ACT.14 死
ルフェルは玄関の扉にからだを預け、青白く地上を照らす月灯りの中で打ちひしがれていた。
僕はいまこんな所で何をしているんだ。本当にノエルは無事でいられるのだろうか。シルフィを殺して……それから……ノエルはどうなる?
あれほど豊かな愛情を惜しみなく注ぎ、今日まで母親としてシルフィを育てて来たノエルは、シルフィを自分の手で葬ったあと、また当たり前のような毎日を暮らして行けるのだろうか。
僕でさえ、こんなにも胸が痛い。それならばノエルはどんなに……
……ノエルは本当にシルフィを殺す気なのか?
シルフィに “殺される” 心積もりではなかったか?
ルフェルが自分の過ちに気付き慌てて玄関の扉を開けた時、目に飛び込んで来たその光景は ──
ベッドで泣きじゃくる小さなシルフィと
床に倒れていたノエルだった。
「…っ、ノエル!」
慌てて駆け寄り上体を起こそうとしたが、ひと目見てルフェルはそれをためらった。上半身は仰向けになっているが、その下にある腰や膝の向きが……それぞれ好き勝手な方向に捻じれていた。ルフェルがノエルの手を握ると、口唇の端から一筋の血を流したまま、ノエルはその大きくて優しい手を力なく握り返し、頼りなく微笑んだ。
「……ごめんなさい……ルフェル」
首を絞められ驚いて目を覚ましたシルフィは、何が起こっているのかわからず無我夢中でその手を振り払おうと……ノエルのからだを捻った。覚悟していたはずだった。我が子を手に掛けることがどれほどの苦しみを伴うのかを。しかし、愛しいルフェルの血を受け継ぐ愛しいシルフィが暴れた途端、胸に広がるしあわせな記憶がノエルの決意を揺るがせた。
「あの子を殺したあとなら……死んでもいいと思ったの……だけど」
シルフィならベッドの上で、驚きと不安と恐怖に震え泣いている。
「あなたに……つらい思いをさせたくなかった……」
ノエルはそう言うと激しく咳込み、大量の血を吐いた。捻られ押し潰された内臓は悲鳴をあげ、もうこれ以上は動けないとノエルのからだを冷やして行く。
「ノエル!」
「……ルフェル……あなただけが……いてくれればいいと……思」
「ノエル、お願いだ、喋らないで。医者を……いま医者を呼んで来るから」
「ルフェル……そばに……ここにいてちょうだい……」
ノエルはルフェルの手を弱々しく握って言った。
「欲張っては……だめね……あなたとの……愛の証まで望んで」
「それは僕も同じだよ、ノエル……いまは喋らないで」
「あなたの……優しくて低い声と……大きな手が、大好きよ」
ノエルはもう一度激しく咳込んで、からだ中のすべての血を吐き切った。
「罪を残して行くわたしを……赦してね」
「ノエル……お願いだ……医者を」
「わたしを……救って、愛してくれて……ありがとう」
「だめだ、やめてくれ」
「ルフェル……あの子を……あの愛しくて可哀相な子を……ちゃんと……」
「頼むから……お願いだから喋らないで……」
「ルフェル だい す き」
そう言うと、ルフェルの手を握っていた弱々しい力がふっと抜け、ノエルの手は床に落ちた。
「……嘘…だ、ろ…?」
茫然と膝を着くルフェルの前に現れたのは、御使いではなく……ディオナだった。
「ルフェル……罪を犯してまで愛したあなたのノエルを連れて行くわ」
「ディオナ……ノエルを……ノエルを返してください……」
「あのこどもを守ってあげてちょうだい、と頼んだのはわたしだったわね」
村中をたらい回しにされ、言葉を教えられることもなく、家畜以下の扱いを受けぼろぼろだった小さなこども。教会の前に捨てられたその小さな命は、ルフェルに出逢って初めて人間としてのしあわせを知った。
キラキラと跳ねる小魚をふたりで見たね。
結晶の器探しも、きみのおかげで随分と捗ったんだよ。
誕生日のケーキを見て、大きな瞳を丸くしてたね。
ジャガイモの皮を剥くのが得意だったね。
暗闇と大きな物音が苦手で……毎晩僕のひと差し指を握って眠ってたよね。
生命の樹の実を口にして、歳を取らなくなったノエル。
ずっと僕に恋をしていた、と言って笑った顔。
僕の心の場所を教えてくれた、あの夜。
抱き締めたからだのぬくもり。
いつだって、一緒だった。
「頼む、ディオナ……ノエルを助けて」
「あなたのノエルの本当の寿命は九歳だったわ。それから三十五年間もあなたはノエルをそばに置いておけたのよ」
「ディオナ、僕が……わたしが罰を受ける……だから、ノエルだけは」
「あなたの罪は……こんなに軽くはないのよ。いまからしなければいけないことを考えてごらんなさい」
「頼む……ディオナ……どうか慈悲を……」
「本来なら御使いさえ来ることのないノエルを、わたしが迎えに来たことを……せめてもの慈悲だと思ってちょうだい」
とうに肉体はこの世のものではなくなっているというのに、よほどこの世に未練があるのか、ノエルの魂はまだ肉体にしがみ付いたまま、そこを離れようとはしなかった。
「いらっしゃい……愛しい人間の子、ノエル」
ディオナは肉体にしがみつくその魂を優しく右手ですくい上げると、そのまますうっと姿を消した。
── ノエルが、死んだ。
ルフェルは、床に横たわるノエルの亡骸にひざまずき、血で汚れた顔を優しく丁寧に拭いた。それからそうっと抱き上げ、いつも眠っていたベッドに静かに寝かせた。蜂蜜色のやわらかな髪、陶器のように滑らかな白い肌、まるで凄惨な事故などなかったかのように、ノエルの亡骸は変わらぬ美しさを湛えたままそこにいた。
「……眠ってるみたいだ」
ノエルのためになら悪魔に魂を売ってもいいとさえ思った。誰よりも、何よりも愛したひとの命が、目の前で消えた。
自分の罪のせいで罰を受けたノエル。
そして……シルフィ。
もうすぐ夜が明ける。フィオナとの約束の時間まで、あとどれくらいあるのだろう。
僕は気付くべきだった。
どれだけ罵られようともノエルを止めるべきだった。愛する我が子を失う事実が変わらないなら、はじめから僕がその痛みを、苦しみを、悲しみの一切を引き受けるべきだった。フィオナは言った。そうすればおまえの愛する女は見逃してやろう、と。その言葉の意味を、なぜもっと冷静に考えられなかったのか。
フィオナにはわかっていたのだ。ノエルが何を言い出し、どうするのか、を。
だからこそ、フィオナは僕に手を下せ、と…罪の償いを証明しろ、と……そうすれば、僕とノエルとの暮らしには目をつむるつもりだった。僕が手を下すことと、神が手を下すことの差は歴然だ。フィオナの言いたかったことは、天罰による魂の消滅を食い止めろ、ということではなく……僕が手を下しノエルを守れ、ということだった ──
生命の樹の実を持ち出し
それを人間に与え
魂の理に干渉し
人間との恋に落ちて
その人間との間に子を成した
産まれ落ちた小さな命は
人間の子を殺め
僕は
神の慈悲にも気付かず
救ったはずの命を
危険にさらし
殺した ──
ノエルを失ったのではなく、僕がノエルの命を奪ったのだ。そして僕はこれから、奪った命がかつて惜しみない愛を注ぎ続けた幼子をこの手に掛ける。重ねた罪を神が赦したとしても、決して終わることのない罰。神に科されたと思っていたそれは、自らの手で積み上げたものだった。
朝になり、フィオナとの約束の時間まであとわずか、というところへミシャが剣を携え現れた。
「……ルフェル……フィオナさまが、これを」
「これは?」
「裁きの刃だ、とフィオナさまが託されたの」
「ははっ……相手は魔物だから普通のナイフじゃ殺せないってことかい?」
ルフェルは裁きの刃を受け取りながら、これから自分のすることを嘲笑った。
「ルフェル……あなたが心配だわ」
「僕が? 心配される覚えなんかないよ。だって僕は」
「罪を犯すことが仕方のない時だって、あるかもしれないじゃない!」
ミシャはそう言うと、いまにも泣き出しそうな声で続けた。
「犯した罪は償えばいいのよ、ルフェル……」
「償えない罪も……あるんだよ」
「いいえ、それは言い訳だわ。償えないと思い込んで罪から目を逸らさないで」
「ノエルを殺したのは、僕だ」
「……あなたはまさか、自分の愛したひとの心を疑っているの?」
── あなたの心はここにあるのよ、ルフェル。
わずか七日間で消えるはずだったノエルの命。失うことが怖くて生命の樹の実を与えたあの日から、彼女はその命を僕のためにずっと守っていてくれた。僕の罪を “愛” と呼んで包み込んでくれたノエルが、僕のために守り続けた命を、ただの成り行きで手放すわけがない。
だとしたら。
僕の血を受け継ぐ愛しい娘に、守り続けた命を賭さなければならなかった、ノエルの葛藤は壮絶なものだっただろう。僕のために生きてくれたノエルが、最初から死ぬつもりだったとは思わない。最期の瞬間まで彼女は、僕を愛してくれていたのだから。
「あなたの愛したひとが決めたことを、あなたが信じなくてどうするの」
「……でも、止めることだってできたはずだから」
「自分をあまり責めないで、ルフェル。あなたは誇り高き熾天使のはずでしょう?」
── そうだ。
僕は神々に永遠を捧げた熾天使だ。厳粛なエデンの掟に背くこともなく、地上に産まれる命を司る女神の側近として、地上を守り久遠の時を神々に仕えて来た、誇り高き熾天使なのだ。
「大丈夫だよ、ミシャ。僕は自分の罪をちゃんと償える」
ミシャにそう言うと、ルフェルの沈んでいた瞳にエメラルドの煌めきが戻った。神々に久遠の忠誠を誓い忠義を尽くした。名声を博し功績を称えられ、エデン史上最凶と言わしめ恐れられて来た、残酷で冷淡で残虐で冷酷な僕はいま本来の姿に……残忍極まりない本当の自分に還るだけだ。
そうだ、僕はちゃんと……
右手に握った裁きの刃をひと払いすると、その剣身は唸りをあげ溶熱する焔火に包まれた。翡翠の煌めく瞳は瞬く間に紅く燃え滾り、かつて “光をもたらす暁の天使” と呼ばれていた姿を取り戻す。
誇り高き残酷な熾天使は、紅く燃え盛る瞳で、灼熱した裁きの刃を握り締めた。
「おいで、シルフィ」
シルフィは愛らしいビー玉のような瞳で、ルフェルに抱き上げられるのを気配で感じ取り両腕を広げた。
長い時間を過ごして来たような気がした。ノエルと出逢い愛を知って寂しさと悲しみを覚えた。あの夜抱き締めたノエルの体温をこの手はまだ露ほども忘れてはいない。そのノエルが命を懸け残したシルフィ。音のない暗闇に産まれた愛しい我が娘との優しく穏やかでしあわせな暮らし……振り返ると一瞬の出来事のようにも感じた。
さあ、最恐にして最凶の熾天使ルフェル。すべての柵を断ち切り、過去を捨て去り、目の前のネフィリムを地上の安寧と神々への贖罪のために誅戮せよ。そして我が身を呪い、嘆き、止むことなく降りしきる罰に終止符を打て。
「……またね」
次の瞬間。
灼熱の焔火に包まれ唸る裁きの刃は空を切り裂き、シルフィの首を鮮やかに刎ねたあと、ためらいなく手首を内側に捻ったルフェル自身の胸を背中まで貫いた。
「っ……ルフェル!!」
僕は……人間として死んで行く。
「ルフェル! ルフェル! あなた、なんてことを……!」
慌てて駆け寄ったミシャに、ルフェルは優しく微笑んだ。
「ミシャ、最期まで、ありがとう……でも……ノエルとシルフィが……待ってるから」
気が狂いそうなほど焦がれ続けた人間としての命。そうか、痛くて苦しいというのはこういうことか。なかなかに難儀なものなんだな、人間という生き物は。からだが寒さで震え出し目の前がかすむ。そのくせ全身から一気に汗が噴き出した。剣を突き立てたその部分が酷く疼く。まるでおまえの罪の在り処はここだと言わんばかりに。自分のからだが重くて、支えられないなんて初めてだ。
ルフェルは力なく膝を着いた。指先が冷たくなって行く。まだだ……この程度の苦しみなどで償えるわけがない。抉るような痛みに、全身の皮を剥がれるような苦しさに、凍えるような寒さに、ルフェルはその瞳を見開いた。壮絶な痛みに気が遠くなる。人間て、痛いんだ、な。息が、できない。もう、終わる、のか。そして全身が激しく痙攣を起こし始める。まだ、だ。まだ。
かろうじて光を取り込んでいた瞳は開いているにも関わらず、ゆっくりと暗くなる視界は何も映さなくなった。からだを痙攣させながら神経を研ぎ澄ませて行く。少しでも長く、痛みを、苦しみを感じられるように。耐える必要などどこにもない。この身のすべてを、引き裂かれる痛みに委ね苦しみ続けろ。意識がある間もがき続けろ。い、きが、できな、い。ま、だ。くる、し、め。
限界を超えたルフェルのからだから感覚がひとつひとつ削ぎ落されて行く。いた、み、が……もう……おわ、る……あんなに苦しかった呼吸が瞬間、楽になった。もう……痛みも何もない。ああ、そうか。もう息をする必要がなくなったのか。真っ暗なんだな……そうか……終わったのか……
── 静寂の音が聴こえる……
そしてルフェルはそのままゆっくりと倒れ込み、もう動くことはなかった。
愛しいノエル、いまどこにいるんだい?
僕の罪は……これで赦されたかな……