです」
みなに戦慄が走る中、手を挙げたのはラグエルだった。ラグエルは諜報部としては珍しく今期からの中途採用だったため、いくら無慈悲な大天使長でも理不尽にしばき上げたりはしないだろう、という安心感が事務所を包んだ。
「無記名だ」
「申し訳ありません」
「内容について訊きたいことがある」
「かしこまりました」
ルフェルとラグエルは事務所の隣にある小会議室へと移動した。残された部員たちは、ひとまず嵐が過ぎ去ったことに安堵し、ラグエルが無記名の報告書を作ったことに感謝した。
───
「……見失った、とは?」
ルフェルは報告書を机の上に置き、該当箇所をトントンとひと差し指で弾いた。
「申し訳ありません……忽然と姿が消えたもので」
「相手をなんだと思ってるんだ」
「人間に擬態していたので、消えるとは思わず」
「フィンドに戻った形跡は?」
「……ありません」
「確かか?」
「はい、戻っては……いませんでした」
「ほう……では まだ 地上で うろついていることを 知りながら 野放しにしている、と」
「わたくしの力では……ですから上に委任したのですが」
ルフェルは小会議室から事務所へと戻り、報告書をはらはらと揺らしながら、慌てて態勢を取り繕う諜報部員たちに訊ねた。
「上に委任した、という話だが」
「現在調査中です……が…」
「三日も掛けてまだ見つからない、とでも?」
「申し訳ありません、しかし」
「きみたちには少し休養が必要のようだな」
……きみたち……大天使長がこう言うときは間違いなく機嫌が悪い……これは早急に手を打たないと、おちおち仕事もしていられない。当該案件に携わる者もそうでない者も、何とか大天使長を鎮める方法を考えたが、この件を片付けること以外で鎮まるとはとても思えなかった。
「現場で何名当たってるんだ」
「よ…三名です」
「有能な 貴君らが 総力を挙げて 探しても 見つからない、と」
「も…申し訳ありません、ですが」
「ですが?」
この件に当たっているのはレギュラー班ではなくエキスパート班の、しかもスペシャリストたちだ。しかし、どれだけ手を尽くしても見つからないのが事実であり、エキスパート班の責任者、サリエルは、もうあとがないと覚悟を決めルフェルを仰いだ。
「大天使長……お力添えをお願いできませんか」
「……と、いうと?」
「我々の力では……すでに探知し切れない状況で」
「つまり、探すのを手伝って欲しい、という泣き言か」
「いえ、直接接触する作戦に切り替えようと」
「……この派手な形で囮になれ、という戯言か」
── しかし、つべこべ言っている時間がないことも確かだ。張り込んで五日間、上に委任して三日間……地上に現れた目的すらまだ掴めていない状況で、このまま傍観しているわけにもいくまい……かといって…この形では…
───
「なんですって?」
紅茶を飲みながら部屋でくつろいでいた十四、五歳の少女は、テーブルの上にカップを置き呆れたように声をあげた。
「八日間も放置してるだなんて、情報部はボンクラ揃いなの?」
「……面目ない」
「まあ、しょうがないわ。で、何日で片が付くの?」
「三日あれば」
「三日、ねえ……ルフェルでもそんなに掛かるの?」
「セス……ご覧のとおり、わたしは初心者なんだが」
「そうね、そんな派手な諜報員、すぐ見つかっちゃうものね」
好きで派手なわけでは……と思うルフェルを見上げ、少女はあどけない笑みを浮かべた。十二枚の輝く翼を背負う、銀髪の長身が目立たないはずがない。あまり危険なことはして欲しくないと思いながらも、地上の安寧を考え、少女はルフェルの申し出を受け入れた。
「三日だけよ。それ以上は水晶がもたない」
少女はルフェルの胸に手を当て、瞳を閉じた。
「全知全能の神たる我が名において求めよ…汝の祈りし声、天に届けん」
少女が……全能神セスがつぶやくと、ルフェルの背に輝く十二枚の翼は消え失せ、白銀色に煌めく髪は淡い栗色へと変わった。
「うん、どこからどう見ても光の子よ」
── ルフェル、これだけは忘れないで。他の諜報員と違って、あなたのその姿は一時的なものでしかない。その姿を維持するためには、かなりの力を要するの。わたしの言霊で変貌してるけど、それを維持してるのは水晶に預けてある魂よ。魂がその身体を作っているようなものだから、その状態で三日以上地上にいてはだめよ。二度と……元に戻れなくなるから。
「……要するに魂の力で顕現しているようなものか」
ルフェルは軽くなった背中に違和感を覚えつつ、地上へと降り立った。
───
まず、報告書に記載されている “見失った場所” を確かめるため、ルフェルは酒場を訪れた。呑み屋が軒を連ねる通りは騒がしく、店からあふれた酔っ払いたちが、陽気に歌い千鳥足で次の店を探す。
── 特に空間の歪みや呪印の類はなさそうだが……さて、この賑わいの中、どうやって気配を追えばいいものやら……
「よう、にいちゃんひとりか」
振り返ると、手にボトルワインを握り締めた、恰幅のいい男が立っていた。男はふらふらと歩きながらルフェルに近寄り、その肩を力いっぱい引き寄せ、豪快に笑った。
「青っ白い顔してねえで飲めよ」
そう言うと、断る暇も与えず口にボトルをねじ込み、容赦なくワインを注ぐ。それから自分もワインを浴びると、またふらふらと歩いて去って行った。楽しそうで結構なことだな、としばらく男の後姿を眺め、ルフェルは場所を変えるため歩き出し……数歩でへたり込んでしまった。
「な……?」
── いや、構造的に飲食はできる。できるが吸収はされない、はずだ。
水晶に魂を預けている以上、身体などあってないようなものだ…が……セスの言っていた、魂が身体を作っているようなもの、とは……「ような」ではなく、完全に実体化してないか……? 頭が、ふわふわ、する……
「ちょっと、大丈夫?」
しゃがみ込んだまま動かないルフェルを見兼ねて、若い女が声を掛けた。
「……大丈夫、ではなさそうね」
女はしゃがみ、ルフェルの腕を肩に回すと、「少し、歩くわよ」と言って、呑み屋通りに背を向け歩き出した。
───
お世辞にも広いとは言い難いその部屋は、服や靴が散乱し正に足の踏み場もなかった。
ドアの開く音に気付いて、部屋の奥から出て来たふたりの女は、ニヤニヤしながらルフェルの顔を覗き込む。
「リリィ、また若い男、拾って来たの?」
「酒場でしゃがみ込んでたのよ。カモにされるのが目に浮かぶようだったから」
「ふふ、えらく格好のいい野良猫だわね」
「お邪魔でしょうから、わたしたちは退散するわ」
「そんなんじゃないわよ」
ふたりの女はリリィから小銭を受け取ると、嬉々として部屋から出て行った。
…… こ こ は ?
「あら、目が覚めた? 水、飲んだほうがいいわよ」
ぼんやりした頭でリリィからコップを受け取ると、ルフェルはひと息でその渇いた身体に水を流し込んだ。
「酔いは醒めた?」
「……ここは?」
「……知らないの?」
「知…らない……」
「どこのお坊ちゃんなのよ」
「や…そういうわけでは……」
「まあ、縁のなさそうな顔してるものね」
「……顔?」
「お金なんか払わなくても、女を抱けるでしょ、って言ってんの」
「抱け……えっ!?」
── ちょっと待て、落ち着け、思い出せ。
報告書に書いてあった所をとりあえず調べた。何もなかった。そのあと、男に声を掛けられ、肩を引き寄せられて、ワインを……注ぎ込まれたことは覚えている。それから……それから……?
「あんな場所でしゃがみ込んでたら、襲ってください、って言ってるようなもんよ」
「襲って、って……そこまで危ない場所には……」
「坊ちゃん、そんなきれいな顔でしゃがみ込んでたら、ヤられちゃうわよ?」
「ヤら…れ……僕、一応男なんだけど」
「見ればわかるわよ、だから危ないって言ってんでしょ」
── 待て、一体なんの話だ。
「この辺じゃ見ない顔ね。旅行か何か?」
「うん……まあ」
「だったら、危ない場所くらい確認しておきなさいな」
リリィはそう言うと、靴を脱いでベッドにのぼり、それから上着を脱いで遠くへ放り投げた。丸められた上着は勢いよく壁に当たり、積み上がった服の山の一部になった。
ルフェルは起き上がり、リリィにベッドを譲ろうとしたが、リリィに腕を掴まれ再び倒れ込んだ。
「……何?」
「何、じゃなくて」
「え…っと、もしかして、お金、とか?」
「当然でしょ? まさかタダ乗りしようと思ってるわけ?」
「タダ乗り…とは…」
「坊ちゃん…本当に何も知らないのね」
リリィはルフェルの前髪をかき上げると、翠玉のように透き通る瞳を見つめた。まるでその瞳からすべての感情を読み取ろうとするように、瞬きもせず。
そしてルフェルの薄い口唇に優しくくちづけた。リリィのしなやかな黒髪が鼻をかすめ、その甘い香りに……
── 見つけた。
まさか、自分を拾った相手が……探している張本人だったとは。
上手く化けるもんだな……これだけ近寄らないと気付けなかった。実体化していて感覚が鈍っているのもあるんだろうが、ここまで見事に化けられると気配すら嗅ぎ取り難い。
「坊ちゃん……お利口にしててね」
リリィはルフェルの頬をなでおろし首筋を確認すると、そうっと口唇を這わせ……牙を立てた。
「…っ!!」
── しまっ…た……まさか自分が魔力で縛られるとは思わなかったが…ほぼ実体だとここまで簡単に動きを封じられるのか……瞳を覗き込んで視神経から徐々に身体を縛りあげる……さすがに……これは情報局でも掴んでないな…当たり前だ……掴んだ者は、生きて戻っては来ない…か……囮というより単なる獲物だ…
細い牙が喰い込む首に痛みはなく、動かない身体を恍惚感が満たして行く。初めての感覚に抗おうとする意識と、それを裏切り陶然と蕩けて行く身体。快楽に身を浸しているうちにすべて終わる。
「坊ちゃん、そんなに強く噛んじゃだめよ」
遠くなる意識を何とか取り戻そうと、噛んだ口唇から血が滲む。リリィはルフェルの口唇から滲み出した血を、尖らせた舌で優しく舐め取ると、そのしなやかな指先を胸元からゆっくりと滑らせ、細く骨ばった腰をくすぐった。
腰骨から身体の中心へ、そっと立てた爪を這わせ、かすかな手触りで下腹をなでながら、リリィはルフェルの耳を甘く噛んだ。
── 夜の魔女の魔力のせいか、それとも自分の身体が素直なだけなのか。さっきまで、遠のく意識を手放すまいと必死に噛んだ口唇が、脈を打つ身体に合わせ疼く。
魂が身体を作っているような……? そんな生やさしいものでは…ない気がする……血液が沸騰するような、逆流するような。
「まさか、初めてじゃないわよね?」
「…………」
「嘘でしょう? そんなきれいな顔してるのに……あ、もしかして男のほうが」
「違っ……」
── さすが、「男誑し」と言わしめただけはある……見下ろす目付きが、完全に支配者の目だ。
肢体にまとわり着く濡れたような黒髪が、肌を隠しているはずなのに猥りがわしいというか、淫猥というか。豊麗で艶冶な肢体に煽情的な仕草。官能をくすぐる声は蠱惑的で、挑む表情でさえ妖しく色香をまとう。これは、隷従する男があとを絶たんだろう……が、しかし。
感心している場合ではない。なんとかこの場を切り抜けんとさすがに拙い。
そうでなくともほぼ実体なんだ、これだけしっかり皮膚の刺激に触れることは……暴力沙汰以外ではなかったような……三日後の予定でも考えるか……報告書を書いて、審理の立ち会いが二件、裁きの間での判決と、ああ、庭園の復旧の確認と……セスに報告もしなくてはなら…
「とっても……敏感なのね」
どこまでもいかがわしく、艶めかしく、淫らで美しい魔性の女、リリス。
男に裏切られ復讐のために生き、男をかどわかし、ひとときの夢を魅せて生き血をすする魔女……
───
……生き…て…る……?
「おはよう坊ちゃん、すっかり寝入ってたから放っておいたけど、大丈夫?」
「え、大丈夫って……何が?」
「呆れるわね、宿に連絡しなくてよかったの?」
「あ、ああ、うん、大丈夫」
「そう? ならいいんだけど」
朝陽の射し込むベッドを避けるように、薄暗い部屋の中でリリスは床に散らかる服や靴を邪魔そうに脚で払う。
── ああ、なるほど、昨日は気付かなかったが……私娼が客を連れ込むための部屋なのか。確かに合理的な方法ではあるが。
「片付ければいいんじゃない?」
「…この大量の服と、靴を? わたしが?」
「手伝うよ、泊めてもらったお礼に」
「わたしの仕事を増やすだけじゃない」
「名前、聞いてなかった」
「……リリィよ、坊ちゃん」
床を埋め尽くす服を一旦隅にまとめ、床が顔を出したところから丁寧に埃を払う。汚れを落とし、部屋の空気を入れ替えたあと、まとめた服を確認しては、洗うものを選り分けた。
「坊ちゃん、仕事はハウスキーパーか何かなの?」
「こういうの、慣れてるんだよ……バケツか何か、ない?」
玄関のドアを開け放し、座り込んで黙々と服を洗うルフェルを、しょうがないわねと苦笑いで眺めながら、リリィはおとなしく服を畳んだ。当たり前だが、こういうことに一切慣れていないルフェルは、服を破ったりしないことに全神経を集中させていたため、話をする余裕がなかっただけである。
部屋を丸ごときれいにするのに、ふたりでたっぷり一日掛けた。お世辞にも広いとは言い難いその部屋には、床もテーブルも椅子もあった。
「……坊ちゃん、あなた朝から何も食べてないけど」
「ああ、そうだね。夢中になってて気付かなかった」
「困った子ね、働き者は身体が資本よ。ちょっと待ってて」
── いつもの調子でいたが、確かに実体化しているだけあって空腹感と疲労感がある。
身体が重いのは……昨日失った血液のせいか。しかし、なぜリリスはわたしを殺さなかったんだろう。吸い尽くす時間なら充分あったはずだ。あの細く鋭い牙が喰い込む瞬間と……すすられている間の恍惚感…人間であれば気付くこともなく終わるだろうな。
しばらくすると、目の前にパンとチーズを差し出され、ルフェルはチーズをかじりながらリリィに訊いた。
「リリィは、食べないの?」
「代わりに、飲んでるわ」
リリィが赤ワインの入ったコップを揺らしてみせる。
「……ワインだけ?」
「ふふっ……わたし、心配されてるの?」
「心配させてるんだよ、リリィ」
「……優しい子ね、坊ちゃん」
リリィはワインを飲み干すと、ボトルに手を伸ばしもう一度コップを満たした。なみなみと注がれた赤ワインを見つめながら、リリィがぽつりとつぶやく。
「わたし、魔女なの」
「……へえ、魔女って、呪術か何か使えるの? それともシャーマン?」
「いいえ? 男を殺すの」
「その魅力で悩殺するとか」
「もっと、確実に。体液を搾り切って殺すのよ」
「殺されなかった僕は、男じゃないってことかな」
「充分男だったわよ?」
「いや、うん……そう…………か」
「あんまりにも敏感なもんだから、続けていいのか迷っ」
「そ こ は 掘り下げなくてもいいかな」
「……少し、昔話をしてもいい?」
「もちろん」
───
わたし、女神だったの。
風の女神だった頃の名前は「スドゥ」。
わたしたちの国ではね、操を守ることと純潔を保つことを厳しく定められてたの。だから乙女である間は川遊びも水浴びも、散歩すらひとりではできなかったのよ。とにかく母神からくどいほど忠告を受けてたわ。
でもね、わたし、一度だけその言い付けを破ってしまったの。
水遊びをした帰りに運河の土手を歩いてたら、目の前に最高神が現れた。まさか畏れ多い神が現れるだなんて思わなくて、それは驚いたものよ。どうしようか、と狼狽えるわたしに神は言ったわ。「ヤらせろ」ってね。
わたしは耳を疑った。操を守ることと純潔を保つことを厳しく定めた国で、神から辱めを受けるとは思わなかったから。
断り続けるわたしに業を煮やした神は、従神に船を用意させ、わたしは ── 逃げる場所すら奪われ、その船の中で神から凌辱を受けたのよ。保って来たはずの純潔を……神によって穢されたの。身体をねじ伏せられ、頭を押さえ付けられ、抵抗することさえできなかった。
正式な手続きを取らずに処女神を手籠めにした廉で、最高神は他の五十七柱の神々に咎められ、天界を追放された。でもね……たった一度の罪で、わたしは身籠ったの。最高神の……欲望の証を。
それから冥界に堕とされた神を訪ねたわ。どんな事情があったとしても、神の御子に変わりはないから。でも神は……わたしを疎ましがって逢おうともしてくれない。冥界に堕とされたことをわたしのせいだと思って。まるで疫病神扱いよ。
その時、門番がわたしに言ったの。
── あなたの身籠った御子は月の神として天に昇る運命。しかし、罪を犯した神の御子が天に戻るには、贖罪のため冥界で生きる身代わりの子が必要なのです。わたくしはしがない門番ですが、神の御子のため協力できることもありましょう。
つまり、門番との間に子を成して、その子を身代わりに最高神の御子を天に帰すことができる、と。神の御子と冥界の門番の子、選ぶ権利なんて最初からわたしにはなかった。
月の神となる御子を産んだあと、わたしはその門番との子を産んだの。そして門番の子を身代わりに、御子は天に戻された。それなのに、最高神は姿をくらましたまま……そのわたしに追い討ちを掛けたのは、冥界を流れる河の渡し船の船頭だった。
あなたは門番に姿を変えた最高神に謀られたのだ、と。あなたが産んだのは門番の子などではなく、やがて癒しの神となる、最高神の御子なのだ、と。そして今度は、癒しの神となる御子を天に帰すための身代わりの子が必要だ、と。
……気が狂いそうだった……五十七柱の神々に咎められ天界から追放されたにも関わらず、最高神は一欠けらの罪も背負うことなく、わたしを……身代わりを孕む都合のいい下僕ほどにしか思っていなかった……
そのあとのことは察しが付くでしょう?
わたしが産んだ船頭との子と引き換えに ── 最高神は天へと帰ったのよ。
もう、涙さえ涸れ果てたわ。世間知らずのわたしは、船頭に成りすました最高神を見抜くこともできず、神の代わりに冥界に堕ちる子を……神の御子をもうひとり産んだのよ。癒しの神を天に帰すため、と産んだ子を生贄として、最高神は天に戻った。わたしと、本来であれば神になるはずだった御子をふたり見捨てて。
癒しの神となる御子は、月の神となる御子の身代わりになったから、最高神が天に戻るためには別の身代わりが必要だった。最初から、癒しの神となる御子を救う気なんてなかったのよ。
母神の忠告を無視した罰は重かった……
凌辱され、身籠った挙句に騙され、わたしは神の代わりに冥界で生きて行かなくてはならない子を……天に帰れない子を産み、棄てられたのよ。
わたしが神を怨んでも当然でしょう? でも、誰もわたしを庇ってはくれなかった。誰も……わたしを救ってはくれなかった……!!
「だから身体ごと、悪魔に魂を売ったのよ」
「リリィ……」
「男は全員殺してやろうと思ったわ」
「……なぜ僕を……殺さなかった?」
「口唇を噛むあなたが……あの時のわたしと重なったからよ」
─── やめて……後生ですから…お赦しください……
── 男に裏切られた、という次元ではない……リリスはどれほど神を怨み、自身を呪って来たんだ……思いがけず聞いた話ではあるが、さすがにここまでとは想像すらしていなかった。
かといって……人間殺しを赦すわけにはいくまい……
その時、リリィののどがヒュウと鳴り、手に持っていたコップが床に落ちた。床に広がる赤ワインを見つめながら、リリィは激しくなって行く喘鳴にもがいた。肩で息をしながら胸を押さえるリリィは、いままで普通に話をしていたとは思えないほど衰弱し、やつれているように見えた。
「……リリィ?」
「だい…じょうぶ…坊ちゃん、お家に帰らなくていいの?」
「全然大丈夫そうには見えないけどな」
「坊ちゃん、あなたがいると商売にならないのよ」
「ああ、それはそうだね……でも仕事ができるようには見えない」
「帰って、お願いだから」
「リリィ、どうしたんだ突然」
「帰って!!」
リリィはのどをヒュウヒュウ鳴らしながら、その場にうずくまった。
── いくら魔女とはいえ、この状態で放置して行くわけには……これは、どういう状態なんだ。喘鳴があるということは、気管支に問題が? いや、昨日も今日もまともに食事をしていない。もしかして禁断症状か……とはいえ、もう深夜だ。いまから「客」は取れないだろう。そこで、わたしを帰す……?
ここがフィンドならまた別の手段があるのかもしれんが、地上で飢え死にするつもりか?
ルフェルは、うずくまりのどを鳴らすリリィを抱き上げベッドに運ぶと、自分も一緒にベッドに入り上着を脱いだ。リリィを抱き寄せ、ルフェルはその白い首筋を差し出すと、リリィの頭をなでながら優しく言った。
「スドゥ、きみは何ひとつ悪くない」
抱き寄せたリリィは……スドゥは、ヒュウヒュウとのどを鳴らし、涙をあふれさせながら、首を横に振った。ルフェルの白い首筋をそうっと指でなで、昨夜付けた歯痕を手で覆いながら、首を振り続けた。
「あり…が…と……」
「だからおいで、スドゥ」
「も……いいの」
「最後でもいいから……おいで」
「し…んじゃ……う」
「……死なない程度に、頼む」
── 気休めにしかならない。そんなことはわかってる。
でも、乱暴に摘み取られたスドゥの無垢な心を、純粋な魂を、うなずくことができる誰かになりたいと思ったんだ。きみは悪くなんてないよ、スドゥ。僕が、何度だって言うから。
───
「坊ちゃん、大丈夫?」
「ん……平気……」
「平気じゃなくても、そう言うわよね」
「どうして……生きるのをやめようと思った?」
「坊ちゃんが……優しかったから、かしら」
「そう、か……」
「……ねえ、ひとつ訊いてもいい?」
「なに?」
「あなた、何者なの?」
「酔い潰れて女主人に拾われたハウスキーパーだけど」
「ふふ……そうだったわね」
リリィはしなやかな指でルフェルの前髪をかき上げ、翠玉の煌めく瞳を覗き込んだ。
── あなたの美しい瞳に映るわたしは、きっといままでで一番きれいね。その瞳に映るわたしが本当のわたしなら、救ってくれるひともいたかもしれない。まるで穢れを知らないあなたの白い肌が、恍惚と汗ばんで行くのがわかる。その滴る汗でさえ、誰にも汚すことなんてできない……
絡めた指がこんなにも愛おしいだなんて、わたし、いままで知らなかった。あなたの形を覚えたまま産まれ変わったら、次はきれいなままでいられるかしら。
一番欲しかった言葉をくれてありがとう。
わたしの下で呼吸を乱す、愛しいあなたは……人間より少しだけ、甘い味がした。
── ありがとう、坊ちゃん
───
朝陽の射し込むベッドで目覚めると、隣にはリリスの代わりに白い灰が積み上がっていた。
── 何も一番苦しい方法を選ぶ必要はなかったんじゃないか……
なし崩し的ではあったものの、一応リリスの件は片付いたと言ってもよかろう。しかし……報告書に何をどう書けばよいものやら。今回は報告できないことのほうが…多い気がするな……
リリスの部屋を出ようとした時、ルフェルは背後にある気配を感じ振り返った。
「おや……フィンドの魔族がまだうろついているようだが」
「迎えに来ただけだ、すぐに退く」
「……迎えに?」
「リリスだよ」
ベルゼビュートはベッドで眠る白い灰を、持参した宝石箱で吸い込んだ。
金色に輝く宝石箱は、施されたサファイヤやルビーがその豪華さを際立たせたが、墓碑のようでもあり、その煌びやかさに却って寂しさが降り積もる。箱を抱えたまましばらく立ち尽くしていたベルゼビュートは、大きな溜息を吐いて顔をしかめた。
「貴様、翼はどうした」
「さあ……どこかに置き忘れて来たかな」
「人間のフリなんぞしおって」
「こちらもいろいろと訳ありでな」
「貴様が最期に干渉したせいで灰が……光を帯びとるじゃないか……」
「その灰……蘇るのか?」
「当たり前だろう、わざわざゴミの回収になど来ると思うのかね」
「それは……リリスとして、そのまま蘇るのか」
「これだけ光に穢されとるからな……何とも言えん」
「そうか……蘇るのか……」
「……貴様、なぜ少し嬉しそうなのかね」
気のせいだ、と言い残しルフェルは部屋をあとにした。
───
ほぼ実体化しているルフェルはひとりでエデンに戻れないため、「見失った場所」で迎えを待った。あんなに賑わっていた酒場の通りが、陽の光の下で静かに入口のドアを閉ざしている。
── ワイン……酷い目に遭ったと思ったが、あれのお陰で片付いたようなものか……
「大天使長」
声に振り返り、ルフェルは声の主を二度見した。
「……なぜ、アヴリルが?」
「わかりませんが、お迎えを仰せつかりまして」
「情報部の連中は何をしてるんだ」
「震えてました」
「ほお……随分と簡単なお仕事をされているようだな」
帰ったらどう血祭りにあげてやろうか、その前に、どう事務所に顔を出そうか、とルフェルは考えた。
───
エデンに帰ると、身体を元に戻してもらうため、セスの部屋を訪れた。
「ただいま戻りました」
「あら、お帰りなさいルフェル。で、どうだった?」
「失態と偶然が重なり、結果的には程よく片付いたかと」
「失態、を詳しく」
「……酔い潰されまして」
「それから?」
「……拾われました」
「誰に酔い潰されて、誰に拾われたのか、詳しく」
「多分、その町の住人である知らない男にワインをボトルごと注がれて」
「ふんふん、で? 誰に拾われたの? 拾われたあとは?」
── この詰問は……永遠に続くんだろうか……早く姿を戻してもらって報告書を書きたいんだが……報告できないことのほうが多いが、それをいまここで詰められているのか…
いや、だから宿ではなく私娼の仕事部屋というか……いえ、わたしが自ら行ったわけではなく、酷く酔っていたので……ですから、説明しているとおり……違っ…そうではな……わたしが好んで私娼を買ったわけじゃない!!
───
総合情報局の秘密情報部事務所では、部員たちが交代で双眼鏡を手に震えていた。
本日は大天使長が戻って来る日であり、諜報活動の内情をまだ聞かされていない部員たちは、大天使長がご機嫌なのか、不機嫌なのかをまず見定める必要があった。
「……ヤバい」
「どうした?」
「大天使長が」
「大天使長が?」
「めっちゃ翼広げてこっちに向かってる」
「なんで威嚇!?」
「しかも燃え上がる熾烈付き」
「威嚇しながら剣を召喚するほどの事案が!?」
「……退職届の前に遺書が必要だな」
「どんだけ物騒な出勤風景だよ……」
部員たちは全員起立したまま、大天使長の出勤を待った。
三日間の約束で地上に降り、実質二日掛けずに案件を片付け、しっかり戻って来る大天使長の有能さに驚愕し、同時に心から尊敬の念と安堵を伝えたい、と誰もが思っていた。
当の本人は「見失った場所」を調べただけで、見知らぬ男に酔い潰され、盛り場でしゃがみ込み貞操を危機に晒し、私娼に拾われその相手が偶然リリスで、探す手間が省けた挙句、かなり美味しい思いをしただけなのだが、この事実が語られることはなく、大天使長の功績だけが積み上がった。