地上の愛 VI

地上の愛
物 語

ACT.6 罪

 

ノエルと一緒に結晶の器を探し始め、ノエルの誕生日を祝うのも五回目を迎える頃。

いつもと同じように、ルフェルの左腕を枕に、その胸に背を押し当て右手のひと差し指を握ったまま眠りにつこうとしたノエルは、突然咳込み始めた。あまりにも激しく咳込むノエルに、驚いたルフェルが部屋の灯りをつけると ──

自分の腕とベッドが血で赤黒く染まっていた。

「ノエル!?」
「だいじょうぶ……ちょっとせきが」
「大丈夫なんかじゃないだろう!」

ルフェルは慌ててノエルを抱き上げると、村の小さな診療所まで走りその入口の扉を力任せに叩いた。ノエルのからだから感じるただならぬ気配。からだのすべてを覆い尽くす闇のような感触。なぜだ。いままで一緒にいて、ノエルからこんな気配を感じたことは一度だってないのに。

診療所の扉が開くと、中から白髪混じりの医者が顔を覗かせた。

「……こんな夜遅くにどうされたんですか? 天使さま」

医者は突然の訪問者が天使だったことに驚き、すっかり眠気も覚めてしまった。

 

一体何が起こったんだ。昨日まで、いや、ベッドに入るまではいつもと何も変わらない様子だった。毎晩一緒に寝ているときでさえ、あんな闇のような感触を覚えたことはなかった。僕がそれに気付かないはずなどないんだ。それが突然血を吐くほどの病に罹るとは考え難い。しかし血を吐いた、いまはこれが現実だ。

天空なら……エデンでなら病気を治すことはたやすい。生命の樹の実を与えれば、どれほどの重病を患っていようとあっという間に治るだろう。しかしここは地上で、ノエルは人間で、人間はエデンには踏み込めない。

ルフェルは激しく動揺していた。エデンでは熾天使セラフという最上位の身分でも、地上ではただの天使に過ぎない。しかも魔女や薬師のように、薬術に長けているわけでもない。天使としての能力など、せいぜいが人間よりも五感が優れているくらいのものでしかないのだ。

何もできることがないという焦燥感が、ルフェルの冷静さを次々に削ぎ落として行く。ノエルに逢うまで知らなかったしあわせや喜び、嬉しさやあたたかさ。まさか、誰かを守りたいと思う日が来るとは、想像すらしたことがなかったルフェルはいま、味わったことのない挫折感と無力感に打ちひしがれていた。

 

「……天使さま、落ち着いて聞いてください」

医者がこんな風に話を切り出すときは、それに続く言葉が決して安堵できるものではないことくらい、ルフェルにもわかった。

「ノエルは……ノエルに何があったんですか」
「いまは薬で眠っていますが」

 

ルフェルは眠っているノエルを優しく抱き上げ、医者に頭をさげると診療所をあとにした。

 

結論から言えば、この子はもう、そう長くは生きられないでしょう、と。

設備の整った診療所できちんと調べたほうがいい、と。

この子は血液を自分で作れない病気に罹っている、と。

いままで発症を抑えていた免疫が切れたのだろう、と。

放っておくと血液が濁り、汚れ、あっという間に衰弱してしまう、と。

 

「……嘘だ」

ルフェルは眠っているノエルをそうっとベッドに横たわらせ、そのからだに毛布を掛けた。ベッドに頬杖を付き、ノエルの寝顔を眺めていると、ルフェルの瞳から涙があふれた。

嘘だ……誰か嘘だと言ってくれ。

僕のノエルはまだこんなにも小さくて、この世界のことを知り始めたばかりなんだ。これからいろいろと世の中のことを知って、世界の広さを知って、夢や希望に満ちた未来を生きるはずなんだ……

 

── 目の前が絶望で暗くなる。

 

医者の言ったとおり、次の日ノエルは、自分でからだを起こせなくなるまでに衰弱していた。真っ青な顔をして浅い呼吸を繰り返し、それでもルフェルを呼ぶと、ルフェルにやわらかくキスをした。

「おはよう ルフェル」
「おはよう、ノエル。今日は一日、寝てないとだめだよ」

 

───

 

ルフェルはエデンに戻り、魂の記録を調べていた。魂の記録とは、いわば “これから死んで行く人間のリスト” のようなものだ。震える指でページをめくる。医者の言うことが確かならば、今日からそんなに頁を進めなくともノエルの名前が見つかるはずだ。

一頁、また一頁。指先が震えて上手く紙がめくれない。

そして四枚目をめくった見開きに……ノエルの名前があった。

 

ルフェルは膝を着いた。

……七日間? あと七日間しか残されていないのか!? 彼女を、あの小さなノエルを助ける術はどこにもないのか? 設備の整った診療所で調べたほうがいい? そんな悠長なことを言っている時間があるのか? このままでは七日後に自分の目の前で、御使いがノエルを連れて行ってしまうのか?

ルフェルの胸は引き裂かれそうに痛み、見えない傷口からは血が流れた。

 

 

気が付くとルフェルは、エデンのちょうど中心にある “生命の樹” の前に立っていた。

天使は神々と違い、産まれた時から永遠の命を授かっているわけではなかった。寿命こそ人間よりは随分と長いが、通常であれば二百年から三百年ほどで死んでしまう。

そこで、神々から必要とされた熾天使セラフと呼ばれる上級三隊第一級の天使や、智天使ケルブと呼ばれる第二級の天使、座天使スローネと呼ばれる第三級の天使には生命の樹の実が与えられた。永遠の命を授かった天使は、神々に忠誠を誓い忠義を尽くすことを赦され、それがすなわち誉となる。

生命の樹の実を口にした天使もそうでない天使も、人間でいうところの “成人” と呼ばれる歳になると、からだの成長はそこで止まる。個体差はあるが、大抵は十八歳から二十二歳ほどにもなればからだが出来上がり、そこから衰えて行くことはなかった。

ルフェルは十二枚の翼と永遠の命を持って産まれた特殊な熾天使だ。見た目は二十歳そこそこだが、もう三百年は生きている。しかもルフェルは特殊なうえに、特別な天使だった。

天使には三つの階層と九つの階級がある。

ヒエラルキーの上から上級三隊の熾天使セラフ(一級)、智天使ケルブ(二級)、座天使スローネ(三級)、中級三隊の主天使ロード(四級)、力天使デュナミ(五級)、能天使エクス(六級)、下級三隊の権天使アルケー(七級)、大天使アーク(八級)、天使エンジェ(九級)に分かれ、魂の案内をする御使いは八級の大天使だ。

上級三隊の熾天使と智天使と座天使は、神々と直接対話することが許されている。十二枚の翼を持って産まれたルフェルは、さらにその上に位置する最上の特級熾天使ハイクラスセラフとして、天使でありながら神々と同等の権力を有し、エデンでただひとり神の右に座することが赦されていた。当然エデンの厳粛な掟に関して知らないことなど何ひとつなく、魂のことわりもよくわかっている。

── はずだった。

 

───

 

「ノエル、具合はどうだい?」

地上の棲み家に戻ると、ベッドに横たわったままのノエルにルフェルは優しく声を掛けた。ノエルは浅く速い呼吸を繰り返しながら、笑顔で「おかえり ルフェル」と答えて咳込んだ。朝見た時より……更に顔色が悪い。

「まだ少し苦しそうだから、ちょっと薬を飲もうか」

ルフェルはノエルの上半身をそうっと起こすと、ノエルにグラスを渡した。

「おく……すり……?」
「そう、飲んだら少しは楽になるはずだから」

ノエルはルフェルに渡されたグラスをしばらく眺め、キラキラと光る橙色の薬を飲み干した。

 

ルフェルの指先は少し震えていた。飲ませたものは “毒” ではない。我々天使にとって、は。しかし人間の、それも小さな病気のこどもにとってはどうなのだろう。怖くて胸が潰れそうになる。こんなことは初めてだ。作用が強過ぎていっそう具合が悪くなったりはしないだろうか……

「ルフェル」

ノエルが呼ぶ。

「あれ? なんだかほんとに くるしいの なおっちゃった」

 

── 大天使長ルフェルが、罪を犯した瞬間だった。

 

ルフェルはいま一度、エデンで魂の記録を確かめた。慎重に頁をめくり、震える手で四枚目をめくる。さっき膝を着いたはずの頁に、ノエルの名前は……なかった。ルフェルにはもちろん大罪を犯したという認識はあった。しかしそれより、ノエルが死なないことに対する安堵のほうが大きかった。

 

十二枚の翼と永遠の命を持って産まれ、神々に忠誠を誓い忠義を尽くすことが宿命なのだと疑いもしなかった。エデンの厳粛な掟に背くことなど、神々のあつい信頼を裏切ることなど、いままで脳裏をかすめたことすらなかった。

罪を犯した天使を数え切れないほど裁き、その天使たちがどうなったかもすべてこの目で見て来たはずだ。ルフェルは一介の天使などではなく、神々に最も近い特級の熾天使なのだ。赦されるはずがないことは、誰よりもわかっている。

しかしルフェルには、勝手を言って連れ出した義務感も、神に託された責任感も、そのどちらももうなかった。

 

 

「ノエル」

ルフェルはノエルを抱き上げた。すっかり血色のよくなった顔は、さっきまで身動きもままならなかった病人にはとても見えない。七日間でいなくなるはずだったノエルが自分の腕の中で笑っているのを見て、ルフェルは込み上げる思いにあふれ出す涙を堪え切れなかった。

「ルフェル どうしたの どこかいたいの?」
「しあわせなんだよ、ノエル。きみがいてくれて」
「しあわせなのに ないてるの?」
「うん、しあわせだから泣いてるんだ」
「わたしも ルフェルがいてくれて しあわせ」

そう言うとノエルはルフェルの頬にやわらかくキスをした。

その時ルフェルは思った。

 

ノエルが生きてそばにいてくれるなら、僕は悪魔に魂を売ってもいい、と。

 

それからルフェルとノエルは、またふたりで結晶の器を探して歩いた。健康なノエルとの穏やかな暮らしに、ルフェルは心からしあわせを感じていた。どうかこのまま……ノエルのそばでしあわせな日々が続きますように……

 

ルフェルは祈らずにいられなかった。