code.03 逆らえぬ者
ルフェルの部屋で、ミシャはルシを抱きながら事の顛末を聞き呆れ返っていた。可能性でいえば限りなく低いが、いま、もしエデンが襲撃されるようなことになっても、食い止められる者がいない。いや、正確には食い止められる者はいるが、肝心のそのふたりが、食い止める手段を持っていない。
「あなたも大元帥さまも、素手で戦うつもりなの?」
「素手か……でもほら、ユリエルの “断罪の剣” もあるし、上級三隊はみんな剣の召喚ができるから」
「確かに司法長官は熾天使だけど……武闘派ではないから」
「僕も武闘派ではないんだけどな……本職は戦闘じゃなくて情報機関の諜報部だし……」
「一振りで庭園薙ぎ払っておいてよく言えるわね」
「さすがに素手では無理だけどね」
「ねえ、その熾烈っていまはルシの中にあるのよね?」
「と、思うんだけど……ルシの右手に飲み込まれたから」
「いま、召喚したらどうなるのかしら」
ルシの首筋に当てていた熾烈の剣は、ルシが握りその手で飲み込んだ。これは間違いないが……その熾烈がいま、消えてなくなったのか、ルシの中にあるのかまではわからない。なくなったのだとしたらどこへ行ったのか。ルシの中にあるとするなら……召喚の際の衝撃がルシにどう加わるのか……
「ルシの中にあったとして……熾烈がルシを食い破って出て来たらルシは死ぬんじゃないか?」
「勢いよく空を切らずに、そうっと召喚することってできないの?」
「……きみにはできるのかい?」
「あなた、大天使長さまなんでしょう?」
相変わらず無茶なことを言う、と思いながらルフェルは右手をそうっと前に出した。当然、何も起こらない。念じてみようか……いや、それで召喚できるならあの時……市場でベリアルに逢った時にそうしている。空を切れないから詰んだんだ。やはりある程度の勢いがないと……
「ルシ……頼むから、熾烈を返してくれないか?」
困り果てたルフェルがそう言うと、ルシは左の翼を大きく羽ばたかせ、一枚の羽根をひらりと床へ落とした。ルフェルが不思議そうにその羽根を拾いあげると、羽根はルフェルのからだに溶け込んで消えた。これは……僕が飲み込んだのか、それとも羽根に侵蝕されたのか。
「……ルシ、これはどういう意味だい?」
「熾烈、返してくれたんじゃない?」
「……もし勘違いだったとして、熾烈がルシを食い破って出て来たら困るな……」
「でも、試してみないと結局何もわからないのよ?」
確かにそれはそうだ。仮に熾烈がルシを食い破って出て来たとしたら……ルシの抹殺は完了し、何かが起こる。神々がルシを生かそうとする理由がわからない以上、何に備えればいいかもわからない。 “生かす” ことに意味があるのか、”殺さない” ことに意味があるのか。ひとつだけ言えることは、エデンからアリキーノはいなくなり、異界大戦だけは確実になくなる。
ルフェルは空を切った。
……が、その手に熾烈の剣はなかった。やはり消えてなくなったのか、と思ったその時。
ルシの翼が深紅に染まり、唸りをあげた。
「まさか……そこに熾烈がいるのか……」
どうすればいいんだ……どうすればその翼から熾烈を引き抜けるんだ……いま、間違いなくルシの翼の中に熾烈がいる。あの翼の色と唸る音……主を忘れていない熾烈の雄叫び。
「……ルシ!」
ルフェルの声に応えるように、ルシの燃え上がるような深紅の翼の間から、熾烈の剣が姿を覗かせた。右手で掴み引き抜くと剣はさらに激しく唸りをあげ、剣身に溶熱した焔火と黒い霧を燻らせ、熱気で陽炎が揺らめく。
「これは……熾烈と死霊が共鳴してるのか……?」
「共鳴、というよりは融合しているように見えるけど」
召喚した剣が融合するなど聞いたこともない……焔火に包まれ真っ赤な火の粉を舞い上がらせながら、黒い霧を燻らせる剣を手首で返した瞬間、部屋の窓という窓がビシッ……と音を立て一斉に割れ砕けた。
「……何が…起こったんだ」
「手首を返しただけで窓が割れる威力がある、ということね……」
「そこまでになると迂闊に扱えなくて逆に困るな……」
しかし……これは熾烈の剣が戻って来たのだろうか。それとも毎回召喚するたびにルシを介さないといけなくなったのか。ルフェルは右手をそうっと開き熾烈の剣を解放したあと、もう一度空を切ってみた。
「……帰って来たようね」
「それはいいんだけど……ますます邪悪になってないか?」
ルフェルの右手に握られた熾烈の剣は、漆黒の剣身を深紅に溶熱した焔火が包み、黒くうねるオーラを纏いながら、不規則な火の粉が連なり螺旋状に剣身を覆い、陽炎を揺らめかせ唸りをあげていた。
「熾烈と死霊が融合、ですか?」
朝から執務室に詰めるアヴリルに昨夜のことを話すと、アヴリルは少々複雑な顔をした。ルフェルの腕の中にいるルシの翼は、何事もなかったように真っ白に戻っている。
「死霊は熾烈に吸収されたんでしょうか」
「それはわたしにもわからんが……」
案の定ルシの姿はもう二歳ほどに見える。一日で一年を生きるルシの姿に、アヴリルは憐れみさえ覚えた。通常であれば産まれて二日目……まだ寝返りはおろか、手足を動かすことでさえたどたどしい頃だ。ルフェルの腕にしがみ着くルシに、アヴリルは優しく声を掛けた。
「ルシ、わたしの剣も返してくれませんか?」
腕の中のルシはそのからだをよじり、身を乗り出す。ルフェルがそうっと床に立たせると、ルシはアヴリルの足元まで進み、左の翼を大きく広げ羽ばたかせた。翼からひらり、と一枚の羽根が落ちる。
「ん」
ルシは抜け落ちた羽根を拾い、アヴリルに手渡した。やはりその羽根は昨夜と同じように、ゆるく溶け出しアヴリルのからだに吸収されて行く。
「羽根が吸収された?」
アヴリルが右手で空を切ると……ルシの翼は漆黒に染まった。
引き抜いた死霊の剣は剣身が深紅に染まり、黒い霧を纏いながら、紅く立ち昇る焔火と刈り取った魂の影を揺らめかせていた。
「足して割らずにそのまま威力が増したように見えますが」
「扱いに気を付けろよ……」
「これ、他の者たちの剣も全部飲み込ませたら」
「出来上がったものが邪悪過ぎて使役できんだろうな……」
「しかし大天使長、これ、絵本の通りになってませんか?」
「願いを叶えるために、羽根を抜く……か」
「だとしたら、最期は誰かの代わりに死ぬんでしょうか」
「死んだ誰かを蘇らせて、代わりに死ぬことになるな」
「では、半分の右側がした悪いこと、とは何でしょう」
── みぎがわ の はんぶん は わるいこと を しました
「剣を飲み込んだのは……右手だったな」
すると、ルフェルに抱かれていたルシが、ルフェルの耳に手を伸ばし引っ張った。
「る みぎ」
「……アヴリル、二歳のこどもはどれくらい話せるもんなんだ」
「まあ、二語は話せるのではないでしょうか」
「る る みぎ」
「……右?」
「大天使長が悪いことを請け負う右側の半分だ、と言っているようにも受け取れますね」
「どういう意味だ……」
アリキーノが稀覯原種であることはわかった。しかも無色で価値が高いことも。放置しておけばエデンは異界から狙われ、決して小規模とは言えない戦いが起こることもわかった。しかしやはり気になる。スティグマを付けてまでその存在を隠そうとした理由はなんだ。 “生かすこと” が前提の神々の思惑はなんだ。
ルフェルはルシを抱き、アヴリルと一緒に “棺の間” に続くフィオナの執務室を訪れた。知識も情報もないまま、考えることに時間を費やすくらいなら、直接訊いたほうが早い。フィオナはそのルフェルの行動を不思議に思った。
「……がっつく男は機会を逃すと思うが」
「何の話で、何の機会だ」
「いや、珍しいな。おまえが直接話を訊きに来るとは」
「情報局の資料に当たっている時間が惜しい。それに……」
ルフェルはルシを抱く腕をほどき、自分で立たせた。
「このとおり、ルシには一日で一年の時間が流れる。魂の定着は “三年間” なのか、それとも “三歳” なのか」
「正直なところ、わからぬ。何せ身近に前例がない」
「……完全体のままの天使は……通常いくつまで生きるんだ」
「それもわからぬ。与えられた職務によって肉体の消耗度が変わるからな」
「ああ……新生児室にいる者たちは三十年ほどらしいが」
「そうだな、しかし完全体なら上級三隊にまで階層が上がることはない。危険な任務とは基本無縁のはずだ」
「基本? 例外があるのか」
「ルゥ だっこ」
「例外はあるが……基本的には無縁だと思ってかまわぬ」
「……三女神に、寿命は見えんのか」
「決めることはできるが、見ることはできぬだろうな」
「あの、決めることができるというのはどういう意味でしょうか」
「ルゥ だっこ」
「創造するときにまず設定するのだ、寿命を」
「ああ、それで百年から三百年の幅があるんですね」
「……ちょっと待ってくれ。ではわたしが永遠の命を持って産まれたと、誰が判断したんだ」
「それは」
「ルゥ!!!」
執務室の中にある一切のものが宙に浮き……それらは四方八方の壁に叩き付けられ破壊音とともに床に降って来る。椅子が窓を破り、キャビネットがランプを割り、部屋にある書類という書類が舞い上がり視界を遮る。
咄嗟にルシをかばい、からだを盾にしたルフェルの背に鉢植えが落ち、それは背で飛び跳ね床で割れた。
「……なんなんだ……これは……」
浮いたものがすべて瓦礫のように部屋に積み上がったところで、ようやく静かになった。
「フィオナさま、頬が」
アヴリルの声に気付きフィオナを確かめると、フィオナの頬に付いた真っ直ぐな赤い線から、血が滴っていた。
「大丈夫か、フィオナ」
「ああ、傷は問題ないが……ここまで部屋を滅茶苦茶にされては敵わぬな」
「ルシも怪我は」
腕の中へと避難させたルシを確かめようと、ルシの両肩を掴んで……ルフェルは言葉を失った。
ルシの色素を持たない赤い瞳からは光が照射され、部屋の一角を真っ赤に照らし……そして、ルシは、嗤っていた。
フィオナは短く溜息を吐くと、ルシの前にしゃがみルシの瞳を確かめる。なるほど、確かに聞いてはいたが……この小さなからだでもってこの威力か……これはやはり魂を切り離し、早々に堕天させたほうが……独り立ちできるまで誰かが付き添えばなんとかなるだろうが、この力を封じられるかどうか……
ルシはフィオナの首にしがみ着き、しくしくと頼りない泣き声をあげた。フィオナは優しくルシの頭をなでた。
「少々お転婆が過ぎるようだな……仕事ができなくなってしまったではないか」
「ルゥ ルシの」
「……そうか、それは済まぬことをしたな」
「ルゥ 」
「わかったわかった」
そう言うとフィオナはルシを抱き上げ、茫然とするルフェルとアヴリルを確かめるともう一度短く溜息を吐いてルフェルにルシをそうっと預けた。
「ご指名だ」
それからしばし考え、「塔の中では落ち着けそうもない」と、復旧作業の進むエデンの庭園へ場所を移した。
「……フィオナ、傷は」
「かすり傷だ、放っておけば消える」
「神に傷を付けるなど、通常であれば死罪も免れませんが」
「アヴリル……避けられなかったわたしが愚盲だと思われては困る……他言無用だ」
「かしこまりました」
「フィオナ……知っていることを全部話してくれないか」
「全部、と言われてもな……まず、どの話が訊きたいのだ」
「単刀直入に訊こう。なぜルシを “隠した” ?」
「殺せぬからだ」
「殺すと何が起こるんだ」
「殺せぬ、のだ。おまえもさっき執務室で見ただろう」
「神にも……セスにも殺せないと?」
ここ、エデンで生得の片翼が産まれるのは……初めてだ。以前冥府に片翼が現れた際、冥府の王は混乱と暴動を避けるため、片翼の抹殺を命じた。その結果……冥府の神の三分の一が滅び、それに乗じて攻め込んだ奈落と魔界の者の手により、その領土の半分を失った。
片翼は “己の半身” を冥府に見付けると、その半身とともに己を狙う者を葬って行った。片翼の討滅戦は長きに渡り、冥府は甚大なる被害を被ることとなった。最終的には……片翼は己の半身によって討たれ幕を閉じたが、遺した爪痕は大きかった。冥府の王ハーディスの要請によりセスも討滅に加わったが……半身に阻まれ手酷い傷を負ったのだ。
「片翼の……半身、とは」
「もう片方の翼となる者……片翼の運命を握る者、だな」
「その時、セスを阻んだ半身は……」
「……アレウスだ」
「軍神? ハーディスの右腕じゃないか」
「その半身は、どうやって決まるのでしょうか」
「本人の洞見によるものか、あるいは契約によるもの、どちらかだ」
「その契約とは……以前言っていた守護者のことか」
「そうだ。しかし本人の洞見によるものが優先される」
「では、ルシがその半身を見付けた場合、どうなるのでしょうか」
我々は……片翼の敵になるつもりはない。何より討滅に関わったセスがそれを断じているのでな。ただでさえリミテッドシードとして狙われる片翼を殺すために戦力を割けば、周りからその穴を突かれることは明白だ。したがって、殺すという選択肢はない。こちら側に敵意がない以上、見付けた半身は片翼の守護者となるだけだろう。
「そもそも “アリキーノ” には、意志がないのでしょうか」
「領土を支配するといった野望などはないだろうな。敵意に対して敵意でもって応えただけで」
「対応次第で、半身は守護者にもなり、眷属にもなり得る、ということですか」
「そういうことだ。ただ……」
「何か、懸念されることでもあるのでしょうか」
「執務室の件を……どう見る?」
突然宙に浮いた部屋の “中身”……ルシの瞳から照射される赤い光……嗤っていたルシ……その前に話していた内容は、完全体の話と、寿命の話、それから……小さなルシの声は……大天使長を……
「もしかして、わたしたちがルシの声に耳を傾けなかったから、怒った……ということでしょうか」
「……ルシの声?」
「怒ったというより、ただ感情を爆発させた、というところだろうが」
「なるほど、怒るという明確な感情はまだないかもしれませんね」
「抑制できないとなると、事だな……」
── ルゥ だっこ
この時アヴリルは、これだけ周りの状況に疎くてよく大天使長なんてやって来られたな、と別の意味でルフェルに尊敬の念を抱いていた。