地上の愛 XIII

地上の愛
物 語

ACT.13 ネフィリム

 

「同族殺しは大罪だ」

死を司る女神は静かな怒りをその胸にたぎらせていた。

 

生き物の死期を見極め、安らかな死が訪れるよう最期の力を与える女神フィオナは、たとえその命が小さな畜生のものであったとしても、徒に奪われることを決して赦さない。生きとし生けるものに必ず訪れる死が、命の灯の消える瞬間が、痛みに悶え恐怖にまなこを見開いたものであってはならないのだ。

生きたことを誇り、その己の命を慈しみながら旅立てるよう、暗闇にすくみ一歩を踏み出せずにいる足元を照らし、鈴蘭を振り鳴らす。命が最後に迷うことなどあってはならない……

 

「では、人間の子を殺したのは人間だと……?」

エデンにある神々の塔の中で、フィオナから呼び付けられたミシャは顔を強張こわばらせ訊ねた。

「正確にはそうではない」
「わたくしが向かい確かめてまいります」
「無用だ、わたしがこの目で確かめる」

フィオナの言葉にミシャは戦慄した。神が御自おんみずから地上へ降りるなど、常識では考えられない。ミシャが地上へ赴く必要がないのであれば、いま呼び出された理由もわからなくなる。それに……地上にはルフェルがいるのだ。仮に、同族殺しを知らなかったとしても、神のひと言で彼はいくらでも動くだろう。

畏れながら…と進言しようとしたミシャは、仰ぎ見たフィオナの様子に言葉を飲み込んだ。

「ディオナが……わたしの大切な妹が祝福し授けた命を、徒に奪うなど狂気の沙汰だ。断じて赦すわけにはいかぬ」

死の女神フィオナがここまで怒りを露わにしたことなど、いままでにあっただろうか。しかし、ならばなおさら、ルフェルを動かせばよいのではないか。地上にいるルフェルはディオナの側近であり、まさに命を授ける側なのだ。

自分が呼び出されたこと、ルフェルを動かさないこと、神が御自ら地上に降りること、そのどれもが腑に落ちないミシャは、せめて同行することを赦して欲しい、と願い出た。

 

───

 

なんなの……この異様な空気は……

真夜中の地上の淀んだ空気にミシャは愕然とした。ほんの少し前まで、地上の空気はここまで荒んではいなかったのだ。フィオナの後ろを歩きながら、この濁り切った空気の中で人間が暮らしていることにミシャは言葉を失った。

そして一軒の家の前で立ち止まると、フィオナはミシャを振り返った。

「ここが誰の棲み家なのか……おまえにはわかるな?」

── ここは……

フィオナはすうっと姿を消して部屋の中へと入って行った。

 

 

「起きろ、ルフェル」

その声に驚きルフェルは飛び起きた。

「……フィオナ!?」
「ほう……わたしのことはまだ忘れてはおらぬようだ」
「まさか……忘れるなどと……」
「……いろいろと忘れているようだがな」

フィオナは「しばらくしとねに着いていてもらおう」と、ルフェルの横で寝返りを打つノエルの額をひと差し指で優しく突いた。

「ルフェルよ、おまえの愛しい娘はどこだ」

シルフィなら自分のベッドに……

 

── やはり気付かれていた。

気付かれないはずがないのだ。隠し通せるとも、隠そうとも思ってはいなかったが、本来であれば生命の樹の実を地上に持ち込んだ時点で、果ての森送りは避けられなかったはずだ。僕はそれを人間に与え魂のことわりに干渉した。それどころか人間との恋に落ち、そのうえその人間との間に子まで成した。

罪に罪を重ね、挙句永遠の命を捧げた職務を遂行する力さえも失った。

死罪ですら生ぬるいと思える数々の裏切りを、いままでとがめられなかったのはなぜだ。いつまで経っても呼び戻される気配すらない僕は、当然淡い期待を抱いた。神々は僕の大罪を知りながら、それでも見逃してくれているのではないか、と。

しかし、どうやらそれは誤りだった。ついに審判の日が来たようだが、よりによってその執行者がフィオナだとは夢にも思わなかった。フィオナが来たということは、この先に必ず死が絡むということだ。猶予期間が長過ぎた分、降り積もった罰は重そうだな……

フィオナは、シルフィのベッドのある方向へ目を向けるとすぐさまルフェルに視線を戻した。

「おまえの愛しい娘が、いまどこにいるか教えてやろう……着いて来い」

 

シルフィならベッドで眠っていた。ノエルの膝の上で眠ってしまったシルフィを、起こさないようベッドへ運んだのだ。それがこんな真夜中にどこへ行ったというのか。突然のフィオナの訪問とシルフィの不在。よもや無関係だと思うほうがどうかしている。

フィオナの対象者はシルフィか、僕か、または別の誰かか。

どちらにせよ、シルフィに何か恐ろしいことが起こっていることに間違いはない。

 

───

 

フィオナに案内されて来た場所は、地上の天使たちが身を寄せ合っている、村の小さな教会だった。

「ルフェル……目を凝らしてみろ」

真っ暗な教会の中。身を寄せ合って眠る天使たち。

その教会の隅で小さな影がひとつ、動いた。その小さな影は天使の群れに近付くとその天使たちの前で動きを止める。

ほどなくして、天使の悲鳴があがった。

天使のからだは宙に浮き、じわじわとからだが捻じれ始めた。これ以上は耐えられないだろう、というほど腰の上下でいびつな方向に捻られると、からだ中の骨が一気に砕ける音が教会に響き渡った。地上にいる天使に痛みはなく、血が流れることもない。しかし衝撃だけは確実に伝わる。

からだを捻られ全身の骨を砕かれた天使は、ドサリと音を立て床に落ちた。

「ルフェル……おまえは己のまなこで見ても、まだ何もわからぬのか」

小さな小さなひとつの影。

その影はこちらの気配に気付き、よろよろと近付いて来ると、ルフェルの目の前でにっこりと両腕を広げた。

 

……シルフィ。

 

そしてまた天使の群れの近くに戻ると、シルフィは天使を見つめ始めた。ビー玉のような青い空っぽの瞳で、ただただ天使をじっと見つめ続ける。宙に浮かぶ天使の、みしみしとからだが捻じれる音。限界を迎えた瞬間、骨の砕ける音と天使の絶叫が教会を貫いた。

そして天使は無残にも、握り潰した紙のようにしわくちゃとなり、床に落ちた。

ドサリ、という感覚は床を這い足元からシルフィにも伝わった。そのまま、天使の群れをただじっと見つめ続けるシルフィ。

「シルフィ! やめてくれ!」

耳の聞こえないシルフィにルフェルの声が届くことはなかった。シルフィはただにっこりと笑いながら、四体目の天使をこともなげに捻り潰した。

「おまえが熾天使セラフの力を失することさえなければ、あの愛らしく小さな魔物の存在にすぐ気付けたことだろうな」

天使のからだに魂は入っていない。エデンで水晶を浄化すればこの天使たちは明日にでも元に戻るだろう。

「だが……これが人間だとしたら、どうだ? ルフェル」

 

シルフィ……なぜこんなことを……

 

「あの愛らしく小さな魔物に、邪気はまったくないようだな」

では、ただの遊びだというのか。この凄惨な出来事を、目を覆いたくなる惨状を、シルフィの無邪気な遊び心が引き起こした、とでもいうのか。

なぜだ……なぜ……

「ルフェル……おまえの愛する女の産んだ小さき者は人間ではない。ネフィリム物の怪だ。いまはまだ邪気はなくとも、放っておけばネフィリムは瞬く間にその魔力を増し、そのうち地上を破滅へと追い込むだろう」

人間と天使が契りを交わせばどうなるか……それはいまこのシルフィを見ればわかる。異形のものではなかったと胸をなでおろしたあの夜。僕に熾天使としての力が残っていたとして、地上に産まれ落ちたばかりの赤子の魔力に気が付いたとして、僕は愛しいノエルとの間に産まれた小さな小さな命を、地上の破滅を憂いて摘み取ることができただろうか。

 

「殺せ」

 

フィオナは冷たく言い放った。

「人間を愛しただけならおまえのことだルフェル、そこまで咎められはしなかっただろう。しかしネフィリムを産ませたとあっては赦されることではない」

ミシャは初めて見るネフィリムの愛らしい姿に、ただただ茫然とするだけだった。

「あれが……ネフィリム? あの幼くて愛らしい姿の、あの子が……?」

 

「殺せ!」

 

目も見えず、耳も聞こえず、光のみならず音さえもない世界で不安定な運命を背負い生きるシルフィ。その僕の小さく愛らしいシルフィがネフィリムだというのか。

「放っておくことだけはまかりならん。よいか、ルフェル。明日の朝までに殺せ。そしてその亡骸をおまえがその手でエデンに運び、罪を償ったことを証明して見せろ。そうすればおまえの愛する女は見逃してやろう」

ルフェルには答えることができなかった。目の前でいま起こっていることが、どれほど恐ろしく赦されないことかはわかる。しかしそれが、シルフィの仕業だったと認めることを、ルフェルは全身で拒んでいた。

「おまえにそれができぬなら、代わりにわたしが手を下すまでよ。どちらにせよおまえの愛しい娘は死ぬ。だがルフェル、さといおまえにはわかっているはずだ。おまえが自ら手を下すことと、わたしが手を下すことの結果に、天と地ほどの差があるということを」

フィオナはそう告げると「明日の朝までだ」と念を押し、ミシャを伴いすうっと消えた。

 

ルフェルはシルフィに近寄り、そうっと頭をなで、両の手のひらで頬を包み、いつものように優しく抱き上げた。

「シルフィ、こんな真夜中だ。家に帰ろう……」

シルフィはにっこり微笑むとルフェルの腕にきゅうっとしがみ付いた。

神が手を下せばそれはすなわち天罰だ。神にほふられた命はもう二度と産まれることはない。僕が手を下せばそれは贖罪となり償った罪は咎められることがなくなる。葬られた命には神の慈悲があるだろう。ああ見えてフィオナはとても愛情深く、正しい答えのため常に身を切る痛みに耐えていることを、ルフェルは知っている。

だからこそ突き付けられた事実が、逃れられない真実なのだということを克明に物語る。フィオナはシルフィの足元を照らし、鈴蘭を鳴らすだろう。見えぬ涙をあふれさせながら、シルフィが迷わないよう名前を呼ぶだろう。なぜ神々はフィオナを選んだのだ。僕が犯した罪を償うことで、誰よりも深く嘆くであろうフィオナがなぜ、執行者として僕の前に現れたのだ。

 

── 罰はもう……始まっているのか。

 

ルフェルの腕に揺られ眠ったシルフィをベッドにそうっと横たわらせる。真夜中にふたりがいないことに気付いたノエルは、祈るような気持ちでふたりの帰りを待っていた。

「無事でよかったわ……だけど、話を聞かせてちょうだい」

ルフェルはいま見て来たことを、ノエルに伝えるべきかどうか迷った。

ノエルに罪はない。

「ルフェル、わたしには知る権利があるわ。こんな真夜中にふたりで、どこへ行っていたの?」

まさか散歩に行っていたなどと、そんなお伽噺のような嘘を勘のいいノエルが信じるはずがない。

 

……ノエル。

きみに罪はないんだ。きみは何ひとつ悪くない。

 

 

「わたしが殺す」

話を聞き終えたノエルは、何度も間違いではないのかとルフェルに確かめたが、悲しそうな顔で首を振るルフェルの姿に、それが事実だと認めざるを得なくなった。

「ノエル、あの子は……シルフィはネフィリムなんだ。普通の人間の子じゃないんだ」
「わたしが殺すわ」
「そんなことをすれば……きみにまで危害が及ぶかもしれない」
「わたしがお腹を痛めて産んだ子なのよ!」

ノエルは耳をつんざくような声をあげた。

「わたしが望んだのよ。あなたの血を受け継いだ子をこの手に抱きたくて、物の怪でも化け物でもいい、とわたしが決めてわたしが産んだのよ」
「だからこそ、きみを危険な目に遭わせたくないんだよ」
「わたしが産んだのよ……ルフェル……」

きみに罪はない……その言葉が、ノエルの心を軽くすることも、救うこともなかった。当たり前だ。「ふたりで愛して行こう」と、「僕ときみが、シルフィの音と光になるんだ」と、ノエルに説いて来たのは僕自身なのだから。我が娘の罪を償うことを、ノエルがためらうはずがない。

ふたりで愛して来たのだから、ふたりに責任がある ── そう思うノエルの気持ちを、僕が否定したとして聞き入れるわけがなかった。

 

 

「大丈夫よ、ルフェル……わたしなら、大丈夫」

ノエルはそう言うと、殺す姿を見られたくないから、とルフェルに外で待つよう頼んだ。

シルフィの眠るベッドへゆっくりと近付いて行く。

愛するルフェルの血を受け継ぐシルフィ。産まれて来る子が人間や天使じゃなくても、人間の形をしていない異形の物の怪であっても、愛する以外の方法を思い付かなかったの。だって、半分はルフェルでできているのよ? こんなにしあわせなことが他にあるかしら。

産まれた子が異形の物の怪じゃなくて、心から安心したわ。でも、音のない暗闇の中にいると知ってとても悲しかった。どうして健康な子に産んであげられなかったのか、と。その時ルフェルに叱られたの。そのままのあなたを愛してあげなさい、って。異形の物の怪であったとしても愛するなんて言いながら、うろたえるなんて酷い話よね。

あなたはとても愛らしい姿で、わたしたちを安心させてくれたわ。異形ではなかったけれど……物の怪なんですって。

だからってあなたを愛する以外の方法を、わたしはやっぱり思い付かないの。でもね、シルフィ。あなたのしたことは決して赦されることではないのよ。何よりルフェルを……パパを悲しませるなんて、それはいくらわたしでも、見過ごすわけにはいかないわ。

愛しい娘はベッドの中で小さな寝息を立てながらすやすやと眠っている。

「シルフィ……いけない子ね……」

ノエルは微笑みを浮かべながら悲しい声でそう言うと、シルフィの髪をなで、額に優しくキスをした。

 

そして、シルフィの細い細い首を両手でそっと包んだ。